第893話 傷心の巫女(1)
パンデモニウムの大迷宮・第五階層は、エルロード帝国の中枢部として機能している。元々、巨大なシェルターであった大迷宮を統括する重要区画であり、天空戦艦や戦人機をはじめとした古代兵器の格納庫も擁する、軍事施設でもあった。
その古代の軍事施設はリリィの力によってほとんど復旧されており、その中に含まれる食堂に関しても同様である。
広々とした司令部の食堂を利用できるのは、この第五階層に配属されている限られた者で、ホムンクルスがその大半を構成している。創造主に対して忠実無比である彼らは、これといった雑談をすることもなく黙々と食事をするのみ。栄養補給という名の作業に従事していると言った方が正確であろう。
そんな静かな食堂の一角に、幼い顔にあまり機嫌が良さそうではない表情を浮かべたリリィが、フォークに突き刺した小魚をパクパクしていた。
「あ、それ美味しそうですね。新しいメニューですか」
「こっちに来てたの、フィオナ」
女王陛下に対する礼儀の欠片もなく、盛りに盛られた皿を満載したトレーをドーンと置いて、リリィの正面にフィオナが陣取った。
「今日はここで食べたい気分でしたので。リリィさんこそ、食堂に来るなんて珍しいではないですか」
「たまたま近くまで来ただけよ。クロノと一緒じゃないなら、どこで食べても同じだから」
いくら司令部務めが許されるスーパーエリートだけが利用する食堂とはいえ、帝国を支配する女王が下々の者と共に食事をすることはない。
ないのだが、元々は王族でもなんでもないリリィであり、それはまたクロノも同様。格式ばった生活など気疲れするだけなので、基本的に他人の目が限られる第五階層においては今までのように自由な行動ができるよう配慮がされている。少なくとも、クロノにはそういう環境の方がありがたい。彼を疲れさせるだけならば、伝統も格式も礼儀もクソ喰らえである。
そういうワケで、ホムンクルスという実質的には人形でしかない彼らの目を気にする必要のない環境で、リリィとフィオナは冒険者時代と変わらぬ様子で同じ卓についていた。
「私は美味しいものが食べられるなら、どこでもいいです」
「貴女はそうでしょうね」
そんな彼女に美味しいものを食べさせてあげるために、この食堂が存在しているといってもよい。フィオナには好きな物を、好きな時に、好きなだけ食べさせてやる、というクロノの強い意向であった。
「そんなに不安ですか?」
不機嫌な女王に、遠慮も配慮も無用とばかりに恐れ知らずの魔女はストレートに聞いた。
「せめてシャングリラは出したかったわね」
「動かないものは、しょうがないでしょう」
帝国軍が誇る究極の古代兵器、天空戦艦シャングリラは現在、動力源たるエーテルをチャージ中である。パンデモニウム周辺を飛ばすくらいな可能だが、オリジナルモノリスによる転移で飛ばすには明らかに足りていない。
先のベルドリア侵攻で消費したのは勿論、その前にアヴァロンまで転移させた分が響いている。シャングリラは見事にベルドリア竜騎士団の襲撃を防ぎきり、ほとんど無傷で戦いを終えたが、エーテルの消費はどう足掻いても避けられないものだ。
シャングリラをファーレンへ送るためには、一ヶ月はこの格納庫でエーテルの補給を待たなければならない。そしてクロノはそれだけの時間を待つことはしなかった。
「黒竜がいるだけマシですよ」
「アレだって、常に全力で戦えるワケではないでしょ」
ベルクローゼンはクロノからの魔力供給を受けているが、その分だけで圧倒的な黒竜の力を補っているワケではない。契約者の魔力はあくまでも真の力を解放するための鍵、あるいは起爆剤のようなものである。
では黒竜の絶大なパワーはどこからもたらされるのかといえば、それも天空戦艦と同じく、この星を巡る地脈であった。
世に知られる黒竜という存在が、決まった縄張りを持ち、そこから出てくることはないとされているのは、潤沢な魔力補給ができる龍穴から滅多なことでは離れる必要性がないからであろう。強力な分だけ燃費は悪い。最低でもそれなりの大きさの地脈が通っている場所でなければ、黒竜の力は十全に発揮することは難しい。
「嫌だわ、年寄りって。すぐに動けなくなっちゃうんだもの」
「古代生まれの何千年モノですからね」
強力無比だが、大きな制約を受ける天空戦艦と黒竜に口を尖らせて皮肉を言うリリィ。帝国軍においては切り札ともいえる戦力を十全に発揮できない状況での遠征は、大きなリスクを抱えることになるのだが、フィオナが全く気にした素振りを見せないのは、純粋なクロノに対する信頼か。あるいは、本当に何も考えていないのか。
「フィオナはクロノのこと、心配じゃないの」
「今回の十字軍には使徒がすでに退いた上に、数も分散して三万がいいところじゃないでしょうか。首都の奪還をする必要はなく、油断した敵が陣取る峠の街を一つ抑えるだけ。おまけに土地勘のあるダークエルフの協力も得られるのですから……負ける要素、ありますか?」
最初から勝算はある。こちらの戦力も最大限ではないものの、想定される敵を倒すには十分な数と質を揃えている。
リリィとて、問題なく勝てる戦いだというのは、言われるまでもなく理解している。
「心配しているのは、クロノさんの身の安全ではなく、貞操の方でしょう」
「う……」
「正直、ブリギットにクロノさんを差し出してもいいと約束したこと、今になってちょっと後悔してますよね」
「うぐぅ……」
苦し気な呻き声がリリィから漏れる。決して、魚の小骨が喉に刺さったワケではない。紛うことなく図星を指摘されて、ぐぅの音しか出ないだけなのだ。
「だ、だって、しょうがないじゃない!」
「でも約束したのリリィさんですし」
「それもしょうがないことだったのぉ!」
「まぁ、あの頃はヨリを戻して間もなかったですからね。クロノさんのためになることを、自分の嫉妬心を押し殺してでもやらなければ、という気持ちにもなるでしょう」
「そうよ、私は涙を呑んで、クロノのためにファーレンとの関係を————」
「でも今はやっぱりなかったことにしたいな、と」
「……あの女は絶対、今回のことを千載一遇の好機と見て、クロノに迫るわ」
「はぁ、そうでしょうか」
「そうに決まってるわ! 国を奪われて大層傷ついたフリをして、クロノの同情を誘って、そのまま体まで誘おうっていう作戦に違いない」
「リリィさん、人がこうするだろう、と思うのは自分がそうするからですよ」
「フィオナだったらしないの?」
「勿論」
「私が泣いて出て行ったのをいいことに、サリエルを人質にとってクロノに告白したくせに?」
「勿論します」
リリィもフィオナも、それでクロノの関心を引けるなら、実行するのに何ら躊躇はないであろう。国を失ったことは悲しいかもしれないが、それはそれとして、意中の男の同情を誘う絶好のシチュエーションを棒に振るのは愚かなことである。
「相変わらずですね、リリィさんは」
「だって私は、純情可憐な妖精だもの」
「永遠の乙女心というのも、考え物ですね。いい加減にこれくらいは割り切れるようにならなければ、自分のためにも、クロノさんのためにもならないでしょう」
「わ、分かっているわよ、そんなことは……」
自分の嫉妬心を、クロノの枷にはしたくない。けれどその一方で、自分を気遣ってくれる気持ちは嬉しいのだ。
だがその気持ちに甘え続けていれば、最終的にはクロノの不利益に繋がってしまう。そうなることだけは許せない。自分で自分を許すわけにはいかない。
「フィオナは、気にならないの」
「なりませんよ、今更な話ですしね。それに————」
椅子を引いて、フィオナは席を立つ。
茫洋としたいつもの顔に、僅かな微笑みを浮かべて言った。
「私もファーレンへ行きますから」
そう言って、フィオナは去って行った。
そして1分後、再び山盛りの料理を抱えて戻って来た。
「まだ食べるの」
「食べますよ。ファーレンへ行ってしまえば、ここの料理は食べられませんからね」
「フィオナはモリガンで防備に着くだけなんだから、食事に困る環境じゃあないでしょう」
「久しぶりのファーレン料理、楽しみですね」
飯を食いながら、もう次の飯を食うことを考えている魔女の姿を見て、リリィの心は少しだけ軽くなった。たとえ呆れるような馬鹿馬鹿しい答えであっても、抱えた悩みを吐き出せばスッキリできる。
「私はまだベルドリアの後始末に、次の作戦に向けての準備があるから、ファーレンへは行けないけれど……万が一の時は、頼むわよ」
「大丈夫ですよ。終わり次第、すぐに戻りますから。あまり長く、情を深められても困りますからね」
ファーレンの北東部にあたる、とある村。僅かに開かれた土地と、森と一体化するように築かれたツリーハウスの家屋が並ぶ、この国ではありふれた、どこにでもあるような村は今、ダークエルフの姿は一人も見えなかった。
「ちいっ、ここも木偶人形ばかりではないか!」
重厚な白銀の鎧兜を纏った騎士が、八つ当たりのように床へ転がったウッドゴーレムへとバトルハンマーを叩きつけた。
すでに動力源たる魔力を失った丸太のボディが、鉄槌を受けて砕け散る。
「まぁまぁ、よろしいではないですか、ダースリー様。また一つ、労せず新たな領地を得られたのですから」
「むっ、これは司祭殿、お見苦しいところを」
戦いの興奮と不機嫌さによって荒れているところを、柔和な笑みを浮かべて宥めたのは、同行している十字教の司祭である。
彼らは現在、最も先までファーレンを進んでいる占領部隊だ。指揮官は大将であるウェリントン伯爵の三男ダースリー。父親の血を色濃く受け継いだ大柄な青年は、その若さに見合って血気盛んであり、在りし日のダーヴィスと同じように自らの武勇を頼みとした野心を強く抱いていた。
このファーレン攻略にて、いよいよ本格的な戦を経験し、そして今は伯爵家の領地拡大を担う最先鋒を任されている。栄達を望むダースリーは大いに奮い立っているのだが、如何せん、行く先々に現れる敵は脆弱に過ぎた。
「いえいえ、ダースリー様のご不満も至極もっともなこと。その武勇を振るうに相応しい相手がいまだ現れていないことも、また事実ですからね」
「まったくだ、と言いたいところだが……この鎧には、大いに助けられている。かように強力な魔法の装備を譲っていただき、誠に感謝いたす」
ダースリーが纏う白銀の鎧兜は、十字教会より与えられた新兵器『機甲鎧』である。
ファーレン攻略に際し、総司令官アルス枢機卿からウェリントン伯爵が受けた支援の内の一つが、機甲鎧五十機の譲渡だ。貸与ではなく譲渡なのは、実戦試験のみならずその普及も図っているだからだろう。
そうして伯爵の元には五十もの強力な魔法の鎧と、それを動かす為に必要な魔力を補給するための司祭達も派遣されている。その内の一部が、ファーレン占領の先頭を行くダースリー隊に与えられ、行動を共にしているのであった。
「ウェリントン伯爵家のような、高貴でありながら敬虔な信者の一助となれたなら、司祭として嬉しく思います。ダースリー様のより一層のご活躍を、期待しておりますよ」
「ふふん、この俺に任せておけ。しかしダークエルフ共め、この様子ではまだまだ森の奥まで逃げ込んでいるな」
「ええ、相変わらず足止め用の召喚獣を繰り出すだけ、でしたからな」
破竹の勢いでファーレンの地を進んでいられるのは、機甲鎧を得たダースリー隊の力というよりは、各町村での抵抗の弱さにもあった。
すでにそれなりの数の町と村を越えて来たが、常識的に考えれば一つか二つ、比較的規模の大きな町か、守りやすい地形の村にでも陣取って、防衛線を敷くはず。首都ネヴァンから敗走したファーレン軍は、恐らく国の奥にあるかつての都モリガンまで逃れ、軍を再編するだろうと見込まれている。
そのための時間を稼ぐために、どこかで殿を務める決死隊とやり合うことになるだろうと意気込んでいるが、今のところ空振りに終わっていた。
ダークエルフはよほど逃げ足が速いのか。兵士どころか、そこの住人達すら綺麗に姿を消している。
「ただの村娘でも良いから女の一人でも欲しいところだが————まったく忌々しい、残っているのはこんな足腰も立たぬババアだけよ」
唾を吐き捨てながら、ダースリーはウッドゴーレムの傍らに転がっている、痩せ細った老婆の死体を蹴飛ばした。
彼女の足は枯れ枝のように痩せ細っており、すでに立って歩くことすらままならない体であることは一目瞭然。事実、老婆は村長宅と思しきこの大きなツリーハウスの広間で、魔導書を抱えて椅子に座っていた。
この村でダースリー隊と戦ったウッドゴーレム達を召喚したのは、この老婆で間違いなく、そして彼女の他には一人も術者はいないようであった。
自らの意思によって残ったのか。それとも置き去りにされたのか。すでにハンマーで頭を潰された彼女の事情を知る者は、ここには存在しない。
「かなり東まで進んできましたし、そろそろ追い込める頃合いかと。魔族がすでにモリガンまで逃げ込んでいたとしても、我々がそこまで辿り着くのも、そう遠い話ではないでしょう」
「うむ、こんな状況では致し方あるまい。奴らを存分に血祭りに上げるのは、モリガンに着くまで我慢するとしておこう」
「ダースリー様の頼もしき武勇と厚い信仰を、白き神も祝福してくださることでしょう」
そうして、こんな場所になどもう用はないとばかりに二人が踵を返した時であった。
「てっ、敵襲ぅーっ!!」
「敵だ!」
「おい、森の中に潜んでいるぞ!」
敵の襲来を叫ぶ声と、ラッパの音が鳴り響き、俄かに外が騒々しくなった。
「ほう、面白い。ようやく奴らも仕掛けて来たか」
逃げるしか能のない腰抜けばかりでつまらない、と思っていたところである。やっと奇襲の一つもしてきたかと、ダースリーは意気揚々と機甲鎧に白色魔力を巡らせて、高速起動の態勢に入る、直後————
「————『嵐の魔王』」
巨大な砲弾が叩き込まれた。そうとしか思えない、途轍もない速度と衝撃でもって、ソレは室内に飛び込んで来た。
ツリーハウスの外壁も、この広間を区切る内壁も、ただの木造の壁など薄紙の如く破り去られる。巻き上がる破片と粉塵に、鮮血と肉片も入り混じる。
「なっ!?」
と、ダースリーが慌てて振り向いた時には、もうソレは目の前に立っていた。
漆黒の鎧兜は、闇を纏うかのように大きな黒いマントを翻す。その足元には、すでに原型を留めていない司祭の残骸が。
コイツが外から飛び込んで来て、その勢いのまま司祭を轢き殺した。
そして今度は自分を殺そうと、その地獄の悪魔の王が如き凶悪な兜の奥から、途轍もない殺意の視線を向けている。
「な、なん、だ……お前は……」
ダースリーが息を吞み、言葉にも詰まってしまったのは、漆黒の鎧の恐ろしい姿でも、ここへ現れた速度と破壊力でもない。
これは呪いだ。それも、途轍もなく強力な呪いの塊。そう察した。
ダースリーはかつて、呪いの武器を父から見せてもらったことがある。まだ少年であったが、すでに戦いの才を発揮する彼には、それが如何に恐ろしく、おぞましいものであるかを直感的に理解した。
けれど、在りし日に見て恐怖を覚えた呪われた剣が、今は急に子供が振り回すオモチャのように思えてならない。
目の前に立つ黒鎧がその手に握っているのは、あまりに大きな剣であり、あまりにも大いなる呪いを秘めている。あの呪いの剣などとは、比べ物にならない。格が違う。
そもそも、身に纏う漆黒の鎧兜も呪われている。鉈のような大剣と変わらぬ、絶大な呪いが宿っていることも間違いない。
だが最も恐ろしいのは、途轍もない呪いの剣と鎧を両方身に着けている本人だ。ソイツは触れるだけでも発狂しかねない呪いを纏いながらも、酷く落ち着いた声でこう言った。
「いい鎧を着ているな。お前、指揮官だろ」
「ぬっ、ぐぅ……」
なんだコイツは。なんなんだコイツは。どうしてコイツは狂っていない。
赤黒いオーラとなって立ち昇る呪いの圧力を前に、自分の方が狂ってしまいそうだと思うダースリーだったが、これまで鍛え上げた己の心身と、自分の実力をさらに底上げする聖なる鎧によって、正気と戦意を保った。
そして、そこがダースリーの限界であった。
「指揮官なら、聞きたいことが沢山ある。安心しろ、峰打ちだ」
くるりと片刃の大剣を翻し、呪われた刃のない峰で打たれた瞬間を、ダースリーは認識することはなかった。