第794話 目覚めの時(3)
アカデミーの卒業を間近に控えた頃。
暮れなずむスラムの通りを歩く、ネロとリン。市場で買い込んだ食材がいっぱいに詰まった袋を抱え、他愛のない会話が弾む。
いつもの帰り道。
けれど、ふとした違和感をネロは覚える。妙に静かだ。
割と広いここの通りは、朝から晩まで人通りはそれなりにある。だが、今日に限って誰も見かけない。
これはまるで————そう思った時、ネロの前に、一人の男が立ちはだかった。
「アヴァロンの王子、ネロ・ユリウス・エルロードと、セントユリア修道院のリンだな」
「ネロっ、コイツ……」
「テメぇ、暗殺者か?」
荷物を放って、ネロとリンは即座に臨戦態勢をとる。
ネロはすぐに理解した。通りには人払いの結界が敷かれ、この区画一帯は隠蔽状態にある。助けを叫んでも、誰かに聞こえることはない。
そして、このテの方法は暗殺者が襲撃を仕掛ける際の常套手段ということも知っているし、今までに経験もあった。
「暗殺なんてとんでもない。俺はただ、迎えに来ただけさ」
そんなことを言いながら、男は笑う。
ソイツは、黒い髪の悪魔だった。
長い黒髪の頭に、捻じれた二本の角が生えている。ディアブロス族、にしては肌の色も顔つきも人間に近い。混血かもしれないし、外見はただの見せかけに過ぎないのかもしれない。
特に目立たない黒一色のローブに身を包んだ悪魔男の正体を、ネロは計りかねる。
しかし、こんな方法で接触を図ってきた時点で、穏便に事は済ませられない。一国の王子を自らの意思で明確に隔離したのだ。暗殺未遂の罪はすでに成立している。
「リン、コイツはちょっとヤバそうだ。最初から全力で行くぞ」
「分かってる。殺す気でいくわ」
二人は同時に、流れるような動作で護身用に備えていた剣を抜き放つ。
スラムで持ち歩いていても目立たないよう、薄汚れた武骨なデザインだが、その刀身は純粋な聖銀製。子供には不釣り合いな上等な武器だが、それを振るうに相応しい実力をすでに二人は持っている。
「この俺に刃を向けるか、リン。悲しいな、実の父親に向かって」
「なんですって」
「おい、適当こいてんじゃねぇぞ」
「本当のことさ。ほら、同じ黒い髪だろう」
「ふん、どっちだっていい。今更になって、恥ずかしげもなく娘の前に現れるってんなら、ロクな親父じゃあねぇだろうが」
「本当にアンタが私の親なら、好都合だわ。子供を捨てたクズ野郎なら、遠慮なく叩き斬れるからね」
親に甘えたい年齢などとっくに過ぎている。
リンの心に揺らぎはない。
「親に向かってその口の利き方とは、随分とお転婆に育ったようだが……ふふふ、素晴らしい、実に素晴らしいぞ。リン、よもやこれほどまでの成長を見せてくれるとはな」
悪魔男は笑う。愉快そうに、心底嬉しそうに、そして、あざ笑うように。
「ありがとう。父親として、心から礼を言うよ、ネロ王子。私のリンをここまで育ててくれたのは、君なのだろう」
「なに寝ぼけたこと言ってやがる」
「リンは育て甲斐があっただろう? ただの子供とは思えない魔力量に、成長速度。それに魔法と武技の適性。残念ながら、頭脳の方はそれなり、だったろうけどね」
「なによ、全て私の努力と才能じゃない。アンタなんて関係ないわ」
「ああ、王子に鍛えてもらった努力は認めよう。しかし、その力を自分の才能だと勘違いするのは良くないな。いいかい、リン、お前の力は全て……俺のモノだ」
悪魔男が片手を上げる。
その手に輝くのは、黒と紫のオーラで彩られた、不気味な魔法陣。
闇属性魔法の攻撃か、と警戒するが————その魔法陣から何かが撃ち出されることはない。
「うぐっ!?」
しかし、リンは苦し気なうめき声を上げて、その場で膝をついた。まるで、毒にでも苦しむかのように。
「リン、どうした!」
攻撃を受けた様子はないが、この苦しみようは尋常ではない。
とにかく回復が必要だと、ネロは空間魔法付きのポーチに手を伸ばし、ポーションを取り出そうとするが、
「心配することはない、怪我でも病気でも、何でもないからな」
「テメぇ、リンに何をしやがった!」
「戻したのさ。本来、あるべき姿にね」
「くっ、うぅ……うぁああああああああああああああっ!!」
リンの悲痛な絶叫と共に、濃密な黒い魔力が迸る。
目に見えるほどの黒いオーラを全身から噴き出すが、変化はそれだけに留まらない。
メキメキと音を立てて、リンの頭から角が生えた。
小ぶりの唇からは、鋭く伸びた牙が覗き、剣を握りしめる手は黒々とした鱗に覆われ、指先は鋭利な爪へと変形してゆく。
さらには、蛇のように蠢く、細長い尻尾までもが生え出していた。
「な、なんだ、コレは……」
「美しいだろう。これが、リンの本来の姿だよ」
「よくも、こんなふざけた真似を————」
愛する少女を汚された思いだ。それは瞬時に燃え上がる激しい怒りと化して、ネロを突き動かす。
後先考える必要もない。まずはこの悪魔男を殺さなければ。
ネロはミスリルの剣を構え、真っ直ぐに切りかかるが————そこへ割り込んだのは、リンの剣だった。
ギィン! と鋭い音を立てて刃が火花を散らす。
「リン!」
「ごめん、ネロ……体が、勝手に……私、このままじゃ……」
弱弱しく発せられるリンの言葉とは裏腹に、悪魔のような体は素早い追撃をネロへと振るう。
咄嗟に後退。退くしかない。
「くそ、テメェがリンを操っているのか」
「少し違うな。お前は自分の体を動かして、誰かに操られていると感じるのか?」
悪魔の言葉を真に受けることはない。
ネロは頭を必死で巡らせる。他者を操る類の魔法は、概ね禁術とされている。洗脳の精神魔法など代表的だ。
その対抗策、解呪法、リンを救うための手段を模索する。
しかし、解答は悪魔によってすぐさまもたらされた。
「リンが持つ魔力は、元々は私のモノなのだよ。ただの魔力供給や譲渡の類ではない。特殊な術式でもって構成させた、魔力の源……それはいわば、種だ。豊かな実りを期待して、畑に種を植えたのさ」
種を植えるとは、ただの下品な比喩表現ではない。
自分の魔力をベースとして、何かしらの魔法を赤子に宿す……何の禁書で目にしたか、記憶は定かではない。だが、それが呪術と呼ばれる忌まわしいものであることは確かだ。
「俺は多くの種を蒔いた。リンは正直、あまり期待していた子ではなくてね。失敗かと思ったが、処分するには惜しい。いつか役立つこともあるかもしれないと思って、あの孤児院に置いてきたんだ」
ちょうど近所だったのでね、などと肩をすくめて悪魔男は言う。
元から、リンの実親だとも思ってはいなかったが……どうやら、この男は赤子を平気で何かの魔法実験に使う猟奇的な魔術師であるようだ。
そうなると、リンの本当の両親は他にいるし、彼女は悪魔の手によって赤子の頃に攫われたということだった。ますます救いようがなく、忌まわしい経緯だ。
「俺の体もそろそろ限界でね。少し焦っていたところだったんだ。だからこそ、君には本当に感謝しているのだよ————リンは俺の転生体として、十分な仕上がりになっている」
「転生術、だと……そこまでして、生き永らえたいのかよ、この外道がぁ!」
転生。
それは、死した魂が新しい命となって、再び現世へと生まれてくるという思想だ。
しかし魔術師にとっての転生とは、自らの魂を他者の肉体へと完全に移し替えることに他ならない。
転生の力を求める理由は、たった一つ。寿命の克服。不老。永遠の命。
つまり、リンはこの悪魔が生まれ変わるために用意した、新しい肉体ということだ。
「生きたいに決まっているだろう。人の生はあまりに短く、儚い。俺の夢を叶えるためには、時間が足りないんだ」
「何が夢だ、くだらねぇ。転生なんて寄生虫みたいな真似してまだ叶えようなんて夢は、ただの悪夢じゃねぇか」
「心外だな、ネロ王子、君は俺の同志だと思ったんだがな————魔王になりたいんだろう? 俺もなんだ」
悪魔の顔には、純粋な子供のような笑みが浮かんだ。
「魔王になる、この夢のためならどんな手段も厭わないし、どんな犠牲だって払ってもいいだろう。俺は新たな魔王となって、古の魔王ミアが望んだ真の教えである、滅びの女神の————」
「黙れっ!!」
かつて、これほどまでに怒ったことがあったか。これほどまでに、誰かを憎んだことはあったか。
この悪魔は、ネロにとって大切なものを踏みにじった。
最愛の少女と、最大の理想を。
「殺す……お前は、絶対に……ここで殺すっ!」
「子供ながらに、心地よい殺気だ。くくく、魔王の直系を称するアヴァロン王族が、本当にその血を引いているかどうか、喰らって確かめるのは興味がそそる。リン、我が新たなる器よ。ネロを喰らい、糧とするがいい」
「い、いや……やめて……お願い、ネロ……逃げてっ!!」
リンは悲痛な叫びをあげるが、その意に反して黒色魔力が明確な殺意の形となって現れる。
右手に握ったミスリルの刃は黒一色に染め上げられ、刀身からは毒々しい紫のオーラを噴く。
対する左手には、闇の魔力で形成した魔法の剣、光刃が形成される。
「退けるかよ。リン、お前は必ず、俺が助ける————『聖剣・光輝』」
修行の末に最近やっと編み出した、ネロの原初魔法。変幻自在の光刃を作り出す『聖剣』を発動させる。
光と闇、それぞれ対極的な二刀を携え、ネロとリンは向き合い————
「う、くっ……はぁ……はぁ……」
ついに、ネロの体は地に伏せる。
激しい戦いだった。12年間の人生で、これほどまでに全力を、死力を尽くして戦ったことはない。
けれど、及ばなかった。ミスリルの剣は折れ、光の魔法剣は消え去っている。体力、魔力、気力、全てが限界を迎えていた。
倒れたネロの向こうで、無傷の悪魔は笑っている。
「どうだい、もう気は済んだかな、王子様」
「く、そ……リン……」
顔を上げるだけでも苦しい。
それでも、何とか体を起こし……そこで限界だった。立ち上がれない。膝は屈したまま、ピクリとも動かなかった。
無理もない。すでにネロは満身創痍。致命傷こそ避け続けたが、強いられた出血と消耗しきった魔力は、もう取り返しがつかない段階に来ている。戦う力など、どこにも残ってはいない。
対して、悪魔を守るリンには何ら有効打は与えられていない。殺すのではなく、出来る限り傷をつけずに止めなければいけないのだ。それは普通に戦うよりも、さらに難しい。
悪魔の力を覚醒させたリンは、今のネロの力を遥かに上回っている。そんな相手を殺さずに捕らえ切るなど、そもそもが無理な話だった。
けれど、それでも、ネロは諦めるわけにはいかない。ここでリンを見捨てるわけにはいかない。
「ネロ、お願い……私のことはいいから、逃げて……」
逃げて、どうなるというのだ。
たとえここから逃走に成功したとしても————俺はもう二度と、リンと会えなくなる。
ネロはそう確信していたし、紛れもない事実だろう。ここでリンと悪魔を取り逃せば、すぐにでも転生術を発動させるはず。
転生先の体に宿る魂は、確実に消滅する。一つの肉体に、二つの魂は宿せない。自然の摂理だ。
だから、今なのだ。今しか、リンを救うチャンスはない。
「そうだ、今、勝てなきゃ、意味がねぇ……リンは、俺が……」
「俺が守る、とでも言いたいのかな? はっはっは、いいねぇ、若いというのは。けれど、最後に現実の残酷さ、というのを思い知ったかな王子様。ただの気持ちだけでは、何の意味もない。力だ、圧倒的な力こそが、自らの願望を果たす唯一無二の方法なのだよ」
反吐が出るような暴力理論。
けれど、今のネロはそれに屈してしまう。覆せない力の前には、如何なる願いも祈りも意味はない。
「故に、俺は手段を選ばない。何度でも転生し、必要な力を蓄えよう。そしていつしか、この俺がパンドラを支配する魔王となるのだ————さぁ、そろそろ遊びも終わりだ。リン、ネロを殺せ。これまで鍛えてもらった感謝の念を込めて、苦しませず、一撃で仕留めることを許そう」
「や、やめてっ! やめてよ、イヤァ! ネロぉお!!」
泣き叫ぶリン。しかし、その悪魔に浸食された体は、闇のオーラを纏う漆黒の切っ先を、真っ直ぐにネロへと向ける。
「リン————」
最後の言葉すら遺せない。
姿が消えるほどの超高速でもって踏み込んできたリンは、寸分違わず正確にネロの心臓を突き、
キィイイイイイイイイインッ!!
そんな甲高い衝突音と共に、眩い光が弾ける。
その輝きは、ネロから発せられていた。神々しいほど白い光は、防御魔法のように薄い一枚の光の壁と化して、王子の命を狙う凶刃を阻む。
「むっ、なんだこれは、凄まじい光属性、いや、まさか白色魔力の————」
何が起こったのか、というような声をあげるのは悪魔男だけ。ネロもリンも、言葉すら出ずに呆然とするより他はない。
そして、閃光のような輝きが収まった時、ネロはようやく状況を理解できた。
「僭越ながら、ネロ王子殿下の御身が危険に晒されたため、参上仕りました」
「お、お前は……ローラン」
いつの間に現れたのか、ネロのすぐ隣に、白銀の髪をした青年が立っていた。
白い肌に赤い瞳の非常に整った容姿だが、全く感情というものを感じさせない無機質な表情は、彼が精巧な人形であるかのように感じさせる。
ローラン、と呼んだこの青年は、ネロの護衛だ。
アカデミー入学の頃から現在に至るまで、ネロの専属護衛であるアヴァロン騎士の最精鋭。
普段は姿を見せない。自由奔放なネロはあからさまな監視の目を嫌うので、ローランはネロの目につくところには立たない。
ただでさえ無口で人形のような彼は、職務に忠実なだけで、ネロに対して何か言うこともない。いてもいなくても同じ。しかし徹底して自分の邪魔にはならないので、ネロにとって非常に都合のいい護衛だったからこそ、任せ続けてきた。
「どうして、ここに……」
「私は、常に御身の傍におりました」
ネロはこの時、ようやく悟った。
簡単にまいて、護衛による監視の目を逃れられたと子供の頃から思っていたが……ただの一度も、彼の目から逃れたことはなかったのだと。
今日だって、いつものように護衛のローランをまいたつもりでいた。だからこそ、こんな状況下でも護衛である彼の助けをハナから期待していなかった。
「殿下は自由を望まれておいでです。故に、一定以上の身の危険が迫るまでは、決して前に出るつもりはありませんでしたが————」
何気なく、そう、人形のような彼は、淡々と毎日こなす職務であるかのように、剣を振るった。
いつ、抜いたのか。いつ、振ったのか。
ネロには見えなかったし、きっと、リンにも見えなかっただろう。
だから、理解できたのは、全て済んだ後だった。
「————『聖堂結界』の発動確認。ネロ王子殿下に対する危険因子と認め、排除する」
一突き。
ローランのサーベルが、リンの胸元を静かに、けれど深々と突き刺していた。
「あっ……」
小さな呟くような声を漏らして、リンは力なく崩れ落ちる。
悪魔と化した角や尻尾は、浄化されたかのように、淡い輝きに包まれ、一瞬で消え去って行く。
ネロの前には、元通りの少女の体となったリンが倒れ込んだ。
ただ、その胸元からは、止めどなく鮮血が溢れ出し、あっという間に血だまりを広げてゆく————
「ば、馬鹿な、俺の転生術式を一撃で……貴様、何者だ! ただの騎士ではないな!」
「邪教結社『アンゴルモア』、魔人級幹部、クロムウェル・メイガスを確認。貴殿には殺人、誘拐、監禁、禁呪研究、その他多数の罪状が課せられている。さらには、ネロ王子殿下に対する暗殺未遂。酌量の余地なし。即刻、処断する」
刹那、青白く輝く残像を描いて、ローランは悪魔男、クロムウェルという大罪人へと肉薄する。辛うじて、その接近に反応したようだが、反撃にまでは至らない。
目にも留まらぬ速さで、悪魔クロムウェルの体は真っ二つに両断される。
「ぐはっ……し、死ぬ……この俺が……こんなところで……俺の、夢が……」
「魔は滅びよ」
崩れ落ちた悪魔の上半身に向けて、ローランは追撃の刃を繰り出す。
眉間のど真ん中をサーベルが貫き、次の瞬間には青い炎がクロムウェルを包む。断末魔を上げることもなく、そのまま真っ白い灰へと化してゆく。
そんな悪魔男の最期を、ネロは見届けることはない。
彼の前には、取り返しのつかない致命傷を負った、最愛の少女がいるのだから。
「そんな、嘘だ、リン……」
「ネロ……良かった、アンタが、無事で……」
仰向けに倒れ込んだリンが、息も絶え絶えに言う。
爛々と輝いていた瞳には、生気の光が消えうせようとしている。
「リン! 俺は————」
「ごめんね……約束、守れな……て……」
何も言えなかった。何も、伝えられなかった。何も、できなかった。
ネロはただ、目の前でリンの死を看取っただけ。
最愛の少女を失った、無力な少年は————
「俺は……こんなにも、弱いまま、だったのかよ……」
リン、お前を失ってから、俺は何をしていたんだろう。
あの後のことは、正直よく覚えちゃいない。孤児院でささやかな葬儀をあげた気もするが、まるで現実感が湧かない。
そうして、気が付いたら俺はスパーダに留学していて……シャル、カイ、サフィ、昔馴染みに囲まれて、妹のネルの面倒も見て、ああ、その頃になってようやく、気が持ち直してきたんだろう。
いや、違うな。きっと、『ウイングロード』でいられた時は、リン、お前を失ったことを、忘れることができただけだ。吹っ切れたわけでも、立ち直れたわけでも何でもない。
そうだ、だから俺は……リィンフェルトを助けた。
お前に瓜二つの少女を見つけて、俺は馬鹿みたいに後先考えず、ただ助けてしまった。でも、しょうがないだろう。
これは俺の身勝手な贖罪であり、同時に、ただのワガママに過ぎない。
当たり前だろう。もう、あんな思いには耐えられない。もう一度、お前を失うようなことになれば、俺は正気をたもてる自信はない。
「それなのに、俺は……」
俺は負けた。どうしようもないほど、無様な敗北だ。
大切なものが、守りたいものがあるはずなのに————俺は無様に、地面に倒れるだけ。そして目の前には、無傷の悪魔が悠然と佇んでいる。
戦う力を失った体の芯から、おぞましいほど冷たい感覚が湧いてくる。この感覚には覚えがある。忘れられるはずもない。
そうだ、これは恐怖であり、屈辱であり、そして絶望と呼ぶべきものだ。抗う術を全て失った際に訪れる、一種の諦めの感情。
戦いの熱も血の気も引いて、震えるような寒さに襲われる。
けれど、最も恐ろしいのは————失うこと。
負ければ、失ってしまう。大切なものを全て。慈悲も容赦もなく、ただ、奪い尽くされるのだ。
「くっ、そ……」
視界が霞む。凍えるような冷たさと全身を包む悪寒に、自分の感覚も曖昧になってゆく。
倒れ伏した俺を見下ろしている黒髪の男は、果たして、クロノなのか、あの悪魔男なのか。それすらも判然としないほど、思考が鈍ってきた。
ああ、ちくしょう、全くあの悪魔男が言った通りじゃねぇか。
力。
力だ。
圧倒的な力こそが、望みを叶える唯一無二の方法。
なのに、俺はあの時から力を追い求めただろうか。リンと修行していた日々のように、ひたむきに自分の力を磨くことに集中していたか。
俺は何もしなかった。中途半端に冒険者の真似事をして、退屈な日常に埋もれていただけ。だから、この結末は当然だったのだ。
野望のために、力を磨き続けたクロノ。
過去の呪縛に囚われ、無気力であり続けた俺。
これが、絶対的な力の差となった。何もしなかった者と、純粋に強さを求め続けた者の、決して埋められない力量差。
「後悔なんざ、今更、だろうが……」
ああ、今になって、そんな当たり前のことに気づくとは。自分の馬鹿さ加減に呆れ果てる。
けれど、やはり俺には無理だった。
リンを失った俺に、もう一度、魔王になるのを目指すほどの、強い思いを抱くのは。
くだらない。馬鹿らしい。
何が魔王だ。何が神だ。
他力本願もいいところだが、それでも、俺は思わずにはいられない。どうしてあの時、力を貸してくれなかった。あの日、あの時、あの一瞬だけでいい。俺に加護の力があれば————
『————力が欲しいか』
「っ!?」
不意に聞こえたのは、誰の声か。
男なのか女なのか、それすらも判然としない不思議な声音……だが、何故かはっきりとその声が聞こえた瞬間、急に霞がかった思考がクリアになっていく。
『力が欲しければ、祈りを捧げよ』
耳で聞こえているんじゃない。コイツは、テレパシーのように直接頭ん中に呼びかけられている。
なんだ、誰だよ、こんな時に————
『ネロ・ユリウス・エルロード。邪悪なる魔王の血を引く、生まれながらの大罪人よ。しかし、汝を許そう。悔い改めよ。汝は器を得た』
はっ、何が魔王の血を引く、だ。そんなもん、王族の権威のために自称しているだけの、くだらない嘘っぱちだ。
たとえ真実だったとしても、血筋になんか何の意味もねぇよ。そんなもんじゃ、たった一人の少女も救えなかったんだからな。
『然り。故にこそ、我は汝に祝福を与えん』
いきなり出てきて、力をくれてやるってか。随分と都合のいい神様もいたもんだ。加護の大安売りかよ。
『案ずるな。ただ、信じ、祈れ。さすればあらゆる魔を退ける聖なる神の力を、汝に授けよう』
勝てるのかよ、それで。
『勝利を約束しよう』
守れるのか。俺は、今度こそ。
『我が加護、遍く人間の子を守護せん』
最後の最後で、神頼みか……けれど、それも悪くねぇ。
俺の力じゃ足りないんだ。リンを失ってから、半端にやってきただけの俺じゃあ、クロノには届かねぇ。
そして、勝つためには、守るためには、力がいるんだ。圧倒的な力。それを得られるならば、どんな手段だって————
『我こそは、白き神。世界の創造主にして、唯一無二の神である』
力が欲しい。
俺は力が欲しい。
目の前の敵を倒す力を。彼女を守るための力を。
そのためならば、俺の全てを捧げよう。
『目覚めよ、新たなる使徒。これより汝は————第十三使徒ネロである』