第821話 新総司令
遡ること一年前、大陸歴1997年、清水の月である。
シンクレア共和国には、第五次ガラハド戦争の結果が詳細に伝わり、そして十字教会も正式に第七使徒サリエルの消滅、以降は第七位を永久欠番とする旨が公表された。
サリエルが裏切った、という部分に関しては伏せられ、あくまで魔族によって討たれた名誉の戦死とされているが。
最強の力を持つ使徒とはいえ、その戦死は稀にあるもの。
しかし、使徒の位そのものが失われるという前代未聞の出来事に教会の動揺は大変大きなものとなったが、神託によるパンドラ大陸征服に終わりはない。現実的な対応として、十字軍総司令官である第七使徒サリエルがいなくなった以上、次なる総司令官を定める必要があった。
今の十字軍において、新たな総司令官の任命は何よりも迅速に行われるべきものだが————そもそも、パンドラ大陸の遠征は誰から見ても無謀であり、だからこそどんな過酷な任務にも忠実無比にして、完璧に遂行をしてきた第七使徒サリエルが選ばれたのであった。
彼女の活躍によってダイダロスを占領したことで、パンドラ遠征は当初の予想に反して一気に過熱したのだが、その功績を成したサリエル本人がガラハド戦争で散ったのだ。
あの第七使徒サリエルをもってしても、スパーダの征服はできなかった。そんな強大な魔族の国と戦うのは御免だ。全く、割に合わない。
総司令官を務められるだけの位にある者は、誰もがそう思った。
だがしかし、とある一人の男がついに名乗りを上げた。
「————ここに、アルス・イサベル・バルテロメ枢機卿を十字軍総司令官に任命する」
聖都エリシオン大聖堂にて、教皇アレクサンドロス11世が宣言した。
教皇就任より二十年以上が経ち、かつては勇者アベルの同胞として活躍した若き聖人の面影は、寄る年波により失われている。
だが、老いてこそ教皇としての貫禄と厳正さをもって、教皇は最も若い枢機卿を見つめていた。
「謹んで拝命いたします、教皇聖下」
対するアルス枢機卿は、三十代も半ば。精悍な顔には、強い信仰と覚悟が宿っているかのようだ。
正式な十字軍総司令官の任命が宣言され、集った十字教会の最高位聖職者達は、拍手ではなく厳かな祈りの声でもって、アルス枢機卿を祝福したのであった。
そうして、総司令官就任から二日後のことである。
同じく聖エリシオン大聖堂、とある一室にて、アルスともう一人の枢機卿が秘密裏に顔を合わせていた。
「————まさか、貴方と二人きりで話をする機会が巡って来るとは思いませんでした。一体、どういう風の吹き回しでしょうか、メルセデス枢機卿」
アルスの前に相対するのは、メルセデスという老齢の枢機卿。
幅のある大きな体に、装飾過多に着飾った豪華な法衣を身に纏うメルセデスは、聖職者というより大商人といった雰囲気である。
その商人染みた風貌に反せず、彼は強欲にして狡猾だ。虎視眈々と次なる教皇の座を狙っているのは誰の目にも明らかだが、それを咎められるような油断も隙も一切見せない、野心的な男である。
いや、野心的だった、と言うべきだろう。
「アルス枢機卿。君とはこれまで、次の教皇の座を巡るライバルなどと囃し立てられたものだが……私には、もうそのような気概はないのだよ」
そんな言葉を、頭から信じるほどアルスもお人好しではない。
幾らでも嘘を吐き、人を騙す。そんなこと、枢機卿まで成り上がって来たこの男には持っていて当たり前のスキルである。
しかし、アルスにとってはもうそれもどうでもよいことであった。
十字軍総司令官としてパンドラへ行くことを決断した時から、このエリシオンで教皇となる夢は諦めたのだ。この名も骨も、全て遠く異郷のパンドラへ埋める覚悟は、すでにできている。
「グレゴリウスという男を知っているかな」
「勿論だ。貴方の腹心の司教で、早々にパンドラ遠征へ赴いた、強い使命感のある人物だと聞いている」
表向きは聞こえのよい評判しか語らぬが、アルスとてグレゴリウス司教という狐のような怪しい男が、何かしらの思惑をもってパンドラで活動しているだろうことは分かっている。
それは当然、直属の上司にあたるメルセデス枢機卿の指示によるものだと思っていたが……
「私は、あやつと賭けをしていた」
「賭け、ですか」
「此度のパンドラ遠征が、成功するか、失敗するか」
メルセデスは語る。
自分は必ずパンドラ遠征は失敗すると判断した。
事実、当初は竜王ガーヴィナルに阻まれ上陸地点ヴァージニアの建設が精々。そして今、第七使徒サリエルも討たれ、スパーダ攻めは完全に頓挫していた。
たとえ十字軍がスパーダを滅ぼしたとしても、広大なパンドラ大陸に魔族の勢力はまだまだ無数に存在している。ダイダロスのように、多少は占領できることもあろう。
しかし、大陸全土の征服は不可能だと断じた。必ずどこかで行き詰まる。いくら神託とはいえ、人の力には限界があるが故に。
だからこそ、メルセデスは失敗前提で動くことにしていた。
パンドラ遠征に入れ込んだことで、いたずらに力を失う間抜けは必ず出てくる。アルスと懇意にしている第七使徒サリエルに、アルスの腹心であるリュクロム司教を副官として送り出しただけでも、メルセデスにとっては十分に有利な状況になったと喜んだものだ。
「しかし、グレゴリウスは言った。パンドラ大陸は必ず征服されると」
「つまり、彼をパンドラに派遣したのは、彼自身の強い要望だったと」
「よく頭のキレる男だ。だが、あの薄気味悪い笑みを浮かべるあやつの真意は、私も計りかねていた……だから、だろうな。私はあの男を試したくなった」
「ならば、賭けは貴方の勝ちでしょう」
十字軍の大陸征服は、完全に行き詰まりを見せている。
アルスはスパーダまでは必ず攻め滅ぼすと決意しているが……大陸の全てを制するまでの計画はいまだ見えていない。
「グレゴリウスは、予言をしていた」
「そういえば、自ら予言者を名乗っていると聞いたことはあります」
「趣味の占い遊びのようなものだと思っていた。あやつの予言は、くだらんことを当てたり、外したり、であったのでな」
正に当たるも八卦当たらぬも八卦、といった様子であるようだ。
少なくとも、メルセデスとグレゴリウスの間では、そうなっていた。
「だが、この賭けに際して具体的な予言をした。例えば、そう、アルス枢機卿が総司令官になる、とかな」
「それは誰もが予想のできることでしょう」
「ならば、第七使徒サリエルの永久欠番はどうだ」
「……どういうことですか」
「確かに言っていた。サリエル卿はただの戦死ではない。使徒の位を失い、第七位は永久欠番になると」
「馬鹿な、そんなこと————」
予想できるはずがない。
史上、使徒の位が失われるなんてことは一度たりともなかったし、そんなことが起こるなどと思った罰当たりな聖職者はいない。
「そしてパンドラ大陸には、密かに十字教を信仰し続けている者達が大勢いると。その者らは十字軍による解放を待ち望んでいるのだとな」
パンドラ大陸には、アーク大陸と同じくかつては白き神が信仰されていた————と、聖書でも伝わっている。
だが、それを事実として確認できたものは、パンドラを訪れたことのない現代の聖職者では誰もいない。
現代でも信仰を繋ぐ者はいるかもしれない。そんな想像をする余地はあるが、断言することはできないはずだ。
「事実、あやつはすでにパンドラに潜んでいた十字教徒と接触を図り、協力関係を構築している」
「全て予言通り……いや、最初から知っていた?」
「予言が的中して、私はようやく気付かされた。グレゴリウス、あやつは本当に神意が見えていると」
神意。
それは読んで字のごとく、神の意思。
白き神は唯一絶対の創造神である。ならば、その意思は全てが現実のものとして定められる。
つまり、この世の神羅万象、過去、現在、未来————ありとあらゆる全ての事象を、白き神は与り知ることとなる。なぜなら、それは全て自らが定めた意思であるが故に。
正に、全知全能の全知に当たる能力だ。
「神意に触れれば『全てを知る』というのは、仮説に過ぎないはず。そこまでの予知能力は、これまで使徒にだって与えられてはいない」
「使徒でなくとも、神の加護は与えられる。我々はそれを聖人と呼ぶが……グレゴリウスは、恐らくは史上初の神意能力者だと私は思っている」
「……何故、そんなことを私に」
「パンドラ遠征が成されれば、私の計画は倒れたも同然なのだ。まだ若い君には分からんだろうが、歳というのは本当に敵わない。私には、もう教皇の座につく勝ち筋が見えん」
だから、諦めたというのか。
これまで教会で名をはせた、メルセデスほどの男が。
「私は静かに、このまま枢機卿として使命を全うしよう。アルス枢機卿、君の邪魔はしない。そして、グレゴリウスには私の名をもって、君によく協力するよう伝えよう。向こうであやつに会うことがあれば、この手紙を渡して欲しい」
差し出された封書を、アルスはやや躊躇しながらも、確かに受け取ることにした。
「あの男が真の神意能力者であるならば、パンドラ遠征は神託で下された以上に、強い神の意思によって行われていることとなる。この期に及んでは、私も聖職者らしく、神の御意思を尊重しよう————パンドラ遠征の成功を、心より祈っているよ、アルス枢機卿。君こそが、次の教皇となるべき男だ」
それから、さらに月日は流れ、年は明けて大陸歴1998年。曙光の月の初め。
いよいよ、アルス枢機卿がパンドラ大陸へと赴く時が来た。
任命されてより即座に向かわなかったのは、それだけの準備と根回しを行ったからである。
自らの手勢は勿論、知己のある諸侯に声をかけ、商人からは個人的な援助を引き出し、さらには有名な傭兵団も複数、雇い入れた。
今の自分が揃えられるだけの戦力は整えた。
満を持して、大軍を率いパンドラへと旅立つ————という前日の夜である。
錚々たる大艦隊が編成された港町で宿泊していたアルスの下に、一人の男が訪ねてきた。
「こ、これは————第二使徒アベル卿!」
こんな夜更けにどんな無礼者が、と思っていたが、扉を開いた瞬間にアルスは平伏した。
教皇に次ぐ位である枢機卿にあって、頭を下げねばならない相手はあまりにも少ない。
だが神に選ばれた使徒、中でも現役で名実共にトップである第二使徒、シンクレアを救った生ける伝説、『白の勇者』アベルの前では、膝をつくより他はない。
「ここへ来たのは、お忍びというやつだ。顔を上げて、楽にしてくれ」
100年前からまるで変わらない、輝く銀髪と青と黒のオッドアイが光る美貌で微笑みながら、アベルは着席を促した。
もてなしの用意などする暇もなく、アベルなりの気遣いか、どこからともなく取り出したワインとグラスが卓上へと置かれた。
当たり障りのない挨拶と聖句を交わして、乾杯。
素晴らしい味わいのビンテージワイン、だがそれを堪能することもなく、アルスは伝説の勇者に問いかけた。
「して、今宵は一体どのような用件でしょうか」
「そうだな……まずは、一つ質問をさせてくれ。君は何故、十字軍総司令官に立候補したのだ」
その質問は、この一年ほどで幾度もされたものだった。
しかし、信仰心だの使命感だの、そんな十字教徒としての当たり障りのない解答など、アベルは求めていないだろう。
アルスは懺悔するような心持で、素直に第二使徒へと本心を明かす。
「復讐……とは少し違いますね。償い、でしょうか。そんな気持ちが半々といったところです」
「そうか、酷く個人的な理由がでたものだな」
「使徒としては、軽蔑なさいますか」
「いいや、嬉しいよ。サリエルを思う人がいたのだとね」
そんな優しい感情ではない。
自分ほど、あのサリエルという少女を都合よく戦争に勝つための駒として使った者はいないと断言できる。
「私のフルネームは御存知でしょうか」
「アルス・イサベル・バルテロメ。この名が全て、君の輝かしい経歴を現わしている」
アルスは元々の名前であり、教会から聖名として認められたものである。
十数年ほど前は、ただのアルス司祭であった。
そして、単なる田舎町の司祭の一人に過ぎなかったアルスは、異教徒との大きな戦争に巻き込まれ————最終的には、勝利を収めて見事に邪悪な異教徒から故郷を解放した。
そこはシンクレア共和国の南西部、イサベル地方と呼ばれている。
「所詮は私など、使徒の力に縋っただけの弱者に過ぎません」
イサベル解放は絶望的だった。
高位聖職者も郷土の騎士団も次々と凶悪な異教徒の軍勢を前に敗れ去り、とうとうアルスが繰り上がりでイサベル地方の兵を率いる立場になってしまっただけのこと。
自分が他の聖職者や騎士と違ったのは、偶然、近くに居を構える『白の秘跡』という十字教会の秘密結社、その研究所の存在を知り、そこを訪ねたことである。
藁にも縋る気持ち、とは正しくあの時の感情であろう。
「イサベル解放は全て第七使徒サリエル卿のお陰です。そして、続くバルテロメ解放も、私はただ彼女の力に頼ったに過ぎないのですから」
今のアルスの名となっているイサベルとバルテロメは、共に自分が解放した地方の名である。そこを治める貴族となったワケではないが、両地方は寄進地として自分の管理下になっているので、実質、領主のようなものでもある。
アルスはバルテロメ地方の解放の功績をもって、若くして枢機卿の地位にまで登り詰めたのだった。
「そんな彼女が、パンドラで倒れたのだ。私は、せめてその後でも継がなければ、自分で自分が恥ずかしい……ああ、いつだったか、ジュダス司教に言われたよ。お前は使徒の力を過信し過ぎている、と」
サリエルを失った今となって、ようやくその言葉が真実であったと実感した。
第七使徒サリエルの、あまりにも輝かしい勝利の連続を間近で見て来たせいで、自分もまたその力に頼り切っていたのだ。
「このままシンクレアに残り続ければ、確かに私の地位は安泰でしょう。しかし、それでは私は、ただサリエルという少女を利用して、自らの安寧を手にしただけの、救いようのない外道となってしまう」
つまるところ、そんな自責の念がアルスに総司令官を請け負う決断をさせたのだった。
サリエルの活躍によって、たかが田舎司祭の若造が、枢機卿にまで登り詰めてしまったのだ。もうとっくに、長閑な田舎町でのんびり説法するだけの平穏な生活へ、戻るわけにはいかない立場まで来てしまった。
サリエルのお陰でこの身に余る栄達を手にしたならば、彼女がいなくなったとて、自分は進み続けなければならない————白き神への信仰心ではなく、そんな個人的な理由を聞いた第二使徒は、
「そうか……だが、君がそこまで気負う必要はどこにもない。サリエルは、使徒という軛から解放されて、きっと今は幸せに暮らしている」
「使徒ともなれば、そんなことまで分かるというのですか」
若干の皮肉も込めて、ついそんなことが口をついてしまった。
そんな都合の良い環境にサリエルがいると、安易に信じられる気持ちは湧かない。
「これは俺ではなく、第三使徒ミカエルの言だが……恐らくは事実だろう。サリエルが永久欠番となった理由、君は知っているか?」
「いえ……ただ、使徒にあるまじき敗北を喫したが故に、神が許さなかったのだと」
「違うな。サリエルの心を本当に動かす者が、現れたからだ」
「どういう、ことでしょうか」
「どうもなにも、そのままの意味だ。サリエルに信仰心を捨てさせるほどの相手がいた。永久欠番などと大袈裟に言うが……なんてことはない、お気に入りの娘を他の男に奪われた、くだらん嫉妬の八つ当たりだよ」
「……」
枢機卿として、いや、一人の十字教徒として、アベルの物言いには肯定できなかった。
だが、怒鳴って否定する気もアルスには起きない。故の無言。
「君も枢機卿にまでなった男だ。『白き神』が多くの信者が思っているような、慈悲深く寛大な存在ではないと、とっくに分かっているだろう。アレは非常に気まぐれで、人を弄ぶことを何とも思ってはいない、まるで人間の暴君と同じだ」
「アベル卿、いくら使徒とはいえ、それ以上の物言いは」
「ああ、すまない、くだらん愚痴を聞かせてしまった。とにかく、俺が言いたかったのは————もし向こうでサリエルを見つけても、放っておいてやれ」
「やはり、サリエル卿は十字軍を裏切り、生きているのですね」
「裏切るも何も、彼女に隷属を強いたのは我々の方だ。奴隷が解放されて裏切られたと言うのは、愚かな主人の文句というものだな」
「私は……私はこれまで一度たりとも、サリエル卿の主となった気はありません。しかし、彼女を利用し続けたのは事実。本当に今の彼女が幸せだと言うならば、第二使徒アベル卿、貴方の忠告、素直に受け入れましょう」
ありがとうございます、とアルスは深々と頭を下げた。
サリエルに対する自責の念を抱えたアルスにとって、これ以上の救いの言葉はないといってもいい。
「しかしながら、私はすでに十字軍総司令官。サリエル卿の幸せのためだけに、パンドラ征服の手を緩めることはできません」
「それはそうだろうな。我々は十字教徒である以上、白き神の意思には逆らえん————アルス枢機卿、この一年で随分と大掛かりな準備をしたようだな」
「ええ、私に出来る限りの力は尽くしました」
そして、結果的にそれはシンクレア共和国の十字軍をより強大にする流れとなった。
本来なら敵対派閥で足を引っ張るはずだったメルセデス枢機卿も、消極的ながらも協力姿勢を打ち出しており、それに付随して他の枢機卿や中立派なども、パンドラ遠征十字軍への支援に傾いた。
教会の派閥を越えた団結を見せたことで、派兵を渋っていた貴族の動きも活発化している。
すでに何十万もの大軍がパンドラへと送られているが、これからもまだまだ兵が送られ、さらにはそれ以上の入植者も来るだろう。
ガラハド戦争以後、停滞しそうだった十字軍の動きを、アルスの総司令官就任以降、一気に前進したのは間違いなかった。
「流石の手腕、と言うべきだろうな。パンドラへ征く十字軍の勢いは、最早、誰にも止めれないほどの流れとなった」
逆に言えば、これまではまだ止まる可能性が残されていたのだ。
パンドラ遠征が割に合わないと、誰もが手を引き始めれば、自然と侵略は止まったことだろう。
だがしかし、アルス枢機卿の働きかけにより、良くも悪くも十字教会も共和国も、どちらもパンドラ征服に傾いてしまった。
「————パンドラかシンクレア、どちらかが倒れるまで、決してこの戦いは終わらないだろう」
「神託を賜って始めた戦いですから。それは神も、信者である我々も、望むところでしょう」
十字教の総力をつぎ込むというほどの覚悟でもって、アルスはそう応えるのだった。
「もう一つの用を済ませるとしよう……俺がここに来たのは、サリエルのことと、もう一つ、君に渡すものがあったからだ」
おもむろに、アベルは卓上に小さな木箱を置いた。
何の変哲もない、乱雑に貨物船に積み込まれているような木製の箱。
開けてみろ、という意を受けて、アルスは慎重な手つきでその箱を開く。
中には、真っ白い綺麗な絹の布地に包まれた……食器か何かだろうか。
滑らかな布地を解いたその瞬間、アルスは息をのんだ。
「こ、これは、まさか……」
「ああ、聖杯だ」
聖杯。
それは、十字教を代表する聖なる遺物。
「コレは俺が持っている、三大聖杯が一つ、『聖母アリアの純血聖杯』だ」
くすんだ金色の、古ぼけた杯である。
見事な装飾がされているわけでもなければ、強い魔力で輝きを発していることもない。
胡散臭い露天商が並べているような、誰も見向きもしない中古品も同然の杯。
しかし、それに手を触れることすら恐れるかのように、アルスの体は固まっていた。
「そう身構えることはない。封が解かれぬ限り、これはただの金属杯だ」
「しかし、本物の聖杯など……私も、初めて目にしました」
使徒が扱う専用武器『武装聖典』をはじめ、公に使用されたり、公開されている聖なる物品は十字教には多数ある。
だが、白き神の力を直接的に宿すと言われる『聖遺物』は中でも特別な存在だ。
そして、聖杯はその聖遺物の中でも最も有名であり、象徴的なものでもある。
三大聖杯、と呼ばれる三つの聖杯を十字教会は保有しているが、それらは一つとして日の目を見ることはない。
「俺もコレを使ったことがあるのは過去に一度きりだ。それ以来、俺がずっと持ち続けていたが……まぁ、これも神託というやつだ。この純血聖杯を君に託す」
「わ、私が、聖杯を……」
「受け取ってくれるな?」
真剣な輝きを見せる、青と黒の瞳を真っ直ぐ見つめ返して、アルス枢機卿は聖杯をその手にした。
「お任せください。『聖母アリアの純血聖杯』、確かにこのアルス、受け取りました」
清水の月20日。
ついに十字軍はスパーダ王城を完全に制圧し、首都の占領を完了させた。
もっとも、首都で決死の防衛戦を行っていたスパーダ軍と多数の民は、王城からの転移で脱したことで、激しい戦いは一夜の内にあっけない幕切れとなっていた。
今や首都スパーダに十字軍を止める者はいないが、彼らが殺戮すべき魔族の姿も消え去っている。首都にいたスパーダ人は転移で飛んだか、戦いに乗じて外へと逃げたか、あるいは、すでに捕まっているか。いまだ十字軍の目を逃れて隠れ潜んでいる者がいたとしても、ごく少数で、彼らが発見されるのも時間の問題であろう。
そんなもぬけの殻となった首都スパーダへと、新たなる十字軍総司令官アルスは足を踏み入れた。
敵影は最早どこにもなく、街には十万を超える十字軍が駐留し、さらに王城には第八使徒アイが控えている。総司令官のアルスは安全が保障された大通りを堂々と通って、王城まで向かうのだった。
これまで十字軍の総司令部はダイダロス王城に置かれていたが、ガラハド山脈を越え、ついに大陸各地への侵攻ルートが開けたので、スパーダ王城へと移設されることとなっている。
新司令官の就任と司令部の移設が合わさり、実に慌ただしい状態となっているが————この日の晩、アルスは直属の護衛である聖堂騎士のみを連れて、スパーダ王城の地下へと降りた。
元々、王城の地下は古代遺跡となっているようだ。
王城に籠っていたスパーダ人が脱出に利用したのも、ここの地下にある巨大なオリジナルモノリスである。
そして、そこから更に地下深くに降りた最深部にあるのが『コキュートスの狭間』と呼ばれる古代の封印装置がある広間だ。ガラハド戦争で捕縛された第八使徒アイはここに収監されていたと、すでに聞いている。
そのアイが解き放たれた今「時が止まる」と呼ばれる、この封印に囚われている者は誰もいない。
しかし、アルスが踏み入った『コキュートスの狭間』には、一人の人物が立っていた。
「————お久しぶりです、ジュダス司教」
「うむ、久しいな、アルス枢機卿」
かつて自分に第七使徒サリエルを預けてくれた恩人。その後も、幾度に渡って彼の提供する力に助けられたことはあるが……アルスは一度も、このジュダスという老人を信用したことはない。
彼は初めて会った時と変わらぬ白髪と白髭を蓄えた、老齢ながらも逞しい姿で佇んでいた。
「第五研究所の開設、おめでとう、と言っておこう」
「こちらこそ、迅速な許可、感謝しよう」
アルスがスパーダへ向かう際の行軍に、ダイダロスに開設していた第四研究所からジュダス率いる『白の秘跡』のメンバーも同行していた。
スパーダ王城の地下にも、ダイダロスと似たような古代遺跡があるとの情報をすでに掴んでいたようで、この機会に是非とも、ということだ。司令官たるアルスに対して、公式に研究所開設の申し出も受け取っており、それに許可を出した以上、第五研究所の存在は秘密裏というほどでもない。
先のガラハド戦争では敗北を喫したものの、捨て駒にはちょうどよいキメラ兵や、攻城戦において絶大な威力を発揮するエンシェントゴーレム『タウルス』など、数々の新兵器を提供してくれた『白の秘跡』は十字軍からの支持も得ていた。彼らがまた新たに強力な新兵器を開発してくれることを望む者は多い。
だが、それだけの理由でアルスが人目を避けた夜中に、わざわざジュダスに会いに来る理由にはならない。
ここへと来た理由は、ジュダス司教たっての望みであり、大恩ある彼の頼みを断るわけにはいかなかった。
「それで、用件はなんだろうか」
元より、気軽に雑談を交わして楽しむ様な仲でもない。アルスは単刀直入に呼び出しの理由を尋ねることにした。
「この場所が何のためにあるか、知っておるか?」
「『コキュートスの狭間』と呼ばれ、古代の封印装置を利用して、スパーダでは特別な囚人を収容する施設とされていた、とは聞いているが……さて、古代にどんな風に使われていたのかは、全く想像もつかないな」
アルスも枢機卿として、古代遺跡の秘密に関してはそれなりに知り及んでいる。
シンクレアでは『歴史の終わり』と呼ばれる古代の石板の理由も、オリジナルモノリスに関しても。そこらの考古学者よりは、よほど古代の真実を知っているし、古代語の解読もできる。
だが、古代の謎はあまりにも多すぎるし、それについて持論を熱く語るような熱意も持ち合わせてはいない。故に、知らないモノは、分からないと答えるだけに留まる。
「ここは、ただの入り口に過ぎん。どうやらスパーダ人は、数百年もこの地にいながら、ただの一人も開けなかったと見る。あるいは、一度開いて以来、閉ざし続けることを選んだか」
「何やら不穏な物言いだな。古代の怪物でも閉じ込められているというのか?」
「怪物などおりはせん。この先にあるのは————」
口で言うよりも、見た方が早いとでも言うかのように、ジュダスは詠唱を始めた。
一言目で、ここにある魔法陣は反応したようで、床一面に広がる巨大な陣が青白い輝きを発する。
恐らく、古代語のみで紡がれただろう詠唱を、アルスはただ見ているだけ。
ほどなく、広間に響いたジュダスの声が止まると————ゴゴゴ、と音を立てて奥の壁が動き出した。
古代遺跡で稀に見られる、隠し扉の作動と同様に見える。だが、開かれた箇所は扉というより、巨大な門のようなサイズで随分と大きい。
一体、この先にどんな古代の神秘が眠っているというのか。
「……なんだ、ここは。何もないではないか」
思わず、アルスはそんなことを言ってしまった。
期待に反して、開かれた先の空間には、特にこれといって何も見当たらない。
オリジナルモノリスのような巨大石板も、精緻な古代の祭壇も、まして光り輝くような財宝など一つもありはしなかった。
そこは、ただ広いだけの空間だ。
床は何故か、石でも金属でもなく、黒っぽくやや湿った土。
そして、この場所で唯一目につくのは————中央に突き立つ、木組みの枠であった。
「いいや、間違いなくここだ。儂もようやく、ここへ辿り着いたか……」
珍しく感傷的な色のある声を呟きながら、ジュダスは真っ直ぐに、謎の枠へと歩いていく。
アルスも黙って後に続くが、やはり、間近で見ても『枠』としか言いようのない物体であった。
大きさは余裕をもって人が並んで通れる幅に、高さは5メートルほどもある。しかし、広い空間と見上げるほどの高い天井を誇るこの場所にあっては、あまりに小さく、みすぼらしく見えた。
材質は、元々は赤く塗られてはいたのだろうが、すでに大部分がはげ落ちている。塗装の下からは木目が浮かんでおり、明らかに木造だと分かる。
二本の柱と、天辺の辺りでもう二本の柱が横向きに組み合わさり、大きな四角形を形成する、シンプルに過ぎる形状。流石に、ただの丸太を組み合わせたような形ではなく、整えられてはいるが……こんな仮組のような木のオブジェが、ジュダス司教ほどの人物が求める古代の遺物だとは到底思えなかった。
「この木の枠が一体、何だというのだ?」
「鳥が居る、と書いて『鳥居』という」
「鳥居……?」
聞いたこともないし、こんなただの木枠に名前をつけるほどのものなのか、ともアルスは思った。
「こんな場所に隠されていたのだ。その鳥居とやらには、大層な古代の力があるのだろうな?」
つい、皮肉気な台詞が口を吐く。
ジュダス司教は、そんなアルスの言葉を気にした風もなく、言った。
「ああ、あるとも。これこそ、異界へ通じる門である」
「異界? それはまさか、異邦人の————」
「アルス枢機卿。おぬしにはこれまで、それなりに力を貸してきたな」
ジュダスは面と向かって、そう切り出してきた。
その問いに、否やはない。
「ええ、お陰様で。私は枢機卿で、十字軍総司令官だ」
「今こそ、借りを返して貰おうか」
「……なるほど、道理で、これまで見返りらしい見返りを求められたことがないわけだ」
サリエルのことも、その後の助力も、これといって何かをジュダスへ支払ったことはない。
だが、全てタダで良いとも言っていない。
それらは全て貸しであり、いつか返して貰う時が来るとも聞いていた。
当時は、自分がジュダスよりも高い位について、アルスが大きな力と財を成すまで待っているのだろう、くらいに思っていたが……
「ジュダス司教、貴方の助力には本当に感謝している。これまで世話になった見返り、今こそ返しましょう」
アルスは覚悟を決めて、そう返した。
果たして、ジュダスの求めた見返りは————