第879話 ベルドリア宣戦布告(3)
「ううぅーん、久しぶりに帰れるデーッス!」
「もう住んでるとは言い難いけど」
暮れなずむ街の中、黒い制服のスカートを揺らして歩く二人の少女の姿は、帰宅途中の学生に見えることだろう。
しかし、その衣装は学校の制服ではなく、エルロード帝国軍の軍装である。胸元に輝くのは星を模した階級章と、栄えある精鋭部隊の所属を示す専用徽章。
厳しい選抜試験を潜り抜け第一突撃大隊員となったレキとウルスラの二人は、ベルドリアへの出征を目前に控えたこの日、明日一日を休みとされたので、元々住み込んでいた孤児院『ザ・ハウス・オブ・ザ・ラビット』へと向かっているところだ。
入隊が決まってからは、高位冒険者とはいえ軍では新兵なので、基本的な軍規を叩き込むための新兵訓練が実施されていた。勿論、休みなどない。レキの言葉通り、本当に久しぶりの帰宅となるのであった。
「でもでも、やっぱりみんなのいるところが、帰る場所って感じするデスよ」
「うん。もう家族みたいなものなの」
リリィとの約束に従い、冒険者として活動を続けていた二人である。一刻も早くクロノに追いつきたい一心で大迷宮に挑み続けたせいで、ようやく得た安息の場所である孤児院で、あまりゆっくりと過ごしたことはない。
運命の悪戯でフィオナと出会った後は、ダンジョン攻略とはまた別に、修行の一環として秘密の魔女工房に泊まり込むこともよくあった。果たして修行なのか、体よく働かされただけなのか、怪しい部分はあるものの、結果が出せた以上は文句などない。
お陰様で、晴れて帝国軍の精鋭部隊に入ることができた。
フィオナの助言に基づいて、加護を得ることができなければ、そもそも選抜試験を受けることもできなかったであろう。
大迷宮の新たな第五階層『大魔宮』にてランク5のボスモンスター討伐に成功し、リリィとの約束も果たされている。
二人は見事に力を身に着け、それを示し、堂々と戦場へ挑む権利を勝ち取ったのだ。
それはそれとして、今は来る戦いのことは忘れ、久しぶりに大切な家族同然の子供達に会えると軽やかな足取りの二人であった。
「たっだいまデーッス!!」
「帰ったの」
二人の声が孤児院の玄関に響くと、すぐにドタドタと騒がしい足音を立てて子供達が出てきた。
「おかえりなさい!」
「おかえりー」
「おおー、軍服だぁ」
「かっこいー」
俄かにワイワイと騒がしくなるが、それを咎める者はこの場には誰もいない。玄関先だが、久しぶりの再会に子供達は勿論、レキとウルスラもまた喜んでいた。
「……おかえりなさい、レキ姉、ウル姉」
はしゃぎ回る子供達の後ろで、控え目に立つ一番背の小さな女の子が、二人を見つめて声をかけた。
刹那、レキとウルスラはその場で跪く。
「オール・フォー・エルロード!!」
「女王陛下万歳!!」
それは考える余地のない、反射行動。
膝をつき、頭を垂れる。そこに思考が介在する余地などない。
「私、リリアンだよ。リリィお姉様じゃないから、大丈夫」
「ハッ!? リリアン!」
「うっ、今、体が勝手に……なんて恐ろしい刷り込みなの……」
最年少のリリアンは、サラサラと流れる美しいプラチナブロンドの長髪に、キラキラ輝くエメラルドの瞳を持つ、非常に愛らしい少女であり————なにより、そのリリィによく似た容姿から、彼女の影武者として活動している。
若草色のワンピースに身を包んだリリアンの姿は、パっと見では毎日ヴィジョンに映し出される偉大な妖精の女王にしか思えない。
その姿を目にした瞬間、有無を言わさず平伏するのは、帝国臣民として、そして帝国軍人として絶対的な規律として『教育』されている。
帝国軍のブートキャンプを終えたばかりの二人に、リリィそっくりなリリアンを見てその違いに気づけというのは、到底無理な話であった。
「良かった、リリアンも今夜は帰っていたの」
「お仕事、忙しいって聞いてるデス。無理してないデスか?」
「うん、大丈夫。みんな、優しくしてくれるから」
リリアンが影武者をしていることは、一種の機密情報のためレキとウルスラにも伝えられていない。ただ彼女はその才を見込まれて、ほとんど毎日テメンニグルにて重要な仕事に従事している、とだけ伝えられている。
ここ最近の忙しい冒険者生活の中で、ほとんど孤児院に帰らず秘密の仕事を続けるリリアンとは、特に顔を合わせる機会が減っていた。
少し見ない間に、伸びた背丈と、随分と大人びて落ち着いた立ち振る舞いを見て、レキとウルスラは自ずとリリアンの苦労と成長を悟り、年長者としての不甲斐なさを痛感するのだった。
「リリアンは、とっても偉いの。一番、頑張っている」
「大きくなったデスね!」
しかし、それをおくびにも出さず、笑顔でリリアンを称えようと思いやれるくらいには、二人もまた成長をしていた。
そして、それ以上に影武者としての活動を通して精神的な成長を遂げたリリアンは、その二人の気持ちも理解した上で、彼女もまた笑顔でそれに応えた。
「うん、みんなのために、もっと頑張るね」
幼く健気に笑う小さな彼女を、二人は強く抱きしめた。
そんな感動的な場面だが、高位冒険者として研ぎ澄まされた感覚を持つ二人は、玄関へと接近してくる人の気配を即座に察した。
リリアンを解放し、それとなく子供達を下がらせ、玄関口に立つ。
この時間帯では、もう孤児院を真っ当な用件で訪れる者はいない。かつてのカーラマーラ時代と比べ、パンデモニウムの治安は天と地ほどの差がある。しかし過酷な経験をしてきた二人が、警戒心の方が先に立つのは当然のことであった。
気配どころか足音を隠すこともなく、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
人数は二人。一人はデカく、もう一人は小柄。微かに届く足音だけで瞬時にそう判断したレキが、端的に相棒へと告げる。
そうして、二人はいつでも空間魔法の鞄から武器を抜ける体勢をとって、未知の訪問者を迎えた。
「扉は開いている。どうぞ」
ドアの前でノックしようかという気配を掴み、ウルスラが努めて平静に言った。
直後には、言葉通りにガラガラと扉が開かれ、
「こんばんは、レキ、ウルスラ。久しぶりだな」
「くっ、クロノ様……」
「クロノ様っ!」
帝国軍の教育の賜物である反射的な平伏————することなく、二人は一も二もなく、現れたクロノに抱き着いた。
最後に会ったのはいつだったか。
会いたい。けれど、魔王となった彼の隣に並ぶには、何もかも足りていないと自覚し、会いに行こうとは決してしなかった。
自ら決めたこととはいえ、辛く、苦しく、恋焦がれる切ない気持ちは募る一方で。
けれど不意打ちのように現れてしまえば、もう抑えは効かなかった。
膝を屈し、頭を垂れて迎えなければならない絶対的な君主ではなく、クロノという一人の男を求める激情が、鉄の規律を上回ったのだ。
「済まないな、ずっと会いに行けなくて」
「ううん、いい、いいの、そんなこと……」
「クロノ様が来てくれるなんて、夢みたい、デス」
抑えきれない感情のままに、涙ながらに縋りついて来る二人を、クロノは優しく抱きしめた。
「で、でもっ、どうしてレキ達のところへ」
「魔王陛下が、わざわざ来るなんて」
「俺が来たいから、来ただけだ。サリエルも一緒にな」
「お久しぶりです、レキ、ウルスラ」
「あっ、シスターユーリ!」
「じゃなくて、サリエル様」
「私に敬称は、必要ありません」
「ええー、じゃあ大佐って呼んだ方がいいデス?」
「もう帝国軍人だから、上官には逆らえないの」
「その必要は、ありません」
クロノの背後で、静かに佇んでいた目立たないローブ姿のサリエルがそう断りを入れた。
彼女もまた、開拓村で同じ時を過ごした仲である。レキとウルスラのことを、クロノ同様に案じているのは、サリエルを置いて他にはいない。
「ようこそ、魔王陛下。拝謁の栄を賜り、光栄の極みにございます」
「いいんだ、リリアン。今日の俺は、魔王としてではなく、ただのクロノとしてここへ来たんだ」
顔を見るなり飛びついたレキとウルスラとは対照的に、リリアンはその場で見事な礼をもってひれ伏した。
いまだ十にも満たない小さなリリアンに、それをさせた、それが出来るほどの責務を押し付けてしまった後悔が良心を刺す。
クロノは頭を上げないリリアンの前で、自ら膝を折って、その小さな体を抱き上げた。在りし日と同じように。
「良かったら、今日はここに泊まらせてくれないか。話したいことが、沢山あるんだ」
クロノがサリエルを連れて孤児院を訪問している頃、ネルもまたお忍びで向かった場所があった。
そこはスパーダ王にして帝国軍中将を務めるウィルハルトの住まう屋敷である。
もっとも、家主のウィルは許可を出しただけで、ネルを招待したのは妹シャルロットであった。
「なんだか、ようやく落ち着いて話せるわねー」
「すみません、アヴァロンからこちらへ来てからも、何かと忙しかったもので」
幼馴染のシャルロットを前に、ネルは心からの穏やかな微笑みを浮かべた。
ここ最近はクロノ相手に大失態をかましたことで、色々と気が気じゃなかった彼女であるが、やはり持つべき者は心許せる親友か。
「つっても、またすぐ戦で忙しくなるけどな」
そしてこの場に招待された三人目のカイが、豪快に骨付き肉にかぶりつきながら言う。
シャルロットの呼びかけにより、ネルとカイの『ウイングロード』メンバーが集合したのだ。
結局、ネロの使徒覚醒によって『ウイングロード』はダキア村で二つに割れたままとなってしまった。そして、恐らくはもう二度と戻ることはないだろうことも、あえて口にはせずとも誰もが察している。
「アンタは例の精鋭部隊になったんだっけ?」
「おうよ、第一突撃大隊だぜ」
「カイさんには、ピッタリだと思いますよ」
「そりゃあ、俺には剣しかねぇからな。最前線に突撃できなきゃ、ただのバカだからよ」
「ふふ、そんなことはないでしょう。私が言うのは筋違いかもしれませんが、ごめんなさい。アヴァロンでは、随分と苦労をしたようで」
「やめてくれよ、自分がただの剣術バカでしかねーってことを、改めて思い知らされただけのことだぜ」
「アヴァロン解放戦は、私も参加したかったのに!」
「大体よぉ、皇帝自ら僅かな手勢だけを率いて敵国に乗り込むっつー無茶な作戦だぜ? お前の魔術師部隊の編成が間に合っていても、クロノは連れて行こうとはしねーだろ」
「そうですね。これからはシャルも、あまりワガママを言ってクロノくんを困らせてはいけませんよ」
「分かってるわよ。でも、ネルが捕まってて、カイまで鉱山送りだったって言うじゃない! 私が仲間のピンチを救いに行くべきだったのにぃ!」
「ごめんなさい、私を助け出す役目はクロノくんにしか許されていませんので」
「あーあ、まぁたノロケが始まったよ」
「ネル、悪いことは言わないから、今日は止めときなさいよ。嫌な事思い出すわよ」
「なんでそんな酷い事言うんですかぁ!?」
その台詞がもうすでに嫌なことを思い出させているわけだが、ネルはそれを忘れるようにグラスに入ったワインを煽った。そして、骨付き肉にも齧りつく。
理想のお姫様と名高きネルだが、彼女は同時に冒険者でもある。テーブルマナーなど必要のない場面では、酒をガブ飲みし肉に食らいつくことだってする。特に、嫌なことを忘れたい時などは。
クロノには見せないはしたない暴飲暴食は、気心の知れたパーティメンバーの前だからこそである。
「おう、今日は飲め飲め。エールもあるぞ」
「ジョッキでお願いしますぅ」
「あっ、私は蜂蜜酒」
「ほらよっ」
「瓶ごと渡すな! ちゃんと注ぎなさいよ!」
「細けぇコト言うなよ。そのまま行け」
「んもぉー、アンタはそーゆうとこデリカシーに欠けるんだから」
などと口を尖らせながらも、自分で注ぐのは面倒だったのか、瓶ごと酒を飲むシャルトットも、やはり一人の冒険者であった。
「で、今回はシャル、お前も参戦するんだろ?」
「当たり前でしょ。アンタと同じ、シャングリラに乗るわ」
「えっ、お前も降下作戦?」
「突撃バカ共と一緒にするな。私達はシャングリラの防衛部隊よ。あの天空戦艦が落ちるとは思えないけど、相手は大規模な竜騎士団だって言うじゃない。念の入った配置よね」
「竜騎士に剣は届かねぇからなぁ。奴らの相手は任せるぜ」
「アンタは精々、敵の王城で暴れて来なさいよ」
「へへっ、見てろよ、俺が大将首を上げて来てやる」
「————ぷはぁ! 私もシャングリラに乗ってますよ!」
ドン、とテーブルに大ジョッキを置いたネルは泡の白髭をつけながら、何故か自慢げな表情で言い放つ。
頬には朱が差しており、普段はしない一気飲みなどをしたせいで、明らかに早く酔いが回っているようだ。
「ネルはやっぱ、ヒーラー部隊だよなぁ」
「軍医総監って中将なんでしょ。いきなり将軍級だなんて、ちょっとズルくなーい?」
「ふふっ、私、アヴァロンのお姫様なので」
「私はスパーダのお姫様なんですけどー? でも少佐なんですけどぉー??」
「魔王陛下の婚約者、ですから」
ムフゥー、と酔った赤ら顔で言い放つネルであった。
「あ、俺は中佐ってのになったぞ」
「ええっ、ちょっと、なんでアンタの方が上なのよ!?」
「いやだって俺、突撃隊の隊長だし」
「カイが隊長なの!?」
「クロノ魔王陛下、直々のご指名だぜ」
「アンタが隊長とか、突撃して全滅しそぉー」
「大丈夫だ、ネルが回復してくれっから」
「ええ、私が回復します。クロノくんのお嫁さんなので」
「ネルはもうダメそうね」
「おう、無理しないで寝ていいぞ」
「大丈夫です。騎士団結成できるくらい、クロノくんの子供を産みますから、えへへっ……」
「はいはい、お休みなさーい」
グルグルした目で戯言を繰るネルを、シャルロットは甲斐甲斐しく柔らかなソファまで誘導して横にさせた。
「うううぅ……私ぃ、今度こそ大人の女性に、なるのですぅ……」
などと言いながら、横にさせると大きな白い翼が自らを包むように折りたたまれ、すぐにスヤスヤと寝息を立て始めるのであった。
そんなネルの姿を眺めて、席に戻ったシャルロットはわざとらしいほどに溜息を吐いた。
「あーあ、いいなぁ、ネルは」
「なんだよ、お前もクロノと結婚したかったのか?」
「冗談やめてよ」
「もう昔みたいに毛嫌いしてるワケでもねーだろ」
「アイツが悪い奴じゃないっていうのは、もう充分に分かってるわよ。凄い男よ、強くて、優しくて、あっという間に帝国まで興しちゃってさ……だから、アイツならネルを任せてもいいかなって、本気で思ってるの」
「任せる、ねぇ。俺としては、ようやく上手いこと結ばれてくれて、友人としちゃ一安心ってとこだぜ」
「アンタが人の色恋の世話なんて焼かないでしょ」
「これでも色々あったんだよ。ダキアん時も、その一環だ————そんなことより、シャル、お前は結婚したいのか?」
「当たり前でしょ、私だって一人の乙女なんだから。でも、私はほら、もうネルのようにはいかないから」
「俺は、スパーダのためにお前がクロノと婚約することは良いと思っている」
「そうね、普通はそう思うわよ。私だって、スパーダに残された王女として、それが一番だって分かってるわ————でも、それは無理なのよ」
「ネロのこと、忘れられないのか」
「それは関係ない。クロノの、魔王の花嫁になるにはね、それはもう厳しい条件があるんだから。恐ろしい女王様と魔女が見ているのよ。ネルくらい、本気で好きな上に、飛びぬけた才能の持ち主じゃないと、彼の横に並び立つ資格は得られないの」
「俺は、お前だってネルと同じくらい魅力も才能もあると思ってる」
「珍しいじゃない、アンタがこんなに気の利いたセリフが言えるなんて」
皮肉げな笑みを浮かべながら、シャルロットは瓶に残された蜂蜜酒を一気に煽った。
芳醇な甘さと確かな酒精の香りが、頭の中に渦巻く嫌な気持ちをボンヤリと薄れさせてくれる。
「今の私は、ただ羨ましいだけ……胸を張って好きと言える相手と、結ばれたネルのことが」
「シャル」
小さなネルの寝息だけが聞こえる中で、カイの声が強く響いた。
回って来た酔いに任せて、シャルロットはフワフワした頭でそれを聞いた。
「俺と結婚しないか」