第807話 落日(2)
「レオンハルト国王陛下が討たれ、アイゼンハルト第一王子が敵へと裏切ったというならば————王位を継ぐのは、この我、ウィルハルト・トリスタン・スパーダである!」
そう、ウィルハルトは叫んだ。
スパーダの第二王子。剣も魔法もロクに扱えない、残念王子。
誰もが期待の欠片も抱けなかった第二王子は、誰よりも先に、スパーダ存亡の危機に立ち上がった。
「鐘を鳴らせ、今日よりこの首都スパーダは戦場となる!」
覚悟を決めなければならない。敵は目前に迫っており、一切の猶予はない。
ガラハド要塞が落ちた。レオンハルト王が死んだ。アイゼンハルト王子が裏切った。絶望するには余りある最悪の状況だが、それを嘆き悲しんでいる暇はない。
今、この場に集っている者は、スパーダという国を任された責任を負う者達だ。どんな最悪な状況でも、それを打開するために行動しなければならない。
だから、ウィルハルトは叫んだ。
それが、王族として生まれた、自分がなすべき義務であると信じて。
「スパーダに残る全軍を以て、迎え撃つ。予備役も全て緊急招集し、臨時の徴兵もかけよ。今は速やかな防衛体制の構築と、一人でも多くの兵がいる」
首都スパーダの防衛には、それほど多くは残されていない。
ガラハド山脈によりその後背を守る立地上、ダイダロス側からの防衛線はガラハド要塞のみとなってしまう。
前回の戦いにより、十字軍の脅威が認識されている。さらに、今回はアヴァロンの裏切りもあり、そちらの防備にも兵を割かねばならない。
ガラハド要塞から抜けた穴を少しでも埋めるべく、前回よりも多くの兵を首都の防衛から引き抜いている。首都の防衛力は平時の3割は落ちているだろう。
そうして、ガラハド要塞に集結させたスパーダ軍の主力は、卑劣な裏切りによりあえなく壊滅した。
今、彼らがどれほど残っているのかは分からない。要塞を放棄し、首都に戻って来るならば良いが、あまり期待はできないだろう。
「今、この瞬間がスパーダ存亡の危機である。我が王位継承と、首都防衛作戦に異論のある者は延べよ」
「異論なし」
「第二王子ウィルハルト殿下の、王位継承を承認いたします」
「ウィルハルト国王陛下、万歳」
「首都防衛の王命、承りましてございます」
これほど祝福されない、新たな王の誕生はスパーダ建国以来、一度もないであろう。
だが、集った者達はこれを認めた。認めざるを得ない。ウィルハルトがスパーダ王となることは、レオンハルト王が急死した今、最速で国をまとめる最善策である。
期待はされずとも、ウィルハルトは国王の息子。正当な王家の血筋であり、王位継承権第二位を持つ。アイゼンハルトが敵へと寝返った今、これに反対する者は一人もいはしなかった。
そうして、最悪の報告によるショックから立ち直った王城は、すぐさま新王ウィルハルトの指示の元、首都スパーダ防衛の体勢が進められてゆく。
しかし、それでも尚、遅きに失した。十字軍は、その日の夕暮れにスパーダへと辿り着いてしまったのだ。
「————おのれ、防壁が突破されたか!」
ダァン、と拳を円卓にウィルハルトは打ち付けた。
出来るうる限りの早さで、スパーダを囲む外周、第三防壁へと兵を集めたつもりだった。
しかし、想像以上に十字軍の進軍速度は速かった。万全の防備が整いきる前に、十字軍は正門を攻撃し、破壊した。
「東大正門にはアイゼンハルト王子の姿もあり、第八使徒アイと同じ武器と力をもって、正門の破壊を行ったと、確かな目撃情報があります」
「そうか、やはり兄上は……よいか、兵には徹底して伝えろ。敵はアイゼンハルト王子の姿を偽っている。あれはすでに兄上では、スパーダの第一王子ではない。その姿を見ても、躊躇するなと」
あらためて確認された情報に、ウィルハルトは深いため息をつきながら、そう命令を念押しした。
心のどこかで、もしかして、という期待はあった。
だが、全て真実だった。兄アイゼンハルトは、今や第八使徒アイとなり、スパーダを襲う最悪の敵と化した。
この際、アイゼンハルト自身の意思で寝返ったのか、それとも体を奪われ操られているのか、死体を利用されているのか、という正確な事情は重要ではない。ただ、国民に愛された第一王子を見ても、敵であると認識してもらうことが大切だ。
故に、敵は卑劣な手段でアイゼンハルト王子の姿を偽っているのだ、とするのが最も適切な解釈である。
「防衛線を第二防壁まで下げろ。前線の兵には、可能な限りの遅滞戦闘を行い、敵の進行速度を少しでも遅らせろ」
すでに正門は完全に破壊され、今この瞬間に10万もの十字軍が首都へ雪崩れ込んできた。
最早、街の被害は避けられない。
「東側の住民を急ぎ、貴族街へ避難させよ。北、南、西、はまだ敵の手が回っておらん。外周近くの者は外へ逃がし、内周に近い者は貴族街へ入れよ」
首都全てを囲む第三防壁が突破された以上、平民の住まう外周区はもう十字軍の侵入を完全に防ぐ手立てはない。
それに十字軍の襲来と、防壁の突破までがあまりにも早すぎる。住民たちはまだ避難の準備をしている最中であろう。
どれほどの人数が無事に逃げられるか……いいや、どれだけの人数が十字軍によって殺戮されるか。想像するだけで、全身が凍り付くような感覚にウィルハルトは陥る。
ああ、これが、クロノが最も恐れていた状況なのだと、初めてウィルハルトは実感を以て理解した。
「陛下、東大正門を突破した十字軍は、第八使徒アイ率いる本隊が真っ直ぐ大通りを進み、第二防壁へと向かっております」
「侵入した十字軍の半分ほどが、左右に別れ街へと散っています。恐らく、全軍の統制はとれておらず、これらの大半は略奪目的で動いているかと思われます」
「外の十字軍は、北側へと迂回する動きあり」
「ガラハド方面からは、さらに続々と十字軍の増援がやって来ている模様。総数はすでに10万を大きく超えております」
悪化の一途を辿る戦況報告ばかりが飛び交う。
すでに時刻は日が沈んだ夜半となり、スパーダの街は夜の灯りだけでなく、赤々と燃え盛る戦場の火が広がり始めている。
この一晩で、どれだけの犠牲が出るのか。
絶望的な思考を必死に振り払い、ウィルハルトは考える。一人でも多くの命を守る方法を。
「……パンデモニウムの、ザナリウス公使を呼べ」
「はい、陛下。公使殿はすでに外へ待機しております」
扉が開かれると、夜中にも関わらずキッチリとカーラマーラ風の正装をした、ザナリウス公使が優雅に一礼して入室してきた。
外交特使ザナリウスは、正式にスパーダとの同盟が成立したことで、スパーダに常駐し外交を担当する公使となっている。
男女二人のホムンクルスを引き連れたザナリウス公使は、恭しくウィルハルト王の前に跪いた。
「新たなるスパーダ王、ウィルハルト陛下。公使ザナリウス、参上いたしましてございます」
「面を上げよ。火急の件にて、単刀直入に申す。転移を使い、我がスパーダの民を、パンデモニウムへ避難させることは可能か」
顔を上げたザナリウスは、正しく上客へ向ける満面の笑みを浮かべて答えた。
「勿論でございます! スパーダ王城以下、すでに開通済みの転移魔法陣は無制限稼働中。何人でも、喜んで我が国へと招待いたしましょう」
「心から感謝する」
亡国の危機に瀕する民を、これほど無条件で喜んで引き受ける国が他にあるだろうか。
ザナリウスは嫌な顔一つせず、避難民の受け入れを表明する。
たとえクロノが願おうとも、その実現には多大な労力がかかるのは事実。そして、そのコストをこれからのスパーダが支払えるかどうか。
ウィルハルトは、多少は渋る、あるいは何かしらの条件が付きつけられるだろうと思っていたが、拍子抜けするほどあっさりと認められた。
「全ては我らが主、クロノ様の慈悲にございますれば。スパーダを救う、それがクロノ様の望みであり、そのために我ら一同、全霊を以て励んでおります」
「このような事態も、見越していたというか」
「リリィ女王陛下は聡明であらせられる。最悪の事態を想定し、パンデモニウムには多くの避難民を受け入れる用意が、すでになされております」
リリィとて、僅か一晩でガラハド要塞が落ち、首都スパーダに侵攻を許すという事態なんて想定してはいない。
だが、遠からず大量の民をパンデモニウムに受け入れる必要性はあると思っていた。十字教勢力が大陸各地で一斉蜂起すれば、大量の難民が発生することは目に見えて明らかだ。
人間以外の種族を全て魔族と蔑み、その殲滅を掲げるのが十字教である。
ただ国を追われた難民ではない。十字軍に見つかれば、そのまま殺戮されることは避けられない、哀れな獲物だ。
そして、クロノはそういう存在こそを救いたいと願う。
だからリリィはあらかじめ準備は進めていた。クロノが救いたい者を救うために。
そして、救われた者達を効率よく生かし、利用するためのシステムもリリィは作り上げている。
毎日、ヴィジョンによって垂れ流される洗脳魔法があれば、どんな主義思想の持ち主であろうと、一週間もすればリリィ女王陛下に忠誠を誓う『良い子』になるのだから。
「まるで予知でもしていたかのような周到さであるな。だが、これほどありがたいことはない。この恩は決して忘れぬ」
「とんでもございません。主命を果たすことができ、我らも無上の喜び。パンデモニウムを頼っていただいた、ウィルハルト王の賢明なご判断に感謝いたします」
ひとまず、より多くの避難民を助ける目途がついたことに、ウィルハルトは安堵の息を一つ吐く。
それから、一拍を置いて、もう一つザナリウスへと問いかけた。
「ダキア方面の防備についたクロノ、パンデモニウム軍の動きはどうなっているか、そなたには分かるか」
「ええ、現在、首都スパーダ救援のために、全速力で向かっている最中であると、報告をいただいております」
「そうか。アヴァロン軍は」
「十字軍のガラハド要塞突破に合わせたかのように、軍を国境より引いたと。アヴァロン軍が撤退したので、第二隊『テンペスト』も一部をダキア砦の防衛に残し、こちらへ向かうようです」
「テレパシーを利用した情報通信は、流石に早いな。我がスパーダでも、もっと真剣に研究しておれば良かった」
「いえいえ、これは全て、リリィ女王陛下の偉大なるお力があってこそ。妖精女王の加護がなければ、実用化は難しいかと存じます」
アヴァロン軍撤退、などまだここに届いていない情報を語るザナリウスに、本気でテレパシー通信のありがたみをウィルハルトは感じた。
情報伝達が早ければ早いほど、その対策に時間がとれる。
もしもガラハド要塞とテレパシー通信が通じていれば、第三防壁での迎撃も間に合ったはず。
と、ないものねだりをしても仕方がない。
「陛下、我が主クロノ様より、伝言を預かっております」
「うむ、申してみよ」
「ウィルハルト国王陛下、以下、スパーダの重臣、騎士達も、パンデモニウムへ退避する用意をされたし、と」
「……そうか」
クロノでも、逃げろと言っている。
スパーダから十字軍を完全に駆逐するのは、最早、不可能だということだ。
「忠告、感謝する。だが我はスパーダ王、逃げるのは最後だ。可能な限り、侵略者共とこの王城で戦おう」
緊急の報せを告げる鐘の音が響いた時、受付嬢のエリナは冒険者ギルド学園支部にいた。
ランク5冒険者『エレメントマスター』の担当として、去年、スパーダ冒険者ギルド本部へと栄転したが、今日は古巣の学園支部へとやって来ていた。
もっとも、学園支部に用があったのはギルドマスターであり、エリナはたまたまその手伝いに声をかけられ付き添ってきただけである。
そうして、エリナは夕刻、本部へと持ち帰る資料をまとめて鞄へ詰め込んだ時に、その鐘の音を聞いた。
「一体、何が起こっているの……」
それからは、冒険者ギルドも上から下まで大騒ぎとなった。
ガラハド要塞は陥落し、十字軍が迫っているという。最初は何かの冗談、いや、質の悪い誤報だと思った。
しかし、時間経過と共に続報が届き、それが正式なものであることを知るに至る。
日が沈み、夜の帳が下りてくる頃には、エリナは学園支部の受付に立ち、その場にいる全ての冒険者にスパーダ軍の臨時徴兵を受ける手続きの仕事に入っていた。
すでに緊急クエストとして第四隊『グラディエイター』が編成されているため、多くの冒険者がガラハド要塞へと向かっている。だが、まだそれなりの冒険者もここには残っている。
単純に緊急クエストを受けなかった者や、今日戻ってきたばかりの者など。
そういった者達に、片っ端から首都防衛戦への参加を呼び掛けたのだ。
この場にいるギルドマスターが陣頭指揮に立ち、速やかに冒険者に緊急クエスト『首都防衛』を受けさせ、スパーダ軍の指示に応じて現場へと送り出す。
エリナは見慣れた学園支部の受付に立ちながらも、遠くから時折響いてくる轟音を聞き、この生まれ育った首都スパーダが、今まさに戦場と化しているのを感じた。
「……はぁ、終わった」
どれほど時間が経っただろうか。無事に学園支部と周辺にいた冒険者達を送り出し、ギルド職員の他にエントランスはようやく無人となった。
仕事は終わった。
だが、戦いは終わらない。
ギルドの外には、悲鳴や怒号が飛び交い、大勢の住民たちが避難をし始めているようだった。
「エリナ君、お疲れ様」
「ああ、ギルドマスター、お疲れ様です」
スパーダ冒険者ギルドを預かるギルドマスターは、エルフの老人である。白い髭を伸ばした痩躯は、その道ウン百年といった雰囲気だが、意外とギルドマスターという役職の入れ替わりは激しい。
だが、誰になってもギルドマスターという座には、無能がつくことはない。今のギルドマスターも、冒険者だけでなく王宮とも関わってきた人物であり、その責任ある役職を過不足なくこなしていた。
「悪いが、これから本部に戻ってもうひと働きだ」
「分かりました」
「裏に馬車を回してある。すぐに出発する」
エリナは手早く荷物を纏め、馬車へと向かった。
冒険者ギルドの紋章が入った馬車は、なかなか立派な造りである。大型の箱型で、それなりの人数が乗れる。
しかし、今はギルドマスターとエリナ、他数名の職員を乗せただけで、車内はやや寂しい。
「出してくれ」
「はい!」
馬車が走り出す。
ギルドにいた時よりも、さらに激しい戦いの音がエリナの長い耳に届いてくる。
「そんな、街が、燃えているの……?」
「本当に正門を突破されてしまったようだ。もうあんなところにまで火の手が上がっているとは」
窓から覗くと、遠くに赤々とした輝きと、夜空に立ち上る黒煙が見えた。
ある程度の戦況は、ギルドにも届けられていた。正門が破られ、敵が街へ侵入し始めた、というのも聞いている。
だが、こうしてあちこちから火の手が上がっているところを目撃すると、尚更に実感が湧いてくる。
エリナは震える手を握りしめて、早く本部に着くことを願った。
ギルド本部は第二防壁を越えた貴族街にあり、現在はそこを防衛線として構築中である。そこへ逃げ込めば、ここよりはずっと安全となるだろう。
沢山の住人は、そこへ逃げ込めることもなく、いつ敵が出るかも分からない暗闇の街を逃げ惑うことになるが……そんなことを考える余裕はエリナにはなかった。
今はただ、怖かった。
彼女はギルドの受付嬢。戦う者を送り出す仕事。戦うことが仕事ではない。無力な、ただのエルフの女性。
ドッ、ドガガガガガ————
恐怖に囚われた暗い思考に沈んでいた時、突如として衝撃と轟音が襲い掛かった。
「キャアアアアアアアアアアアッ!!」
咄嗟に叫んでいた。叫ぶことしか、彼女にはできない。
「ハァ……ハァ……」
あまりに突然のことだった。
気が付けば、視界が横向きになっている。
倒れている。けれど、まだおかしい。やや鈍痛のする上体を起こしても、まだ車内は横向きに見える。
しばし呆然としてから、ようやく馬車が横転し、止まったことにエリナは気づいた。
「うぅ……みんな、無事かね」
「えっ、あ、はい」
気の抜けたような返事をエリナはする。他の職員も似たようなものだ。
幸い、強く頭を打つなどの重傷を負った者はいなかった。
だが、彼らにとっての幸いは、それで全てであった。
「おい、中にいる奴ら、出ろ」
「さっさと出てこい。火ぃつけられる前にな」
事故ではない。襲われた。
エリナを乗せた馬車は、道半ばで襲撃に遭ったのだった。