第806話 落日(1)
清水の月6日。夜明け前。
アイゼンハルト第一王子、否、第八使徒アイは、ガラハド要塞内にある王の寝所へ悠々と足を踏み入れた。
ベッドは上質だが、飾り気はなく、閨を共にする女もいない。どこまでも質実剛健な要塞らしいその一室で、スパーダ王は寝入っている。
「相手が油断しているところを狙うのは、狩りの基本ってね。久しぶりに、初心に帰ってってやつ?」
そんなことをつぶやきながら、アイは腰に差してある剣を抜く。アイゼンハルト王子の愛剣に相応しい、大業物の両刃剣。
研ぎ澄まされた刃は、静かな殺意を込めて、振り上げられる。
「悪いね、アイちゃんは正々堂々の騎士様じゃなくて、手段を選ばない狩人様だから————じゃあね、スパーダの剣王様」
そして、振り下ろされた刃は————無人のベッドを真っ二つに切り裂いた。
「……余の命を狙うとは、どういうつもりだ、アイク」
「あちゃー、やっぱ起きてたかぁ」
見れば、そこには寝間着姿のレオンハルト王が悠然と立っている。
その手に剣はない。だが、右腕の手首には、スパーダ王の証が一つたる、黄金の腕輪が嵌められている。
「出でよ————『王剣クリムゾンスパーダ』」
螺旋状に連なる赤い輝きの魔法陣から、真紅の大剣が出現する。歴代の王によって鍛えられし、スパーダ最高にして最強の剣。
巨大な刀身から発せられる、燃えるような凄まじい魔力が、瞬く間に部屋へ満ちる。
「答えよ、アイク」
「ふふふ、やだなぁ、答えなんて、もうとっくに分かっているくせにぃ」
快活に笑うアイゼンハルトだが、今その父親譲りの凛々しい顔に浮かぶのは、どこまでも軽薄な笑み。絶対的な優位に裏打ちされた、獲物を嘲笑う笑顔だ。
「武装聖典、解放————『星霊神弓』」
刹那、王剣の発する魔力を塗りつぶすほどの絶大な白色魔力のオーラが吹き上がる。
アイゼンハルトの真っ赤な髪を逆立たせながら、恐ろしいほどの魔力の奔流が渦巻き、一際輝く白い光が掲げた左手に収束した直後、神の弓が現れる。
第八使徒アイが誇る、武装聖典『星霊神弓』。
美しい白翼の大天使を模した、聖なる弓。先のガラハド戦争で、アイが使った恐るべき弓であることをレオンハルトは知っている。
そして今、目の前に息子が握るソレが、同じものでありながら、比べ物にならない輝きと白色魔力を発していることを感じさせてならない。
「貴様、姿を偽っているのではない、よもや、本物のアイクの体を————」
「そう、アイク君の体は、ありがたく貰い受けたよ。私の特化能力、『新生廻帰』でね」
「おのれ、転生の禁術を操る、寄生虫めが!」
怒りのままに、それでいて使徒という最強の敵を前に、真紅の王剣は力強く振り上げられる。
剣士を相手に、射手がこの至近距離。たとえ使徒であろうとも、相手は人類最強格の剣士。直撃を許せば、ただでは済まない。
だが、すでにアイは間合いに入っている。レオンハルトという、一人の父親の心の間合いに。
「————やれぇ、親父! 俺ごとコイツを斬れぇっ!!」
迫真の表情で叫ぶ、アイゼンハルト。
反撃のために弓を引こうとした手が、途中で止まっている。
「アイク————」
まだ、その意思が、魂が残っている。
そんなはずがないと知りながら、レオンハルトはその瞬間、剣を振り下ろす力を止めてしまった。
「にゃんちゃって————『審判の矢』」
一転して、ふざけた笑みを取り戻したアイは、弓を引く。
手を止めていたのではない。溜めていたのだ。『審判の矢』を作り上げるに足る、神聖元素を。
かくて使徒が番えた、裁きの矢は解き放たれる。
それは最早、一本の矢ではなく、真っ白に輝く光の帯と化して————レオンハルト王を飲み込んでいった。
「ひゃあっ、スゲー威力!? これ前の体の倍以上は軽く出てるよー」
ひゃっほう、と喜ぶアイの前に、すでにレオンハルトの姿はない。
ただ、その場に王剣を握りしめた右腕だけが、取り残されたように床へと落ちていた。
「あ、しまった、本体丸ごと消し飛ばしちゃったから、首とれないじゃん」
右腕以外は、跡形もなく消えてしまった。あまりの威力に、レオンハルトの肉体は消滅し、部屋の壁を貫き、さらには分厚い要塞の外壁までぶち抜き、『審判の矢』の射線が綺麗に外まで開かれている。
この一撃がどこまで飛んでいったのか、アイにも分からなかった。
「まぁ、でも王剣と腕輪が残っていれば何とかなるなる!」
これがスパーダ王を狩った戦利品、とばかりに腕輪の嵌った右腕を拾い上げた、ちょうどその時である。
「陛下! 何事ですか、今の爆音は————っ!?」
「おおっ、この悪魔のお爺ちゃんは、ゲス、ゲロ……ゲゼンブール将軍だ!」
騎士を伴い現れたのは、スパーダ軍第三隊『ランペイジ』を率いるバフォメットのゲゼンブール将軍である。
先の大戦で、レオンハルト王と共に自分を追い込んだ相手の一人であったため、その山羊顔には覚えがあった。
「こ、これは一体……殿下、レオンハルト陛下は……」
「悪魔でもお爺ちゃんだとボケちゃうのかな? コレと、コレを見ても、まだ分かんないかなー」
と、アイは自らの力の象徴たる聖霊神弓と、床に転がった王剣クリムゾンスパーダを指す。
「しょうがないから、改めて自己紹介。どうもー、転生術で王子様にパラサイトしてる、第八使徒アイでーっす」
状況を、すでに察してはいるだろう。
だが、あまりに突然の出来事に、ショックを隠し切れない。即座に現実を受け入れることができない。
それは長年スパーダに仕え続け、これからもまだ身命を捧げると誓っている将軍にとっては、あまりにも残酷な真実であるから。
「でも、この剣も腕輪も、もう私のモノだし、体は本物のアイク君だからぁ————ふふん、余が新たなスパーダの国王、アイちゃん王である。者共、控えおろー」
そう笑いながら、アイは王の宝物庫たる腕輪を、自らの右手首に装着した。元の持ち主の右腕は、ゴミのようにその場へと放り捨てて。
「き、貴様ぁっ!!」
「ダメだよ、王様に逆らっちゃあ。とりあえず反逆罪で死刑。悪魔だから、無罪でも死刑だけどね」
そうして、アイは再び弓を引く。この身に湧き上がる力のままに。
清水の月8日。
ガラハド要塞、陥落。
嘘か真か、そんな報告がスパーダ王城にまでもたらされた。
「な、なぁ、ガラハドが落ちたって……マジなのか?」
「はぁ? そんなワケねーだろ」
真意のほどは定かではないものの、首都スパーダの各門には警戒態勢に入るよう、命令は発せられていた。
首都を守る三重の防壁。その最も外側の防壁上に配置された兵士達は、どこもかしこもその話題でザワついていた。
「でも、こんな命令が出るってことは、本当なんじゃないのか?」
「敵が来たのはついこの間だろ。そんな短い間に、あの難攻不落のガラハド要塞が落ちるワケがねぇ」
「そうだそうだ、あそこは竜王ガーヴィナルだって落とせなかった最強の城だぞ」
「レオンハルト陛下が自ら守ってくださっているのだ。滅多なことは口にするものではない」
噂は凄い早さで伝わっていく。だが、多くの兵士はそれを頭から信じることはしなかった。
それはガラハド要塞が長きに渡ってスパーダを守り切った実績と、最強の剣士であるスパーダ王レオンハルトの武勇が、あまりにも大きかったから。
誰も、信じてはいなかった。
精々、敵の小部隊が強引に要塞を迂回して突破しただとか、天馬や飛竜などの空中部隊が飛んでくるだけだとか、そういった現実的な事態を想像していた。
そんな風に噂で騒然とする中、今日という日の終わりを感じさせる、日暮れの時刻となった。
逢魔が時。
という言葉が、古代から残っている。曰く、昼と夜が移り変わるうす暗い時間帯は、魔物と遭遇する。転じて、大いなる災いが訪れる時だと。
果たして、魔物は来た。災いは訪れた。
だが、やって来た者達は口を揃えてこう言うだろう————貴様らこそが、魔であると。
「てっ、て、敵襲ぅーっ!!」
ガァーン、ガァーン、とけたたましい鐘の音が鳴り響く。
声の限りに、防壁の守備についた兵士が叫ぶ。
来た。敵が来た、と。
しかし、その報告にはさほどの意味はない。もう、誰もが理解してしまった。百聞は一見に如かず。防壁の上に立つ兵士達の目には、すでに敵の姿が……見間違いも、見落としも許さないほど、あまりにも多くの敵が見えてしまっている。
白一色に統一された軍団。十字の旗を翻し、街道を白で埋め尽くさんばかりに、進軍してくる。
「十字軍だっ!!」
「そ、そんな、嘘だろ……」
「本当に、ガラハド要塞は落ちたのか」
「国王陛下はどうなったんだ! 我らがスパーダの剣王はっ!?」
暮れなずむ夕日を背景に迫り来る、十字軍の大軍を目の前にして、ようやく現実というものを兵達は認識した。
そして、現実というものは、えてして残酷なものだ。
「やぁやぁ、親愛なるスパーダの兵士諸君。私はスパーダの第一王子アイゼンハルト————」
十字軍が正門目前にまで迫った時、先頭から進み出てきたのは、アイゼンハルト王子に他ならない。
剣王レオンハルトの息子に相応しい武勇と聡明さを誇る、次代の王として広く愛され、期待されているスパーダ自慢の王子様である。
「————ではない。私は第八使徒アイ。君たちの知っている王子はもういない」
アイゼンハルトの体から、白銀のオーラが噴き出す。同時に、その手には白い輝きを宿す弓が握られた。
「私は使徒として、レオンハルト王を討ち、ガラハド要塞を陥落せしめ、そして今、首都スパーダへと辿り着いた。君たちには、もう勝ち目はない。さぁ、我ら十字軍に、スパーダを明け渡すがいい」
「————撃てぇっ!!」
返答は、魔法と矢の雨であった。
「敵は卑劣にも、アイゼンハルト王子殿下の姿を偽っているぞ!」
「ガラハド要塞はアイツのせいで落とされたんだ!」
「殺せぇ! 奴らを一歩もスパーダへ入れるな!!」
スパーダの守備隊から、猛烈な攻撃が始まり、アイは転がるように戻って行った。
「ちょっと、いきなり撃つとか酷くない!? もしかしてアイク君ってめっちゃ嫌われてるんじゃにゃいの?」
「スパーダ兵を動揺させるなら、もっと本物らしい演技をなさった方がよいでしょう」
「そういうの先に言ってよシルビアちゃん!」
「いえ、使徒であられるアイ様には、不要な小細工かと」
恭しく頭を下げるシルビア。
十字軍へと戻った彼女は、もう侍女の変装をする必要はなく、修道服へと着替えている。
第八使徒アイに尽くす、忠実な神の僕。それがシスター・シルビア。自由奔放なアイの行動をサポートできるのは、彼女しかいない。
「折角、カッコいい感じでキメたのになぁ……やっぱ私にはこういうの向かないわ。しょーがない、大人しく正攻法で行くよ」
「ええ、それがよろしいかと」
アイゼンハルトの姿を利用して、口先だけで開門できなかったことはあまり気にせず、アイは改めて正門へと向き直る。
「————『審判の矢』」
剣王をも消し飛ばした、裁きの矢が放たれ、巨大な正門へと直撃。
凄まじい閃光と轟音とを上げながらも……門は、いまだ閉ざされたままだった。
「うーん、流石は首都を守る門だけあるね。一撃じゃ破れなかったよ」
「いえ、十分でしょう。ここにはアイ様だけではなく、十万もの同胞が揃っているのですから。彼らにも出番を与えてあげなくては」
「それもそうだよね。じゃ、後はヨロシクー」
「はっ! 第八使徒アイ様、後は我々にスパーダ攻略はお任せあれ」
「『破門鉄槌』の発動準備! 各魔術師部隊は配置につけ!」
「アイ様の攻撃により、正門はすでにガタガタだ。あと何発か撃ち込めば砕ける。突入部隊も準備をしておけ」
神々しいほどの白い輝きと共に、城門などの防衛設備破壊に特化した複合魔法『破門鉄槌』が次々と放たれる。
魔力を温存した魔術師部隊による『破門鉄槌』の釣る瓶打ちにより、堅牢な首都の正門もあえなく砕け散り、
「さぁ、行くぞ、聖なる戦士達よ!」
「魔の都を攻め滅ぼせ!」
「神のご加護を」
首都スパーダへ、ついに十字軍10万が解き放たれた。
十字軍がスパーダへと辿り着く直前、王城にようやく詳細な情報が届けられた。
「ば、馬鹿な……そんな馬鹿なことが、ありえるものかっ!?」
「残念ながら、間違いないようです……」
王城内部にある会議場にて、スパーダの重臣達は揃って暗澹たる表情を浮かべた。
今朝方から、次々と王城へともたらされる、ガラハド要塞陥落の情報。一番最初に届いたのは、緊急伝令用の隼の使い魔によって届けられた。それは本来あるべき形式も無視した、殴り書きのような一枚の書状。
『要塞の門が突破。国王陛下、討死。ゲゼンブール将軍、討死。アイゼンハルト王子、裏切り、使徒を名乗る』
俄かには信じがたい。緊急伝令だが誤報を疑う内容だった。あるいは、敵の奇襲でも受けて、よほど混乱をきたしていたか。
信じられない内容ではあっても、万一、事実であれば事は緊急を要する。すぐさま、事実確認をするべく動き始めたが、その後も、同じ情報が届けられた。
隼の次に来たのは、飛竜に乗る伝令兵。次いで、足の速い騎馬を駆る騎士と、移動系武技に特化した兵士。
彼らは一様にボロボロであり、体力と魔力を振り絞り、一秒でも早く情報を届けるべく走ってきた。
そして、ようやく王城の重臣達も理解した。最初に届けられた、隼の書状に書かれていた内容は、全て真実であったと。
本日未明、レオンハルト王の寝所が襲われた。
下手人は、アイゼンハルト第一王子。
異変を察知し、ゲゼンブール将軍が配下を率いて現場に駆け付けると、そこには王剣と腕輪、そしてレオンハルト王のものと思わしき千切れた右腕だけが残されていた。
自ら第八使徒アイを名乗るアイゼンハルト王子により、その場でゲゼンブール将軍も討死。
アイゼンハルト王子は、確かに、先の戦いにて第八使徒アイが使用していた白く輝く天使象の弓を扱い、圧倒的な力で将軍も騎士も蹴散らした。
そして使徒と化したアイゼンハルト王子と、彼が率いてきた『グラディエイター』の一部が呼応し、要塞内で反乱を起こした。
正門は開かれ、そこで動き始めた十字軍が雪崩れ込み————ガラハド要塞が誇る堅牢極まる巨大城壁は、何の役にも立たず、瞬く間に占領された。
使徒という圧倒的な個人戦力と、内部から要塞の守りを無力化されたこと。そして、その好機を正確に察して動いた十字軍の大軍。
ガラハド要塞を守るスパーダ軍に、成す術などなかった。
「ど、どうするのだ。こんな最悪の事態は、想定されていない」
「ガラハド要塞が一夜で陥落し、レオンハルト陛下も討たれた……スパーダはお終いだ」
あまりに絶望的な状況に、言葉もない。
静まり返った会議場。スパーダを支える重臣とはいえ、この想像を絶する最悪の局面に立ち向かう覚悟を決めるのに、今少しの時間は必要だった。
「諸君、聞いて欲しい」
そして、最初にその静寂を破ったのは、この場で最も年若い、まだ少年とも呼べる一人の男。
「レオンハルト国王陛下が討たれ、アイゼンハルト第一王子が敵へと裏切ったというならば————王位を継ぐのは、この我、第二王子ウィルハルト・トリスタン・スパーダである!」
2021年1月1日
新年あけましておめでとうございます!
いきなりスパーダ落ちる話で、あんまり縁起が良い感じはしませんが、今年も変わらず連載を続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
それでは、今年も『黒の魔王』をお楽しみください。