第874話 夢の一夜(1)
「ねぇ、フィオナ。明日、暇?」
ある日、リリィは突然そんなことをフィオナへと問いかけた。
「そうですね、暇といえば、暇ですね」
対するフィオナは、何の前フリもなく女子学生のように気安いことを言い出したリリィの言葉に、驚くこともなくそう返した。
「リリィさん、暇なんですか?」
「うん」
「女王で元帥なのに?」
「うん。明日は暇なの」
そうですか、と皮肉でも何でもなくフィオナは納得した。
リリィはパンデモニウム女王であり帝国軍元帥でもある。ベルドリア侵攻を間近に控えたこの時期でなくとも、忙しくない時などない。
一方のフィオナも、第四階層に構えた秘密の魔女工房で、ソレイユ弾頭の開発を含めてやるべきことは山ほどある。一人の魔女として、魔法の探求も欠かせない。
「だから、二人で遊びに行こ」
「いいですよ」
それでもリリィはフィオナを誘い、フィオナもまたリリィの誘いを受けた。本当に、ただの女子学生が交わす何気ない日常の一ページのように。
かくして、女王リリィと魔女フィオナの二人は翌日、約束通りに揃ってパンデモニウムの街へと繰り出すことと相成った。
「————ごめんね、待った?」
「いいえ。今、来たところですので」
淡い緑の輝きの中から現れたリリィへ、フィオナはお決まりの台詞で答える。
二人が待ち合わせたこの場所は、パンデモニウム中心街に新設された転移場であった。
スパーダの街中に『歴史の始まり』のオベリスクが突き立つ公園や広場があったように、カーラマーラにも同じような場所は存在していた。リリィが大迷宮を掌握したことで、パンデモニウムにあるオベリスク、すなわちモノリス間での転移が可能となっている。
特に女王陛下のお膝元である中心街は、近場でのモノリス間転移は大々的に解放されており、帝国臣民の移動や輸送手段として早くも定着していた。
ただの公園というだけでなく、多くの人々がリアルタイムで転移してゆく場所となるため、モノリス周辺は広々と整備されている。
無論、ただの空き地となっては風情も何もあったものではない。よって、見栄えも含めて統一的なデザインが施されることとなった。
突き立つモノリスに対し正面には、大きな噴水が陣取る。噴水の中央には、妖精女王イリスを模した石像が立っており、リリィの感謝と信仰、そして何より力の象徴となって示されている。
周囲には色とりどりの花が咲き誇る花壇が配され、さらに外側には妖精の住む森から取り寄せた胡桃の木が街路樹として植えられていた。
イリスの噴水を際立たせるシンプルな庭園様式で作られたこの転移場は、いつしか『妖精広場』と誰もが呼ぶようになるのであった。
「それにしても、今日は随分と空いていますね」
空いている、というより誰もいない。
人通りそのものはある。中心街の公園に相応しいほどには、様々な恰好や種族の人々が行き交っている。
だがしかし、モノリスから転移をしてくる者は一人もおらず、また、ここから転移しようとやって来る者もいなかった。リリィとフィオナの二人だけが立ち尽くすモノリス前は、まるでこの場所の存在など知らないかのように、誰一人として寄り付かない空白地帯と化している。
「そうね、みんなが気を利かせてくれているのよ」
「この辺一帯の統制は、すでに完璧なのですね」
行き交う人々の様子には、これといった違和感はない。ホムンクルスのように感情の欠落した人形めいた無表情を浮かべているわけでもない。
自然。あくまで自然なのだ。
素知らぬ顔で通り過ぎる男達。慌てた様子で駆けていく商人。グズる子供の手を引く母親に、何やら言い合いをしているカップル……そこにいる人々の、それぞれの日常生活の風景が広がっている。
だがしかし、彼らの内の誰一人として、ここに立つリリィとフィオナへ目を向けない。
ヴィジョンを通して毎日お目にかかる愛らしい妖精の女王その人が、素顔も輝かしい羽も隠すことなく露わにしているにも関わらず。
「折角の休日だもの。これくらいは、ね?」
人の注目を集めるのも、大勢にいちいち傅かれるのも、面倒に過ぎない。リリィは好きで女王になどなったのではない。クロノが好きだから女王をやっているだけ。
ただの冒険者だった頃のように、誰の気に留まることもなく、自由に街を闊歩することがリリィの望み。すなわち、女王陛下の命である。
ホムンクルスの憲兵隊を動員する必要もなく、リリィの意思一つでこの中心街の住人全員の行動をある程度まで操ることは、すでに可能となっていた。
「でも、私の街でもまだまだ至らないところは沢山あるわ。今だって、不明な転移があったばかりだし————ねぇフィオナ、貴女どこから転移してきたの?」
「さぁ、どこでしょうね」
パンデモニウムのみならず、帝国全域と同盟国にまで及んだ転移網。そこで転移した人や物の情報は全て、第五階層の女王の間にあるオリジナルモノリスに集積される。すなわち、全ての転移情報はリリィの監視下にあるということ。
だが、その監視をすり抜けて自由に転移を行っているのが、フィオナに他ならなかった。
フィオナが建てた秘密の魔女工房。存在していることは知っているが、それが何処に、どれほどの規模で、どのような研究が行われているか、いまだリリィは暴くに至ってはいない。
「そんなことより、早くお昼を食べに行きましょう」
時刻はちょうど昼時。まずは二人で一緒にランチの予定である。
「リリィさんが良い店に連れて行ってくれると聞いて、しっかりお腹を空かせてきましたよ」
「いつものことじゃない」
「いつもより、ですよ」
お腹をクゥクゥ鳴らしながら、フィオナは自信気に言い放つ。
「じゃあ、行きましょう」
「ええ、よろしくお願いします」
そうして、幼い姿のリリィはフィオナの手を取って歩き出す。
帝国を支配する女王と、それに並び立つ魔女の二人は、その存在を気に留めないよう徹底された忠実な臣民達が行き交う雑踏へと、すぐに紛れてゆくのだった。
ランチの後は、二人でカーラマーラの旧跡とパンデモニウムの新名所などを、ゆっくりと見て回った。
自分の治める都市とはいえ、ここへやって来たのは去年の話である。オリジナルモノリスにより情報こそ集積しているが、自らの足で現地まで赴いた場所はまだまだ少ない。
心身ともに童心に帰っている幼女リリィは、目をキラキラさせて走り回り、フィオナもまた生きた古代遺跡に築かれた街の各所を、興味深く眺めていた。
二人で手を繋いで各所を巡り、時に屋台で買い食いをし、カフェでお茶を飲み、年頃の少女に相応しいゆったりとした休日の時間が過ぎていく。
そうして日も暮れた後、ディナーへとやって来たのはパンデモニウムの中心に聳え立つ超高層タワー、テメンニグルの上階にある完全会員制の高級レストラン。
ザナドゥ財閥直営、カーラマーラの権力の頂点に立つ者達御用達の店だが、今夜は新たなる支配者である女王陛下の貸し切り。
眼下に広がる煌びやかな夜景を文字通りに我がものとしているリリィは、静かに奏でられる楽団の生演奏をBGMに、フィオナと二人、食後のワインを傾けていた。
「そろそろ、帰りましょうか」
「ねぇ、フィオナ」
「なんですか?」
「今夜は、帰りたくないの」
どこか潤んだ瞳の上目遣いで、リリィはそんなことを言い放った。
クロノならばまだしも、フィオナ相手にいうならば、使い古された誘い文句などではないだろう。
すなわち、リリィは純粋に涙目となっていることを意味していた。
やれやれ、とばかりに溜息を吐いてから、フィオナは答える。
「今更、気にするほどのことではないでしょう。自分でも、認めているわけですし」
「でもっ!」
「気持ちは分かりますけどね。私だって、良い気はしませんから」
どこか物憂げな表情で、窓の外に広がる夜景を眺めるフィオナ。
けれどその黄金の瞳に煌びやかな街の灯は映らず、もっと遠くを見つめているようだった。
「……自分では、大丈夫だと思っていたの」
すっかり落ち込んだような声音でリリィが呟く。
その姿は幼い体であることを差し引いても、いつもよりずっと小さく、弱弱しく見える。
「そこまで思い詰めるくらいなら、いっそのこと、その『目』で覗き見でもすればいいじゃないですか」
「そ、それはダメ! 絶対そんなこと、しないんだから!」
「でも監視はさせているのでしょう?」
「それとこれは話が別よ。今のクロノは魔王様なんだから、万が一は許されないの」
「あのクロノさんに万が一などありませんよ。まして、相手はネルですから————腹上死なんて、するはずないでしょう」
「そういう意味で言ったんじゃないわよ!?」
「それ以外に何があると言うのですか。男女の秘め事を覗き見るなど、いくら私でも無粋だと思いますが……ネルを相手にするのは今夜が初めてのことですからね。嫉妬とはまた別に、心配になる気持ちも分かりますよ」
歯に衣どころか、抜き身の刃が如く直接的な言い方をするフィオナに、リリィは睨みつけるような視線を向けては唸る。
だがリリィに明確な反対の言葉も出てこない。つまりは、どこまでも図星でしかなかった。
「それで、どうするのですか? 見るんですか、見ないんですか。もうそろそろ始まっていても、おかしくない時間帯ですが」
「見ないわよ! 覗き見なんてしないって言ってるでしょ!」
「本当に、そういうところはいまだに潔癖ですね。そこがリリィさんらしいとは思いますけど」
「妖精だもの、しょうがないじゃない」
「それ言い訳になってるんですか?」
「とにかく! 今夜は帰る気になんてならないわ……だから付き合いなさいよ、フィオナ」
「ここのところ、お互い忙しかったですからね。たまにはこういうのも、いいでしょう」
これぞ大人の女の余裕、とでも言わんばかりに、フィオナは再び満たされたグラスを傾ける。
とはいえ、いつになく落ち着きのないリリィの姿を見ることで、かえってフィオナも落ち着いているという自覚もあった。
この日の夜を、こうまで気を揉んで過ごさねばならないのは、致し方のない事である。なぜなら今日こそが、クロノが男としての覚悟を決めて、ネルを誘った日なのだから。
「————相談がある」
と、薄暗くして雰囲気抜群な司令室にて、俺は久方ぶりにエレメントマスター緊急会議を開いた。
リリィ、フィオナ、サリエル。集ったメンバーはそれぞれ、何故このタイミングで招集されたのか、いまいちピンときていない顔をしている。
「ネルのことなんだが」
刹那、司令室はピンと張り詰めた空気が漂った。
このヒリつく感覚、堪らねぇぜ……
「この度、正式に婚約者となったじゃないか」
アヴァロンを帝国の州として併呑することが決まった時に、ミリアルド王から申し出されたネルとの婚約を、俺は正式に受けることにしたのだ。
エルロード帝国を支配する魔王へとアヴァロンの第一王女が嫁ぐ、という事実は大々的にアピールされている。アヴァロンとしては非常に分かりやすい形で帝国との安定した関係性を示せるし、こちらからすれば正統なエルロードの血筋を手に入れたということにもなる。
魔王の加護を授かるのに、ミアの血筋は全く関係ないのだが、何の効果も得られなくとも本物の子孫であるというだけで、決して替えの効かない唯一無二の価値がある。
パンデモニウムを中心としたアトラス周辺は、リリィの圧倒的な支配力によって帝国の礎として盤石となっているが、これから古代遺跡の力に頼り切れない領土まで広げていくとなると、有効となってくるのが『正統後継者』という肩書だ。これから先の帝国の拡大を見越せば、長らく魔王ミアの正統後継を称して来たアヴァロンの姫君たるネルとの婚約は、非常に大きな意味をもつ。
というのが、あくまで表向きの婚約理由である。どこまでも政治的な、これ以上ないほど典型的な政略結婚。
「だが、俺はネルの気持ちにはちゃんと答えたいと思う」
あれほど熱烈な告白をされれば、いくら鈍感のそしりを受ける俺でも本気なのだと信じざるを得ない。
無論、俺としてもネルとはまるで知らぬ間柄などではない。同じ冒険者パーティにこそならなかったが、神学校から今日に至るまで共に笑い、戦った、ただの友人以上の絆を深めていると思っている。
そんな相手だからこそ、俺は政治的な理由を抜きにした純粋な恋愛感情にも答えたいし、受け止めたいのだ。
「次の休みに、俺はネルをデートに誘う。その日は帰らない」
「っ!?」
「……」
リリィは驚愕の表情を浮かべるが、開いた口から言葉は出ない。
対するフィオナは、ジっと俺の方を見つめて来るだけで、何かを言うことはなかった。
サリエルは相変わらず、黙して語らない。自分が意見することではない、とでも思っているのだろう。
「文句があるなら幾らでも聞こう。それでも足りないなら、殴ろうが撃とうが、好きにしてくれ。甘んじて受け止めよう」
「そんな、クロノ……私は……」
「クロノさん、そんなこと気にする必要はありませんよ。こうなるだろうことは、私達もとっくに予想していたことですし」
「はい、マスターの望みのままに」
「だからと言って、好き勝手にさせてもらうワケにもいかないだろう。ほら、リリィめちゃくちゃ葛藤してる顔だし」
「いまだにリリィさんは、こういうコトに免疫がありませんからね。もう処女でもないというのに、いつまでこだわっているんだか」
「ぐぬぬぅ……分かってる……分かってるわよ、そんなことぉ!」
キっと涙目で睨むリリィだが、フィオナはどこ吹く風といった様子。
流石にリリィも、ここでは面と向かって俺に止めろとは言えないのだろう。
「すまないな、リリィ」
「謝らないでよ、クロノ……こうなることは、私の計画の内だもの」
そりゃあミリアルド王から政略結婚の話が切り出された時も、リリィは反対せず、有効的だと受け入れたからな。理屈では必要なことだと、分かってはいるのだろう。
けれど、理屈と感情はまた別の話であって。今回に限っては、リリィの嫉妬心よりも、ネルの熱い恋心の方を俺は優先することに決めたのだ。
「だから、私はクロノを責めたりしないし、協力だってするわ」
「いや、別に協力までは」
「ディスティニーランド、使っていいわよ」
「えっ、あそこもう使えるのか?」
「完全ではないけれど、復旧は八割方終わっているの。元々あそこがどういう場所だったのか、私も理解しているわ」
今や魔王城として利用しているディスティニーランドであるが、あそこが古代の遊園地であることは一目瞭然である。
あの場に墜落していたシャングリラのお陰で、敷地内丸ごと保存されていたし、損害といえば俺達とリリィが戦った時の余波くらいのもの。無事にあの戦いが終わった後から、すぐにディスティニーランドの復旧はホムンクルス達にさせていたから……確かに、ほとんど完了していてもいい頃合いなのかもしれない。
「魔王がお姫様を誘うのよ。下手なところに連れて行くワケにはいかないでしょう?」
「……リリィ、ありがとう。そうさせてもらうよ」
もしかしてリリィには、俺がデートプランどうしようか、めちゃくちゃ悩んでいたことを察せられていたのかもしれない。
ともかく、これで行き先は決まった。
ネルを夢の国へご招待するとしよう。