第880話 アトラスの怒り(1)
紅炎の月も過ぎ去ろうとする頃。
帝国軍、来たる————ついにその一報が、ベルドリアへともたらされた。
アトラス大砂漠を進む大艦隊が確認されたのが数日前のこと。そして今日、紅炎の月31日は、ついにベルドリアへと到達すると推測されている。
推測、と言っても近隣にはひっきりなしに偵察の竜騎士を出しており、上空から直接確認しているため、帝国艦隊の位置は正確に捕捉できている。その中には、悠々と大空を行く天空戦艦シャングリラの姿も確認されていた。
「いよいよ来たか」
大砂漠への玄関口となるベルドリアの港湾部を一望できる王城から、祖国防衛の大任を負う竜王子ラシードは、31日未明、ついに水平線の向こうから無数の砂漠艦が姿を現すのを目にした。
実質、カーラマーラへ攻め込んだ連合艦隊の再編成。いや、むしろ帝国によって主力艦艇が改修されたとの情報もあり、さらに天空戦艦もその戦列に加わるとなれば、かつての連合艦隊よりも遥かに強力なのは間違いない。
ベルドリアのような小国に攻め入るには、過剰とも言える大戦力だ。
精々こちらを倍する程度の数で抑え、断続的に攻め続ける方が手間は少ないだろう。それこそ、ジン・アトラス王国を筆頭としたアトラスの元主要国にベルドリア攻めを一任するのが、最も楽な作戦のはずだ。
いくら陸路による他国からの支援もあるとはいえ、消耗戦となればアトラス全域を制する帝国と、ベルドリアの国力差は比べるべくもない。精強な竜騎士部隊とて疲労はする。竜騎士こそ最強と自負するラシードであっても、流石に時間には勝てないことは理解していた。
だが、時間に勝てないのは帝国もまた同様。
「我がベルドリアを小国と侮り、事を急いたのが貴様の敗因となるのだ、魔王クロノよ」
一日だ。一日でベルドリアを落とす。
そう魔王クロノは帝国軍に檄を飛ばしていたという。
相手は小勢。こちらは圧倒的な大軍。そんな調子のいいことを堂々と言うのも、士気を上げるためには半ば当然であろう。
だがラシードは、クロノがベルドリアを一日でも早く制圧したい本当の理由をすでに知っていた。遥か遠くアヴァロンからやって来る大遠征軍こそが、クロノが、いや帝国が集中すべき最大の敵なのである。
後に大きな相手が控えているからこそ、小勢に過ぎないが後顧の憂いを早々に断ち切る。決して誤った判断ではないが、だからこそ、たった一日で潰せるという驕りに繋がるのだ。
「ふっ、シャングリラを奪われ逆転した時、どんな面を見せてくれるのか楽しみだぞ」
噂に聞く限り、クロノは正に魔王を名乗るに相応しい凶悪にして冷徹な面構えだという。何より、魔王の加護によって得た無双の力で、狂戦士が如く苛烈な戦いぶりで徹底的に敵を殺戮し、街は燃やし尽くし、財宝は奪い尽くし、女は犯し尽くし、美しければ男も————などなど、実にそれらしく尾ひれがついて聞こえてくる。
だが事実、欲望都市カーラマーラで成り上がった実力、アトラスを制した手腕に、妖精の女王を筆頭とした見目麗しい美姫を侍らせていることから、あながち噂の全てが偽りではないであろう。ラシードの見立てでは、噂の内の六割は正しいと思っている。
「ラシード殿下。敵艦隊は続々と沖合に集結中であります」
「うむ、見ての通りだな」
隣に控える参謀が、ラシードへと声をかける。
ベルドリア王城はこの首都の港を一望できる山間にあり、水平線の向こうから現れ続ける帝国艦隊の姿はよく見えた。
だがこの距離に、この数。最早、港の方からでも十分に敵影を確認できることだろう。
ついに現れた圧倒的な敵の大艦隊を前に、思わず浮足立ってしまうのも無理はない。
「くれぐれも、急いてこちらから仕掛けるような真似はするなよ」
「はっ、重ねて命じておきます」
「こちらの目的は天空戦艦シャングリラ、ただ一点のみ。これが出張って来るまでは、何としても敵の上陸を阻止し、港を守り切るのだ」
正面切っての艦隊戦となれば、一日どころか一時間ももたない戦力差があるのは百も承知。故に、港にはベルドリア海軍の総力を結集した軍艦を並べて砦の代わりとしか利用しない。
海軍の者には船を止めたまま敵と戦うのは屈辱だろうが、これが国を守るためにできる最善のことなので仕方がない。彼らのつまらない誇りのために、貴重な防衛戦力を浪費する愚を冒す気はラシードには毛頭ない。
海軍のプライドさえ無視しておけば、綺麗な入り江となっている港は守りに適した地形である。敵がどれほどの数が揃っていようとも、一度に入り込める船の数は限られる。
錨を下ろして停泊させた軍艦の他にも、港湾部は急造ながらも、広範囲に渡っての防備が施されている。
限られた数の船から敵兵が降りてくる程度なら、十分に食い止められるだけの防衛戦力が整っているのだ。上手くいけば、ただ守るだけで数日は凌ぎきれる。
「港からの上陸に少しでも手間取れば、すぐにでもシャングリラは出て来る」
一日で落とすと豪語した以上、クロノはやるしかない。高みの見物をやめて、最大最強のシャングリラを前線に投入し、空中からの砲撃支援によって港の防衛線を破壊する。
ここさえ突破すれば、後は数と勢いに任せるだけ。再び空から優雅に取るに足らない小国の滅亡を見物する————だが、そうはさせない。
「シャングリラが港への攻撃を開始した時が、乗り込む最大のチャンスだ。いいか、我らはこの機を待つ。その唯一の勝機を引き寄せるまでは、港は絶対に死守しろ」
「ははっ、ラシード殿下の仰せのままに!」
そうして防衛体制を徹底させ、目の前に続々と揃ってゆく大艦隊にも一切の手出しをすることなく————時間は過ぎていった。
「……奴らは、まだ動かんのか?」
「沖に停泊したまま、動き出す様子は見られません」
とっくに日が昇り、爽やかな夏の朝が始まる頃には、帝国軍の大艦隊も軒並み集結しきっていた。
しっかり数が揃ってから一斉に攻撃開始するのだろうと思っていたが、帝国艦隊は不気味な沈黙を保ったまま。
「まさか、今頃になって和平交渉の時間稼ぎが功を奏したワケではあるまいな?」
「い、いえ、そのような情報は何も……」
送り込んだ使者は案の定、交渉のテーブルに着くこともなく突っぱねられただけに終わった。元より期待などしていない姑息な時間稼ぎ工作であったが、それが成功したとしか思えないほど、敵に動きはなく静かなものであった。
「何だ……奴らは一体、何を待っている……?」
見えない敵の思惑を訝しみ、ここは多少のリスクを冒してでも探りを入れるべきか、ということを軍議で検討し始めた、その時であった。
ゴゴゴゴ……
気のせいかと思うような、小さな揺れを感じた。
それが気のせいなどではないことは、次第に大きくなってゆく震動によって確信へと変わる。
「お、おい、何か揺れているぞ」
「まさか地震か!」
「冗談だろ、こんな時に……」
地震としては規模の小さなものに過ぎないが、戦いの寸前という状況なだけに、俄かに動揺が走る。
縁起が悪いことこの上ないのは確かだが、そんなことに心を乱されて不意を打たれるようなことになれば目も当てられない。
「ええい、お前ら静まれ————」
騎士らしく冷静沈着にできぬのか、とラシードが一喝しようとした矢先、
「で、殿下……砂漠が……」
「砂漠が何だと言うのだ!」
台詞を遮るように呼ばれたことに、苛立ちを露わに振り向いた瞬間、ラシードは上げるはずだった怒声を忘れた。
「砂漠が、動いている、だと……」
それは目に見えるほど激しい流砂の胎動であった。
エルロード帝国に降伏しない、クソ喰らえ、と通達したその時から、砂漠交易を行うための流砂は止められた。
女神アトラスが如き権能を持って、大砂漠の流砂を操ることがパンデモニウムに君臨する女王が持っている、ということは知っている。実際に流砂が止まったことから、それも間違いない。
その止まったはずの流砂が動き出したこと自体は、これから帝国の艦隊が攻撃を仕掛けるにあたって当然の措置だろう。
だがしかし、その流砂の勢いは異常の一言。大嵐の季節であっても、これほどまでに荒ぶることはない。
まるで巨大なサンドワームか要塞鯨が大群で潜航しているかのように、砂の波が大きくうねる。怒涛のように押し寄せる砂の高波に、錨を下ろして並べた砂漠艦が揺れに揺れて波間に翻弄されてゆく。
「むっ、いかん、このままでは艦に被害が————」
などと、悠長に言っている場合ではないと、次の瞬間に気づかされる。ラシードだけではない。地面の揺れと激しく流れる砂に慌てていた者でさえも、理解させられた。
激しい揺れと轟音を伴って、ソレはやって来た。
ズドドドドドド————
「津波だぁあああああああああああああっ!!」
誰かが叫ぶ。誰もが思う。
何が起こったのか、あまりにも一目瞭然。
この港を構えている湾、その左右から高くせり上がった壁のように、否、山のように巨大になった砂の津波が押し寄せてきた。
その自然の暴威を、王城という高みから、ただ見下ろすことしか出来ない。
ラシードは砂の津波を目撃した瞬間に、幾ら何でもここまでは届かない、と真っ先にそう考えて安堵した自分を恥じた。
だが、それを責めるのは酷というものだろう。かように大自然の脅威を前にすれば、人はあまりにも無力なのだ。
安全な王城から眺めているだけでも、背筋が凍り付く光景である。港に築き上げた防壁などよりも、遥かに高い砂の大波を止めることなど誰にもできはしない。
そう、すでに港に陣取っているベルドリア防衛軍の主力は、ただただ迫りくる津波を恐怖と絶望をもって眺めることしかできなかったのだ。
「あっ————」
と思った瞬間には、湾の左右から押し寄せてきた津波がちょうど港でぶつかり合うように弾けた。小山を築き上げるほどの膨大な量の砂が、そこにある全てを飲みこんで行く。
まずはズラズラと立ち並ぶ、完全武装の水兵を満載した砂漠艦を。海軍の総力をもってかき集めた軍艦が、癇癪を起した子供がオモチャを薙ぎ払うように、あまりにもあっけなく散る。
祖国防衛の最前線に立つ勇猛果敢な戦士達は、その手で剣を抜くこともなく、この一瞬の内に船諸共、砂の下へと消えて行った。
最初の防衛線を構築したベルドリア艦隊が文字通りに全滅したが、それはほんの始まりに過ぎない。当然だ。津波が港に停泊している船をひっくり返しただけで、満足して帰ってくれるはずもない。自然は人のご機嫌など伺わないし、容赦をすることも決してないのだから。
ただ砂の上に浮かんでいるだけの船などいくら巻き込んだところで、津波の勢いは衰えることなく突き進んで行く。その莫大な質量の行く先は当然、目の前に広がる港。
敵の上陸を絶対に阻止する、と死守の決意を固めた防衛部隊が集結した、港の防衛線である。
この一ヶ月ほどで急造した防壁の上に陣取る兵士達は、不退転の決意などあっさり捨て去り、武器さえ放り出して慌てて逃げ出していた。
上からそんな様子を眺めるラシードは、無様に逃げ出す兵達に対する叱責の感情など湧くことなく、蟻のようだな、とただ見たままの感想だけが呆然と頭に浮かんでくるのみ。
そして蟻のような兵士達は、やはり蟻のように踏みにじられてゆく。できる抵抗など何もなく、押し寄せてきた砂の下へと順番に飲み込まれてゆくだけ。
「あっ、あ、ああぁ……」
そんな意味のない呻きが呆然と漏れた頃には、全てが終わっていた。
そこにはもう、数多の兵士達が陣取る盤石の防衛体制を整えた港はない。
ただ砂色一色の、寂寞のアトラス大砂漠。その一部分が広がるだけ。築き上げた防壁ごと埋め尽くされ、砂の水面に浮かぶのは、砕け散った船か建物の残骸だけ。
砂漠側に向かって緩やかな下り傾斜を描くベルドリア首都は、その港側から三分の一ほどの面積が砂漠に浸食された形となった。
最前線の防衛隊は一人残らず壊滅。
残るは後詰として、街中の方で各自待機させていた後方部隊。そして王城にいる近衛と自ら率いる、竜騎士部隊のみ。
ベルドリアの防衛兵力は、この時点ですでに半数を下回ろうかという有様であった。
「こ、これが……これが、魔王のやり方なのかぁああああああああああああっ!!」
「わーい、やったぁ! やったよクロノ、大成功だよ!」
と、無邪気に喜びながら、幼女リリィが艦長席に座る俺の膝の上へと戻って来る。俺を見上げるキラキラ輝く愛らしい瞳は、褒めて褒めてと訴えかけてくるようだ。
ああ、この純粋無垢な可愛らしさと、眼下で繰り広げられた惨劇の落差に、震えそうになってしまう。
「ああ、よくやったな。大成功だ、リリィ」
「えへへー」
俺は出来る限り自然に微笑みながら、リリィの頭を撫でた。
その一方で、司令部の前面に映し出される巨大なメインモニターへ視線を向ける。
「敵の前衛は見事に壊滅だな」
ベルドリア首都の港は、惨憺たる有様だ。停泊していた防衛用の軍艦や防衛施設、そしてそこで防備についていた兵士の何もかもを飲みこんで、砂一色に蹂躙されていた。
大砂漠の住人から言わせれば、正に女神アトラスの怒りをかったかのような惨状である。
勿論これは砂漠の女神の意思などではなく、リリィの手によって引き起こされた攻撃だ。
大迷宮を制し、カーラマーラのオリジナルモノリスを確保したことで手に入れた流砂の操作能力。自然を操るに等しいこの絶大な力によって、攻め込んで来た連合艦隊を返り討ちにしたことは記憶に新しいが……この力を最大限に引き出せば、こうして津波という災害を起こすことも可能なのだ。
連合艦隊はそのまま拿捕することが目的だから、一隻も沈めなかったに過ぎない。もしもリリィを本気で怒らせるようなことになっていれば、シャーガイル提督も砂海の藻屑であった。
そんな恐るべき流砂操作だが、当然のことながらこれが有効に使えるのはアトラス大砂漠限定である。今や大砂漠の全てを制した帝国に、この力で攻撃するべき相手はベルドリアを置いて他にはない。
切り札のような強力無比な力。だが切れる時に切っておかなければ、それはないも同然だ。だから切った。
真面目に防衛線を築いたベルドリアには悪いが、アトラス限定のこの一手でもって破ることにしたのだ。
「『アトラスの怒り』は成功した。上陸を開始しろ」
「ははっ、どうぞ我らアトラス艦隊にお任せあれ!」
通信を繋いだ先に映るのは、砂漠艦隊を与るシャーガイル提督。
ワニ型リザードマンの顔色は分かりにくいが、若干、蒼褪めているように見えるのは気のせいではないのだろうな。
生粋のアトラスの民である彼からすれば、砂漠の大津波に襲われる、ということがどれほどの脅威であるか強く実感できている。あんな大災害で襲わせる様を見せつけられれば、敵に大打撃を与えて喜ぶよりも、アレの矛先を故郷に向けられたらという恐れの方が先に立つはずだ。
「流砂が安定しなければ言ってくれ。リリィに調整してもらう」
「この程度の荒波、我々には何ほどのこともございません。女王陛下のお手を煩わせるような無様は、決して晒しませんのでどうかご安心を」
めちゃくちゃ畏まった返答が来たものだ。もっと気軽に頼んでもらってもいいのだが……まぁ、こっちの砂漠船が首都へ突っ込むのには問題ないだろう。
「それじゃあ、上陸戦は頼んだぞ」
「御意。オール・フォー・エルロード!!」
気合の入った敬礼と共に、提督との通信を切る。
「さっさと乗り込んで、戦いを終わらせよう。まずは上陸部隊の掩護から————くれぐれも、味方を巻き込むなよ、フィオナ」