第859話 大天使降臨(2)
「とうとう天使まで召喚しやがったのか……」
それは、巨大な天使としか表現できない存在だ。
彫刻像のような白一色。髪も、肌も、纏う衣服も、そして大きく広がる翼も。全てが淡く輝く白に染まっている。
石膏のように無機物的な質感だが、頭や腕が僅かながらも動いている。巨大な翼がゆっくりと羽ばたく度に、アヴァロン中に白い羽根を舞い散らせていた。
天使は少女の姿をしている。華奢な体に、僅かに起伏を描くボディライン。それをゆったりした羽衣のような衣装がふわりと纏われている。長い髪も、纏う衣服も、重力を無視するように宙に漂う。
これで美術館か庭先にでも置いてあるのなら素直に目を引く美しさだが、この巨大なサイズはひたすらに威圧感しかない。
敬虔な十字教徒なら天使降臨と涙を流してありがたがるのだろうか。俺には姿だけ天使に似せただけの化け物だとしか思えないがな。
左右に広げた翼は確実に三百メートルを超えている。身長も恐らくはそれくらいになるのだろう。
その全長を目測できないのは、天使の体は上半分しか出ていないからだ。
闇夜を照らし出す眩い輝きの源は、煉獄を脱した時のような空間の亀裂である。アヴァロンの夜空には、巨大な亀裂が縦横に走り、そこから燦然と輝く白光と共に天使の上半身が覗く。
逆さまの体勢で天使は現れている。
亀裂から腰元まで出でた奴が、ゆっくりと首をもたげれば、見上げる俺達と、見下す天使で、ついに視線が交差する。
見開かれた天使の目に瞳はなく、ただ無機質な白目があるだけ。何も映すことのない目で大地を睥睨しながら、天使は口を開く。
ォオオァアアアアアアアアアアアアアアア————
耳障りな甲高い絶叫を天使が上げる。
その巨大さ、その威容、轟く叫びに多くの者達が思わず硬直していた。
それも仕方がないだろう。このファンタジー世界にあってもなお、突然あんなのが出現するなんてのは常識の範囲外だ。いきなり巨大なドラゴンが飛来してくる方がまだ現実的である。
だからこそ、まずい。非常にまずい。
あの天使が見せかけではなく、姿に見合った力を振るえば、士気は崩壊。反乱軍は総崩れとなる。空を飛べるクリスの竜騎士だけに任せるには、アレは流石に荷が重すぎる。
「全軍、屋内へ一時的に退避しろ! アイツが何をぶっ放して来るかわからん!!」
総大将の俺が真っ先に指示を出さなければ、軍は止まってしまう。特に、こんなイレギュラーな状況では。
唯一、幸いなことは霊獣達との戦いは終わっていることだ。
全て倒し切ったというよりも、マリアベルが限界を迎えたせいで召喚した奴らが消えたのだろう。これで奴らが暴れ回っている最中だったら、退くに退けず泥沼の乱戦をする羽目になっただろう。
「ネネカ!」
「ちゃんと伝えたわよー!」
早くも最寄りの屋敷の玄関先に飛び込んでいる妖精ネネカが答える。こういうとこ、ちゃっかりしてるんだよな、この子。
ともかく、アヴァロン王城を包囲するように反乱軍は展開している。俺の目が届かない位置にも大勢の味方がいるのだ。ひとまず屋内退避くらいは通達しておかないと、無駄な犠牲を出すだけだ。
天使が高度数百メートルの上空にいる以上、槍を持った歩兵など幾らいても役には立たない。
この状況を打開するには、要するにあの天使を倒せる可能性があるのは俺達だけ。やはり、最後の最後は自分で頑張らねばならないわけだ。
「クロノさん、どうするつもりですか」
「まずはマリアベルを狙う」
少なくとも、あの縮尺を間違えたようなバカデカい天使を一刀両断するよりかは、現実的な目標だろう。
天使は巨大な魔法陣ではなく、空間の亀裂を割って現れているが、やはりコイツを呼び出す術者がマリアベルなのは間違いないはずだ。召喚術の特化能力を持つマリアベルだからこそ、霊獣を越える気配を放つ巨大天使の召喚を可能としたのだろう。
誰でも偽杯一個だけで、ポンとアイツをお手軽に呼び出せるとは考えたくない。
「届くんですか?」
「『嵐の魔王』でミリアのブースター全開にすれば、多分」
とはいえ、垂直に飛んでどこまでの高度に達せられるかなんて、試したことはない。『嵐の魔王』はあくまで高速移動の強化技であって、空を飛ぶ能力ではないのだから。
「『聖堂結界』は破れますか」
「とりあえず『虚砲』をぶち込んでみる。フィオナはバックアップを頼む。サリエルに飛んで運んでもらう」
「スパーダでやった爆撃ですか。確かに、私の間合いに届かせるのはそれが一番確実でしょう」
「行けるか、サリエル」
「はい、マスター。ペガサスは近くに待機させてあるので、すぐにでも飛べます」
サリエルの愛馬である天馬のシロだが、流石に神滅領域を、馬まで連れて通るのは難しいので置いて来た。俺のメリーも泣く泣く置いて来たので、致し方ない。
なので、代わりのペガサスを現地で確保しておいた。いくらペガサスが馬の何倍もする高級品だとしても、一頭くらい手に入れるのは難しくない。何人ものお貴族様を味方につけてるんだからな。
ペガサスを駆ってサリエルが飛ぶ必要もあるかもしれない、と念のために用意はしておいたが……本当に出番が来るとはな。何でも準備しておくもんだ。
「クリスの竜騎士部隊は、フィオナとサリエルが飛んだら掩護してくれ。それまでは天使に仕掛けるんじゃない」
「オッケーだって」
軽い感じでネネカがテレパシーで通達。やはりこういう時、すぐ連絡できるのは本当に便利だよな。
「さて、ヤバい気配がどんどん膨れ上がってるから、さっさと仕掛けるとしよう」
改めて空を見上げれば、祈りを捧げるように両手を組んだ格好となった天使がいる。見開かれた白目は、変わらず地上の俺達をぼんやり眺めているように感じた。
降りしきる白い羽根の中、奴から発せられる白色魔力の気配が加速度的に増していっているのを感じる。その圧力は、恐らく第六感の鋭くない一般の兵士でも実感するほどだろう。
次の瞬間には、奴からリリィの『星墜』みたいな光の大魔法がバンバン飛んできてもおかしくない気配である。アイツが本格的に暴れ始めれば、いよいよ手が付けられなくなる。
ちくしょう、天空戦艦シャングリラがあれば真っ向から主砲をぶちかましてやれるのだが。
せめてリリィがいてくれれば、『妖精合体』で空中戦を挑むことができた……けれど、今はないものねだりをしても、仕方がない。
覚悟を決めて、行くとしよう。
セリスに地上部隊の退避を任せ、俺は手近な場所で最も高さのある建物を目指す。
立ち並ぶ屋敷の屋根を駆け抜け、何の施設かは知らないが、大きな神殿のような建物に飛び移り、そこに併設されている尖塔の壁を垂直に走って登る。
塔の高さは50メートルもない。天辺に立っても、天使と共にマリアベルが浮かぶ高さまではまだまだ遠い。本当に届くのか……これ飛距離足りなくて途中で落ちたら超恥ずかしいぞ……
「頼むぞ、ミリア」
「我ニ任セヨ――高速機動形態・移行」
コォオオオ、と音を立てて推進力を『暴君の鎧』がチャージする一方で、俺は『虚砲』の発動準備を始める。
デウス神像相手に、訓練をしてきて良かった。あれをやってなかったら、加護と並行して撃つこともままならなかったしな。
尖塔の天辺で、俺は数十秒もの長きに渡って全ての発動準備を整え終わる。
サリエルの方も、ペガサスに跨り準備は完了した頃だろう。
「よし、行くぞ。飛べよっ————『嵐の魔王』っ!」
塔の屋根を吹き飛ばす轟音と衝撃。超重量の『暴君の鎧』を高速で上空に飛ばすに足る莫大な推進力が爆ぜる。
第五の加護『嵐の魔王』は破格の速度強化を与えてくれる。それは直進だろうか垂直だろうが、変わらぬ超高速で俺の体を運ぶ。
瞬き一つする間もなく、俺はアヴァロン上空に飛び上がる。高度はどれほどだろう。200か、300か、あるいは500メートルまで至ったのか。
加護とブースターを全力全開で吹かせて一世一代の大ジャンプを決めたので、動体視力を振り切るほどの速度が出た。お陰で、距離感を即座に把握できない。
白い輝きに照らされる夜空の上へ、急に放り出されたような感覚————だが、俺の肝は一瞬にして冷えた。
「————やべぇ、届いてねぇ!?」
どれだけ飛んだかは分からない。けれど、マリアベルまで届かなかったのは一目瞭然だった。
目測で50メートルほど、だろうか。
間近に迫った天使がデカすぎるせいで、距離感が狂う。けれど、間違いなく普通の人間サイズであるマリアベルの姿から、足りない距離は推測できた。
急募、ここから届かせる方法。
アホな文言が脳裏を過る。俺だって真面目に考えてるんだ!
だがしかし、発動を待機させている『虚砲』が重い。ここからさらに飛び上がるために、何かしらの黒魔法を行使しようとしても、かなりの制約がかかる。
『暴君の鎧』は今も全開でブースターを噴き続けているが、すでに飛び上がった分の勢いを失い、辛うじて滞空を維持する程度になっている。あと数秒もしない内に、重力の軛に囚われ真っ逆さまに落ちてゆくのは避けられない。
くそ、マジでどうする! 全軍の前で派手に恥を晒すしかないのかぁ!?
「ご主人様の名誉は、このヒツギがお守りします! 行っけぇええええええええええええ!!」
まさか本当に、ここから届かせる方法が応募されるとは。
ヒツギの気合の入った叫びと共に、『暴君の鎧』の各所から漆黒の鎖がジャラジャラと射出される。
そうか、ここまで来れば『魔手』を伸ばせば届く。行使もヒツギに任せれば、俺も『虚砲』の維持に集中できる。
「よくやったヒツギ!」
「あっ、やっぱちょっと届かないかもぉ」
「もうちょっと頑張れよ!!」
「ふぉおおおおおおおおおおおお!!」
夜空を真っ直ぐ駆け抜ける黒い鎖は、ついに灯のように輝く『聖堂結界』に包まれたマリアベルへと届く。
あの結界の特性はよく覚えている。ただ刃を斬り付ける、魔法を撃ち込む、だけでは無為にすり抜けていくだけ。鞭のような勢いで鎖をぶつければ、何の手ごたえもなく空を切るだけだろう。
だが、攻撃速度を一定以下にまで落とせば————
「よし、かかった!」
キューブ状に展開されている結界にグルグルと巻き付く鎖。ゆっくりと触れれば、金属のように硬質な手ごたえを形成するので、鎖を網のようにかけて掴むことも可能だ。
「ヒツギやりました! ご主人様、このご褒美は————」
「後でたっぷりくれてやる! 全力で巻き上げろっ!!」
「行きますよっ、突撃ぃー!」
能天気なヒツギの叫び声と共に、結界を掴んだ鎖がギリギリと巻き上げられていく。
果たして『聖堂結界』が如何なる力で宙を浮いているのかは不明だが、重装備の俺がぶら下がってもビクともしない以上、その場にがっちり固定されているのは確かなようだ。
残りの距離を登り詰めるためのリフトはヒツギに任せ、俺は左手に『虚砲』を込め、右手に『首断』を握る。この勢いのまま突っ込んで、至近距離で武技まで叩き込んでやる。
結界の中、揺り籠で眠る赤子のように体を丸めて目を閉じるマリアベルだけを捉え、俺は『虚砲』の発射を待つ。
そして、ついに間合いを詰め切り必殺の黒魔法を解放しようとした寸前だ————天使が動いた。
いや、正確には、奴はただ見ただけ。
けれど、瞳のない白目で、天使は確かに俺を見た。
「っ!?」
明確に俺へ意識を向けたことに危機感を覚えた、というよりも、完全に直感に従ってのことだった。
俺は左手を天使に向け、『虚砲』を放っ————
キァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!
途轍もない金切り声を天使が上げる。
至近距離で喰らった耳障りな咆哮に全身がビリビリと震えるが、気にするべきはそんな音圧ではない。
天使が俺を見ていた。その両目、だけではない。
刹那、開かれたのは額。
最初からそこに瞼があったかのように、額のど真ん中がパチリと左右に開く。そこから覗くのは、ギョロりとした目玉だ。
不気味なほどに輝く虹色の光彩をした瞳を持つ、大きな目。
額に開かれた第三の目が俺を見つめる。目が合う。
ああ、やはりコイツは、天使の姿を象っただけのおぞましい怪物なのだと、俺は理解した。
「————『鋼の魔王』っ!!」
第二の加護を発動し、右手の『首断』を盾として構えるのが、その瞬間に俺ができた全てであった。
天使が見開く第三の目から、眩い、あまりにも眩しい閃光が発せられ、俺の視界は白一色に塗りつぶされてゆき————
「……死ぬかと思った」
「バイタル正常。システム・チェック————緊急冷却作動中」
ミリアのシステムボイスが、俺も鎧も、どちらも無事なことを保証してくれた。
「くそ、どうなった」
一瞬、意識が飛んでたことを自覚する。
そして、その間にどうやら俺は地上へと戻って来たらしい。
ここは恐らく……アヴァロン王城の庭か。周囲一帯に広がる緑から、どっかの森に落ちたのかと思ったが、よく見れば綺麗な芝生に、明らかに人の手が入って整えられた木々ばかり。
背の高い木が立ち並ぶ林の向こう側に、辛うじて王城の一角も見えた。
あまり遠くまで吹っ飛ばされなかったのは、不幸中の幸いか。
そして背中いっぱいに広がる大地の感触が、この上ない安心感を与えてくれる。やっぱ人って空飛ぶもんじゃないわ。
それ以前に、かなり強力な攻撃を天使から喰らったのは間違いない。『鋼の魔王』と『暴君の鎧』があるから、この程度で耐えられている。
『首断』も盾としてかなり強烈な直撃を喰らったようだ。刀身が半ばまで赤熱化している。普通の剣ならとっくに溶け落ちているな。
これは、やはり強烈な光魔法を受けたのだと思われる。凄まじい輝きは、超極太のビームのように思える。
全身からシュゥウウウ……という音と共に白煙が濛々と吹き上がる。『暴君の鎧』の耐熱限界こそ越えなかったが、かなり熱せられてしまったようだ。もう少しビームの直撃が続けば、暗黒物質の装甲でも融解しかねないな。
凄まじい威力。やはり見掛け倒しではなかったということだ。
「出力低下。戦闘行動継続、非推奨」
「五体満足で動けるなら、それでいい」
警告音を発するミリアだが、このまま黙って地面に寝転がってお休みしてはいられない。
鎧に籠った蒸し焼きになりそうな高熱を感じながら、軋んだ体に活を入れて起き上がる。
「ちくしょう、いよいよ本格的に暴れ始めやがった」
再び見上げた空には、更なる輝きを放つ天使が君臨している。
地上を見下ろす天使の額、あの第三の目がパっと円環状の白光を散らすと、幾筋もの閃光が走る。その先で起るのは、大きな爆発。
弾ける輝きと、紅蓮の炎が夜空を焼く。
奴がどこを狙っているのかは分からないが、アヴァロンの街中を無差別に撃っているように見えた。あれでは俺の反乱軍どころか、十字教信者も巻き添えだろう。
こんな大都市で拡散ビームを撒き散らすとか何考えてんだ。マリアベルの眠ったような様子からして、天使を呼び出すだけで制御できているワケではないのかもな。
手綱を握れない怪物が解き放たれたも同然だが、さらに悪い事に、どうやら天使は新たに手下を召喚しているようだった。
奴の周囲にはマリアベルが使っていたのと同じような円形の魔法陣が幾つも展開されてゆき、そこから翼を生やした天使の騎士が現れている。アレは『天空庭園の守護騎士団』だったか。
次々と魔法陣から出て来る翼の騎士は、天使を守るように隊列を組んで並ぶ者と、地上に向かって降下していく者とに分かれている。耳をすませば、そこかしこで奴らとの戦闘が始まっている様子が聞き取れた。
今はまだ騎士の数はそれほどでもないが、このまま無制限に増え続ければまずい。真の意味で反乱軍が全滅しかねない。あるいは、奴らはもう首都にいる者を全員殺し尽くすまで止まらないかもしれないのだ。
「くそっ、冗談じゃねぇ……早く奴を止めなければ」
しかし、再び同じ方法で飛び掛かったところで、どうにかなるとも思えない。アレに対抗するには、本当に天空戦艦シャングリラを出してこなければならないだろう。
敵の大元が空にある以上、こちらもまた空を飛べなければ、戦いの土俵にすら立てないのだ。
現有戦力での攻略法などまるで思いつかない。だが、すぐにでも戻らなければ。戦うにしろ、ここで退くにしろ、決めるのは俺なのだから。
「————待て」
小さな、けれどはっきりと耳に届いた静止の言葉。
思わず、足を止めて振り返る。
「待ってくれ、そこな者。誰かは知らぬし、誰でもよい。だが、どうか妾の最後の願い、聞き届けてはくれまいか」
何故、今の今まで気づかなかったのか。心底そう思うほど、この上なく存在感を発揮している。
振り返った俺の視線の先にいるのは、ドラゴン。
漆黒の巨躯を持つ、黒い竜がそこにいた。
「頼む。妾を、殺してくれ……」
2022年1月7日
新年あけましておめでとうございます。今年も『黒の魔王』をよろしくお願いいたします!