第865話 アヴァロンの修羅場
「この裏切り者の泥棒トカゲが、死ね」
マリアベルに一撃喰らわせた時よりも冷たい殺意の籠った目で、ネルが拳を繰り出して来る。
本能的な危機感が反射的に体を動かす。
ベルの小さな体を抱いて、俺はデカいベッドを転がり緊急回避行動に移る。
「お、おい、どうしたんだネル、何をそんなに怒っているんだ……」
「クロノくん、退いてください、そのメスドラゴン殺せません」
「止せ、争いは何も生まない。憎しみの連鎖を断ち切り、平和的に話し合いで解決するのが大切とか何とかそんな感じで、一旦、落ち着いたらどうだ。ほら、そこに座ってお茶でも飲んでさぁ」
ネルの豹変ぶりに動転した俺は、ちょっと自分でも何言ってんのか分かんないけど、とりあえず頭に浮かぶ限りの宥める台詞を口走る。
「ふふん、ネルよ、嫉妬をするのは醜いぞ。まして、男の前でかような醜態を晒すなど」
「あ?」
「今、クロノの腕に抱かれているのが誰か、一目瞭然であろう。すまんなネル、もう妾と主様の間に割って入る隙など、なくなってしもうたわ」
何故そこで煽るような台詞を言う。
これが憎しみの連鎖……悲しき定め……いや待て、現実逃避している場合じゃあない。頑張れ、俺。俺はやれば出来る男だ。
「殺す」
「落ち着け、ネル。子供の言うことじゃないか。そう気にするな」
「250歳の大年増じゃないですかぁ! ドラゴンのくせに子供の皮を被って人の男に発情している卑しいメスなんです! 騙されないでクロノくん!!」
うん、いきなり説得の台詞を間違えてしまったな。
完全に火に油だよ。もうちょっと気の利いた内容考えろよ。やっぱダメな男なのか、俺は。
「ふふーん、幼い容姿に大人の色香を兼ね備えた妾の魅力に、主様はメロメロじゃぞ」
「なにがメロメロだよ古臭い言い方してんじゃねぇですババ臭い!」
「ばっ、ババ臭くなどないわっ! 妾はいつでも魅惑の芳香に包まれているに決まっておろう!」
「250年も引き籠ってカビ臭くならないワケないじゃないですか。完全に田舎の離宮に隠居したお婆様の匂いですよ」
「むぐぐ、おのれぇ、言わせておけばこの小娘が! 貴様なんぞ鶏小屋の臭いではないか!」
「と、鶏の臭いなんかしませんよ! 私の翼は天使の翼です! 聖なる存在ですから!」
「何が天使じゃ、ブレスで焼き払われたいか」
「ただの乗り物の分際で、さっさと竜舎に戻ってくださいよ」
「このぉ、言ってはならぬ事を言ったぞ貴様ぁ!」
「そっちこそとっくに一線超えてんですよ!」
あわわ、瞬く間にヒートアップして大炎上である。これもう俺が口を挟む余地どこにもないんだが? 決闘不可避なんだが?
いやダメだ、諦めるな。俺は絶望のどん底からでも這い上がれる、根性のある男のはずだ。
この程度の修羅場、リリィの時と比べれば……ああ、イヤだなぁ、また心臓捧げるくらいの覚悟決めなきゃならないのかぁ……
「二人とも、もうその辺にしておけ」
俺は意を決して、諭すように言いながら、いまだ膝の上に居座るベルの口を物理的に塞ぐことにした。
口先だけで止めるなんて無理に決まってるじゃん。とりあえず片方だけでも抑えとかないと。
「むが、むがぁー!」
明らかに不満げにベルが叫んでいるが、ここは無理を押してでも抑えておく。曲がりなりにも契約によって俺がご主人様扱いになっているので、力づくで振り払ってくることもない、はずだ。
「ネル、俺の部屋に来たのは、大事な用があるからだろう」
「はっ! そ、そう、ですね……大事な、とっても大事な、用があるというか、するというか……」
ストレートな問いかけに、明らかにネルは狼狽えた様子になった。
以前までの俺ならばいざ知らず。今やリリィにフィオナと二人もの恋人を抱える三千世界一の幸せ者である。
この時間に男の部屋を一人で訪れるその意味を察するくらいの、経験値は積んでいる。
「いや、ちゃんと分かってる。そんな恰好までされて来られたら、気づかないフリをするのも無理だからな」
「あの、これはですね……失礼のないように、と思って……うぅ、少し、はしたない恰好だったでしょうか……?」
頬を朱に染めて、実に恥じらいの籠った表情で、その身をくねらせる。
寸前まで殺し合い始めそうなくらい揉めていたくせに、今更そんな恥ずかしがられても————という正論を封じ込めるほどに、ネルの魅力が溢れんばかりに炸裂していた。
ここに来るまで羽織っていたガウンのような上着はすでに脱ぎ去り、その下にあるのは白地に見事な金糸の装飾が入った高級感溢れるネグリジェである。
白い翼に白い衣装は正に天使を連想させる出で立ちだが、大きく露出した肩と豊かな胸元、薄っすらと透けて見えるメリハリのあるボディラインの扇情効果が強烈だ。天使のような清楚さと同時に匂い立つような色香が溢れる。
完全に勝負服だ。
この恰好で部屋を訪れて、勘違いしない男はいないだろう。
「よく似合ってる。あまりにも魅力的だから、俺もちょっと緊張するな」
「えへへ、それなら嬉しいです……」
「ふがぁーっ!!」
歯の浮くような恥ずかしい誉め言葉に、ネルが蕩ける様な表情を浮かべる。そして暴れるベル。調子に乗るな小娘、とか叫んでいるのだろう。
さて、とりあえず何とかネルの方は大人しくなったし、ベルの方は黙らせることができている。ここらでようやく、落ち着いて話し合いのできる状態になった。なったということにする。
「ネル、まずは座ってくれ」
「はい」
シュバ! と音がする勢いで、ネルはベッドにいる俺の右隣にピッタリとくっつくように座り込んだ。
え、こっちに座んの? 俺の左手は、客間にあるソファの方を中途半端に指したまま、固まってしまった。
「ふふ、夢みたいです……ようやく、この時が……」
などとうっとり呟くネルの上気した顔がすぐ真横にある状態から、もう向こうのソファに座ろうよ、とは言えない。着席までの早業によって、完全にネルに先手を打たれてしまった。
いや、大丈夫だ、まだ巻き返せる。
「昨日から徹夜で忙しかったが、ようやく落ち着いて話ができる時間ができ————んぐっ」
問答無用のディープキスが俺を襲う。
お願いだから、話くらいは聞いてくれ。
しかしネルの方はもう言葉を交わすことさえ無粋とでも言わんばかりに、熱烈なキスの雨を降らせながら、そのまま俺の体を押し倒そうという力の流れを感じる。
「————いや待て、頼むからもう少し待ってくれ」
流されるがままになりそうなところを堪えて、俺はネルの両肩を掴んでやや強引に引き離す。
「ええい、主様から離れぬか! 人の頭の上でイチャつきおって!」
同時に、俺の拘束から解放されたベルが、ネルの大きな胸を容赦なく手で押し返す。小さな掌が、めちゃくちゃ胸の中にめり込んでいる。なんて目に毒な光景だ。
「やん!」
俺に肩を、ベルに胸をそれぞれ押されて、ネルは悩まし気な声を上げながら間合いを離される。
「ネル、気持ちは嬉しいが……こういうのは、ちょっと性急すぎる、と思うんだ」
「いえ、そんなことはありません。私は今夜、覚悟を決めて参りました。あとはベル様さえ失せていただければ」
「このぉ! 発情しとるのはどっちじゃ、スケベめが」
「ベルのことは、ただ戦いに協力してもらっただけじゃない。契約、というべき強い関係を結ぶことになってしまってな」
「要するに、使い魔でしょう?」
「この妾を、ただの使い魔風情と一緒にするでない」
「そうだな、野生のモンスターを調教するのとは違うだろう。ベルは、というか黒竜という種族は、古代に作られた兵器だからな」
ドラゴンは普通、人の姿になったりはしない。
別にドラゴンでなくても、モンスターがわざわざ人間に化けるようなことはないし、そういった変化の術を使うこともない。人を騙すために幻術を見せるのが精々であろう。それ以前に、人の言葉を使うこともないからこそ、モンスターでもある。
しかし、今まさに膝の上で可愛らしい黒髪幼女の姿を象っているように、ベルは明確に人間の姿へと変化する魔法を使っている。
これは純粋な生物としてのドラゴンではなく、人が扱う兵器として製造されたからこその機能である。
人が使うから、言葉を理解しなければならない。人と共にあるから、人の姿にもなれるようにしてある。ドラゴンにも人にもなる、その形態変化はどこまでも純粋に兵器として作った者の都合だ。自然の摂理、進化の果てに獲得した能力ではない。
「古代兵器、ですか……遺跡から目覚めた、と伝えられてはいましたが、改めてそうはっきり明言されると、複雑な気持ちになりますね」
「気にすることはない。たとえ作られた命であろうとも、妾の魂は気高き竜である」
「そうだ、生まれは人造の兵器だとしても、自分の意志がある限り、それは人だ。俺はベルのことを、ただの兵器扱いをするつもりはないし……ネルにも、これまでと変わらずに接して欲しいと思っている」
「はい、勿論です。ベル様は私にとって恩人であり、師でもありますから」
まぁ、今さっきまでアレだけ派手に言い争いをしたのだから、ネルが事実を知った程度で見方を変えるような心配は全くしていないが。
「でも今は邪魔ですよ。人として、空気を読んでくださいね」
「そっちこそ、主様との逢瀬を邪魔するでないわ」
「ベルは契約者が現れるのを、ずっと待っていたんだ。魔王の加護を持つ、なんて叶うはずのない条件付きの契約者をな」
長い間、待っていた。
あるいは、とっくに諦めてしまっていたかもしれない。
マリアベルの術式に拘束されて、やはり契約の使命を果たせぬまま命が尽きると、諦観と絶望の感情が、契約を果たした瞬間に流れ込んで来たことで俺にははっきりと実感できている。
だから、というワケではないかもしれないが、
「少しくらい、甘えさせてやりたいと思って」
「そら見たことか、主様は妾を選んだのじゃ!」
「むっ、そんなの子供のワガママみたいなものではないですか……後で幾らでも撫でてもらえばいいでしょう。今は、今夜は、私の方が優先です! その、つ、妻として!!」
「えっ、それはいきなり飛躍しすぎなのでは……?」
「大丈夫です、必ずや元気なお世継ぎを生んでみせますから!」
違う、そうじゃない。
あまりにもやる気に満ち溢れた発言に、若干引いてしまう。
いや、その、気持ちは嬉しいんだけど、時と場合を考えて欲しいというか……
「まったく、色欲で目を曇らせおって。こら、主様が困っておるだろう、もう少し立場を考えぬか」
「結婚した! 私はクロノくんと結婚したんです!!」
「将来的にはそうなるかもしれないが、今はまだしてない。だから今夜いきなりというのは————」
「愛してます。もう我慢できません。愛が止まらないのです、クロノくん」
「止まらんのは愛ではなく欲であろうが」
「枯れ果てたベル様には分かりませんよ、この気持ちはっ!」
「かっ、枯れてなどおらぬわぁ! 身よこの若々しい肉体を。ローゼンシリーズ最年少は伊達ではないぞ」
「若々しすぎて対象年齢外ですね。お子様はもう寝る時間ですから、早く寝床に戻ってくださいよ」
「貴様のような色情魔を残して、主様のお傍を離れられるワケはなかろう」
「いいえ、これは純粋な愛です。愛が溢れているだけです」
「これだから初恋拗らせた女は厄介なのじゃ」
「拗らせてないです、叶ってますから。契約とやらで男を縛る束縛女に、真っ当な恋愛は無理ということですね」
「なにおう!!」
あああ、また不毛な言い争いが始まってしまった。
逆にこれもう一晩中やってれば、これで今晩は凌げるのでは、なんて投げやり気味に考え始めたのだが、二人の争いは唐突に打ち切られることとなる。
バァン!! と勢いよく扉が開かれると、眩しいほどの輝きと共に、
「クロノ! ただいま!!」
リリィが現れた。
最も見慣れたエンシェントビロードのワンピースドレスに身を包んだ幼い姿は、見間違えようがない。
無邪気な笑顔には汗が浮かび、プラチナブロンドの長い髪は所々が跳ねている。よほど急いで、ここへ駆けつけてきたのだな、というのが一目で分かる。
「ああ……お、おかえり」
そんなリリィに、俺は息が詰まりそうになりながらも、そう答えた。
断じて浮気をした気はないのだが、完全に浮気現場を抑えられた男の心境である。心臓がキュってなる。おかしい、カオシックリムから分捕った、最強の魔獣の心臓なのに。
「……」
さて、こちらの様子を一瞥したリリィから、笑顔がすでに消えている件。
ゴクリ、と思わず緊張で唾を飲み込んでしまう。
チラっと横目で伺えば、ネルは先ほどまでの浮ついた表情は鳴りを潜め、ボスモンスターを相手にする時のような鋭い顔つきに変わっている。何なら、マリアベルに向けていた顔よりも気合が入っている。
「むっ、なんじゃあ、この童は」
一方、この場において全くリリィという存在を与り知らぬベルだけが、どこまでも呑気なことを言っていた。
ま、まずい……これはまずい、と分かり切っているのに、どう出るべきか決められない。
この状況を何と説明すればいいか悩んでいる内に、一歩、また一歩と無言のリリィが近づいて来る。
そして答えなど出ないまま、ついにリリィは俺達が腰かけているベッドまで辿り着いた。
下手に動けば死ぬ。そんな気がするほどの、途轍もない緊迫感に包まれる。
「のう、この妖精は、主様の知り合いか?」
「だぁ!」
パァン!!
渇いた音が木霊した。
それは、リリィがビンタをした音であった。
「っ!?」
いきなり初対面で平手打ちを喰らったベルが、声にもならずに驚愕の表情で目を剝く。
あまりにも想定外の行動すぎて、柔らかい頬にリリィの掌がクリーンヒットしていた。
「なっ、なにを!?」
「やぁー!!」
ドパァン!!
驚くベルを他所に、リリィは次なる攻撃をすでに放っていた。
「きゃあっ————なにするんですかぁ、いきなり!!」
さっきよりも重めに響いた音は、ネルの巨乳を思いっきりぶっ叩いた打撃音であった。
リリィの掌で横殴りされた大きな胸は、衝撃のままにブルーンと激しく揺れたせいで、今にもネグリジェから零れ落ちそうになっていた。途轍もない破壊力だ。
「お、おい、リリィ」
「むぅー! 離れて! クロノから離れてよぉ!!」
正に子供の癇癪そのものな叫び声を上げて、リリィが俺に飛び掛かって来た。
ピョーンと跳ねた勢いのまま、俺の頭を丸ごと抱えるように、正面から顔面に張り付かれる。
勢いのまま、俺はベッドへと倒れ込む。
「ううぅー、わぁあああああ!」
そして、がっちりと俺の頭を抱き込んだまま、リリィが泣き出してしまった。
幼児の見た目の通りの、それはもう見事な泣きっぷりである。
流石にこの号泣には、リリィを知るネルも、知らないけどいきなりビンタかまされたベルも、何か声を上げることも出来ずに唖然とした様子で眺めてしまっていた。
「リリィ……ごめんな」
「なぁんでぇ! リリィ、頑張ったのにぃ……ううぅええぇ……」
恐らく、今のリリィは大人の意識を戻すことさえ出来ないほど消耗しているのだろう。
こんな修羅場確定な場面に出くわして、ただただ子供のまま泣き喚くだけなど、普段のリリィがするはずがない。
そこまで力を失ってしまった理由は、今この場にリリィがいることが示している。
王城を制圧し、首都解放が成されたのは昨日の今日である。その情報がテレパシー通信を用いて、ミリアルド王と共にルーン艦隊に同乗してセレーネ沖にいるリリィにもすぐ届けられた。
戦いのケリがついた、と判明したその瞬間に、リリィは飛び出したのだろう。文字通り、変身時間を全消費して、空を飛んで首都まで最短最速でやって来た。
この後の対応を考えれば、一刻も早くリリィが合流するのは大事なことだが、一日二日は猶予がある。だから、純粋にリリィは俺に早く会うためだけに、飛んで来たのだと容易に想像できる。
「ごめん、リリィ。俺が迎えに行けば良かったな」
「ううぅー、寂しかったぁ! 寂しかったのぉー!!」
「そうだな、寂しかったよな。ごめんな、無理をさせてしまって」
「クロノぉ……ぴゃあああああああああああああ!!」
言葉にならないほどにわんわんと泣き続けるリリィを、俺はひたすら謝り、宥め、撫でるより他はない。
「二人とも、すまないが、今日のところはこれで……」
「はぁ、致し方あるまい。泣く子には勝てぬからのう」
「もう、ずるいですよリリィさん、こんな泣き落としまで使うなんて……」
不満気な表情ではあるが、幾ら何でもここまでムードも雰囲気もない状態になってしまえば、諦めも着くと言うものだろう。
ネルとベルは、姉妹のように仲良く連れだって退室していった。
本当に申し訳ない……
「んうぅ……クロノ……」
「よしよし」
散々に泣き喚いて、すっかり疲れ切ったのだろう。元より、セレーネからの長距離飛行で消耗もしていたのだ。リリィが泣き疲れたように、そのままベッドで眠りについたのは当然の結果である。
明日の朝、目覚めたらまずは目一杯に褒めてやらないとな。
そうして、リリィを横に俺もそのままベッドで眠り————
「ああ、リリィさん、戻ったのですね。無理して飛んでくるとは、ご苦労様です」
「フィオナ!?」
うつらうつら、としていたところに降って来た彼女の声に、目を開く。
そこには、ベッド脇に腰かけて、タオル一枚きりを巻いたほぼ全裸のフィオナの姿が。
「ようやく、静かになりましたね」
「ま、まさかフィオナ、このタイミングを」
「待っていましたよ。私も、今夜は愛に飢えているので……ちゃんと満たしてくださいよ、クロノさん」
獲物を狙う猛獣のようにギラリと黄金の瞳を輝かせるフィオナが、静かにベッドへと潜り込んでくる。
「ああ、好きにしてくれ……」
「はい、好きにします」
すっかり疲れ果ててしまった俺は、抵抗せずに大人しく食べられることにした。
これ以上、どうしろってんだよ……