第795話 第十三使徒
刹那、真っ白い輝きが爆ぜた。
「ぐうっ!? これは————」
凄まじい爆風が俺の体を煽るが、その衝撃よりも、全身に感じる魔力の気配に驚愕する。
第六感をビリビリと強烈に刺激する、この感覚。覚えがある、どころじゃない。決して忘れえない、最も恐るべき、そして、究極の存在感。
白い閃光が収まった先に、立ち上がったネロの姿が霞んで見えた。
濛々と煙るのは、白煙でも水蒸気でもない……これは、魔力だ。
キラキラと白銀に輝く魔力のオーラが、ネロの全身から吹き上がる。それは力強く渦を巻き、その身から無限に湧きだすかのような勢い。
圧倒的な白色魔力のオーラを身に纏うその姿は、まるで————
「……使徒、なのか」
「ああ、そうさ————」
気だるそうに言い放つネロが、真っ直ぐに俺を見た。
赤かったはずの瞳は、どこまでも冷たく、アイスブルーに輝く碧眼になっている。気が付けば、俺と同じ黒い髪も、煌めくような銀髪と化していた。
「————第十三使徒ネロ。それが、今の俺だ」
「そんな馬鹿な、新たな使徒が覚醒しただと!?」
何故だ、どうして……こんな時に、しかも、ネロが使徒になったのか。
くそ、冗談じゃねぇぞ。『白き神』はこんなにも都合よく、現実に干渉できるのかよ!
「ははっ、凄ぇな、これが加護の力ってヤツか。真面目に鍛えるのが馬鹿らしくなるほど、途轍もない力が湧いてくる————『聖剣・光輝』」
ゆっくりと大きく掲げたネロの右手に、眩い白光が収束してゆく。それは瞬く間に、十数メートルにも伸びる巨大な光の剣と化し、
「まずは試し切りだ。一撃で消し炭になるんじゃねぇぞ?」
振り下ろされる、光の巨大剣。
凄まじい魔力密度と灼熱を宿した輝ける刀身は、俺を丸ごと飲み込むかのように迫り来る。
「『鋼の魔王』っ!!」
第二の加護発動。最大の防御でもって受け止める。
とんでもない光属性の威力が叩き付けられる。熱い。重い。全身がバラバラになりそうな衝撃と、ドロドロに溶けてしまいそうな高熱を感じる。
だが、死ぬほどじゃない。どうにか凌ぎきる。
「ぐううっ……」
ジュオオオオ、と地表が湧きたつ音が聞こえた。
体の方に深刻なダメージは負っていない。しかし、『悪魔の抱擁』の大半が焼失してしまった。
ちくしょう、『暴君の鎧』を着込んでおけば良かった。一張羅が台無しだ。
「で、クロノ、まだ俺を生け捕りにすると舐めたことを言えるか? 残念だが、今はもう————俺の方が、お前より強い」
ああ、参った、本当にその通りだ。
使徒が相手じゃあ、俺だって一対一で勝機はない。ミサは使徒の力を振るうだけの、素人同然だったから何とか追い詰めることができただけ。
しかし、ネロは現役でランク5冒険者。
それが、ただの素人でも一騎当千の最強クラスにまで押し上げる破格の能力を与える使徒と化したなら……手が付けられない。
恐らく、第七使徒だった頃のサリエルよりも強い。サリエルには『特化能力』を持たない分、つけ入る隙もあったのだ。
だが、ネロは元々の高い戦闘能力に加えて、普通に『特化能力』も備えていると見るべきだろう。
「……」
チラっと一瞬、フィオナの方に視線を送る。
まだ手を出すな、という思いは伝わったはずだ。
ネロは使徒として覚醒したばかり……だが、錯乱したり暴走したり、といった風には見えない。無限の白色魔力によるオーラも、サリエルに劣らない密度と圧力を誇っている。十全な戦闘能力を、すでに発揮できるはず。
対して、こちらはリリィを欠いたメンバー構成。
挙句、シャルロットにネルと、今のネロに奪わせるわけにはいかない重要人物も揃っている。
今の俺に出来る最善手は、どうにかして全員でこの場を脱することだ。
「……まさか、こんな土壇場で使徒に覚醒するとはな。ネロ、お前は元から十字教徒だったのか」
「俺は奴らの言う『白き神』とやらを信じる気は毛頭なかったが……今なら、信じてやってもいいぜ」
ネロが実はシルヴァリアンのような隠れ十字教徒だった、というワケではなさそうだ。だとすれば、やはりネロが十字教と接触したのは、リィンフェルトと出会ってからなのだろう。
使徒に目覚める条件は、やはり単純な信仰心ではないようだ。『白き神』には使徒を決める独自の条件がある。
ジュダスはその条件を知っていたから、自ら作り出した人造人間のサリエルを第七使徒にできたのだろう。
そして今、ネロはその謎の条件に偶然にも適合した……と考えるには、やはり、あまりにも出来過ぎている。
『白き神』は最初からネロに目をつけていたのかもしれない。魔王ミアの血を引くネロを。
「その力は、ただ強力というだけじゃない。きっと、パンドラ大陸の人々に向けられる。奴らは人間以外の種族を魔族と呼ぶ。使徒の力は、神の敵である魔族を滅ぼすためのものだ」
「警告のつもりか? 今更だな。『白き神』は、力を求めた俺の声に応えた。他の誰でもない、黒き神々でもない、『白き神』だけが、俺に力を与えてくれたんだ。本当に力を欲した、その時にな」
「『白き神』が、都合よく願いを叶えるだけの神なはずがないだろう。使徒になれば、神の意思には逆らえなくなる。サリエルがそうだったように、お前もパンドラの人々を殺戮するための手駒にされるぞ」
「リンを守るためなら、俺は手段を選ばねぇ。そして、こんな力が必要になるほど俺を追い詰めたのは、他でもない、クロノ、テメぇのせいだぜ」
「あの女一人のために、お前はどれだけの人を巻き込むつもりだっ!」
「愛した女の一人も失ったことのねぇ奴が、偉そうに偽善を吠えやがる」
偽善だと。
ネロ、お前は分かっていない……人が死ぬんだ。本当に、沢山の人が殺される。
俺がイルズで見た、アルザスで見た、あんな光景が、今度は大陸中で繰り広げられるのだ。十字教の侵略を許すというのは、そういうことなんだぞ。
「アイツを守れなきゃ、他の奴らが何人救われたって、意味がねぇんだよ。一番大切だから、何よりも、誰よりも優先する。当たり前のことだろうが」
「だからといって、幾らでも犠牲を強いていい理由になんかなるかよ。お前の裏切りは、アヴァロンとスパーダだけじゃない、パンドラ全土の平和を脅かす最悪のものだ」
「そんなことは、俺の知ったことじゃねぇな。いいかクロノ、俺はこの力で、お前を殺す。そして、リンを守り続ける。それ以外のことは、全て些末なことだ」
どの道、ネロが使徒として覚醒した時点で、もう後戻りはできない。
ここで俺が潔く死んだとしても、ネロが止まることはない。使徒だからな。白き神の意志によって、どれほどの殺戮を繰り広げることになるか分からない。
少なくとも白き神は、ネロがリィンフェルトと二人で幸せに暮らす人生を送らせるためだけに、加護なんざ与えないだろう。
「くそ……もう、説得の余地はどこにもない、か……」
「ああ、そうさ、だから諦めろ。そして、絶望するといい。あの日の俺と同じように、自分の無力を呪ってな————」
そうして、ネロは再び手を振り上げる。
その手に掲げられた光の剣は、先ほどのさらに倍ほどの大きさにまで広がる。凄まじい魔力密度だ。ただのハッタリじゃあない。
あれが直撃すれば、『鋼の魔王』でも耐えきれるか怪しい。
ネロにはもう、俺と話すことなど何もないのだろう。ハナから、俺の言葉など聞く耳を持たなかったが……これまでとは比べ物にならない、明確な殺意が俺へと向けられた。
「そうはさせません、お兄様」
その時、俺とネロの間に割って入ったのは、ネルだった。
後先考えず、感情的に思わず、といった様子ではない。彼女もまた覚悟を決めた様子で、裏切り者の兄に真っ向から立ち塞がる。
「どういうつもりだ、ネル」
「どうもこうも、ありませんよ。こんな狼藉を、見逃されるとお思いですか」
「俺のやることに、誰の許しがいるというんだ?」
ネルの後ろ姿から迸る凄まじい戦意は、どこまでも傲慢な物言いをする兄に対する怒りの発露か。
ギリリ、と固くネルの拳が握られるが、それを振り上げることはなかった。
「……ならば、私ごと彼を斬ればよいでしょう」
「なんだと」
「今ここでクロノくんを殺すというのならば、私も共に死にます。ですが、もしも貴方にまだ、私を妹として命を惜しんでくれる気持ちがあるのならば、どうか、この場を退いてください」
「言うようになったじゃねぇか、ネル。まさか、自分を人質にして交渉するとはな」
そうか、ネロが殺したいのは俺であって、この場の全員を皆殺しにしたいワケではない。
ネルが俺を、身を挺して庇えば、そりゃあネロだって斬り込めない。
しかし、だからといってその提案を手放しで称賛は出来ないな。
「よせ、ネル。今のネロは正気じゃない」
「ええ、とても正気とは思えませんね。けれど、兄が理性を失い暴れるだけの怪物と化したのならば、私は命を賭けて止めねばならないでしょう」
「おいおい、自分よりも強いからって、化け物扱いはやめてくれよ」
ネロは俺達のやり取りを鼻で笑う。
お前は妹にここまで言われて、何とも思わないのか。
「まぁいい、使徒の力があれば、もう恐れるものはなにもない。クロノを見逃してやってもいい。だが、ネル、お前は俺と一緒にアヴァロンへ帰るんだ」
「私が帰ったところで、どうなるというのです。スパーダと戦争をするつもりですか」
「お前は俺の大事な妹だ。人質にされたら困る。だからお前のことも、俺が守る」
「暴力の鎖で繋いでおいて、守る、とはお笑い草ですね。奴隷商人でも、そこまで思い上がった物言いはしませんよ」
「何とでも言えばいい。お前にも、いつか分かる時がくるさ。大切な者を守るために、手段は選ぶべきじゃないってことがな————そういうワケで、ネルだけは力づくでも連れて行く」
巨大な光の剣こそ消したものの、渦巻く白銀のオーラはいまだ強大な圧力を放っており、次の瞬間に即死級の攻撃が飛んできてもおかしくない。
ネルは行かせない、と間髪入れずに叫ぶべきだっただろうか。
だが、使徒に覚醒したネロを相手にするのは危険が過ぎる。何の準備も対策もなしに、感情的に挑んでどうにかなる相手ではない。
だからと言って、ネルをこのままアヴァロンへ帰していいのか。ネロがこうなった以上、あの国はもう十字教の手に落ちていると見るべきだ。
「クロノくん、どうか気に病まないでください。これはアヴァロンの問題です。だから王女である私にも、責任があります」
「それは、そうかもしれないが……」
ネルを行かせたくはない。あまりにも危険が過ぎる。ネロを信用しろというのも、使徒となった今では無理な話だ。
けど、それでも俺は、ネルを引き留める言葉を返せなかった。
「それに、誰も傷つけずにこの場を治めるには、この方法しかありません」
ああ、そうだ、ネルの言う通り、これ以外にはどう足掻いても犠牲が出る結末しか俺には見えない。
誰にも死んで欲しくはない。ホムンクルスの一人だって、殺されて堪るものか。
「……すまない、ネル」
力なく俯くことしかできない俺に、ネルは少しだけ寂しげに微笑みながら言った。
「私はアヴァロンに帰ります。でも、きっと、また会えますよね」
「当たり前だ……必ず、会いに行く」
だから、どうか無事でいてくれ。
俺は絶対に、第十三使徒ネロを倒すだけの力を手に入れる。
「別れは済んだか?」
「ええ、もう充分です」
「ああ、そうだ。シャル、お前はどうするか決めたか?」
「最低の裏切り者と、共に来る道理などあるはずもないでしょう。シャルは誇り高きスパーダの第三王女、国を見捨てるような真似は決してしません。貴方とは、違うんですよ」
ネルの辛辣な物言いに、ネロは肩をすくめる。
そんなネロを見つめながら、シャルロットは震えながら言った。
「ネロの馬鹿っ! 勝手なことばっかり言って、ワケ分かんないわよ! どうして私に……私たちに相談もしないで、こんな無茶苦茶なことしてんのよ!!」
「ああ、そうか。そういえば、すっかり言い忘れていたよ。悪かった————『ウイングロード』は、今をもって解散する」
「な、なんで……なんでそんなこと言うの!?」
「一応、俺がリーダーだったからな。解散宣言するなら、俺が言わねぇと」
何の未練もない、どころか、全く何も感じていないとばかりに平然と解散を告げたネロに、シャルはそれ以上の言葉も続かず、顔を覆って泣き出した。
「なんだよソレ、ふざけんなよ、ネロ。お前は俺達のことを、なんとも思っちゃいなかったってのかよ!!」
その場に蹲って泣くばかりのシャルロットに代わって、カイが叫ぶ。
「シャルもカイも、俺にとっては大切な幼馴染で、友人で、仲間だ。『ウイングロード』として過ごした日々も、悪くなかったぜ。一生このままでいいか、って思うくらいにはな」
「だったら!」
「けど、言っただろう、カイ。俺は選んだんだ。お前達じゃない、俺は他に、一番大切だと思った者を選んだ。この使徒の力は、その選択と覚悟の証だ」
「綺麗ごとを言うんじゃねぇ! スゲー力をいきなり貰って、馬鹿になっちまっただけだろうが!!」
「まさか、お前に馬鹿と罵られる日が来るとはな……だが、それも許そう。お前は友達だからな、カイ」
「ふざけやがって……」
「言いたいことはそれだけか? 俺と共に来るなら、今が最後のチャンスだ。使徒の力は、お前らもガラハド戦争で見ただろう。あの最強の力が、今は俺のモノだ。誰にも俺は止められない。愛国心だの、貴族の矜持だの、くだらないプライドを捨てて、俺の方につけ。喜んで迎えよう」
「この大馬鹿野郎が。思いっきりブン殴ってやんなきゃ、自分がどんだけトンチキなこと言ってんのか、分かんねーようだな」
なんでも豪快に笑い飛ばすカイが、これほどまでに怒気を迸らせる姿は初めて見た。
だが、それも当然だ。ネロという親友が相手だからこそ、カイは怒り狂う。
しかし、それでも後先考えずに剣を抜いて飛び掛かって行かないのは、ネルの覚悟ある行動をすでに見ているからだろう。
「カイ、やっぱりアンタは底抜けの馬鹿ね。強い方につくのは、当然の選択であり、最良の生存戦略よ」
「サフィ、テメェはやっぱり裏切るつもりか」
セリスと共に、サフィールも事の成り行きを見守っていた。だが、その顔色にはさして変化は見られない。ネロが使徒に目覚めてもだ。
もしかしたら、彼女はネロがとっくに十字教へ寝返ったことを知っていたのかもしれない。そして、その上で自分もネロにつくことを選んだのは間違いない。
「スパーダはお終いよ。十字軍とアヴァロンに挟撃されれば、打つ手はないもの。何より、ネロは使徒として覚醒した。今のネロは、パンドラ最強よ」
「だからって、テメーはそんなネロを許せるってのかよ!」
「何を怒っているのか、理解不能だわ。ネロは、わざわざ自分につけば受け入れると言ってくれているのよ。昔の仲間のよしみ、というやつかしらね」
「ああ、そうかよ……くそっ、悪を悪とも思わねぇ奴が、一番性質が悪ぃってのはマジだったな」
「その悪は、また別の誰かにとっては正義よ。ネロが、十字教が大陸を征服すれば、私達が正義になる。スパーダなんていう古臭い国にしがみつく貴方達は、愚かな敗者になるだけよ」
「よせ、サフィ、もうその辺でいいだろう。シャルもカイも、どうやら俺と袂を分かつことを選んだようだからな」
「当たり前だ、裏切り者に尻尾振れるほど、こちとら腐っちゃいねぇんだよ!」
「カイ、お前の馬鹿さ加減はなんだかんだ嫌いじゃなかったが、今はその愚かしさが哀れに思えるぜ」
「クソがっ、さっさとアヴァロンへ帰りやがれ」
「ああ……じゃあな、シャル、カイ。戦場で会わないことを、祈ってるぜ」
ネロは今度こそ俺達に背を向けて歩き出す。
その場に蹲って静かに泣き声をあげるシャルと、やりきれない怒りに拳を地面に叩き付けることしかできないカイ。俺もまた、出来ることは何もなく、二人にかける言葉さえ見つけられない。
ネロは、振り返りもせずにそんな二人を残して去って行った。
使徒に覚醒したという最悪の事態と、『ウイングロード』というランク5冒険者パーティが解散したという、悲しい事実だけを残して。