第872話 プリムの加護
2022年4月17日
金曜に定期更新されるはずだった今話が、純粋に私が忘れたせいで更新されておりませんでした。大変申し訳ございません。
首都アヴァロン解放戦の数日前。
クロノ率いる大隊が各自、首都へ入り拠点となるメイクラヴ・エンタープライズへと集結した日の事である。
「あら、貴女は確か、魔王陛下のお付きの子」
「はい、『重騎兵隊』プリム少尉です」
本館の廊下にて、奴隷商の女主人たるプルリエルに声をかけられたプリムであった。
護衛兼メイドとして、基本的にクロノの傍を離れることのないプリムだが、戦場にあっては重騎兵としての働きが第一である。よって疲労を溜め過ぎないよう、護衛とメイドの業務もローテーションを増やすことで勤務時間を減らし、十分な休養ができるよう割り振られている……のだが、クロノの傍を離れる時間が増えることは、プリムにとっては大きな不満でもあった。
ちょうど交代時間で部屋へと戻る最中に声をかけられことになるのだが、個人的な事情はさておいて、プリムは帝国軍式の敬礼と共に、機械的な返答をした。
プルリエルは上官ではないが、クロノにとって重要な協力者である。礼を欠くことがあってはならない。
「良かったら、少しお話しない? こんな状況だから、相手がいなくて寂しいの」
「申し訳ありません。任務がありますので、ご主人様のお傍を離れるわけには参りません」
「構いません、プリム。どうぞプルリエル様のお相手を務めて来なさい」
一も二もなく断りを入れたプリムを止めたのは、いつからいたのか、副官アインであった。
「ですが……」
「これも任務の一環です。魔王陛下の傍付きを許された身である以上、決して主の名に恥じぬ対応をするように」
「気を遣わせてしまったようで、ごめんなさいね」
「いえ、お構いなく。それでは、どうぞごゆっくり」
リリィ仕込みの綺麗なお辞儀をして、若干の不服さを顔に浮かべるプリムを連れて行くプルリエルをアインは見送った。
案内されたのは、客間の一つ。
薄暗く、漂う甘い香りがどこか淫靡な雰囲気を醸し出す。対面に座すプルリエルは、最初に見た時と変わらず、露出の高いドレス姿であり、肉付きのよく、それでいて長い足を組む姿は同性であってもドキリとさせられそうになる。
これがサキュバスという種族か、とプリムは冷静に彼女を観察していた。
「どう、お口にあったかしら?」
「申し訳ありませんが、生まれて一年に満たないプリムには、まだ茶と菓子の味について適正な評価を下せるだけの経験がありません」
「味を決めるのに、経験はいらないわ。自分の感じたことが全てなの」
「……よく、分かりません」
「ふふ、次は貴女でも唸るほどの品を用意するわね」
穏やかに微笑むプルリエルの視線を受けながら、やや居心地悪くプリムはカップを置いた。
「やっぱりホムンクルスの貴女には、用件は単刀直入に切り出すのが一番のようね」
「はい。何故、貴女がプリムに声をかけたのか、全く分かりません。何か、重要な要件があるのでしょうか」
今回の首都解放作戦に関することであれば、一言一句聞き逃すことなく記憶しなくては、とプリムは居住まいを正す。
しかしそんなお堅い態度の彼女を、プルリエルはクスクス笑った。細められた紫の瞳が、妖しく輝く。
「作戦には関係ないわ。貴女個人に関わることよ」
一体、この人がプリムの何を知ると言うのか、と怪訝に感じた。プルリエルとは前回、初めて顔を見ただけで、会話すら交わしていないのだ。
自分は天空戦艦シャングリラの製造設備で産まれた以上、過去に彼女と何かしらの接点があるということもありえない。
「うふふ、貴女を一目見て分かったわ。才能がある、とね」
「……才能?」
「ええ、才能。貴女がその気になれば、すぐにでも加護を授かるでしょう————『淫魔女王プリムヴェール』のね」
「プリム、ヴェール……?」
初めて聞いた神の名だった。
加護は、戦いにおいて重要なファクターである。クロノを始め、『エレメントマスター』メンバーは全員がそれぞれの加護を授かっているし、名のある騎士、冒険者の大半は加護を得ているものだ。
戦闘能力に直結する能力を誇る加護に関しては、必修科目として知識を叩き込まれている。
逆に言えば、戦いに関わらない『黒き神々』については無知であった。必要がなければ、興味が向くこともない。
「あら、初めて聞いた、といった顔ね。もしかして、自分の名前の由来さえ知らなかったのかしら」
「プリムは……ご主人様から与えられた、大切な、栄誉ある名前です」
初めて名前を与えられた時の気持ちは、忘れようがない。
歓喜、感動、途轍もない感情の波が胸の中でいっぱいになった。神の慈悲に触れた、正にそれほどの気持ちである。
だがしかし、その名前の由来など、考えたこともなかった。神から授かったモノを、どこから持ってきたものであるか気にするなど、途轍もなく恐れ多いことである。
「魔王陛下から直々に、ねぇ————それはそれは、随分と期待されているのね、貴女」
「き、期待とは」
「淫魔がどういう存在なのか、まさか知らないワケではないでしょう?」
刹那、プリムの体に電流が走る。
知識としてのみ存在する性に関する事柄。生物としての繁殖。男女の営み……それらの情報が、全て自分とクロノに置き換わる。
それは正しく、神と交わる禁断の————
「プリムはそんなコト、知りませんっ!!」
悲鳴のようなプリムの声が客間に響く。
幸い、防音対策が完璧なこの部屋において、叫んだ程度で声が漏れる心配はない。
「そう、それなら尚更、これから知らないといけないわね。だって、魔王陛下は貴女に望んでいるのかもしれないのだから」
「ご主人様が、プリムのことを……望んで……あ、ありえない、ありえません……」
「そんなことないわ。貴女はとっても魅力的な女の子だもの。もっと自分に、自信を持ちなさいな」
加速していく性知識の暴走に、プリムはいつの間にかプルリエルが隣に座っていることに全く気付かなかった。
彼女は興奮と動揺で震えるプリムを、優しく肩に手を回して抱き寄せる。
そうして、耳元でそっと囁いた。
「これを、貴女にプレゼントするわ」
「こ、これは……?」
目の前に差し出されたのは、一本のネックレス。
金の鎖に、ルビーのような赤い輝きの石がハート型に加工されている。そして、そのハートを二匹の蛇が絡み合うように巻き付いたデザイン。
「プリムヴェールはね、かの古の魔王ミア・エルロードも誘惑したの。この二匹の蛇は、二人の交わりを示しているわ」
どこまで彼女の説明が聞こえているか怪しいプリムは、ハートと蛇の意匠をジっと見つめていた。
「結局、魔王ミアは誘惑を振り切って逃げてしまったけれど……たとえ一時でも、二人が愛し合ったのは事実なの」
絡み合った二匹の蛇は、ただの金属で出来た無機質な姿。けれど今のプリムには、それだけで重なり合う男女を連想してしまう。
「淫魔女王の加護を授かったなら、魔王と結ばれることも夢ではないかもね————どうかしら、少しは興味を持っていただけた?」
甘い香りと共に、耳元で囁かれた淫魔の誘惑。
プリムは黙って、けれどしっかりと、差し出されたネックレスを手に取った。
温かい。とても暖かい。
真冬の寒さに凍え切った体を、湯に沈めて溶けていくような心地よさ。あるいは、早朝に目覚めたベッドの中で微睡んでいるような。
そんな感覚を、プリムは覚えた。
「ん……んんぅ……」
今にも意識を手放してしまいそうなほど曖昧な感覚の中で、プリムは重い瞼を開く。
ぼんやりした視界に映るのは、艶やかな肌色がいっぱい。
包まれている。とても大きく、とても柔らかな、生の感触。それは湯でも毛布でもなく、人肌であった。
プリムは、抱きしめられていた。
「あらあら、起きちゃったぁ?」
蕩ける様な甘い女の声音が耳に響く。声に揺れる鼓膜すら、ゾワゾワとした気持ちよさを感じる。
「だ、誰……」
上半身ごと包み込むほど巨大な双丘を押し退けて、プリムは声の主を見上げた。
それは、羊のように大きな巻角を生やした、桃色の長い髪の女だ。その目元はヴェールのように垂れ下がった前髪に隠れて判然としないが、絶世の美貌であることを確信させる。
だが、それにしても大きい。まるで巨人のような背丈ではないのか————
「いいのよ、まだ眠っていなさい。可愛い赤ちゃん」
否、自分が小さくなっているのだ。
規格品のホムンクルスよりはずっと小柄なボディではあるが、今の自分は明らかに乳幼児ほどにまで縮んでいる。
驚愕と困惑。一体、何が起こっているのかまるで理解できない。
どうにかしなくては。ここから脱せねば。そう思うものの、短い手足がモゾモゾと動くばかりで、思い通りに動かせない。
「安心して、お眠りなさい」
けれど、その声を聞き、大きな掌で頭を撫でられると、急速に危機感も不安感も消えてゆく。
代わりに湧き上がって来る、安心感と充足感。全てが満ち足りたように、心から安堵するような気持ちが胸中に広がって行く。
ああ、なんて大きくて、温かくて、柔らかい————正しく母に抱かれる赤子のように、プリムはただ自分を包み込む大きな胸に埋もれてゆく。
「私が貴女のママになってあげる」
ホムンクルスに母親はいない。
それを嘆く感情も持ち合わせていない。
だが、プリムはクロノに神を見た。彼がいなければ生まれてこなかった。彼の慈悲がなければ死んでいた。
奇跡と呼ぶより他はないその運命に、プリムは日々感謝の祈りを捧げている。
「私が、貴女のママになってあげる……」
けれど、今感じている気持ちは、熱烈な信仰心とはまた異なる、心地の良い感情だった。
プリムは理解する。
母親に抱かれる幼子の気持ちを。理屈ではなく、魂で。
「ま、ママぁ……」
「ええ、今から貴女は、私の子よ————さぁ、プリムヴェールの祝福をもって、求めなさい。ただ、愛のままに」
「————ハッ!?」
そうして、プリムは目覚めた。
いまだかつてない、強烈な寝覚めだ。全身が汗にまみれており、眠ったはずなのにかえって体力を消耗したような感覚。
けれど、異様なほどの活力が湧き上がってくるようで……それは、どうやら強烈な熱を感じる自分の下腹部からのようだった。
「こ、これは……」
飾り気のない、支給品の白い下着姿のプリムは、真っ白い自分のお腹、ちょうど臍の下あたりにクッキリと浮かび上がる紋章を目にした。
それは妖しい桃色に輝く、ハートの形。そこに絡みつく二匹の蛇を模したラインが走る。
「……『淫魔女王プリムヴェール』の淫紋」
知らないはずの知識が、脳裏に自然と浮かび上がった。
この紋章の正体。その効能。何故、これが自分の下腹部に刻み込まれたのか。
全て、理解できてしまった。
「……」
どうしよう。どうすべきか。
プリムの思考は停止した。
少なくとも、暗記している軍規に照らし合わせても、淫魔女王の加護を得た場合は直ちに報告すべし、などという規定は存在しない。
そうしてベッドの上で硬直したまましばらく、響き渡って来たのは朝六時を知らせる鐘の音であった。
リーンゴーンと首都アヴァロンに響く鐘の音を耳に、プリムはひとまず今日の職務を遂行するべく動き始める。
体を清め、メイド服を着用する頃には、下腹部の淫紋は消えていた。
何事もなかったと思い込むよう、努めて平静を保ち、プリムは寝室を出た。
「おっはようございまーす、プリムちゃん!」
「おはようございます、メイド長」
今日は朝から、ご機嫌なメイド長ヒツギがクロノの部屋を我が物顔で占領していた。
「むふふ、昨晩はお楽しみだったようですねっ!」
すでに主たるクロノも、一夜を共にした相手もおらず、部屋はもぬけの殻。後に残されたのは、乱れたベッドと、脱ぎ散らかされたガウンと下着だけである。
ベッドと床に散っているのは全て女性モノであり、クロノ自身のガウンはベッド脇にかけられており、下着に至っては畳んで置いてあるところに、それぞれの性格と昨晩の戦況が窺い知れた。
「ふむ、どうやらこれは、ご主人様も万全の体勢で迎え撃ったと見ます」
殺人現場を歩く名探偵が如く、じっくりと部屋の中を検分するヒツギ。主の事情を詳らかにしようとするとは、メイドとしてとんでもない無礼であるが、彼女の辞書に自重の二文字はないようだ。
「……」
そしてプリムは、自重しない上司に習って、止めることなくヒツギの後をついて回った。
こういう現場は、初めてではない。クロノが愛する女性と閨を共にしていることも重々承知している。
しかし、いつもなら天上の出来事と認識していた事柄が、今朝となっては急速にリアルなものに感じられた。
ああ、この部屋で、このベッドの上で、ほんの数時間前にご主人様は————
「おおっ、これは……ふむふむ、なるほど……フィオナ様も随分と善戦したようで。これは史上初、3分の大台に乗ったのではないでしょうか!」
「3分、ですか……」
「そうですとも。なにせご主人様は、かの淫魔女王さえ退けた『愛の女王』を授かってますからね。並みの女性ではとても太刀打ちできません。サキュバスであっても一突きで腰砕け間違いなし。流石はご主人様、夜も魔王様ですぅ!」
「ゴクリ……」
満面の笑みで下ネタトークをかますヒツギに、思わずプリムは生唾を飲みこんだ。
これも淫魔女王の加護を授かった影響なのか。いつもは興奮して暴走気味に喋るヒツギの下世話な話題には全く理解が及ばなかったものの、今は全ての意図が正確に読み取れる。
「ですので、決してフィオナ様が女性として弱々なワケではないのです。むしろフィオナ様は、淫魔の技を習得して挑んでいるだけあって、現状かなりのテクニシャンと言えるでしょう。この痕跡は、新技が炸裂したに違いありませぇん!」
うひょー、とどこまでも楽し気にベッドメイキングを始めるヒツギを、プリムは頭がクラクラしながら手伝った。
想像力豊かなヒツギの勝手なお喋りと、本物の情事の跡を目の当たりに、プリムの妄想が加速していく。
昨晩、ここにいたのがフィオナではなく、自分だったなら————
「洗濯、洗濯ぅー」
頭が真っ白になりつつあるプリムを他所に、謎の鼻歌を奏でながらヒツギは散乱した衣類を回収していく。
クロノの衣服は自らの手で直接。フィオナのは触手でつまんで。
「ううぅーん、ご主人様の香り! やっぱり服だけだと物足りなくなりますねっ!」
恥も外聞もなくクロノのガウンに顔を突っ込んだヒツギが、鼻息荒く欲望全開に叫ぶ。
今更、珍しくもないメイド長の平常運転である。プリムも、他のメイドも、誰も止めはしない。ホムンクルスのみで侍従を固めている弊害であった。
「あ、あの、メイド長……あまり、そういう真似は……」
しかし今日のプリムは、そんなヒツギの暴走が褒められた行為ではないという認識に至り、ついに制止の言葉が出た。
「むむっ、プリムちゃん」
クロノのガウンを羽織りながら、ヒツギはジト目でプリムを睨んだ。
非のある方が強気に出ている、最低の構図だった。
「安心するです。ちゃんとプリムちゃんにも分け前を弾むですからね!」
と、ヒツギはクロノのズボンをガボっとプリムの頭に被せた。
「ふわわっ!?」
甲高い悲鳴を上げつつも、プリムは被ったズボンを取り払う動きはしなかった。できなかったと言うべきか。
ちょうど頭から被ったため、股の部分がほぼ顔のど真ん中に。包み込まれたその匂いを吸ってしまえば、とても手放そうとは思えなかった。
「さぁ、もうちょっと一服したら、お掃除しましょうねー」
ガチャ、とその瞬間に扉が開かれた。
ノックも何もなく、不躾に部屋へと現れたのは、当然、その必要性がない人物。すなわち、この部屋の主、
「何やってんだ、お前ら……」
クロノは心底呆れた目で、ベッドの上でプリムにズボンを被せてご満悦のヒツギを見た。
「っ!?」
正しく心臓が口から飛び出そうな思いを抱いたのはプリムである。
主のズボンを被って嗅ぐなどという、途轍もない大失態。どころか、下手すれば性犯罪。
プリムは瞬間的に、死を覚悟した。
一方、ヒツギは硬直するプリムが被ったままのズボンの裾を持ちあげて、堂々と言い放つ。
「ヒュドラ」
「どこがヒュドラだ、二本首じゃねーか」
はぁあああ……と深い溜息を吐きながらも、下らない一発ネタへ律儀にツッコミをいれた優しいご主人様は、そのまま歩み寄ってプリムが被ったズボンを引っぺがした。
「まったく、あんまりプリムをいじめるなよ」
「いじめてないです。これは正当な可愛がりですぅ」
「それっていじめの類義語じゃん」
ピンッ! とヒツギの額を軽くデコピンしてお仕置きしつつ、クロノはズボンを自分で畳んで、ベッドの上へと置いた。
「今日のところは休みみたいなもんだけど、ちゃんと仕事はするんだぞ」
プリムの頭を撫でてから、クロノは忘れ物と思しき手帳とペンをテーブルの上から回収して、退室していった。
「きゅうー」
デコピンを受けてベッドに沈んだヒツギの隣で、プリムも同じようなうめき声を上げて、バッタリと倒れ込んだ。
下腹部の淫紋が、熱く疼いて仕方がなかった。
そうして、アヴァロン解放戦が終わり、パンデモニウムに戻ってから、プリムの愛機『ヘルハウンド』は改造を施され、専用機『ケルベロス』としてお披露目された。
「エーテルリアクターが強化できたことと、魔力回路もプリムが戦闘を積んで最適化されつつあること、っていうのがここまでスペックが上がった理由だと思うんだけど……」
「けど?」
「理論上より上昇値が上回ってるんだよね。もしかしてプリム、最近に加護を得たりしてない?」
「えっ、いや、そんな話は聞いたことないが……なぁ、プリム、神様から加護って授かったことあるのか?」
「ないです」
生まれて初めて、嘘をついた。
『淫魔女王プリムヴェール』の加護は、確かにプリムへ保有魔力の上昇という恩恵を与えている。
ただし、その魔力は淫紋へと溜め込まれたもの。
そしてその淫紋へ魔力を溜める方法は————とても、神に等しき主たるクロノには、語って聞かせられない。
「ごめんなさい、ご主人様。けれど、プリムはいつかきっと————」
そうして人知れず、プリムは加護と、愛と欲望を得たのであった。