第792話 目覚めの時(1)
2020年10月2日
今回は2話連続更新です。こちらが1話目となります。
「ネロ、この辺でもういいだろう————オラァっ!!」
その声を最後に、俺の意識は途切れ、
「……」
目が覚める。
叩きつけられたその衝撃で、意識が完全に寸断されていた。
目の前には、またしても雪と土の混じった地面だけが広がる。
全身を強く打ったようだ。鈍い痛みが体全体に広がり、俺から立ち上がる気力を奪い去っている。
ああ、今更になって、殴られた頬と、蹴飛ばされた脇腹が、酷く痛んできた。
「お、俺は……」
負けた。
俺は、負けたのか。
まだだ、まだ勝負は終わっていない————そんな自分を奮い立たせるような気持ちも湧いてこない。
分かってしまった。いや、思い知らされた、と言うんだろうな、こういうのは。
俺は、クロノには勝てない。
どう足掻いても、勝てるビジョンがまるで見えない。ガラハド戦争でサリエルを前にした時と同じ、いいや、それ以上に明確な実力差というものを理解できてしまう。
何故だ、どうして、コイツはこんなに強い。邪神の加護ってやつか?
いいや、それも違う……クロノは加護どころか、武器すら抜かず、魔法もロクに使わなかった。本気を引き出すどころか、怪我をするかも、なんていう警戒すら抱かせることができなったんだ。
こうして無様に這いつくばるまで、俺と奴の力の差も分からなかったのか。
「俺は……こんなにも、弱いまま、だったのかよ……」
これで、二度目だ。
自分の弱さに絶望するのは。
そうだ、あの時も俺は、こんな風に何もできずに————
ネロ・ユリウス・エルロードは、幼くして聡明で、剣にも魔法にも才を示し、ただでさえ期待をかけられる第一王子の身分にありながら、それ以上の成果でもって応える、天才児にして、次代の王の器であった。
「————父上! 魔王の加護を得るためには、大いなる七つの試練を超えなければならない、というのは本当ですか!!」
「ああ、ネロ、お前はまた禁書庫へ勝手に立ち入ったのだな……」
古びた魔導書を抱えては、魔王の加護を得るための方法を父親であるミリアルドへ問い詰めるのは、ネロ5歳、当時の日課のようなものだった。
古の魔王ミア・エルロードの伝説は、パンドラ大陸で知らぬものはいない、最も有名な英雄伝でもある。パンドラの男子は、一度は必ず、魔王の座に憧れるものだ。
そして、それは幼きネロもまた、例外ではなかった。
竜王ガーヴィナルを筆頭に、現代の魔王たらんと大陸に覇を唱える本気の男たちもいるが、ネロは幼くとも、それに迫る気迫と行動力があった。
「それで、どうなのですか! 試練はどうすれば受けられるのですか!」
「落ち着け、ネロ、まずはそこへ座りなさい。いいか、何度も言っているが、加護というのは一朝一夕に身に着けられるものではなく、偉大なる黒き神々に認められてようやく授かることのできる————」
魔王ミアの直系を自称するアヴァロン王家としては、幼きネロの熱意は喜ぶべきものであろう。だが、限度というものもある。
下手に才能に恵まれたせいで、子供ながらに本物の騎士並みの鍛錬や、神官の修行などそのまま真似ようとして、それが出来てしまう。そして、試練と称してさらなる荒行へ挑もうとする。
幼児は目の離せないものだが、ネロはアカデミー入学直前の5歳にしても、侍従と近衛が本気で目を光らせなければいけないほどに、危険な行動力の塊であった。
「お前はまだたったの5歳。加護を得るための修行に取り組むには、あまりにも早すぎる」
「ですがっ、魔王ミアは5歳の頃にはすでに一人でモンスターを狩っているんですよ! アスベルの山奥の湖で、こんなに大きな魚の怪物を釣り上げて————」
「それはこの間読んだ、娯楽本の内容だろう」
「ぐうっ!?」
有名な伝説は、いつの時代でも語られ続ける。そしてそれは、往々にして正確な史実としてではなく、より面白く、痛快な、娯楽作品として追及される物語性となり……要するに、スーパーヒーローとして描かれるミアの姿に、大いに憧れる思いも強かった。
「ネロ、魔王に憧れるのは良い。本気で目指すのも、男なら、ましてアヴァロン王家の男ならば、さもありなん。しかし、こんな年頃から強さのみを追い求めるものではない。鍛錬も重要な修練の一つだが、お前にはまだまだ、沢山のことを学んで欲しいのだ」
「それは……魔王になるために、必要なものでしょうか」
「無論だ。たとえば、ミアには姉がいるな」
「死者蘇生の奇跡を成した『天癒皇女アリア』です」
「その通り。だが、弟であるミアを蘇らせる奇跡を行使するより前は、彼女はただ一人の姉であり、唯一の家族であったのだ。そして、ミアは姉アリアをとても大切にしていた」
娯楽作品の物語としても、史実と思しき歴史書にしても、概ねそのように書き記されている。少なくとも、幼少のミアがアスベル山脈の小さな羊牧場で、姉アリアと二人きりで暮らしていたことは間違いなく、その仲も良好であったことを示すエピソードも幾つか残っている。
アヴァロン王家が秘蔵する古文書によれば、ミアはピンチになると「お姉ちゃん助けて!」と叫ぶことが、あったとか、なかったとか……
「お前に姉はいないが、妹はいるだろう。まだ小さな、可愛らしい、天使のような妹がな」
「あー、お兄さま、いたー」
「あっ、ネル」
幼いネルは、こちらを見つけて笑顔で駆け寄ってくる。パタパタと、背中の小さな白い翼をはためかせて。
「まずは家族を大切にしなさい。ネロ、お前は兄なのだから、妹を守らなければいけないぞ」
「はい、父上」
キャッキャと笑ってじゃれついてくる妹を抱きしめて、そう答えるネロの目は、魔王への憧れと、兄としての使命感とにキラキラと輝いていた。
ネロ6歳。祝、入学。
アヴァロンでは、王侯貴族は6歳からアカデミーと呼ばれる学校へと通うこととなる。王子であるネロも、王城を出て、身分は限定されるが、同年代の多くの子供たちが集まる学校という環境へ放り込まれた。
元からの才能に加え、魔王への憧れを燃やすことで幼児ではありえないような鍛錬を自主的に詰んできたネロは、正に規格外。
「あああ、待ちなさい、ネロ君! 戻って大人しく授業を————」
「なら、僕を止めてみろよー!」
とうの昔に覚えきった内容の授業など、受けるだけ無駄だとバックレることはしょっちゅう。いくら王侯貴族の子供が相手とはいえ、学校においてワガママは許されず、あえなく捕まるのがオチなのだが……アカデミーという子供を相手にする前提の教師陣では、ネロを止めることができなかった。
ネロはこの頃、すでに『疾駆』を使いこなし、小さな体を縦横無尽に飛び跳ねさせ、壁を越え、屋根に飛び乗り、アヴァロンの王都を自由に駆け回る機動力を手にしていた。
「やっぱり王都は広いなぁ。まだまだ、行ってない場所が沢山ある……探検のし甲斐があるぞ!」
学校へ通う様になり、ネロは王城より外の世界へと興味を持った。退屈な授業を受けるくらいならば、王都を探検する方がよほど有意義で楽しい。
なにより、学校を抜け出すのが、面倒くさい監視の目を脱するのに一番だった————と、この頃のネロは思っていた。
「ふふん、ローランはチョロいからな。今日も俺を探して走り回ってるといいさ」
幼い王子の護衛に選抜された精鋭中の精鋭である騎士が、ローランという青年である。こうしてほとんど毎日、専属護衛である彼の目を逃れ、自由になれているとネロは思っていたが……
「あの辺は、貧民街っていうところだっけ……そういえば、まだ一度も行ったことはなかったな」
ネロが学校を飛び出し王都探検に熱を上げるのが、アカデミーの教師たちも諦めの境地に達しつつあった頃のこと。ネロは王都を守る大城壁の上で、その辺の屋台で買った昼食を食べながら街並みを眺めていた。
その貧民街に目がついたのはたまたま。しかし、いずれ赴くことになることには変わりはないだろう。
「よし、今日はそっちに行ってみよう!」
だから、ネロがその日、その時、スラムへ向かったのは運命だったのかもしれない。
そこは、生まれて初めて見る汚らしい空間だった。
ボロボロと崩れかけの壁、泥だか糞だか分からないぬかるみのある路地、鼻を突く臭気を含んだ淀んだ空気……そこは、とても同じ王都の一部だとは思えなかった。
「……ダンジョンって、こんな感じなのかな」
街だと思えば最悪な環境だが、狂暴なモンスターの跋扈する危険地帯であるダンジョンだと想定すれば、これも当たり前のように思えた。
ネロは勿論、ダンジョンのこともよく知っている。特に、古代遺跡系のダンジョンは魔王ミアの生きた時代の遺物が残るとして興味深い。いつか未踏の古代遺跡を発見し、攻略することもネロの夢の一つであった。
それを思えば、この程度の悪環境で踵を返していれば、ダンジョン攻略などとてもできはしないだろう。
これはダンジョンに挑む練習なのだ————そう決意を固めて、ネロはスラム街へと立ち入って行った。
「でも、流石にモンスターが出たりはしないか」
ゾンビみたいに蠢く汚らしい恰好の人々は何人も見かけるが、あれでも彼らは立派に生きているアヴァロン民である。レイス系のモンスターが出そうな雰囲気満点の廃墟があっても、特にはなにも出てこない。
強いて言えば、時折、刃物で武装した盗賊らしい者達も見かけたが、これでもネロは一応、お忍びの気持ちはある。危険そうな人物は、その視界に入らないよう意図的に避けながら、スラムを進んでいた。
そうして、漂う悪臭にも鼻が慣れてきた、その頃だった。
「待ちやがれ、このクソガキがぁ!」
「二度と悪さできねぇように、その足ぶった斬ってやらぁ」
よく怒声や奇声の上がるやかましいスラム街にあっても、相当に剣呑とした台詞がネロの耳に届いた。
思わず、といったようにネロはそこへ向かい、様子を伺った。
「くっ……どきなさいよっ!」
そこには、路地の一角で大の男に囲まれる、小さな少女がいた。
年の頃は自分と同じくらいか。長い黒髪を一つに縛り、顔も服装も薄汚れている如何にもスラムの子供という風体だが、野に咲く花のような可憐さもあった。
そんな少女は、肩から下げた小さな鞄を大事そうに抱えながら、取り囲む男達を気丈にも睨みつけていた。
「へへっ、まったく手間ぁかけさせやがって」
「もう逃げられねぇぞ」
どこからどう見ても、小さい子供相手に略奪を働くようにしか見えない。
ネロにとって、これもまた、生まれて初めて見る危機迫った状況であった。
伸ばした男の手は、今にも少女へかかろうとしている。
「……」
ネロが悩んだのは、ほんの一瞬のことだった。
いいや、本当は悩んですらおらず、ただ、何も考えず、反射的に体が動いただけかもしれない。
「الرياح قطع شفرة————『風刃』っ!」
角から路地へと飛び出したネロは、詠唱を済ませた風の下級攻撃魔法を放つ。
まだ6歳の子供が放つ魔法にしては大したものだが、殺傷力は望むべくもない。元より、ネロには当てる気もなかった。
「うおっ!? なんだコレ、魔法かっ!?」
「だ、誰だコノヤロぉ!?」
幸いにして、男たちの反応は鈍かった。魔力の気配を事前に察知した者は一人もおらず、放った風の刃が足元の地面を抉って、盛大に泥の飛沫を噴き上げたところで、ようやく魔法を撃たれたことに気づいて騒ぎ出すような始末。
王城にいる近衛に比べれば、驚くほどに鈍重な対応。行ける、とネロは確信し、飛び出した。
「————てやぁーっ!!」
混乱する男達、その内の一人に向かってネロは渾身の飛び蹴りをぶちかます。
子供の体重で繰り出される蹴りの威力などたかが知れるが、ネロの両足には全力全開の『疾駆』が宿っている。
それは無防備に立つ大人一人を蹴り飛ばすには、十分な衝撃力を持っていた。
そうして、ネロは颯爽と少女の前へと降り立った。
「来て、逃げよう!」
「なっ……うん!」
少女は突然の乱入者に驚いたようだったが、判断力は良いらしい。余計なことは何も言わず、ネロに手を引かれるまま、すぐに走り出す。
「くそっ、待てやこのヤロォ!」
「ちくしょう、仲間のガキがいやがったのかぁ!?」
蹴り飛ばした以外の男達は、すぐにネロと少女の後を追って駆け出す。
「الرياح قطع شفرة————『風刃』っ!」
走りながらの詠唱を、舌を噛みそうになりつつもどうにか紡ぎあげ、ネロはさらに攻撃魔法を飛ばす。
「うおおっ! やっぱり魔法撃ちやがったぞ!」
「あのガキ、魔術師かよ!」
「魔術師相手はちょっとヤベーんじゃねぇのか!?」
「でもガキだろ、なにビビってんだ、さっさと追え!!」
諦めてはいないようだが、十分な足止めにはなった。正に迷宮の様に入り組んだ狭い路地を駆け抜けていけば、ロクな探知や追跡術など持っていそうもない男たちをまくのは簡単そうだった。
「ねぇ、アンタ、どこに逃げてるのよ?」
「分かんない、ここに来たのは今日が初めてだから」
「道理で、見ない顔だと思ったわ。じゃあ、私に付いてきて。家まで戻れれば、アイツらも追っては来れないし」
「それじゃあ、頼むよ」
そこから、少女に先導されて道を進んだ。
幾つもの路地を抜け、壁を越え、廃屋を通り抜けては屋根に上がって、とやけにアクロバティックなルートを辿ってゆく。
その途中でようやく、少女の走力と身のこなしは、ネロと同じくらい優れているものだと気づいた。どうやら、彼女もまた『疾駆』を発動できるようだ。
そうして、二人仲良く楽しくスラムを駆け抜けてゆき————ようやく、ゴールへと辿り着く。
そこは、家にしては大きく、神殿にしては小さな、石造りの建物。さほど高くもない尖塔の天辺に、見慣れない十字のオブジェがついている。
「ここが君の家?」
「うん、セントユリア修道院」
「院ってことは、神殿みたいなもの?」
「そんな大げさなものじゃないわ、ここはただの孤児院よ」
それもまた、ネロにとっては初めてのものだった。孤児院という場所も、そして何より、孤児という親のいない子供と会ったことも。
「それで、アンタは、えーっと、名前は?」
「ああ、僕は……僕は、エクスだ」
咄嗟に本名を名乗るところだったが、いざという時のために偽名も考えてあった。どうにか、それを名乗ることに成功する。
「私はリンよ」
そうして、長い黒髪の少女リンは、弾けるような笑顔で言った。
「助けてくれて、ありがとね、エクス。汚いとこだけど、歓迎するわ!」
「……それじゃあ、奪ったのは君の方じゃないか」
「ふん、ここじゃあ奪われる方が悪いのよ!」
などと、悪びれもせずにリンは大事そうに抱えていた鞄をひっくり返し、中に入っていたパンやら芋やらの食料品を取り出していた。
「その鞄、空間魔法付きだったのか」
「そうよ、便利でしょ?」
「……それもなのか?」
「間抜けな商人もいたものね。いいモノ持ってるくせに、ケチって安宿なんかに泊まるから」
呆れてモノも言えないとはこのことか。
てっきり、男達に囲まれて略奪に合う哀れな少女だとばかり思っていたが、そもそも彼らの荷物を盗み出したのはリンの方であった。
「僕はまんまと盗みの片棒を担がされたってわけか」
「いいじゃない、どうせアイツらだってロクでもないやり方で集めた食べ物なんだし」
「だからって、君が盗んでいい理由にはならないだろう」
「いいことだけをしていたって、お腹は膨れないのよ。特に、私達みたいなのはね————ほーらみんなー、ご飯だぞー」
リンが盗んできた食料を、孤児院にいる小さな子供たちに配り始めるところを見ると、ネロはそれ以上、何も言えなかった。
この日は、初めてのことばかりで、聡明なネロでもどう捉えて良いか分からないことばかりだった。
ちょっとした冒険心で踏み込んだスラム街は、まるで別世界。ここに生きる人々は、自分の生まれた場所とは、何もかもが違う。小さい子供でさえも。
盗みを働いたリンの行動は間違いなく罪である。
しかし、彼女が持ち帰った食べ物で飢えを凌ぐ子供たちに、罪はあるのか。
もし、それが罪だと言うならば……誰があの子達の空腹を満たしてあげられるのか。
正義は、一体どこにある。
「……でも、楽しかったな」
明日も行こうと、ネロは思った。
スラムを駆け抜け、孤児院に帰りつき、子供たちと一緒に美味しそうにパンを齧るリンの姿は、貧困の煤に塗れていても、なお輝かしく映った。
2020年10月2日
ついに語られるネロの過去編。
こんな800話近い頃になってようやく語られるのは・・・第五次ガラハド戦争後から、開拓村編、ヤンデレ大戦、カーラマーラへの旅路編、遺産相続レース編、とネロとは関係ないエピソードばかりが積み重なってしまった結果ですね。
そんなに待望はされていない、ほぼお察しな内容のネロ過去編なので、1話くらいでさっさと終わらせようと書いたらリンと出会っただけで終わった・・・というワケで、2話連続更新なのです。
引き続き、ネロの昔話をお楽しみください。