第830話 監獄(1)
それは、スパーダが陥落するよりも前。
十字軍が再びガラハド要塞へ進軍、という一報が入る直前の日であった。
リリィは幼女の姿で、薄暗い通路を歩いている。
「ほ、本当によろしいのですか。こんな場所、女王陛下にお見せするようなものでは……」
隣を歩くカーラマーラ大公ジョセフが、あからさまに困った顔でお伺いを立てた。
「そうね、ここは私のような女の子が見て喜ぶ綺麗な場所ではないわ。でも、パンデモニウムにとっては大事な場所なの」
素知らぬ顔でそう返したリリィの歩みは、巨大な門扉が目の前に現れたことでようやく止まる。
「控えよ、女王陛下の御成りである」
「イエス、ボス!」
門の前には完全武装をした兵士が四人。さらには、脇には詰所のような部屋があり、さらに二人がいた。
オークやミノタウロスといった大柄な種族のみで構成された衛兵達はジョセフの言葉に全員が速やかに跪く。
「ジョセフ、開けてちょうだい」
「はっ、それでは————افتح البوابة(開門)」
手のひらを門へと翳しながら、そう一言ジョセフが唱えれば、重苦しい音を立てて門扉は動き出した。重厚な扉はゴウンゴウンとゆっくり左右へスライドしてゆく。
そうして扉が開放されると、ジョセフは一歩先導し、リリィへと告げた。
「こちらが、カーラマーラ大監獄の最下層監房でございます」
広大な空間だった。貴族の屋敷が丸ごと入りそうな面積に、見上げるほどの高さの天井は、4階建てのビルくらいありそうだ。
だがしかし、暗く、狭く、重い雰囲気にこの場所は包まれている。
ただ広いだけの空間は無機質な白い輝きに照らされるのみで、壁は武骨な暗い灰色一色。壁際にはコンテナが積み重なるように、箱型の部屋、すなわち独房が並び立つ。
独房の正面は鋼鉄の檻や扉どころか、壁そのものがないように見えるが、どうやらガラスのような透明な材質でできているらしい。中の囚人は丸見えで、怪しい素振りをすれば即座に分かる死角の一切ない構造だ。
半分ほど埋められている独房の中の住人の姿は、入口からでもよく見えた。老若男女問わず、様々な種族がいる。
どこからでも丸見えだが、全ての独房を監視できるよう、中央には何人もの看守が立つ円塔が建っている。元から、この広間の機能を制御するための場所なのだろう。開放的な造りの塔の中央には、大きくモノリスが鎮座していた。
「ふぅん、結構しっかりしているじゃない」
「ありがとうございます。ここだけは、どこの勢力からも協力を得た上で運営しておりましたので」
カーラマーラ南端に建つこの監獄は、代々、ジョセフのロドリゲス家が管理していた。
欲望の街にどれだけ悪徳商人やギャングが跋扈しようとも、犯罪者を収容しておく監獄の需要が完全に消滅することはなかった。
罪人を、悪人を、捕らえるためのものではない。大抵の悪い奴はどこかのギャングに所属しているので、捕まることはない。
だが、どんな組織にも属さず、属したとしても決して相容れない、生粋の野蛮人やサイコパスといった者は一定数存在する。他にも、組織としても庇う必要のない者や、追放したいが他の組織に行かれると困るような者。とかく様々な事情で扱いに困る人物というのも、それなりに出てくるものだ。
そういったギャングでも持て余すような厄介者を収監するのが、このカーラマーラ大監獄である。
古代遺跡の堅牢堅固な防衛機構を利用した監獄は、脱獄不可能と謡われており、その信頼性は確かなものだった。現代においてもザナドゥ財閥を筆頭に、どこのギャングも利用するし、時にはアトラス周辺国から複雑な事情を持つ厄介者を幽閉する依頼を受けることもあった。
誰もが求める公共施設として、カーラマーラ大監獄だけは決して潰れないよう、それなりの援助がなされ、滞りなく運営はされていた。
そして、組織存亡の風前の灯となっていたジョセフの『カオスレギオン』に残された、唯一にして最大のしのぎが、この監獄でもあるのだった。
この監獄に務める者は全員が『カオスレギオン』の構成員ということになっている。完全武装の看守と衛兵、全員合わせればちょっとした戦力ではあるが、ここの警備を決して緩めるわけにはいかない。ジョセフとしても動かせない人員である。
もし『カオスレギオン』が潰れていれば、ジョセフは大監獄の所長となるだけの人生であっただろう。
「本当に、ここから逃げた人はいないの?」
「この最下層監房から脱獄を試みた者は過去、無数におりますが全て失敗しております。ですが、数年前に史上初の脱獄囚を出してしまいました」
「あのルルゥという小娘ね」
「御存知でしたか。妖精には、古代遺跡をも操る力があるのだと、あの時に初めて知りました。全く、不甲斐ないことです」
大監獄は古代遺跡の機能に依存している。普通なら誰も操ることはできないし、実際に管理しているジョセフ達でさえ分からない部分が多いのだ。
しかし妖精の中でも特に強力な力を持つルルゥは、テレパシーによる直感的な操作によって監獄の機能を弄ったようだ。もっとも独房を開けた後は、持ち前の戦闘能力と空中機動力を活かした力業での脱獄となったのだが。
「あの子のことは気にしなくてもいいわ。私がちゃんとお仕置きしておいたから」
「そのようで」
遺産相続レースにおいて、リリィとルルゥとの戦いをジョセフはヴィジョン放送で目撃していた。ルルゥは初の脱獄囚というだけでなく、彼女を捕らえるまでには散々な苦労をさせられた因縁のある相手ではあるのだが……流石にジョセフもあの扱いには同情したものだ。
「妖精か、よほど古代魔法に精通した者ではない限り、ここから脱することはできないでしょうね」
「ええ。今日も静かなものです」
透明の壁は囚人の姿を丸出しにしているが、彼らの声どころか、物音一つここには届かない。独房の防音性は完璧なようである。
「ですが、気を抜いてはなりません。ここにいる者共は、いずれも劣らぬおぞましい大罪人揃いですので」
壁が透明ということは、当然、囚人側からもこちらが見て取れる。
彼らの視線は、普段現れることのない客人に殺到していた。
囚人は如何にも戦士といった鍛え上げられた肉体を持つ大柄な男が多い。だが、ごく普通の見た目の者もいるし、か弱い少女も、あきらかに病弱な老人といった風体の者もいる。
しかしジョセフの言う通り、決して油断できたものではない。弱弱しい姿であろうとも、どんな凶悪な魔法や能力を使うか分かったものではない。少なくとも、ここにいる時点でその精神性の異常さは保障されているのだから。
「うふふ、そのようね」
「透明の壁は鋼の如き硬さこそありますが、万が一ということもあります。あまり近づかれませんように」
リリィは子供のようにフラフラと無防備に、近くの独房へと近づいていた。
透明の壁の向こう側では、涎を垂らして牙を剥き出しにする、正に飢えた狼といった形相そのものの大きな狼獣人の女が入っていた。
「そいつは『人喰い雌狼』と呼ばれる連続殺人犯です。砂漠の放浪部族の出身で、そこから追放されているので、生まれながらの殺人鬼といったところでしょう」
その追放された先でカーラマーラに辿り着き、欲望の赴くままに人を狩り殺し、食い続け、そしてここへと収監されたのは彼女にとって当然の結末だろう。
「この隣のオークは何をしたの?」
「『ゴブリンレイパー』と呼ばれております。それ以上は語る必要もないでしょう」
そのオークはリリィをチラっと一瞥したきり、虚ろな目でどこかを見つめ続けるのみ。どうやら、ゴブリンにしか反応しないようである。
彼のような凶悪な異常性欲者も、ここの囚人ではメジャーなタイプである。
ただオークでありながらゴブリンに欲情するだけならば良かったのだが、腹までぶち破って犯し殺すことに快楽を覚えてしまった以上、もう取り返しはつかない。
「ねぇ、あのお爺さんとか死にそうになっているけど」
「そのまま死なせてやるのが世のためでしょう。『マッドアルケミスト』。不老不死の探求にのめり込みすぎた、よくいる外道です」
ジョセフの言う通り、不老不死の探究者は古今東西どこにでも現れる。絶対の死と寿命という人に課せられた枷。これを打ち破らんと欲する、世界の理への挑戦者だ。
彼もその内の一人であり、その手段に錬金術を選んだだけのこと。不老不死の探求は、錬金術だろうが強化魔法だろうが屍霊術だろうが、突き詰めていけば果てのない人体実験へ行きつくのは同じ。
決して叶わぬ不老不死の夢のため、おぞましい人体実験を繰り返し、あえなく御用となってここへ収監されたのだ。これもまた、よくある外道の結末であった。
「ここにいる者は皆、人を殺しております。それも一人や二人ではなく、何十人という大勢を」
「処刑はしないの?」
「色々と事情がありまして。それに、こちらとしても奴らが暴れるリスクを冒して全員の処刑というのは」
「なるほどね」
「ですが、女王陛下のご命令とあれば」
「その必要はないわ。むしろ、よくこれだけ飼い続けてくれたものだわ」
ジョセフは独房の中で寝ころんだ痩せ細った老人である『マッドアルケミスト』をチラりと見て、彼とリリィの行動にどこまで違いがあるのか、と思ってしまったが、それ以上を考えることは止めた。
「今、ここにいる中で一番強い人は?」
「それならば、こちらへどうぞ」
ジョセフは迷わず、正面扉から最も奥に位置する独房へと向かう。
そこは、他よりも一回り大きな独房であった。特別待遇ではなく、純粋に大きい分だけ壁も厚い。
すなわち、より堅固な牢に入れたいと思わせる者を収監しているのだ。
「あら、凄い殺気ね。壁越しでも伝わって来るわ」
そこに居たのは、身の丈3メートルはあろうかという巨漢である。
背も高ければ、幅もある。だが全身は筋肉で膨れ上がっており、囚人服の上着は脱いで、逞しい上半身を露わにしている。腕の数は、実に四本。
傲岸不遜に両腕を組み、さらに肩の後ろから生える腕を腰に当てて仁王立ち。
銅像のような青銅色の皮膚には、さっきまでトレーニングでもしていたのか大粒の汗が浮かぶ。だが、それ以上に目に見えて全身から赤黒い凶悪な魔力のオーラが放たれていた。
その男はオークのような狂暴な顔つきに加え、視線だけで相手を殺しそうな凄まじい眼力で睨みつけて来る。リリィを、ではない。すぐ隣に立つ、ジョセフに対して。
「この『四腕』と呼ばれる男は、私に恨みを抱いているようで」
「なるほど、貴方が捕まえたのね」
「もう十年も前になります。若気の至りというやつです」
「まだまだ若いのに、そういう言い方はしないの」
自分はそういう年寄り臭い言い方をするのは、と不敬なことが一瞬頭を過ったジョセフが、渇いた笑いで誤魔化していると、
「むっ、陛下、お下がりください!」
透明な牢の向こう側で、四腕が笑った。
その獲物を前にした獰猛な表情は、何よりも雄弁に訴えかけている。お前を殺す、と。
四腕はその巨躯を大きく引き絞るようにして、両の右拳を構えた。握りしめた青銅の拳は、さながら二振りの鉄槌。そして、そこに全身から溢れる魔力のオーラが急激に増大してゆき、振り上げた拳へと集約されて————
ギィイイイイイイイイイインッ!!
けたたましい金属音のような轟音が監房に響き渡る。
凄まじい衝撃波と共に、砕け散った透明の破片が飛ぶ。
鍛え上げられた巨漢に、高密度に圧縮された魔力による強化。体力と魔力、双方ともに恵まれた天性の拳は、独房の壁を打ち破ったのだ。
それは大監獄史上初、純粋な力業による独房破り達成の瞬間であった。
「いぃよぉーう、ジョセフぅ……この再会を、待っていたぜぇ……」
透明の瓦礫を蹴飛ばしながら、のっそりと四腕は独房の外へと踏み出してくる。
純粋なまでの殺意に漲る瞳は、真っ直ぐにジョセフを射抜く。
「愚かなり、四腕。私はもうあの頃のような甘さはない。今度こそ、確実に貴様の息の根を止めてくれよう」
若気の至り、というには確かに恰好をつけすぎた。なんてことはない、奴との因縁など、どこにでもある単なる酒場での喧嘩である。
当時、カーラマーラで悪名を轟かせていた四腕。対して、落ちぶれる一方の組織に嫌気がさして、衝動的に家出をしてしまった思春期真っ盛りのジョセフ、当時40歳。
そんな二人が酒場で出会ったのは偶然で、四腕がジョセフに舐めてかかったのは必然だった。
酒場と周辺区画がほとんど更地になるほどの激しい喧嘩を終え、全身血濡れとなって四腕をどうにか打ち倒したジョセフ少年(40)は、殺すのはやりすぎだから、という真っ当な倫理観から、気絶した四腕をそのまま引きずって最下層監房へぶち込んだのだ。その後、家出をやめて家に帰った。
ただ喧嘩に負けて、ムショに入れられただけ。くだらない因縁だが、四腕という狂暴な男にとっては、この手で殺さなければ決して気が済まない理由としては十分に過ぎる。
そして今、その恨みは十年越しに果たされようとしていた。
「へへっ、ジョセフの坊ちゃんよぉ、俺様はこの十年、ずうぅーっとテメぇをぶち殺すことだけ考えてきてんだよ。命がどうとか、もう関係ねぇ……抑えられねぇんだよ、この憎悪は!」
ド派手な独房破りに看守と衛兵も即座に駆け付け、すでに四腕は包囲されている。最下層監房という万が一、が決して許されない最重要かつ危険な区画には、最精鋭だけが集められている。
如何に奴が強くとも、この人数の精鋭相手に勝つことはできない。独房まで破ってしまえば、もうその場で殺すより他はない。
それを分かった上で、目の前にジョセフが現れた、この千載一遇の好機に賭けたのだ。自らの命さえ顧みず、ただこの怒りを晴らさんがために。
「はっはぁ、最っ高の気分だぜぇ! さぁ、殺らせろよぉ、ジョセフぅううううううううっ!!」
そうして、殺意のオーラ全開の四腕が目にも留まらぬ速さで踏み込み、
「————っ!?」
直後、その速さのままバックスステップに切り返し、独房まで下がり間合いをとった。
「あら、もう独房にお戻り?」
「な……なん、だ、このガキは……」
四腕は、本当に今初めて気が付いた。ジョセフの足元に、何かピカピカ光っている小さい子供がいることに。
路傍の小石のように幼児など蹴飛ばす男が四腕だが、今この瞬間、怨敵ジョセフをも超えるほどの凄まじい存在感をその子供は————リリィは発していた。
独房を拳一つで破った四腕の力を認めたが故に、リリィも少しばかり本気になったのだ。
「ちっ、妖精って奴は化け物揃いかよ。あのクソガキよりもヤベェ気配がしやがる」
ちなみに、ルルゥの独房は隣だったので、彼女の脱獄劇を四腕はすぐ傍で見ていた。
「そのまま、そこで大人しくしていてくれるなら、これでお終いにしてあげるけど?」
「へっ、へへへ……馬鹿言うんじゃあねぇよ。最期に、こんな強そうな奴と相手できるなんてなぁ、こんなに贅沢なことはねぇぜ!」
元より命など捨てた覚悟で挑んでいる。ジョセフに加えて、まだ見ぬ強敵の登場とあって、さらにオーラを増大させてゆく。
「なりません、女王陛下。こんな野蛮な男の相手をさせるわけには————」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ! まとめて死ねやっ、オラァアアアアアアアアアアアアッ!!」
命を燃やし尽くすように、限界を超えて力を引き出す四腕は、まずは邪魔なリリィを排除すべく殴りかかり————
ガタゴト、と音を立てて馬車は進んで行く。
揺れは思いのほか少ない。しっかりした造りの馬車であることに加えて、路面の状態も良いのだろう。
しかし、とても快適な馬車な旅などと、彼女にはとても思えなかった。
「私は、一体どうなってしまうのだ……」
彼女の名はテレシア。
テルディア子爵家の三女であり、かつて『聖堂騎士団』の最終選抜まで残ったことのあるエリート騎士でもある。その実力を見込まれて、郷土の『テルディア騎士団』を率いて、十字軍のパンドラ遠征へ満を持して出征してきた。
そして敵首都スパーダ侵攻の際に、『死神』に出会い全てを失った。
「この馬車はどこに向かっている……」
ゾンビ化した部下に襲われ死んだと思ったが、気が付いた時には黒衣兵に捕まっていた。牢屋代わりなのだろう、地下室のような場所で簡単な尋問を受けることとなった。
魔族の手によるおぞましい拷問を覚悟したが、奴らはテレシアに所属や経歴、今の十字軍についてただ質問をするだけであった。当然、死んでも口を割らんと覚悟を決めていたテレシアは一言も発することなく乗り切ったが……地下室での尋問はそれで終わった。向こうも防衛戦の最中で、悠長に騎士を拷問して情報を聞き出す暇さえないのだろう。
十字軍は近い内に必ずスパーダを占領する。どれだけ『死神』が強くとも、こちらには十万を超える大軍に、ガラハド要塞を一夜にして陥落させた第八使徒アイもいるのだ。十字軍が来れば、きっと自分も開放される。
そんな希望を抱いた矢先に、目隠しと枷をさせられて地下室から移動することとなった。王城にでも移送するつもりなのか。彼らの思惑など全くはかり知ることはできず、そのまま促されるまま移動をさせられ、今に至る。
この馬車に乗せられてから、それなりの時間が経っているように感じられる。少なくとも、王城に向かうよりも長い距離を走っていることは間違いない。
ならば、この馬車はどこに向かっているのか。
いまだ目隠しによって視界を閉ざされたテレシアには想像もつかなかったが、答えはほどなく明らかとなる。
「んっ……こ、ここは……」
馬車から降ろされた直後に、目隠しが外れて視界が戻って来る。
飛び込んでくる日光が眩しい。どうやらここは屋外で、それも昼間であるらしい。
抜けるような青空が広がる頭上を見て、ささやかながらも開放感を覚えたテレシアだったが、正面を見て絶望する。
「カーラマーラ、大監獄……?」
それは、大きな砦のような建造物であった。円筒形の塔で結構な高さを誇っている。しかし、驚くべきは円の外周の大きさであり、数十メートルの高さがあって尚、切り株のような形状に見えた。
一切の飾り気のない武骨な石造りは見る者に威圧感を与えるが、正門に掲げられた巨大な看板が、何よりも分かりやすくこの場所の正体を教えてくれる。
カーラマーラ大監獄。アークでもパンドラでも共通の文字によって、そう書かれていた。
「お、おのれ魔族め、こんなおぞましい場所を……いや待て、ここはスパーダではないのか!?」
カーラマーラ、という地名は聞いたことがない。首都スパーダ侵攻の際に、現地で入手した地図を元に、スパーダの地区名などはおおよそ頭に入れていた。
しかし地名に心当たりがないという以上に、冷静になって周囲を見渡してみると、大きな違和感を覚えた。
スパーダは十字軍によって完全包囲され、陥落は時間の問題だった。しかし、この周囲は静かなものだ。戦いの喧騒はない。
「なんだ、あの巨大な街は……それに、向こうには砂漠が広がって……」
振り返れば、天を衝くような巨大な塔が並び立つ、シンクレアでも見たことがない壮大な街並みが広がっていた。この大監獄は小高い丘の上にでもあるようで、街の見晴らしは良かった。
そして聳え立つ大監獄の向こう側は、砂色一色の大地が地平線の彼方まで続いている。
砂漠のど真ん中にある巨大都市。
間違いなく、スパーダの立地ではない。そもそも、あの周辺に砂漠などあるはずもなく……だが重要なのは、ここがどこか、ではない。
「十字軍は……助けは、来ないのか……」
ここがスパーダでないのなら、十字軍は来ない。スパーダ占領後、他の地域へと進軍を始めるのも相当な時間を要するだろう。
この巨大な砂漠の都市を攻めようと思えば、一体どれほどの軍備を必要とするか。
そして自分はこの大監獄に入れられれば、今度こそ本格的な尋問が始まるだろう。助けは、今日明日には決して来ない。一ヶ月か、一年か、あるいは一生。
「あ、ああぁ……」
耐えられない。すでにして心が折れかける。
もうすぐ十字軍が雪崩れ込んで助けに来てくれる、という希望を抱いていたのも、より一層の絶望を深くする要因だろう。
「歩け」
両脇を固める、屈強な黒衣兵に促されたテレシアは、震える足で歩きだす。
この大監獄に入ったら、もう二度と外には出られない。これが、人生で見る最後の空。ああ、空、綺麗……
そんな絶望的な心境で、薄暗く陰鬱な雰囲気の大監獄の通路を歩かされる。
そうして、ついに自分を収監する牢へと到着したのか。堅牢な鋼鉄の扉の前に立たされ、ゆっくりと鉄扉が開かれていく。その先には————
「ようこそ!」
「転入生、来た」
「人間族の女の子だゴブー」
「フォッフォッフォ」
四人の魔族が、眩しいまでの笑顔を浮かべ、拍手でテレシアを出迎えた。
「やぁ、僕の名前はヨッシー! ほら、腕が四本もあるだろ? だからヨッシー」
「ボクはゴブでいいゴブ」
「ひっ!?」
身の丈3メートルはある、四本腕を持つ巨漢と、典型的な醜い顔のオークが、にこやかにテレシアへ自己紹介をかましてくる。
「二人とも、転入生が引いてる」
「おっとぉ、狼ちゃんの言う通りだ。ごめんね、新しい仲間が来ると聞いて、嬉しくて!」
狼ちゃん、と呼ばれたのは正しく狼の頭を持つ、狼獣人である。体型からして、女性のようではあるが。
「フォッフォッフォ……まずはお嬢さんの名前をきかせてはくれんかのう」
四腕にオークに狼獣人、と如何にもな見た目の魔族にやたらフレンドリーに接されて面食らっているところに、この中で唯一、同じ人間族と思しき老人が話しかけ、多少の冷静さが戻って来る。
ひとまず、いきなり魔族に襲われ食い殺されるような状況ではないのだと。
「わ、私は……テレシアだ」
「テレシアちゃん、よろしくね!」
「カワイイ名前だゴブ」
「ニンゲンちゃんで良くない?」
「それだとワシもニンゲンになっちゃうからのぅ」
「博士の言う通りだよ! ちゃんとテレシアちゃんって名前で呼んであげるべきだと僕は思うんだ」
「一体、なんなのだこれは……どうすればいいのだ……」
謎の友好的な盛り上がりを見せる魔族の集団に、テレシアはひたすらに困惑するのみであった。
「テレシアちゃん、どうしたんだい、そんなに不安そうな顔をして?」
「えっ、いや別に……」
「もしかして……ここを監獄だと、思ってる?」
「きっとそうゴブ! 狼ちゃん鋭い!」
「なに、監獄ではない? だが、表にはカーラマーラ大監獄と————」
「ハハハ! それは昔の話だよ。今のここは『自由学園』さ!」
ヨッシーは、爽やかにウインクをしてそう告げた。
「自由、学園……?」
「そうだよ。凄く偉い女王様が、僕らのような『良い子』のために、安心して暮らせる素晴らしい学園を作ってくれたんだ!」
2021年6月18日
本編では語られることはない裏設定。
四腕ことヨッシーが四本腕で青銅色の肌を持っているのは、特定の種族ではなく、様々な種族が混血した結果、複数の特徴が偶然現れた、というタイプです。
これまでそういった混血型が紹介されることはありませんでしたが、沢山の種族が交じり合って暮らしている国や地域も多いパンドラ大陸では、そこまで珍しいワケではありません。もっと変なキメラみたいな奴もいます。
耳と尻尾だけが生えた半獣人のオルエンなど、特定種族の特徴が一部だけ、というタイプも大きな括りでは混血型となります。
それと、テレシアって誰だっけ、という方は第815話『死神(2)』をどうぞ。