第820話 スパーダの敗北者達(2)
それは、首都スパーダに十字軍が押し寄せてから三日が過ぎた頃である。
パンデモニウム軍の応援によって、辛うじて第二防壁は守られ、いまだ貴族街には大規模な敵の侵攻を許してはいない……だが、ここに住む者にとっての敵は、十字軍だけではなかった。
「ヒャッハァーッ!!」
とある貴族の邸宅、上品に整えられたリビングには相応しくない下品な雄たけびと共に、ガシャーン! とけたたましい音が響き渡る。
「や、やめてくれ! これ以上はもう————」
「ああん? うるせぇんだよオッサン、黙って見てろよオラァ!」
邸宅の主である貴族の男を、革鎧を身に纏った男が思いきり蹴飛ばす。
王城勤めの文官である主人は、丸みを帯びた体型であり、精強と名高いスパーダ騎士ではないことなど一目瞭然であった。
何ら戦う力を持たない彼は、その理不尽な暴力をそのまま受けるのみ。蹴り飛ばされた勢いのまま、丸い体がゴロンと床を転がった。
「ああ、あなた!」
「お父様!?」
妻と娘が、倒れ伏す父へと寄り添う。
しかし、今の彼女達には、目に涙を浮かべて身を案じることしか許されない。
「へへ、まったく十字軍様様だぜぇ」
「こんな時じゃねぇと、俺らみてぇなのが貴族街になんか入れねぇからな」
「やっぱ凄ぇよな、貴族ってヤツはよ。ここにあるモン全部が上等だ————んん、酒も美味ぇ!」
ソファにふんぞり返り、テーブルに血で汚れたブーツを乗せ、適当に棚から出した酒瓶を煽る男。
薄汚れた格好で武装した彼らは、端的に言って、暴徒である。
十字軍の侵攻に伴い、首都スパーダは一夜にして混乱の坩堝に叩き込まれた。外壁たる第三防壁は襲来したその日の内に破られ、平民の住む外周区は十字軍が我が物顔で闊歩している。
ここにいる彼らも、その日の夜に慌てて逃げだしてきた避難民であった。
しかし、元より何も持たないスラム街の住人。避難の鐘を聞き、つるんでいる仲間達と共に無我夢中で第二防壁を越えて逃げ込んで来たが……初めて足を踏み入れた、煌びやかな貴族街。治安維持のために衛兵の巡回も密であり、屋敷に護衛がいるところも珍しくはない。
だが十字軍のもたらした混乱は、貴族街にも及んでいる。すでに王城まで避難を始めた者が大半。治安を取り締まる憲兵隊も、第二防壁の防衛戦に駆り出され、街中の巡回など誰も行ってはいない。
住人のほとんどが消え、監視の目もなくなった貴族街は、彼らにとっては宝の山にしか見えなかった。
そうして最低限の武装だけはしてきた仲間達と徒党を組んで、まずは手近な屋敷へと踏み入った。それが、ここである。
王城への避難まではせず、自宅に留まる選択をしたのは、彼らにとっては不幸なことであった。
「いいよなぁ、お貴族様ってのはよぉ、こんなクソデブでも美人な嫁さんが貰えるんだからなぁ」
「おい、もうちょっとランプ照らせよ……おほっ、確かに、こりゃあイケるイケる」
「ああー良かったなぁ、ママに似てお嬢ちゃんも美人じゃあないかよ」
下卑た男達の視線に晒されて、エルフのような細身の妻と、母親譲りの美貌を持つ娘は震え上がる。
「た、頼む……何でもくれてやるから、妻と娘にだけは、手を……」
「へへっ、それを聞いて、ますますヤリたくなってきたぜぇ!!」
「おいおい、ヤルなら一発だけにしとけよ。まだまだ屋敷は山ほどあるんだからなぁ、稼げる内に稼がないといけねぇだろ」
「大丈夫だろ、アイツ早いし」
「ぎゃはは、違ぇねぇ!」
「おい、うっせぇぞ!? 俺ぁ回数でカバーするタイプなんだよ!」
「へへ、奥さぁん、貴族仕込みのテクってやつを見せてくれよなぁ?」
「じゃあ、俺はガキの方を貰うぜ」
「おい、こだわりがねーんなら後にしやがれ。まったく、折角の初物を味わえるってのに、礼儀ってもんがなってねぇぞ」
「女を犯すのにも礼儀ってのがあったのかよ、初めて知ったぜ」
「何でもいいから、さっさとヤっちまえよお前ら。つーか、目障りだからここでおっぱじめんなよ、ベッドまで連れてけや」
「さっすがお頭ぁ! そこに気づくとは!」
「聞いたか、アレが礼儀ってやつだ。レディはベッドへエスコートってな」
「なるほどな、次からは気を付けるわ」
「おら、来いよ! さっさと立ちやがれ!」
盛り上がる男達に、いよいよ母と娘から絹を裂くような悲鳴が上がろうとした、正にその時である。
「————そこまでよ! 悪の暴徒達!!」
「な、なんだ、誰だテメぇは!?」
リビングの外、大きな窓に隔たれた広い庭から、眩い閃光と共に、女の声が凛と響き渡る。
男達は目を細めながらも、一斉に窓の外へと振り向いた。
「アナタのハートに百発百中! 桃色の愛にトキメいてっ! ドキドキフルチャージ、ピンクアローッ!!」
クスリでもキメてんのかと思うほどのハイテンションな叫び。
桃色に輝く謎の光の中で、ショッキングピンクのメットとスーツに身を包んだ怪しい女が、ハート型の弓を手に構える。
「……あ、悪を焼き払う灼熱の業火……えーと……熱血騎士『レッドナイト』」
「ちょっと、何よそのヤル気のない名乗りは!? やり直し!!」
「ええぇ……」
「今ならまだ間に合うから、はい、もう一回!」
「————悪を焼き払う灼熱の業火ぁ! 熱血騎士『レッドナイト』ぉおおお!!」
赤い光を背に、ヤケクソ気味に叫ぶのは、スパーダ騎士のように真っ赤な鎧兜に身を包んだ男であった。
手にした長剣には、俄かに炎が迸り、強力な熱と火属性魔力を発していた。
「凍てつけ悪よ、氷結地獄で悔いるがいい……冷血魔術師『ブルーウィザード』」
青い光と共に、どこからともなく吹き付ける風に青と白のローブをなびかせて、長杖をビシっと構えたポージングの眼鏡男。
ポーズは意味不明だが、男から発せられる凍てつくような冷気は尋常ではない。
そして変態的なピンク女を中央に、右に赤い騎士、左に青い魔術師が立ち、なんともカラフルな三人組が綺麗に並んだところで————ドォン!
「うおっ!?」
三色の煙を噴き出す爆発が起こり、暴徒の男達も、襲われていた貴族一家も、揃って声を漏らした。
「————キラキラ煌めく、正義の光! 勇気と希望の明日を照らす、天に輝く五つ星! 極星戦隊! シャイニングレンジャー!!」
「な、何なんだテメぇら……」
暴徒のお頭からは、最初と似たような台詞しか出てこなかった。
あんなに堂々と名乗りをあげたにも関わらず、まるで意味が分からない。こんなに怪しい奴ら、イカれた馬鹿揃いのスラムでだって見たことがない。五つ星、とか言ってるのに三人しかいないし。マジでなんなのコイツら……
「先手必勝! ハートブレイクショット!」
「ぐはぁ!?」
怪しい風貌と奇怪な名乗りで、暴徒達が呆気にとられているのをいいことに、ピンクは真っ先に弓を引いた。
番えられた桃色の魔力の矢は実に三本。リビングルームという屋内で、ある程度固まっていた男達は回避の余地もなく三本それぞれを喰らい、床へと沈んだ。
「くそっ、コイツらぁ!」
「おい、待て! アイツら三人だけじゃねぇぞ……そこら中に兵士がいやがる!?」
気が付けば、怪しい三人組の後ろには、ゾロゾロと完全武装の兵士達が現れていた。庭先だけでなく、そこかしこから、大勢の兵士が動いているような足音も響いてくる。
「ふっ、その通りよ。悪党共め、貴方達はもう完全に包囲されているわ!」
「マジかよ、ちくしょう……コイツら、騎士団だったのかよ」
「も、もうダメだ……」
「おい待て、分かったよ、俺達は大人しく降ふ————」
「ハートブレイクショット!」
「ぐはぁ!?」
「……おいピンク、今アイツ、降伏しようとしてただろ」
「ふっ、レッドナイト、ランク5冒険者を名乗っていても、貴方はまだまだね。いい、悪人の言葉になんて、耳を貸しちゃいけないわ。奴らは息を吐くように嘘を吐く。降伏を申し出て油断したところを、なんて常套手段、定番、テンプレ、もう見飽きた展開よ」
「いやこんだけ囲んでおいて、それはねぇだろ……」
「ま、待ってくれ! 降伏する!」
「騙そうなんてするわけがねぇ、俺達は本当に降伏するってぇ!」
「ほんの出来心だったんですぅ! 僕たちこれが初めてなんですぅ!」
レッドナイトの常識的な取りなしに、唯一の希望を見出したかのように、暴徒達は口々に叫ぶ。
すでに武器は放り出し、涙ながらに両手を上げて叫んでいる。
その無様な様子をピンクは一瞥し、
「……え? なに? 聞こえなぁーい」
ハートブレイクショット。
また一人、暴徒は倒れた。
「おいおい、いいのかよコレぇ……」
「レッドナイト、貴方には聞こえないの?」
「いや聞こえてねぇのはオメーの方だろ」
「私には聞こえるわ、今まさに襲われようとした、彼女達の心の声が。恐怖と悲しみの叫びが!」
「うっ、そりゃあ、そう言われると同情はするけどよぉ……」
「さぁ、よく耳を澄ませて聞いてみなさい、きっと貴方にも聞こえるわ、彼女達の助けを呼ぶ声が……助けて、助けて、と。一刻も早く、この粗チンぶら下げたゲス共を血祭りにあげて、生まれてきたことを後悔するような苦痛の果てに殺し尽くしてと」
「そこまでは言ってねぇだろ絶対」
「というわけで、正義執行!」
「ぎゃあああああああああああああ!!」
こうして、正義の名の元に殺戮、もとい、暴徒は倒され、貴族一家は無事に救助されるのであった。
「————あ、ありがとう、ありがとうございました!」
「ううん、いいのよ、助けが間に合って本当に良かったわ」
一方的に撃ち殺した暴徒の死体を踏みつけながら、ピンクは涙ながらに感謝の言葉を上げる家族の言葉を気分よく聞いていた。
ひとしきり感謝と称賛を聞き終えて満足したピンクは、改めて貴族の主人へと向き合い、真剣な声で言う。
「でも、これ以上ここに留まるのは危険よ。こんな暴徒達がそこら中で暴れ回っているし、十字軍だってもういつここへ雪崩れ込んでくるか分からないわ」
「そ、そうですね……私が浅はかでした……」
「今すぐ、王城へ避難しなさい。5分で支度をして。私の配下を護衛につけて、貴方達を王城までエスコートさせるわ」
「おお、それは本当ですか! ありがとうございます!」
「ふっ、正義のヒーローとして当然のことよ。さぁ、あまり時間はないわ、早く持てるだけ持って行きなさい」
そうして、慌てて金目のものと生活に必要な荷物をまとめ、ピンクの配下である『混沌騎士団』の兵に連れられて、一家は王城へと避難して行った。
「へっ……なんかこういうのも、悪くねぇな」
去り行く一家を見送って、レッドナイトはしみじみと呟いた。
「俺ぁ今まで冒険者だけやってきたけどよ、打算抜きで誰かを助けるっていうのは————」
「さぁ、レッド、ここからが本番よ。貴方は寝室の金庫に残ってる宝石の回収。私は地下の隠し金庫に向かうわ」
「はぁ、なんだよソレぇ!?」
「あの人がわざわざ金庫の場所を教えてくれたんだから、中身を回収するのは簡単でしょ?」
ピンクが5分の時間制限を設けて支度をさせたのは、持ち出す財産を保管している金庫などの場所を把握するためである。
三人家族で、彼らは徒歩で避難する。この大きな屋敷に溜め込んでいる財産の全てを持って運んでいくのは、重量的にも時間的にも不可能だ。しかし可能な限り持ち出そうとするので、必ず金庫には手を付ける。
ピンクはそれとなく貴族の主人を観察しながら、金庫の設置場所、それから視線の動きなどで地下への隠し扉がありそうな場所など、目星をつけておいたのだ。
なにせ、屋敷はまだまだ山ほどある————と、さっきぶち殺した暴徒のお頭と全く同じことをピンクは考えるのであった。
「在処の分かっている金庫を漁るなんて、ヒーロー初心者のレッドにはちょうどいいお仕事ね」
「いやそれヒーローの仕事じゃねぇだろ。今さっき殺した暴徒の仕事じゃねぇか!」
「いい、レッド、正義のヒーローをするにはね……お金も必要なの」
「だからって火事場泥棒が許されんのかよ!? 俺らは何のためにスパーダまで来てんだよ」
「稼ぐために決まってるじゃない。騎士団のしょっぱいお給料だけで満足していちゃあ、真の正義を成せないわ!!」
「せ、正義って一体何なんだ……?」
「ピンクさんの言う通りですよ。正義という理想を成すために、現実的な手段を実行する。実に理にかなっています……ああ、ピンクさん、地下の隠し金庫はすでに開けておきましたよ」
「さっすがブルー! よくやってくれたわ!!」
「いえ、魔法式の解錠に関しては、多少の心得がありますので」
「うへへ、まだ見ぬお宝が、私を呼んでいるわぁ……」
ピンクは暴徒もかくやという下品な声を漏らしながら、ブルーを伴って地下室へと向かって言った。
「はぁ、兄貴ぃ……なんであんな女に入れ込んじまったんだよ……」
弟であるレッドナイトは、どこまでも深く、重いため息を吐いた。
現在、ピンクと共に『シャイニングレンジャー』を組んでいるレッドナイトとブルーウィザードの二人は、元々はカーラマーラにおいてナンバー2を誇るランク5冒険者パーティ『アトラスの風』のリーダーとエースである。
兄のブルーはパーティを纏め、常に冷静沈着な判断で効率的に攻略を推し進めるリーダーとして。弟のレッドはその戦闘力を活かして、頼れる前衛のエースとして、『アトラスの風』の中核を成していた。
ランク5冒険者に相応しい戦力と功績を上げる『アトラスの風』だったが、カーラマーラにおいて不動の一位の座は『黄金の夜明け』であり続けた。
いけ好かないゼノンガルトのハーレムパーティ。だが、その力はランク5という一流を上回る、超一流の力を誇る。認めたくないが、認めざるを得ない。
だからこそ、己を鍛え、機会を待った。
そして、ついにザナドゥの遺産相続レースという、『黄金の夜明け』を倒す絶好の舞台がやって来た。満を持して挑んだが————結果は惨敗。
あれだけ意気込んで挑んだというのに、ゼノンガルト一人を相手に、命さえ奪われることなく、あっけなく全員が倒されてしまった。トドメを刺すほどの危機感さえ、奴には与えることはできなかったのだ。
何の因果か、そんな圧倒的な力を誇ったゼノンガルトさえ、最後には敗北を喫して今や妖精の女王様の忠実な下僕と化してしまった。
だが、そんなことは今やどうでもいい。
遺産相続レースの後、地上に戻った時、『アトラスの風』は自然と解散してしまった。
レッドはそれを止めようとしたが、肝心のリーダーである兄貴の心は、すっかり折れてしまっていたのだ。リーダーが止めることもなく、メンバーは散り散りに。
兄弟だからこそ二人は離れなかったが、あの後は毎日、酒場に入り浸りの日々。あんな廃人のようになってしまった兄貴を見るのは初めてだったし、今まで兄貴に頼りきりだった自分も、どうしていいか分からなくなった。
どうにかしなければ。だが、何をすればいいのか分からない。
しかし、そんなある日のことである。
「————よし、貴方は今日から、正義のヒーロー、ブルーウィザードよ!!」
気が付いた時には、兄貴はピンクに絡まれていた。
一体何を吹き込まれたのか、兄貴の顔には生気が戻り、冒険者を志していた少年時代のように、眼鏡の奥にキラキラとした希望と理想の光が灯っていた。
まさか、クスリでも盛られたのでは……真っ先に疑ったものの、結局、兄貴は正常だった。本気で、正義のヒーロー『シャイニングレンジャー』のブルーとして、これからはやってくのだと、熱い決意表明を聞かされた。
「うん、いいわね、貴方はレッドに相応しいわ! これからよろしくね、レッドナイト!!」
そして、知らない内に勝手にレッド認定され、今に至る。
兄貴を見捨てるわけにもいかず、仕方なく冒険者を辞め、レッドナイトとして『混沌騎士団』のピンク大隊への配属をよしとしたのだ。
その初仕事が、暴徒に襲われた無辜の民を救う……ではなく、火事場泥棒をさせられる羽目になるとは。騎士の誇りなんてのは特に持ち合わせていない元冒険者のレッドとしても、盛大な溜息を吐かざるを得ない。
「まぁまぁの収穫だったわね。さぁ、次に行くわよ!」
「マジかよまだ続けるのかよ……」
「当たり前でしょ。こういうチャンスが来るのを見越して、自宅にたっぷり溜め込んでそうな貴族の屋敷は、バッチリとリストアップしているから。安心して私についてきなさい。最高効率で貴族街の財産を集めてあげる!!」
「流石はピンクさん。このような事態を見越し、そこまで用意周到に準備をしているとは」
「ふふ、いいの、私一人では成し得なかった大仕事よ。ありがとう、ブルー、レッド、みんなの力があるから、ここまで来れたわ!」
「なに仲間のお陰みたいな、いい話風にしようとしてんだよ……ただ悪事の片棒担がせてるだけだろうが……」
「え? なに? 聞こえなーい。ブルーは聞こえる?」
「いえ、聞こえませんね」
「くっそぉ、兄貴ぃ……」
「さぁ、ジャンジャンバリバリ稼ぐわよ! 次の獲物に向かって、ピンク大隊出撃ぃー、おおぉー!!」
こうして、ピンク率いる大隊の活躍によって、クロノの重騎兵隊だけでは手の回らない、暴徒達の凶行を大きく取り締まることに成功した。
理不尽に襲われた沢山の人々を救った正義のピンク大隊の活躍は、クロノをして大いに満足させたが、その不自然なまでに集められた莫大な財宝については……
そんな正義のピンク大隊は、その中核を担うエース部隊『極星戦隊・シャイニングレンジャー』のイエローとグリーンを務められる優秀な人材を募集中。
さぁ、君もピンクと一緒に、今すぐ正義執行!!
清水の月6日。早朝。
日の出と共に、少年は家を出た。
背には年季の入った弓。身に纏うのは冬のガラハド山脈を静かに駆け回る、白い防寒着。出てきた家は山小屋だ。
そして、彼の頭の上には、ピンと張った獣耳。
狼獣人の少年は、狩人であった。
「凄い音がしたなぁ」
仕掛けた罠を見回るよりも先に、少年は夜明け前に響いた轟音の元へと向かうことにした。
興味と恐怖は半々。狩人の使命として、山に異変が起こればその確認をしなければならないことも、理由の一つだろう。
もしもランク5のとんでもないモンスターが暴れ回ったりしたのであれば、早急な避難も必要となる。
様々な想定をグルグル考えながら、静かに、それでいて速やかに少年は進んで行く。
雪深いガラハド山脈。中でも、この辺は滅多に人の寄り付かない奥地だ。最寄りの村も、麓までかなり歩いていかなければならないほどの距離にある。
冒険者でも遭難しかねない冬の山奥だが、ここに住む少年にとっては庭も同然だった。狼獣人特有の俊敏さでもって、素早く白い森の中を駆け抜けていく。
ほどなく、昨晩の音が響いたと思しき地点まで辿り着いた。
ざっと見渡したところ、特に異常は————あった。
「うわぁ、なんだアレ……何か降って来た、のか?」
林立する木々の中で、明らかにへし折られたばかりの場所がある。高所にある枝が折れているのと、何かが幹に直撃して倒れた跡が見受けられた。
さらには、倒木の向こう側には雪どころか地面まで抉られた跡が一直線に続いている。
「そういえば、空から星が降ってくることもあるんだっけ」
隕石、と呼ばれる神秘的な現象のことを、今は亡き両親から聞いたことを不意に思い出した。
小さな石コロのサイズでも、空の彼方から地上へ降り注いだ星の欠片は凄い威力となってぶつかるのだという。地面を抉るほどの強い衝撃になるのなら、山中に轟音だって響くだろう。
明らかに、空から物凄い勢いで何かが降って来たような痕跡を見て、少年はそう解釈したのだった。
「それじゃあ、この先には落ちてきた星の欠片が!?」
それはきっと、とんでもないお宝だ、と胸を高鳴らせて、少年は真っ直ぐ続く地面の跡を駆けた。
星の落下地点は、すぐに見つかった。シュウシュウと湯気のようなものが仄かに地面から立ち上っている。
さぁ、落ちてきた星というのは、一体どれだけキラキラ輝いているのだろう。好奇心と期待感とに満ちた顔で、少年はそこを覗き込み、
「うわぁっ!?」
思わず、悲鳴を上げた。
そこにあったのは、夜空に輝く星の欠片などではなく————黒焦げの焼死体だったからだ。
「し、死んでる……なんで、こんなところに……」
驚きはしたが、我を忘れるほどの恐ろしさはない。死体を見るのは初めてではないし、猟師というのは死と隣り合わせの仕事でもある。
少年は目の前の現実を受け入れると、冷静に死体を見た。
「大きい男だ……右腕がない? もしかして、サラマンダーと戦った冒険者……?」
少年の父親を彷彿とさせる、立派な体躯の大男である。全身を黒焦げになっていても、鍛え上げた逞しい肉体のシルエットはよく分かる。
右腕は肘の辺りから欠けており、装備品も特に身に付けてはいない。というより、完全に全裸である。
けれどサラマンダーのような強力な炎のブレスでも浴びれば、衣服は勿論、装備ごと焼け落ちてしまうのも無理はない。
「うーん、ギルドカードも見当たらないし……仕方ない、埋葬だけ済ませて、一応、村に報告しておくかぁ」
すっかり期待外れな上に、面倒事が増えたと鼻を鳴らした、その時であった。
グゥルルルル————
獰猛な唸り声が耳に届いた瞬間、少年は弾かれたように顔を上げ、同時に、弓を構えた。
そして、絶望する。
「よ、鎧白熊……なんでこんなとこに……」
白い毛皮と氷の甲殻を持つ、鎧熊の亜種である。
少年が狩場としている範囲よりも、さらに高い人跡未踏の山脈頂上付近に生息するはずの強力なモンスターだ。
すでに矢は番えられている。だが、とてもじゃないが、目の前で唸りを上げる大きなモンスターに勝てるビジョンは浮かばない。
メインの武器は、扱いやすいが、特に魔法の力など宿してはいない普通の弓矢。サブとして大振りのナイフを腰に差してある。
矢にしても、ナイフにしても、タフな巨躯に氷の鎧兜で武装した熊のモンスターには、何らダメージを通すことなどできはしない。
ダメだ、絶対に勝てない。この距離にまで接近を許してしまった時点で、少年の敗北である。
星が落ちていると、夢中になっていつもの警戒が緩んでしまった。その隙を突かれたような形。
死ぬ————ただ、その揺るがしがたい事実を受け入れようとした、その瞬間である。
「ふっ————」
黒い何かが、視界を過って行った。
ルォオオアアアアアアアアアアアアアアアッ!?
そして、気づいた時には、鎧白熊は真っ二つになっていた。
氷の兜に覆われた頭から、最も分厚い胴の甲殻まで、丸ごと切り裂いて。正に、一刀両断。
何が起こったのか、分からない。
けれど、少年の目は目の前にある事実を正確に映し出す。
「あっ……俺のナイフ……」
どうやら鎧白熊を一刀のもとに切り伏せたのは、あんなに頼りないと思っていた、自分のナイフであった。
思わず腰を手探りするが、やはり、残っているのは鞘だけだ。
「っていうか、生きて……る?」
最も信じ難かったのは、死体が蘇ったこと。
自分のナイフを手にして立っているのは、ついさっき検分してた焼死体だ。
黒焦げの肉体で、どう見ても死んでいるとしか思えない有様。
けれど、その男は確かに立っているのだ。立って、刃を構え、そして鎧白熊を切り伏せた。
「嘘だろ……生きてるのか……この人、生きて……」
ゆっくりと、こちらに振り返った黒焦げ男。
その両目はしっかりと開かれ、ギラギラと生命力に満ちた黄金の瞳で、少年を見つめていた。
「っ……ぁ……」
彼が何かを喋ろうとした、と思った時には、ついに本当の最期を迎えたかのように、がっくりと膝から崩れ落ち、再び雪の地面へと倒れ伏した。
「うわっ、ちょっと、折角生き返ったのに、死ぬなよオジサン!」
命の恩人にして、焼死体から蘇ってモンスターを斬った超人を死なせまいと、少年は鞄に常備してあるポーションを躊躇なく取り出すのであった。
2021年4月9日
レッドとブルーの『アトラスの風』は、第754話『第三階層・工業区攻略(1)』で登場しています。カーラマーラナンバー2冒険者パーティという肩書だけのモブが、ネームドキャラへ出世しました。これもピンクの人徳というものでしょう。勿論、レッドとブルーは本名じゃないです。
今回で第39章は完結です。
次章、ついに魔王を名乗り引っ込みつかなくなったクロノがどうするのか、乞うご期待!