第835話 対アヴァロン戦略(1)
「————ふぅ」
首を失ったデウス神像の巨躯がドシーンとけたたましい音を立てて倒れ込んでから、俺は深く息を吐いた。
「まだまだ、慣れないもんだな……」
スタミナには自信のある俺でも息が上がり、さらには魔力枯渇の初期症状による倦怠感に全身が包まれている。
けれど、俺が溜息交じりに呟いてしまうのは、石化を喰らったかのように灰色と化した右手があるからだ。
最後の加護『光の魔王』。大量の黒色魔力を消費して、威力を跳ね上げる破格の効果を持つ能力。だがその反動として、使った魔法や技に応じて俺の肉体はこのように石化してしまう。
使えばその威力は絶大。けれど使った後は石化によって戦闘力は激減、最悪、そのまま戦闘不能となる、諸刃の刃としても極端な性能だと言えよう。
それでも現状で俺が使徒を殺し切る手段としては、最も可能性のある加護だと思っている。
そこで『光の魔王』の習熟に努めているのだが……いや、最初の頃に比べれば、明らかに反動を抑えられるようになってきてはいる。進歩そのものは見られるのだから、十分な成果と言うべきか。
デウス神像を倒せるだけの威力を解放しても、今では石化は指先から手首をやや超えた辺りにまで、反動は減った。最初は腕丸ごと石化してからな。
しかし時間は有限だ。
俺が魔王を宣言してから、あっという間に二か月が過ぎ去っていた。
五月にあたる遠雷の月を、この修行の他にも、帝国軍の編成と訓練、同盟国との会談など、魔王としての仕事にも追われて慌ただしく過ごし、今日は新陽の月1日となる。
あとどれだけの間、こんなに集中して鍛錬をする期間をとれるか。灰色の手を眺めると、焦りの感情がジワジワと胸に湧き上がってくる。
「お疲れ様でーっす、ご主人様ぁー!」
そんな俺の心中など全く気にも留めず、元気に能天気な声をボス部屋いっぱいに響かせて、ヒツギが飛び込んできては、勝手に抱き着いてくる。
「おい、よせ、汗だくだぞ今は」
「汗にまみれてお疲れのご主人様だからこそ、それを癒すのがメイドの務め! ヒツギは今、使命を果たしているのです!」
子供みたいに勝手に抱っこ状態になってんのが? 首元にしがみついてぶら下がるだけのヒツギからは、俺に対して何ら癒しの効果はない。
というか、ヒツギがこうして独立して動いているように、今の俺は彼女を装備していない。さらに言えば、『暴君の鎧』も着てないし、『首断』を始めとした呪いの武器さえも一つも持たずにいる。
ただ丈夫なだけのズボン一枚を履き、上半身は裸の半裸スタイルが今の俺である。いや、最初はシャツも着てたんだけど、デウス神像との戦闘によって焼失した。
そんな半裸状態の俺に、ヒツギは何が嬉しいのか抱き着いているわけで。
「ご主人様、今、御手を治療いたします」
「ああ、いつも悪いなプリム。頼んだ」
俺にぶら下がってご満悦のヒツギとは対照的に、メイド服姿のプリムがフワフワのタオルとエルポーションを手に駆けつけて来る。
左手で受け取ったタオルで顔を拭くと、ヒツギがちょっかいをかけてきて邪魔くさい。メイド長さぁ、真面目に俺の治癒にあたる後輩を見習ったらどうなんだい。
「……」
プリムは俺の石化した右手に、真剣そのものな表情でエルポーションをかけている。
店売りの品としては最高級品にあたるエルポーションだが、それだけで即座に癒えるほど石化の反動は甘くない。これを即座に治そうと思えば、相当量の黒化をかけるのと併用して『妖精の霊薬』でもつぎ込まなければならない。つまり、すぐ治せるのはリリィだけだ。
逆に言えば時間をかければ自前で完治できるので、お忙しい女王陛下にして我らが帝国軍の元帥閣下に、右手一つを治すためだけにご足労願うわけにはいかないのだ。
「ご主人様」
「ああ、ありがとな。一度戻ろう」
ポーションをかけた後、あらかじめ黒化させておいた、治癒魔法を付与してある特注の包帯を丁寧に巻いて石化の処置は完了だ。
体力、魔力も底を尽きかけたキリのいいところで、訓練を切り上げる。デウス神像も、すぐにリポップさせられるワケではないし。
プリムは「はい」と頷き、黒い包帯に包まれた俺の右手を小さな両手で握り、大切な宝物みたいに胸に抱え込む。その大きな胸に。
石化している間は感触も断たれているのは幸い、と思う程度にまずい体勢ですよと感じてはいるものの……訓練初期の頃に黙って振り解いたらこの世の終わりみたいな顔をしながらポロポロ涙をこぼし始めたので、俺はもう黙って任せるがままにすることにした。
ホムンクルスって、涙は流れても泣き声を上げないものだから、なんかより悲壮感が。
ともかく、右手はプリムに、左手はヒツギに引っ張られながら、俺は元祖ラスボス部屋である宝物庫前の大広間から司令室のラウンジへと戻るのだった。
「————クロノ、お疲れ様」
「リリィ」
自動ドアが開いた先のラウンジでは、元帥に相応しい厳めしくも可愛らしさを忘れない漆黒の軍服ワンピとロングコートを着た幼女リリィが待っていた。
「訓練の成果は、まぁまぁといったところかしら?」
「ああ、多少の成長は実感できるが、これぞという成果はまだ、な……」
ついさっきのデウス神像との戦いを見ていたのだろう。
リリィの実に的を射た問いかけに、俺は苦笑しながらそう答える。彼女に嘘は吐けないからな。
「そんなに焦らないで。私は、クロノが無理をしちゃう方が心配なの」
「反動がデカいってだけで、無理ってほどのことはしてないさ」
「こんな、機動実験と同じような真似をしていても?」
まったく、本当に嘘はつけないよな。
「あの地獄は二度と御免だと思っていたが……結局、強くなろうと思えば似たような真似をする羽目になるってのは、皮肉なもんだよな」
特に、こんな装備ナシの裸一貫でデカい奴に挑んだ時は、嫌でもあの頃を思い出してしまう。
けれど、それが何だと言うのだ。
このエルロード帝国は洗脳によって成り立っていると言っていい。おぞましい悪魔の所業、と心から憎悪していた奴らと同じことを、今の俺はやっている。トラウマがあるんだ、と傷ついている場合じゃあないだろう。
人に痛みを強いるならば、自分はそれ以上の痛みを背負わなければ……そうでなければ、あまりにも割に合わない。道理も通らない。
「けどリリィ、こんなのは今更、気にするほどのことでもない。これだけ環境が整っているところで鍛錬に打ち込めるんだから、むしろ贅沢ってものだろう」
命の危険はないし、自分で難易度調整はできるし、あと可愛いメイドさんが治療もしてくれるしな。
「クロノがそう望むなら————ところで、いつまでくっついているつもり?」
「ぴゃー!」
リリィが『妖精結界』をチカチカ強めに明滅させると、俺の左手にしがみつくようにしていたヒツギが悲鳴を上げた。
「まったく、クロノは怪我しているというのに、自分だけじゃれついて遊んでいちゃあダメでしょ。メッ!」
「ひゃぁー、奥様、お許しをーっ!」
とか叫びながら、ヒツギはさっさと俺の手を放って逃げ出した。なにやってんだアイツは。
「もう、あれじゃあペットの犬と変わらないじゃない」
「ま、まぁ、そう言ってやるなよ」
なんだかんだで、俺もヒツギの無邪気なところに癒されていることに違いはない。
いやでも、そうなるとマジでペットを愛でているのと変わらないってことに……
「プリム」
「わ、私は、ご主人様の治療を————」
「私が治すから、もう下がっていいわよ。ご苦労様」
ヒツギに対する厳しい顔から一転、にこやかにプリムへそう笑いかけるリリィだが、発せられる圧力が増しているのは俺の気のせいではないだろう。
事実、プリムの胸に抱かれていたはずの俺の右手は、すでにリリィへと取られている。
プリムよりもさらに小さな幼女リリィの手は、けれど凄まじい熱さを感じさせてくれる。そう、感覚が断たれているはずの右手に、早くも熱さが戻って来たのだ。
綺麗に、丁寧に巻かれたばかりの黒い包帯も、ひとりでにハラりと解けて床に落ちる。次いで、石化したような灰色の表面がパリパリとヒビが入り、小さな欠片が零れ始めた。
この感じなら、あと5分と経たずに右手は回復するだろう。
「プリム、あとはリリィに任せる。今日はもう、休んでいていいぞ」
「……はい、失礼いたします。ご主人様、女王陛下」
深々と一礼してから、プリムはヒツギが逃げ去って行ったのを追うように、ラウンジを出て行った。
「すまん、リリィ」
そして、プリムにもすまないことをした。
「どうしてクロノが謝るの?」
「それは……その、少し嫉妬させてしまったかと」
ヒツギが俺にくっついているのは、まぁいい。幼女リリィとどっこいくらいの幼児性全開な彼女は、そういう奴なのだと扱われている。
だが、プリムにもちょっとくっつき過ぎてしまったことは、
「ううん、いいんだよ。クロノが望むなら、求めるなら、プリムを好きにしてくれていいの。アレが気に入ったなら同じ娘を何十体でも、何百体でも造ってあげる」
「いや、そんなつもりはないからな」
「ふふ、分かってるって。でも、あの子に嫉妬しちゃったのは本当。だって、今は私よりクロノと一緒にいる時間が長いんだもん。石化だって、私が治してあげたいのに!」
「そうか、そうだよな」
可愛らしく膨れてみせるリリィの頬を、俺は指先でつついて笑った。
「でも、そこはちょっと我慢してくれないと。仕事、だからな」
「ああ、嫌だわ、大人になるって」
「本当にな」
俺だって、もっと呑気に『エレメントマスター』で冒険者生活をしていたかったさ。けれど今は、抱えたものが大きすぎる。どれだけの大きさなのか、自分でも計り知れないほどにな。
そういえば俺、まだ未成年なのでは? 18歳だからもう成人、ってこと?
「それより、こんな時間にどうしたんだ。ただ俺の様子を見に来たワケじゃないんだろ」
「ええ、ここからは真面目な仕事のお話————ついに十字軍が動き出したわ」
「スパーダのアイか」
「いいえ、アヴァロンのネロの方よ」
まず、司令室に『エレメントマスター』のメンバーだけを集めた。
俺は魔王でリリィは元帥。あまり適当なことを人前で言うわけにはいかないので、こういう時は俺達だけで集まって話し合っておきたい。ある程度の方針が固まった上で、指示を出すことにするので、今回はウィルやジョセフ、ゼノンガルトは同席していない。
やや薄暗い部屋の中、巨大なホロモニターをリリィが起動して、口火を切った。
「『ネオ・アヴァロン』の聖王ネロが、大遠征と称して、正式にパンデモニウムに向けて軍を発したわ」
リリィの説明と共に、モニターには現地に潜ませ続けていたホムンクルスが撮影した映像が映し出される。
大通りを埋め尽くす大勢の人々が、白い十字の旗を振ってアヴァロン軍のパレードを見送っている。
音楽隊が奏でる勇壮なBGMと、真っ白い花吹雪の舞い踊る中、長い槍を林立させた歩兵隊に、これぞ花形と言わんばかりの騎馬隊が行進してゆく。
彼らに続いて登場したのは、全身を覆う重厚な白銀の鎧兜の集団。アレは間違いなく『機甲鎧』だな……十字軍謹製の現代版古代鎧を身に纏った近衛兵らしき奴らが大勢、取り囲んでいる巨大な竜車が現れる。その二階建てバスほどの高さのある上に堂々と立ち、歓声を上げる民に向かって手を振っている、一際豪奢な衣装を纏った一人の男。
純白のローブに煌びやかな宝飾品、そして王冠を被ったその姿が許されるのは、その国において一人だけ。王様。つまり、ネロである。
「ネロはこのまま、首都を出てセレーネへ向かったそうよ。今頃は、もう船に乗っているかもね」
これ以上の撮影は危険だと判断したのか、映像はそこで途絶えた。
次いで表示されたのは、アヴァロンの地図。ネロ率いる大遠征軍の予測進行状況を矢印で示し、王都アヴァロンからすぐ南に位置する、港町セレーネへと矢印は伸びている。
セレーネは、コロシアムでカオシックリムを倒した思い出の港町でもある。古代の灯台からカオシックリムが派手にビームをぶっ放して街に結構な被害が出たものだが、港の方は無傷だったからな。問題なく港は稼働しているのだろう。
「それにしても、大遠征か。本当にやるとはな」
ネロが聖王について以降は、アヴァロンを十字教による統治のために色々と行動を起こしていることは調査によって知っている。
十字教への改修政策を推進するのは当然として、人間のみの体制へ移行する措置も進められている。幸いというべきか、他の種族に対する虐殺行為を短絡的に起こしたりはしていないようだ。少なくとも、こちらが把握している範囲では。
また、ネロに従わない貴族の力を露骨に削り始め、他種族の権利制限や移住の強制などなど、首都アヴァロンを中心に排斥が始まっていた。さっきのパレードの映像でも、映っていたのは人間だけだった。
アヴァロンはスパーダ同様、元から人間の比率が高い国ではあったが、他種族の者も普通に暮らしていた。大勢集まれば、2割か3割は他種族になるのが自然なのだが……排除政策は順調に進んでいるようだな。
そして、他種族排斥と並行して行われたのが、俺を名指しで『大悪魔』と呼び、パンデモニウムに対する敵対的なプロパガンダだ。
「単に分かりやすい敵をでっち上げて、団結を促すためのものだと思っていたが」
「こういうのは十字軍の、というより教会の常套手段ですから。別に異教徒じゃなくても、邪魔くさい勢力があれば、異教徒だということにして、よく大々的に敵として宣伝していましたよ」
シンクレアに住んでいたフィオナから、実に実感の籠った感想が得られた。
新聞があれば上等くらいの社会において、絶大な支持と信仰を得ている教会が「敵だ!」と叫べば、多くの人々にとってはそれが真実にならざるをえない。
善悪の判断。何が正義なのか。所詮、それは自分の知りえる情報の範囲でしか、判断の下しようはないのだから。
「このスムーズなやり方は、間違いなく教会流です。恐らくは、アリア修道会が主導したと見るべきかと」
「流石、本場のやり口ってところか」
第五次ガラハド戦争直後から活動を始めて、すでにここまでの影響力を得るに至るとは、敵ながら大した手腕だと思ってしまう。リリィのように洗脳というチートもなしに。
その代わりに、パンドラに潜み続けた隠れ十字教徒の存在が大きかっただろう。アヴァロンの十二貴族、その過半数を維持したまま決起の時を待ち続けてきたなんて……アヴァロン王には同情心しか湧かない。気づけるか、そんなもん。
「表向きは、強引だが上手く十字教を押し付けているようだが、問題は大遠征にどれだけの戦力を割いているかだな。奴ら、本当にこんな大陸の果てまで来るつもりか?」
「少なくとも、見せかけの進軍ではないわ。あのパレードにいたのはほんの一部で、本隊と思しき戦力はアヴァロン各地からセレーネに向けて集結しているから」
さらに地図上には、アヴァロンの各領地から矢印が伸び、確認できた分の戦力が表示されている。
十字教による他種族排斥の結果、隠れ十字教徒だった他の貴族は勿論、ネロにつくことを早々に表明した人間の貴族達は、他種族の貴族の領地や財産などが配分されたらしい。当然、奪われる方の貴族は黙ってはいないが、使徒の力を持つネロに十二貴族の内の七家、さらに十字軍の直接的な支援もあって、内乱にまで発展するほどの戦いすら起きなかったようだ。
そういう利益を先に貴族達へ与えたことで、大遠征の協力も上手く引き出したといったところだろうか。
「すでにセレーネに大軍を集めたってことは、もう海を渡る算段もついているようだな」
「ええ、あまり公になってはいないけれど、レムリア沿岸の中部都市国家群の大半は、ネオ・アヴァロン支持に回っているそうよ。元から人間の人口比率の多いところばかりだし、もう秘密裏に同盟を結んで協力体制を確立している可能性が高いわ。事実、セレーネの対岸にあたるトルキス、ウーシア、の両都市国家は、すでにアヴァロンの大軍を受け入れる準備を進めているわよ」
懐かしい国の名前が出て来たな。
リリィと二人でパルティアにマンティコア討伐に行った時だ。行きはファーレン経由でトルキスから入り、帰りはウーシアからセレーネへと渡ったな。確かに、あの両国も人間の方が多かった覚えはある。
こんな形で思い出すことになるとは複雑な気持ちになってしまう。しかし、アヴァロンが本気でここへ向けて進軍してくるなら、最初の上陸地点として絶対に確保しなければならない場所でもある。
「ルーンはどうなんだ。あそこもアヴァロンに与していたら、レムリアの制海権はすでに十字軍のものだ」
「あそこは転移も開通していないし、コネもスパーダ王家から多少といったくらいだから、交渉も調査も進みが悪いわね。でも、今のところは表立って支持をしているようには見えない。島国の立地を活かして静観している、という見方が強いわ」
ルーンには何としても独立を保ってもらいたい。あそこは中部都市国家群の接するレムリア海沿岸部、その全てに睨みを利かせるには最適の立地にある。あの辺の制海権を握っているのは、実質ルーンと言っても良い。
ネロが最初の大遠征の矛先としてルーンを上げていないのは、あそこと大海戦を演じる気はないからだろう。海軍戦力は島国であるルーンがあの辺りでは飛びぬけている。
十字教に引き込めなくても、中立を保ちさえすれば対岸に渡るための海路は確保できて十分だという判断だろうか。
「いきなりルーンにミサが空母で乗り込んだら、手の打ちようがないな」
「その心配はなさそうよ。ルーンが海を渡るアヴァロン軍にちょっかいをかけない限りはね」
そう言って、次に映し出されたのはセレーネとは違う風景の港町。穏やかな波打ち際が広がる白いビーチに、小奇麗な建物が立ち並ぶ、如何にも観光地といった景色が広がっている。
だが、その上空には見間違いかと思うほどに、巨大なものが浮かび上がっていた。
正に空母といった平たい形状の船体に、広大な甲板の上に聳え立つ白亜の宮殿。一度、あそこまで乗り込んだことがあるから間違えようもないし、あんなのが他にあっても困る。
第十一使徒ミサの居城、空中要塞『ピースフルハート』だ。
「アイツはもう対岸に渡っているのか?」
「ええ、ミサはネロの大遠征に参加することを公言しているわ」
「なるほど……それはマジで、ここまで来るかもな」
すでに単騎で乗り込んで来たからな。
また一人で来ないだろうか。今度こそ万全の体勢で迎え撃てるんだが。
「ミサだけじゃない。スパーダの十字軍も、大遠征に合わせて動きそうな気配がある。動かなくても、間違いなく支援はされるわね」
「……まず、パルティアは落ちるか」
大悪魔が居座る地獄の国パンデモニウムへ至るなら、最初に立ち塞がるのは広大な草原の国パルティアだ。
あの辺から南に向かうなら、必ずあそこの領土を通ることになる。それほど広い面積を誇っている。
そしてケンタウロスの国であるパルティアは、決して十字軍に下ることは許されない。
「ええ、落ちるわね。あそこも、まだ国交を結べていないから」
リリィははっきりと言い切る。
冷たい物言い、とは言うまい。ただの事実だ。
「そうだな。今の俺達には、パルティアに何かできる余地も時間もない。何とか自分達だけで防衛してもらうしかないな」
「ごめんね、クロノ」
「いいんだ、リリィは最善を尽くしてくれている。人の手で出来ることには、どうしたって限界はある」
その限界がここだ。パルティアにまで、支援の手は伸ばせない。
転移が通じていないので、スパーダの時のように避難を受け入れることもできない。そもそも国交が結べていないから、関われる余地がないのだ。
「パルティアには頑張って、時間を長く稼いでもらえることを祈りましょう」
フィオナの冷めた言い方に、否定もできない。事実、今の俺達にできるのはそんなことくらいだから。
「大陸南端のここまでの道のりは長い。大遠征がどんなに順調に進んだとしても、一年以上は確実にかかります。侵攻ルート上にある国を占領していくなら、さらに時間もかかる」
実際に十字軍を率いてきたサリエルが、おおよその進軍速度を教えてくれる。ミサの空母を除外すれば、十字軍の進軍はあくまで人間の軍隊としては常識的なものとなる。
普通なら、絶対にどこかで限界が来る。大陸の半分を縦断する形になるのだ。敵対国がなくたって、ここまで辿り着くだけで大変な道のり。
峻険な火山地帯のアダマントリアに、深い密林のヴァルナ森海。そして最後にはアトラス大砂漠が広がる。地形的にも大軍の進軍を阻む要素はこれだけある。
「それでも、向こうには使徒が二人いる」
アヴァロン軍を率いるネロ。俺自身に恨み骨髄のミサ。
マリアベルも特に理由がなければ、大遠征に加わっている可能性は高い。最低二人、場合によっては三人。最悪アイも加わって、四人もの使徒を擁した構成でここまで押し寄せてくるかもしれない。
「奴らは必ず、ここに来る。使徒の進撃を阻める国があるとは、俺には思えない」
神に授かった力で、奴らはあらゆる敵も、困難も乗り越えて辿り着くだろう。
どこかの道半ばで、勝手に力尽きて倒れてくれる、なんて都合のいい想像は抱けない。確信めいた危機感が、俺の中にはずっと燻っていて仕方がない。
「アダマントリアとヴァルナとは、同盟を結んでいる。だから、出来る限りの手は貸す。いざという時は、スパーダと同じようにここへ避難もさせる。だが、死守することにはこだわらない」
「クロノ、それは私が————」
「いや、いいんだリリィ。これは俺が言い出すことで、俺が考えた戦略だ」
すでにして俺の意図を察したリリィが口を開きかけるが、ここは言わせてくれ。他でもない、魔王クロノが言い出さなくてはいけない。
「全ての同盟国が倒される前提で、大遠征の十字軍を出来る限りアトラス大砂漠まで引き込む。そこで奴らを一網打尽にする」
オリジナルモノリスを抑えたことで、流砂を操る能力を手に入れた。アトラス大砂漠は最早、完全に俺達の領域だ。
大地の全てが味方についている、究極の地の利がここにはある。
十万でも、百万でも、相手にできる。奴らが何千隻の砂漠船の大艦隊を編成しようが、無限の列を成して歩いてこようが————全て、大砂漠に飲み込ませることができる。
「時間も、人員も、何もかも俺達には足りていない。各国と同盟を結ぶだけでは、あの大軍と使徒を抑えきるのは不可能だ。どこかで大勝しなければ、大軍を丸ごと一つ消し去るくらいの戦果を挙げなければ、ここから逆転する目はない」
それは戦う前からパンデモニウム以外の全てを見捨てることを決めた、冷酷な決断。
何がパンドラ大陸を救うだ。一体、どれだけ見捨てて、どれだけの犠牲を重ねるつもりなのか。
分かってはいる。そんなことは、分かっているんだ。
けれど、勝てないんだよ。
奴らに勝つには、そうするしか勝ち筋が全く見えてこない。同盟国全ての防衛に集中すれば、時間は多少なりとも稼げるだろう。だが、消耗が続けばすぐに底は尽きる。
ネオ・アヴァロン発足から僅か二か月で、遠征の為に大軍を発したのは、俺達にとっては最悪に近いタイミングだ。あるいは、こちらが新興国であることを見越した上で、この迅速な大遠征の実行に踏み切ったのかもしれない。
年単位で時間が稼げていれば、こんな無茶な戦略を打ち出さずに済んだだろう。だが、敵はもう動き出してしまった。
奴らがこちらを潰すために最善手を打ってきたと言うなら、こちらも最善手を返さなければ。ただの真っ向勝負では、奴らには勝てないのだから。
「十字軍をアトラス大砂漠まで引き込み、流砂で殲滅する。この戦略に異論のある者はいるか」
「いいんじゃないですか。こちらの手札を考えれば、それしかないでしょう」
「……マスターの決断を、支持します」
フィオナは当たり前のように。サリエルは、きっと思うところはあるのだろう。でも、他に合理的な対案を用意できないことも悟っているはずだ。
「クロノ、お願いよ。その作戦は、私の発案にしてちょうだい」
「俺は魔王だ。魔王になってしまったんだ。なら、俺が背負わないといけないことだから」
ありがとな、リリィ。
沢山の人々を見捨てる最低の戦略を、勝つためにはそれしかないと採用する。その合理的だが冷酷極まる決断を、リリィは俺の代わりに背負おうとしてくれている。そういうのが、きっと俺が一番傷つくだろうと思って。
でも、そんなことをさせるために、元帥に任命したわけじゃない。
「この戦略案は極秘で進めてくれ。内容は将官までにしか明かせないな」
「ええ、分かったわ」
深く、重く、溜息を吐いてリリィは了解の意を示した。
「とは言ったが、出来る限り同盟国への支援はしたい」
「それなりにはやっておかないと、見捨てたと恨まれちゃいますしね」
「そういう面もあるが……それでも、アトラスまで辿り着く前に撃破できるなら、それに越したことは————」
「————失礼いたします。緊急のご報告が」
ドアの外から、声を拾って中へと伝えてくれる。同時に、ホロモニターには直立不動で扉の前に立つアインの姿が映り出された。
「入ってくれ」
入室を許可すると、すっかり軍服姿が板についてきたアインが、綺麗な一礼をして歩いてい来る。俺達の前に跪き、口を開く。
「先ほど、アヴァロンより二名の重要人物を、ディスティニーランドにて保護をしたと連絡がありました」
「誰だ?」
「アヴァロン国王、ミリアルド・ユリウス・エルロード。その護衛、セリス・アン・アークライトにございます」