第876話 悪夢の一夜
完璧なデートだった。
それはもう完璧な遊園地デートだったと、俺は自信を持って言えるね。
流石はリリィ、ディスティニーランドの復旧は見事なもので、丸一日かけて遊んでもまだ回り切れないほどにアトラクションは充実していた。
最初はえらく緊張していたネルも、遊んでいる内にすぐ夢中になってはしゃぐようになってくれた。そこからはお互い、素で楽しんでいたと思える。
そうして俺は、ある意味では本日最大のイベントである夜の部に突入した。
ランドの中央に聳え立つ美しき白亜の城ディスティニーパレスは、現在は俺の居城である魔王城ということになっている。とはいえ、俺が魔王として謁見が必要な時に、漆黒の玉座の間を利用するくらいなのだが。
第五階層の司令部の方が立地も設備も便利だから、基本的にはそっちに住んでいる。
しかしながら、デートの最後に一夜を過ごすのに誘うには、格も雰囲気も公式魔王城であるパレスの方が良いだろう。
元々はディスティニーランドで最高級の部屋である、王族の寝室を模した文字通りのロイヤルスイートルーム。ネルという本物のお姫様を迎えるに相応しい格式を備えた、自慢の一室だ。
そして今、絵に描いたような天蓋付きの巨大ベッドの上に、俺とネルはいた。
「今更、こんなことは言うべきことではないのかしれないが……それでも、先に伝えおく」
本当に、こんな土壇場で言い出すことではないだろう。けれど、今ここが最後なのだ。このまま彼女と一夜を過ごせば、もう引き返すことはできない。
「俺は魔王として、十字軍をパンドラ大陸から駆逐する。それが成されるまで、結婚も、子供も作ることはしない」
俺にとっては、これが十字軍と戦い続けるための一線だ。
絶対的な頂点である魔王となって、大陸の総力を結集したパンドラ大戦の遂行。あまりにも強大な十字軍に対する唯一の対抗策であり、最善かつ最高効率での戦いを、俺はパンドラに強いるということでもある。
そのトップである魔王クロノは、全ての力を大戦に注がなければならない。そのための地位であり、権力を持つ。
所詮、俺は真の意味で魔王の器などではない。魔王という役を演じる、演じ切ることしかできない。それが俺の義務であり、自ら背負った責務でもある。
だがしかし、俺に子供が生まれれば……揺らぐかもしれない。必ず未練が、欲が生まれるに違いない。
十字軍を倒すためだけに集めた力を、自分の子供のために、まだ見ぬ息子や娘達のためにつぎ込んでしまうかもしれない。それだけでなく、この自分の命すらも惜しむようになるかもしれないのだ。
それはパンドラ大陸全土を戦火に巻き込んだ者として、重大な背信行為。
「俺もネルを愛している。だが、幸せにしてやると、とても約束はできない。むしろ十字軍と戦い続ける俺と共に歩むのは、茨の道を行くのと同じ。この先にあるのは、苦難の戦争だけだ」
俺が婚約者とするのは、共にパンドラ大戦を戦い抜ける者だけ。
リリィとフィオナは、すでにその覚悟はできている。
けれど、ネルは……彼女はまだ、俺と袂を分かち、自分の幸せを追い求める道を歩む選択肢がある。
今なら、まだ引き返せる。一夜の綺麗な思い出だけを残して、俺の元を去ることができるのだ。
「ふふ……愚問というのは、こういうことを言うのですね」
ネルは俺の手をとって、すっと顔を近づけて来る。
迷いも恥じらいもなく、真っ直ぐにその青い瞳で俺を見つめた。
「どのような苦難の道も、私は貴方と共に歩みたい。貴方の支えになりたい。必ず、貴方のお役に立ちます————だから、どうか私を、このネル・ユリウス・エルロードをクロノくん、貴方のお傍にいさせてくださいな」
流れるように自然なキスと共に、選択は、覚悟は、決まった。
一緒に行こう。この血塗られた戦いの道を。
「ネル……」
「クロノくん……愛しています」
もう、言葉はいらない。
俺はネルをそっとベッドへと押し倒し————
「あふんっ!?」
という甲高い嬌声と共に、ネルは気絶した。
「……」
うん、ちょっと待て。一回落ち着こう。
冷静に考えろ……この際、事に及んで気絶してしまうことは、予想できていたことだろう。
フィオナと初めて致した時のことは、まだまだ記憶に新しい。そしてリリィの時もまた、同じような結末となった。
如何に俺とて二度もの失敗を経れば、いい加減に反省もする。これで三度目だぞ。ただしサリエルは除く。
ともかく、俺はネルと初めての一夜を過ごすにあたり、今回は入念な準備とシミュレーションを重ねてきた。
まずは優しくマッサージでもするかのように体を解し、じっくりと時間をかけて受け入れられる準備が整うかどうかを見極める————というようなことを、ここ最近はリリィとフィオナ相手に実践しながら、対策を立てて来たのだ。
来たのだが、
「えっ……気絶すんの、早くない?」
性的な表現をボカすこととかなく、俺はマジでまだネルには何もしていない。
いや全く何もしていない、指一本触れていない、といえば嘘になる。
だが正確に言えば、俺は指一本しか触れていない。まずは優しくマッサージ、の初手である。どこを触れたのか、ということまではあえて言いはしないが。
だから俺は悪くない……俺は悪くないんだ! 今回ばかりは『愛の魔王』も関係ない。俺は出来る限り、余計な刺激は与えないよう細心の注意と対策を講じて事に臨んだ———かといって、全ての責任をネルに押し付けるわけにはいかないだろう。
「なんて安らかな顔で気絶しているんだ……」
今まさに行為に及ぼうとした矢先、すでに一糸纏わぬ裸となっているネルは、遊び疲れてスイッチが切れたように眠りについた子供のように、スヤスヤと安らかな寝顔を浮かべている。それはもう、スヤッスヤだ。
とても俺には、起こすことができない。
こんな気持ちの良い寝顔を見て、誰が起こすことができようか。
ここで叩き起こして、おらっ続きヤルぞ! なんて言えるかよ。そんな鬼畜の存在が許されるのはエロ同人の世界だけだ。
よって、今の俺にできる選択は、一つしかなかった。
「おやすみ、ネル」
肌触り最高のフカフカ毛布を被り、俺はネルと共にそのまま眠ることにした。
そして翌朝。
「あ、朝ぁ……?」
どこからともなくチュンチュン聞こえる中、ネルがついに目を覚ましたようだ。
「おはよう、ネル」
先に目覚めていた俺は、無垢な彼女の寝顔を眺めながら、さてこの後なんてフォローするか、というのをひたすら考えながら、待ちに徹していた。
さて、ネルが起きた以上、ついに時が来てしまった。昨晩よりも、緊張してくるね。
「あっ……あ、あの、私……」
もうすでに声が震えている。
恐らく、ネルはもう状況を察したのだろう。流石はランク5冒険者、判断が早い。
「私、昨日の夜は————」
「ネル」
幼い娘に言い聞かせる父親のように、優しく呼びかける。
決して、俺は何とも思っていませんよ、気にしていませんよ、という気持ちが少しでも伝わるように。
俺は努めて、開拓村でニセ神父をやっていた時に、敬虔な村人に説法する時のような包容力のある微笑みを浮かべて言った。
「何も、気にするな。初めてのことなら、誰にでも失敗はあるさ」
「……て」
「えっ?」
「……殺して」
見開かれた青い瞳。その円らな目の淵から、俄かに大粒の涙が浮かぶ。
呆然と開かれた彼女の口から漏れた言葉は、
「殺して……殺してっ! お願い、クロノくん、私を殺して!! 殺せぇえええええええええええええっ!!!」
「うわっ、お、落ち着け、ネル!?」
狂ったような絶叫を上げるネルを前に、俺は無様にもベッドの上から吹っ飛ばされそうになった。
咄嗟に踏ん張り、かろうじて転がり落ちるのは防いだが、強烈な風圧が叩きつけられる。
その巻き起こる旋風は、ネルの大きな翼が激しく羽ばたいたことで発生したものだ。バッサバッサと強い風を放ちながら、今にも飛び立とうかという勢いである。
「こんな、こんな恥をかいて、私、生きていけませんっ!!」
「大丈夫だ、何も恥ずかしがる必要なんかない! しっかりしろ、気を強く持つんだ!!」
「耐えられませんよこんな現実ぅ! いやぁあああああああああああ!」
耳をつんざく金切り声に怯みそうになるが……ここで下がっちゃ男じゃない。
全裸で羽ばたきながら、悪魔に憑りつかれたような動きで暴れているけれど、決して退いたりなどするものか。
今の彼女を救えるのは、俺しかいない。
こんなに発狂しちゃったのも、俺のせいだけど。
「うぉおおおお、ネルぅうううう!」
「ピギィイイイイイイイイイイ!!」
それからしばしの間、ベッドの上でプロレスごっこ(ガチ)をドッタンバッタン繰り広げて、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。
激しい戦いだった。
朝から一体、俺は何をやっているのだろう。ただ、思い出に残る素敵な一夜を過ごしたかっただけなのに……
「クロノくん……ごめんなさい……」
「謝ることはない。ネルの悔しい気持ちは、分かっているつもりだ」
「ううっ、で、でもぉ……」
「一回くらい上手くいかなくたって、気にしなくていいさ。機会なんて、これから幾らでもあるんだから」
「……じゃあ、もう一回……いいですか?」
と、ネルがするりと腕を絡ませてくる。
何気ない動作。蛇のように絡んでくるその細腕は、色っぽさと同時に一部の隙も無い洗練された動きでもあった。
「今からか?」
「あっ、あ、あの……決して、いやらしい気持ちではなくてですね……その、女性としてこのままでは引き下がれないというか……」
起き抜けの朝っぱらからヤリます、なんてお盛んですねと言われそうだが、わざわざそんなことを気にする必要はない。
少なくとも、俺はそこまで枯れてはいない。おまけに、一晩お預けを喰らった状態なのだ。
昨晩のリベンジ、早々に果たさせてもらおうじゃないか。
「ああ、分かってるさ、ネル。今日は昼まで、ゆっくりしよう」
「はっ、はい……クロノくん……」
そうして、早朝の二回戦が始まり、
「————あふぅん!!??」
直後に、終わりを迎えた。
「おはようございます、マスター」
「おはようございます、ご主人様」
扉を開ければ、折り目正しくお辞儀をする、二つの銀髪頭。可愛いつむじが見えて、思わず二つとも撫でてしまいたくなる誘惑に駆られるが、今は止めておこう。
「ああ、おはよう」
「ネル姫様は」
「彼女を起こさないでくれ、死ぬほど疲れている」
そっと寝かせておきたい時の定型句を、小首を傾げるプリムに向けて言い放つ。
「昨夜はお楽しめませんでしたね」
「まさかサリエル、お前に言われるとはな……」
女の子と宿に泊まった時の定型句で皮肉られるなんて。
ちくしょう、やっぱり昨晩の事情は全て筒抜けか。
「ネルのこと、悪く思わないでやってくれ。多分、俺の加護も何かしら影響しているはずだから」
そうでなければ、あれほどの敏感な反応は説明がつかない……だから影響なんて微塵も感じられなくても、ここは加護のせいにしておけ。俺の中の理性も、そう主張している。
「いいえ、マスターが何の満足も得られなかったことに、違いはありません」
「こういうことは、これが初めてってワケじゃない。今更な話だ、気にしないさ」
「不満があれば、私をお使いください」
耳に痛い話題のせいで、適度に聞き流して歩き去ろうとした俺を、その一言が縫い止めた。
「なんだって」
「私は、手足を失い消耗しきった状態でも、マスターのお相手を一晩、務めきりました」
真紅の瞳を真っ直ぐ向けて、何の恥じらいもなくサリエルは堂々と言い放つ。
何のこと、何時のこと、などととぼけられるはずもない。忘れられるはずもない、あの悪夢のような一夜のこと。
「これはリリィ様にも、フィオナ様にもできません。私だけが、マスターの全ての求めに、応えることができるのです」
「……やめてくれ、サリエル」
事実であるが故に、否定できなかった。
体の相性、なんてエロ漫画の中の話だと思っていたが、三人もの婚約者を抱える今となっては、割と本気で考えなければならないことなのかもしれない。
妖精のリリィは、基本的に月に一回満月の夜と、変身の余力が残っていれば。なので、最も回数が多いのはフィオナだ。
リリィが出て行った時からの、恋人時代から回数を重ねることで、徐々にだがフィオナも耐性がついてきた。
だが、とても一晩はもたない。
後にも先にも、夜が明けるほどの時間を耐え抜いたのはサリエルただ一人。
「差し出がましい真似を、申し訳ございません」
深々と頭こそ下げるが、そこに微塵も後悔はないのだろう。
「私は奴隷。いついかなる時も、この身を捧げます」
「そんな気遣いは、しないでくれ。俺がそういうことを望まないというのは、お前なら分かっているだろう」
「はい、マスター。昨夜の惨憺たる有様に、つい」
「頼むから、ネルに余計なこと言うなよ……」
自殺はないにしても、ショックのあまり自傷行為に走りそうと思っちゃうほどには、荒れていたからな。
というか、次に目覚めた時には一体、どうなってしまうんだ……
「セリスかベルクローゼンをお呼びしましょうか」
「頼むサリエル、二人とも呼んでくれ」
「かしこまりました」
素晴らしい献策、ありがとうサリエル。これが仲間の力か。通称、丸投げ。
しょうがない、だってもう、俺の手に負える気がしないんだもん……
「ご主人様っ! お食事にしますか、お風呂にしますか。それとも————プリムにしますかっ!」
「……プリムにすると、どうなるんだ?」
「そっ、それは……頑張ります!!」
何か強い覚悟を決めたように、両手をギュっと握って頑張る姿をアピールしてくるプリムである。
なんだろう、サリエルとのやり取りを、やたら驚いたような表情で眺めていたが、思うところがあったのか。こう、メイドとしての対抗心的な。
「今日はそんなに頑張らなくていいから、風呂にするよ」
「はい、マスター」
「イエス、マイロード!」
プリムは頑張らなくてもいいが、俺は頑張らないと。
今日からまた魔王のお仕事だし。
それに、ネルのフォローも……これ以上、どうしろってんだよ……