第767話 愛を取り戻せ
「ねぇ、クロノ、貴方が一番愛しているのは、誰なのかを、ね」
何が愛だ、この期に及んで戯言か。
俺は出し惜しみすることなく、影から『絶怨鉈「首断」』を抜き、構える。
しかし、その呪われた刃の切っ先を、リリィへと向けた瞬間だ。
「な、なんだ、どうした『首断』……」
ガクン、と急に重くなる。
コイツは呪いの武器であるせいか、俺が持てば異様な軽さと、腕と一体化したかのような握り心地を誇る。どんな業物や魔剣でも及ばない、俺にとって間違いなく最高の武器が『首断』だ。
だと言うのに、コイツはリリィに刃を向けた瞬間、単なる鉄の塊にでもなったかのように、鈍重な感覚しか俺に与えない。
「まさか、『魅了』にでもかかってんのかよ」
あまりにも強力な『魅了』だと、襲い掛かる敵の殺意さえも捻じ曲げるという。
ならば、今の俺はリリィに魅了され、彼女を斬りたくないと思わされてしまったのか……だが、黒魔法の方は普通に発動できそうだ。今すぐ魔弾をその綺麗な顔にぶち込むことにも躊躇はない。
「ふふふ、やっぱり『首断』がクロノを守ってくれたのね。ありがとう」
俺ではなく、握りしめた大鉈を見てリリィは言う。
コイツは知っているのか。呪いの武器である、という以上に、俺に語り掛けるほどの意思が宿っていることにも。
「ええ、そうよ、彼女のとの付き合いは長いから。思えば、私がクロノと出会った、同じ日に拾った鉈だものね」
「テレパシーで読まれたか」
「使わなくても分かるわよ。クロノの顔を見れば、大体のことはね」
なんなんだ、コイツの親密アピールみたいなのは。
魅了をかけるための前フリか何かか……しかし、『首断』の重さは、彼女自身の意思によってリリィを斬りたくないと訴えているかのようだ。
「そんなに警戒しないでちょうだい。私達は敵じゃない。『エレメントマスター』は、クロノ、貴方のパーティよ」
「サリエルがいて、よくもそんな嘘が吐けるもんだな」
「ええ、サリエルは敵だった。使徒という最強の敵。でも、私とクロノが力を合わせて、彼女を倒したわ」
「リリィさん、さりげなく私をハブるのやめてもらえませんか」
「フィオナ、今はデリケートな交渉中なんだから、口を挟まないでよ」
「ここまで来れば、逃げられる心配もないでしょう。早いところ、記憶を取り戻してもらったらいいんじゃないですか?」
フィオナと呼ばれた魔女の黄金の瞳が、俺を射抜く。
その眠そうな眼は、俺の意思などまるで興味はないかのような冷たい印象を覚える。
コイツもマスク共と同じように、俺のことなんざ実験動物程度にしか思っていないのか。魔女だしな、生贄とかやってそうではある。
「ダメよ、間違っても力づくになるような真似は避けたいもの」
「クロノさんなら許してくれると思いますけど」
「焦る必要はないわ。クロノを説き伏せるに足る証拠は、もうここに揃っているのだから」
俺をまるっきり無視して魔女とお喋りしていたリリィは、不意に鋭い視線を投げかける。
その先にいるのは、俺ではなく、後ろに立つレキとウルスラ。
「そこの二人、嘘を吐いたわね」
殺意ではない。しかし、鳥肌が立つような恐ろしいほどの眼光を秘めて、リリィは二人を睨む。
レキとウルスラは、思わず、といったように視線を逸らしていた。
「クロノは、私達のことを敵だと警戒している。それは、かつて貴方を追い詰めた、第七使徒サリエルが一緒にいるから」
「そうだ、お前らは俺をあのリングに嵌めて、十字教の手先として使っていたんじゃないのか」
「その疑念は当然よね。サリエルの力は強大だった。それを倒すどころか、仲間になっているだなんて、信じられるワケがないわ————でも、そこの二人がそれを証明することができるとすれば、どうかしら?」
「……なんだと」
思わず振り返れば、レキもウルスラも顔を逸らす。
まるで、悪戯がバレた子供のような反応、というには表情が深刻である。
「どういうことだ、レキ、ウルスラ。サリエルについて、何か知っていたのか」
「うぅ……」
「くっ……」
二人は押し黙るだけで、答えようとはしなかった。
黙秘。だが、その沈黙は何よりも雄弁に、隠し事があるのだと物語っている。
「サリエルのこと、知らないはずがないわよね。ガラハド戦争の後、開拓村に落ち延びたクロノとサリエルと一緒に暮らしていた子供が、貴女達、二人でしょう」
「そんなワケあるか、どうしてサリエルが一緒に————」
「……ごめんなさい」
「レキ!?」
謝罪の声を挙げたのはレキだ。
そして、それを止めるように叫んだのは、ウルスラ。
「ウル、もう隠し通すことはできないデスよ」
「そんな、そんなこと!」
「シスターユーリが、クロノ様を迎えに来てしまったデス」
「イヤッ! そんなのイヤなの、ようやく一緒にいられるようになったのに……」
最早、戦うどころではない。
レキはとっくに武器を仕舞い、ウルスラはショックで顔を覆っている。
「レキ、ウルスラ、嘘をついていたのか。サリエルが一緒だったって、本当なんだな?」
「イエス……レキ達は、嘘つきました」
「ごめんなさい……クロノ様、ごめんなさい……」
どこか諦めたような表情のレキが、ごめんなさい、と泣き崩れたウルスラを抱き寄せている。
「どうしてそんな嘘を」
「決まっているわ、クロノを独占するためよ」
一歩、リリィが接近してくる。
愚か者を見下すような、冷たい微笑みを浮かべて。
「悪い子ね。お仕置きが必要かしら」
「それ以上、近づくんじゃねぇ!」
ナマクラと化している『首断』を構え、二人を庇う様に立つ。
レキとウルスラが、重大な嘘を吐いていたというのはショックではある。だが、騙された、と恨む気など毛頭ない。
俺達が過ごしてきた日々は、嘘ではないはずだ。
「リリィ様、二人に手を出すべきではありません」
俺だけが一触即発な気配を発する中で、歩み寄るリリィの止めに入ったのは、ずっと黙り込んでいたサリエルだった。
なんだよ「リリィ様」って。本当に下僕になっているのか。お前ほどの強さも持つバケモノが。
「サリエル、貴女も嘘を吐いていたわね。クロノと一緒に逃げたという冒険者の少女二人が、開拓村の子だと、最初から知っていて黙っていたのでしょう」
「……」
恐らく、俺達が裏港でリリアンを抱えて逃げた辺りのことを言っているのだろう。
サリエルが本当にレキとウルスラと面識があったならば、簡単な特徴が分かるだけで二人を特定することもできる。
そんなリリィの指摘に、サリエルは黙秘を貫いた。
ただ、サリエルはそのままリリィの前へと立ち塞がる。
レキとウルスラを守るかのように、その見た目だけは小さく華奢な背中を向けて。
「貴女までそんなに警戒しなくてもいいじゃない。別に、それほど怒ってはいないわ。所詮は子供の悪戯よ」
微笑むリリィ。だが、その目は笑ってはいない。
酷薄な色を映すエメラルドの瞳が、サリエル越しにレキとウルスラへ向く。
「先に手を出すとすれば、貴女達の方じゃないかしら。嘘を吐いてまで、クロノと一緒にいたかったのでしょう? 二人の仲を知りながら、貴女達はクロノがサリエルを恐れ、憎んでいる姿を見て、真実ではなく嘘を吐こうと決めた。その方が都合がいいと、自分勝手な判断で」
リリィの言葉に、レキもウルスラも俯いて震えることしかできていない。
二人の目には涙が光り、けれど泣き声をあげることもなく押し黙っている。
「サリエルを悪者にしておきながら、この期に及んで、貴女達、そのサリエルに庇われているのよ? いっそ哀れだわ」
「リリィ様、それ以上の挑発はやめてください」
「いいえ、これは挑発ではなく、警告よ」
光が瞬く。
大きく広がったリリィの二対の羽が、激しく明滅している。
迸る魔力の気配は、これ以上ないほどの戦意となって叩きつけられる。
「どんな手を使ってでもクロノが欲しいと言うならば、かかって来なさい。クロノを奪われたくないなら、私を殺して止めるしかないけれど————挑む覚悟もないのなら、今すぐ彼の隣から退きなさい、この薄汚い奴隷の子がっ!!」
途轍もない覇気を前に、反射的に鉈を振るいそうになる。
しかし、俺の腕を止めたのは、レキとウルスラ、二人の手だった。
「ごめんなさい、クロノ様……もう、一緒にはいられないデスね……」
「騙していてごめんなさい……それでも、一緒にいたかった、ただ、ずっと傍にいることができれば、それで良かったの……」
涙を流し、嗚咽を漏らしながら、二人は言った。
震える手で俺にすがりつき、懺悔をするように。
「シスターユーリ、サリエルはクロノ様にとって、とっても大切な人デス……もう、戻ってあげてください」
「やっぱり、いつかこんな日が来ると思っていたの……クロノ様、もし記憶が戻って、嘘をついたことを恨むのなら、私だけを殺して。全部、私が言い出したことだから」
「な、なにを……なにを馬鹿なこと言ってるんだ!」
俺に、サリエルの元に戻れと言うのか。二人を許せないと思うほどの、記憶があるのか。
ふざけるな、そんな事情があって堪るか。
「俺にどんな記憶があっても、レキ、ウルスラ、お前たちを恨んだりするはずがない。今まで一緒にやってきたんだ。もう、家族みたいなもんだろうが」
「そう言ってくれるだけで、レキは十分デス」
「本当はそんな資格もないのに……でも、そうだと信じたいの、クロノ様」
涙ながらに、俺から離れていくレキとウルスラ。
二人には、もう本当に俺を引き留める気はないようだ。
「あら、大人しく退いたわ……つまらない、ただのいい子ちゃんね」
そんな二人の姿を、心底つまらなそうにリリィは吐き捨てる。
俺は咄嗟に睨みつけたが、すでにしてリリィから放たれる強大な魔力の気配は収まっていた。もうやる気がない、というより、レキとウルスラのことはどうでもいいといった様子である。
「……」
そして、リリィの前に立ちはだかっていたサリエルも、進路を譲るように静かにその場を避けた。
再び、俺はリリィと真っ向から対峙する。
「……俺の記憶を、取り戻すことができるというのは、本当か」
「ええ、私にしかできないわ」
見惚れるほどの麗しい微笑み。それがかえって恐ろしい。
「レキ、ウルスラ……俺は、信じるべきなんだな?」
「はい、クロノ様」
「クロノ様の本当の仲間は、その人達なの」
俺には今でも、到底信じられない。
あのサリエルが仲間になっていただとか。この恐ろしい妖精少女を愛していただとか……リングで洗脳されていたとしか思えない状況だ。
けれど、それでも俺は二人を信じよう……鉈は手放さないけど。
「それで、俺はどうすればいい?」
「キスして」
静寂が訪れる。
ちょっと何言ってるか分かんない。
これは罠だ。本能が警告を発している。
「キス、して」
「いや分かった、聞こえてはいる。繰り返すな」
残念ながら聞き間違いではないらしい。
キスしろと、そう申したか。
「早く」
「待て、急かすな」
すでにしてリリィは両手を広げ、うっとりと目を閉じてキス待ち体勢に入っている。
マジで罠っぽくて怖いんだけど。
「ちょっとくらい説明しろ。キスと記憶に何の関係がある」
「私にキスしてくれたら、クロノの記憶はすぐに戻るわ」
「意味が分からん」
「魔法のキスなの」
「ますます怪しいな……」
キスして目覚めるのはおとぎ話の中だけだろう。
いやしかし、キスすると魔法が解けて的な展開はあったような、ないような。
「クロノの記憶喪失は、とある魔法が原因で引き起こされているの。私はテレパシーを通じて、それを解除することができるわ」
「最初からそう言ってくれ……いやでも、それってキスする意味あるのか」
「あるわ」
「……本当か?」
「キスじゃなきゃダメなの。どうしても、クロノの方からしてくれるキスでなければいけないわ」
断じて譲らない、といった強い決意みたいなのをリリィから感じてならない。
キス、キスか……もう初めてではないとはいえ、この状況、この相手にするには大いに抵抗感がある。
あるのだが、ここでゴネていても仕方がなさそうだ。
覚悟を決めよう。
「分かった」
一歩ずつ、リリィへと近づいていく。
そうして、いざ目の前に立つと、その存在感と輝くような美貌に圧倒されそうになる。
俺の方がデカいはずなのに、上目で見上げるリリィと目が合うと、何故か自分の方が小さく頼りない存在に思えてくる。
分かる、本能的に、俺はこの妖精少女を恐れているのだろう。
実は、美しい少女の皮を被った人喰いのバケモノ、と言われても納得しそうな心境である。
それでも、もう後には退けない。
「い、行くぞ」
「うん、来て」
バクバクと嫌な緊張感で心臓が早鐘を打っている。
触れ合いそうなほどに接近した、妖精少女の体。そっと顔を寄せただけで、ふわりと花のような香しい匂いが届く。
僅かな逡巡。けれど、もどかしいほどに長く感じる躊躇いを経て、俺はついにリリィと唇を重ねる。
瞬間、彼女は何かを囁いた。
「おかえりなさい、私のクロノ。『愛の女王』————」