第762話 黄金魔宮(2)
「お前を倒し、俺が魔王となる。刮目せよ、これが俺の、新たな魔王の力だ————『黄金魔宮』」
ゼノンガルトの体が、この金に彩られた空間にあっても、尚、眩しいほどに黄金の光を放つ。
身に纏う漆黒の鎧は光り輝く黄金一色に染まり、そして、その瞬きは長大な回廊全てを照らしてゆき————あまりの眩しさに、リリィも目をつぶる。
「ここは……」
瞬きをした次の瞬間、リリィの翡翠の瞳に映ったのは、黄金の空間。
だが、先ほどの回廊とは異なる。
巨大な円形のホールであった。
スパーダの大闘技場に匹敵する広大さ。第五階層と同じく純金のような金属で壁も床も形成されているが、その趣は大きく異なる。
如何にも豪奢な宮殿といった風な第五階層『黄金宮』とは違い、このホールはやや殺風景とも言える。外側に立ち並ぶ柱にも、円形に囲う壁面も、見上げるほどに高い天井も、これといった装飾は見当たらない。
しかし、この四方を囲む黄金の壁には、無数の光のラインが走っている。色とりどりに輝く光が、ヒビ割れのように、けれど規則正しく魔法陣のように、網の目となって輝いている。
それはモノリスを操作した時に映し出される、魔力反応の光とよく似たものだった。
「センスのない部屋ね」
「そう言ってくれるな。魔王が座す場所としては、少々寂しい内装だと俺も思っている」
謎の黄金空間に変化したことに動揺の欠片もなくリリィが言えば、正面に立つゼノンガルトは笑って答えた。
「これは俺の力が未熟な証でもある。いずれ、より相応しき空間へと変えてみせよう」
「そう、これが今の貴方の実力ということ」
「ああ、ここには俺が認めた強者のみを呼び入れる。本気で相手をするに相応しい、強敵をな」
「お招きに預かり光栄、とは言えないわね。罠に嵌められた気分よ」
「ふっ、その割に、驚きも焦りもないと見える」
「感心はしているわよ。他にも同じことを考える人がいるものだと。あるいは、突き詰めれば必ずここに行きつくのか……ゼノンガルト、貴方は確かにカーラマーラ最強の冒険者に相応しい。見事な次元魔法ね」
そう、ここはゼノンガルトが発動した『次元魔法』の中である。
決して転移で第五階層の別な部屋へと飛ばされたのではなく、彼自身が誇る究極の魔法により、形成された空間だ。
「ふむ、流石と言うべきか。次元魔法とすぐに見抜くとは」
普通の冒険者なら、まず幻術を疑う。次点で、転移トラップにかけられたか。
第三階層で相対した『アトラスの風』は、ここへ入った途端、そういった反応を見せた。
しかし、いくら解呪を試そうと無駄なこと。次元魔法は空間そのものを創造している。
今ここに立っている場所は、夢幻などではなく、確かな現実なのだ。
「分かるわよ。こういうところは、現世よりも神域に近い、独特の雰囲気があるからね」
「如何にも、ここは神の領域に近い。まさに、選ばれし者のみが到達できる至高の空間だ」
大袈裟な物言い、と馬鹿にはできない。
次元魔法の発動は、人としての力だけでは不可能だ。
黒き神々から、並外れた強大な加護の力を授かっていなければ、空間の創造という大魔法は人の身で成し遂げることはできない。
それはすなわち、ゼノンガルトもまた、リリィ達に匹敵するほどの加護を授かっている何よりの証だ。
「けれど、このギラついた金色の空間……黒き神々じゃないわね。貴方、一体ナニから力を授かっているのかしら」
「ほう、そこまで察するとは」
やや驚いた反応をするゼノンガルトだが、すぐに不敵な笑みを戻す。
この空間の創造主であり、支配者であることを誇示するかの如く、黄金の輝きを放ち続ける鎧姿で、堂々と両手を掲げる。
「これ以上は、その身を以って我が力を思い知るがいい」
ゼノンガルトの広げた両手に、俄かに黄金の輝きが灯り、加速度的に光量を増してゆく。
対するリリィも、二丁拳銃を真っ直ぐ構え、トリガーを引く。
「ふっ、一撃で沈んでくれるなよ————『奔流』」
「『最大照射』」
ゼノンガルトの両手から解き放たれる、渦巻く黄金の奔流と、リリィの銃口から迸る二つの閃光。
双方の輝きが真正面から激突する————寸前、白と黒、リリィが放った二色の光線は激しく明滅をしながら、急速に色を失ってゆく。
そして、次の瞬間には進むごとに勢いを増す金色の『奔流』が、容易く二筋の閃光をかき消し、一直線にリリィへと向かった。
「————っ!」
ドシャアアアアアアアアアアアッ!!
そんな、激しい波しぶきが上がるような音を響かせ、『奔流』はリリィに直撃した。
圧倒的な黄金の奔流に飲み込まれる、だが、その中でも力強くエメラルドの輝きが瞬いた。
岩をも穿つ激流の如き一撃に、大きく押し流されながらも、リリィはどうにか『妖精結界』で凌ぎ切る。
そうして炸裂した『奔流』が散った時には、リリィは壁際まで押されており、強固な『妖精結界』もチラチラとノイズのように点滅が走り、相当な減少を示していた。
「……あの時のサリエルの気持ちが、少しだけ分かったわ」
そんなことを呟きながら、リリィは微笑みを絶やさず視線を上げた。
翡翠の視線の先には、悠然とゼノンガルトが歩み寄ってくる姿がある。
「気丈だな。今の一撃で、力の差は理解できたと思うが」
「ええ、よく分かったわ。ここは貴方の世界、全てが貴方に味方する」
すなわち、自分が攻撃をすれば強化され、逆に相手の攻撃は弱まる。
正に、白き神の加護を一身に受ける使徒を倒すために編み出したフォーメーション『逆十字』と同じ現象が起きていた。
「そして、貴方に力を与えた神は、黒き神々ではない。だから、私の加護も遮られる」
「素晴らしい。この力をそこまで理解できたのは、お前が初めてだ」
リリィとしても、『逆十字』並みの弱体効果を自分に対して発揮する次元魔法を食らうことがあるなど、全く想像もしていなかったが。
もし、そうなる可能性があるとすれば、黒き神々と真っ向から敵対する、白き神の加護が宿るアーク大陸の聖地などにでも乗りこまない限りは、体験できない弱体化だ。
「ならばこそ、分かっただろう。お前に勝ち目はない」
「そうね、このままでは分が悪いわ。だから、私も本気を出させてもらおうかしら」
リリィは歌う様に、詠唱を口ずさむ。
「星に願いを、渇きに水を、荒野に花を、咲かせましょう――『大妖精結界』」
瞬間、弾けるエメラルドグリーンの輝き。
リリィの纏う妖精結界から放たれる強烈な光は、この空間に満ちる黄金の輝きすら打ち消し————金色の神の領域に、妖精の庭を作り出す。
金の床を覆いつくす、満開の花畑の絨毯が俄かに広がる。壁面には色とりどりの花を咲きほこらせる蔦がびっしりと走り、天井にまで伸びていく。
そうして、リリィを中心として美しい草花が生い茂る空間が瞬時に形成された。
「まさか、俺の『黄金魔宮』に干渉を!」
「そういうセリフ、聞くのは二度目ね」
魔法の極みの一つである次元魔法は、やはり術者にとっては絶対的な存在であるのだろう。
その空間内に相手を引き込んだ時点で、勝利は確定したようなもの。究極の地の利である次元魔法を覆そうというならば、それは同じ魔法を使うより他はない。
「そうか、俺と同じ高みにまで、お前もまた登り詰めているということか」
「これで貴方の勝ち目も怪しくなってきたわね?」
「ふっ、くく……ふははは! 面白い、そうこなくてはな」
必勝の確信を覆された焦りなど欠片もなく、ゼノンガルトは笑い飛ばす。あるいは、これこそが自分の望む展開であると。
「魔王の加護を持つ者が、ついに目の前に現れたのだ。やはり、この俺が死力を尽くして挑むに相応しい強さがなければ、拍子抜けというものだろう」
「どうかしら、貴方のご期待には沿えないかもしれないわよ」
「リリィ、お前は強い。俺がこれまで出会ってきた、誰よりもな」
好敵手と認めた敬意と、そしてそれ以上に勝利を求める強烈な戦意を伴い、ゼノンガルトはその手を背中へ……この大迷宮に潜ってから、一度も抜かなかった大剣の柄へと伸ばした。
「本気を出して戦うのは、いつぶりだろうか。この剣を手に入れてからというもの、第五階層のボスですら、俺の全力を引き出すには足りなくなってしまった」
感無量、とばかりに語りながら、ゼノンガルトはゆっくりと背負った大剣を抜く。
鞘から引き抜かれ、露わとなった巨大で分厚い刀身は、鎧よりもさらに強力な黄金に煌めいている。
単純に刃から発せられる魔力のオーラとしては、『絶怨鉈「首断」』にも匹敵するだろう。
呪われていないにも関わらず、それほど濃密なオーラを纏っているのは、それだけで魔剣として超一級の性能を誇る証足りうる。
そして、魔剣の強さは、それを引き出す剣士との相性に比例する。
クロノが呪いの武器に愛されるように、この黄金に輝く豪奢な大剣は、金色の光を放つゼノンガルトと最高の相性を誇るのだろう。
「『征剣コンクエスター』。それがコイツの銘だ」
「あら、素敵な魔剣。高く売れそうね」
「値はつかんぞ。後世に、魔王の愛剣として語り継がれる伝説となるのだからな」
大言壮語を吐くだけあって、確かに強力な魔剣だ。
使い手との相性は抜群にして、本人はランク5冒険者。剣術の腕などいわずもがな。
ゼノンガルトは『首断』を持ったクロノに匹敵する危険度だろう。次元魔法の効果も込みならば、上回る部分もある。
リリィとて、本気を出しても無傷で勝てる相手ではない。
「うふふ、それじゃあ貴方のことは、伝説に語られないようにしておいてあげる」
「ああ、そうさ、今この瞬間が、俺とお前、どちらが魔王として伝説となるかの歴史的分岐点となるのだ」
魔王となる野心を抱き、本当にそれを実現せしめるだけの実力と手段を手に入れかけている、ゼノンガルト。
その前に立ち塞がった、古の魔王ミアの加護を持つ妖精少女リリィ。
どちらが真の魔王となるか。運命的な邂逅。パンドラの行く末を分かつ、世紀の決闘————と、思っているのは、ゼノンガルトだけであろう。
「盛り上がっているところ、本当に申し訳ないのだけれど、私に貴方と一対一で雌雄を決する義理はないわ————フィオナ、手伝ってちょうだい」
何を言っているんだ、と問いかけるゼノンガルトの声は、直後、
ズドドドォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
黄金のホールを揺るがす大轟音によってかき消された。
「なにっ、これはっ!?」
黄金の壁面、その一角が突如として崩壊を始める。
ここはゼノンガルトの次元魔法『黄金魔宮』の内部である。彼自身が望まぬ限り、創造した空間である黄金のホールが崩れ去るなどありえない。
ヒビ一つ入るはずのない黄金の壁面はしかし、あっけなく大爆発によって吹き飛んだ。
紅蓮の爆風が黄金の壁を打ち砕き、瓦礫の山へと変えてゆく。
そうして、大きく崩れた壁の『向こう側』から、立ち込める黒煙を割って、一つの人影が現れる。
「お呼びですか、リリィさん」
ド派手な登場とは裏腹に、ちょっと呼ばれて振り向いた程度の軽い口調で、フィオナは言った。
「ええ、この男、思ったよりも強そうだから。二人でやった方が確実だわ」
「次元魔法の使い手ですもんね、なかなかいませんよ」
何の感慨もなく、いつもの平坦な調子で話すフィオナを前に、ゼノンガルトは今度こそ驚愕の表情を浮かべる。
「馬鹿な、俺の『黄金魔宮』が砕けた……? そんな、まさか、あの女までもが……」
ゼノンガルトの背筋に、悪寒が走る。
壁をぶち破って現れた女は、どう見ても尋常ではない。
青いロングヘアに水晶のような二本角を生やした姿は悪魔的。その身に纏う魔力の気配もリリィに匹敵している。
なにより、彼女の後ろに広がる、壁の外の光景がゼノンガルトを戦慄させる。
そこは、正に煉獄と呼ぶに相応しい破滅的な景色が広がっていた。
赤黒く曇った禍々しい空に、遠目にはマグマを迸らせて大噴火する火山が見える。草木の一本も生えない赤茶けた荒地だけが広がり、赤々と輝く溶岩の大河が流れ込んでいた。
ゼノンガルトの『黄金魔宮』に、外などない。この黄金のホールの内側こそが、己の作り出す空間の全てである。
しかし、何も存在しないはずの外側に作り出された光景。遥か彼方まで延々と続く煉獄の景色は、すなわち、それほどまでに広大な次元魔法であることを示していた。
「うーん、随分と妙な感じの空間ですが……問題なく私の『煉獄結界』も広がっているので、大丈夫でしょう」
「そうね、やっぱり次元魔法はフィオナの方が上手だわ」
にこやかな笑みで親友のお手前を称えたリリィは、ゆっくりとした流し目で、ゼノンガルトを見やる。
自慢の黄金大剣を構えた新世代の魔王候補は、ついに目を見開いて冷や汗を流していた。
「二対一だけれど、卑怯とは言わないでね。だって、私達は冒険者パーティなのだから」
微笑みながら、リリィは白と黒の二丁拳銃を再びゼノンガルトへと向ける。
「お、おのれ……」
彼我の戦力差を理解したゼノンガルトは、愛剣を硬く握りしめ、その身と刀身から精一杯に魔力を振り絞る。
「あ、もう撃っていいですか?」
そしてフィオナは手にした、満開に展開された『ワルプルギス』を向けた。
「油断のできない相手よ、どんどん撃ちなさい————『星墜』」
「それでは遠慮なく————『黄金太陽』」
「おぉおおのれぇえええええええええええええええええええええ!!」
ゼノンガルトの絶叫をかき消して、極大の光が黄金の空間を吹き飛ばしてゆく————
「————ぐはぁあああ!!」
神々しい黄金の光が渦を巻く、巨大な魔法陣が効果を失うと、靄のように儚く消えゆく輝きの中から、ゼノンガルトが放物線を描きながら吹き飛んで来た。
完全に『黄金魔宮』が消え失せると同時に、ゼノンガルトは受け身もとれずに、背中から赤い絨毯の上に墜落した。
「ゼノ様!」
悲鳴のように名前を呼んだのは、忠実な奴隷のエルフ少女、ティナである。
他のメンバーからの声は上がらない。アイラン、セナ、ウェンディ、三人の仲間はすでに意識を失っている。
この場で十全に動けるだけの力を残しているのは、ティナだけとなっていた。
「ぐっ、うぅ……」
慌てて駆け寄るティナに気づいたのか、ゼノンガルトは苦し気なうめき声を上げながら、体を起こす。しかし、上体を起こしただけで、立ち上がるまでには至らない。
それほどまでに、満身創痍と化していた。
「そんな、ゼノ様……ああ……」
ティナのエルフらしい白い美貌が、驚愕と悲哀に歪む。
ゼノンガルトの奴隷にして、最初の仲間であるティナ。共に過ごした時間は、唯一の家族であるエミリアよりも上になるかもしれない。
そんな最も長い付き合いのティナでさえ、初めて見た。ゼノンガルトがこれほどまでに傷ついた姿は。
いいや、違う、これは紛れもなく、敗北の姿であった。
「流石はカーラマーラ最強の冒険者、まだ息があるわよ」
「五体満足で意識も残っているとは、凄い耐久力ですね」
鎧は砕け散り、自慢の愛剣さえ手放し、鍛え上げた逞しくも美しい肉体は半ば以上がボロボロに焼け焦げている。
そんな有様にまでゼノンガルトを追い込んだ二人、リリィとフィオナは、このまま舞踏会に駆け付けても文句が出ない程に無傷であり、綺麗なままで、次元魔法から帰還を果たしていた。
「そ、そんな、嘘です……ゼノ様が、こんな一方的に負けるだなんて……」
「……ティナ」
絶望に暮れるティナに、ゼノンガルトは息も絶え絶えに彼女の名を呼んだ。
「ゼノ様!」
「加護を、使え……『天癒皇女アリア』の加護を……」
かつて、古の魔王ミアを死から蘇らせた、という伝説から黒き神々の一柱と成ったアリアの加護。その加護は絶大な癒しの力をもたらす。
ほぼ瀕死と呼んでもよいゼノンガルトも、再び戦闘できるほど即座に回復することも可能だろう。
「ですが、ゼノ様、それでも……」
「ああ、分かっている……分かっているさ、俺は勝てない……」
当然の結末である。
万全の状態といって良いコンディションで、リリィとの戦闘を始めた結果が、この惨敗だ。
いかにアリアの加護で回復したとしても、体力も魔力も半ばまで回復するのが精々。もう一度『黄金魔宮』を展開するにも足りない。おまけに、剣と鎧の武装まで失ってしまった。
一方、リリィとフィオナには、さして消耗した様子は見られない。二人とも次元魔法を行使した以上、それなりの魔力は消費しているに違いないが、全くの無傷にしてノーダメージ。
もう一度ゼノンガルトが立ち上がったところで、光と炎の暴威に晒されて、何もできずズタボロにされるだろう。
「それでも、戦うのだ……ここが、俺の死に場所だ」
今この場で最も絶望しているのは、ゼノンガルト本人に違いない。
自身の野望のために突き進んできた男が、志半ばで倒れようというのだ。
ここから、どう足掻いても勝ち目はない。
だがしかし、無様な命乞いなどしない。
「ティナ、俺を回復させたら、すぐに逃げろ。お前一人を逃がす程度の時間は稼ぐ」
「い、嫌です、ゼノ様! ご主人様を置いて逃げるなんて、できるはずありません!」
「やるんだ、ティナ、これは命令だ。聞いてくれ、俺の最後の命令を……ここから逃げろ、そして、エミリアを頼む」
これで心残りはない、とばかりにゼノンガルトは震える足に力を籠め、立ち上がる。よろめきながら、力なく、それでも自ら立ち上がり、悠然と佇む二人の強敵へと向かい合う。
「俺の名は、ゼノンガルト。魔王になる男……俺は俺の覇道を進む。この命尽きる、最後の瞬間まで!」
ああ、これぞ死に行く覚悟を決めた、誇り高き男の姿。
力及ばず夢に破れようとも、それでも倒れるならば前のめり。
魔王を目指す野望の男。カーラマーラ最強の冒険者。その名に恥じない、実に見事な散り際だろう……そう、相手がただの敵であったなら。
カラン————
という妙に軽い音が響く。
それは金属質な白い輪で、落ちた拍子にコロコロ転がり、ティナの目の前で動きを止めた。
「それを使いなさい、ティナ」
その命令を発したのは、リリィであった。
「使い方は簡単。ただ彼の頭に被せるだけ。それだけで、ゼノンガルトは貴女のモノよ」
「な、なにを……」
意味が分からない。困惑の呟きは、ゼノンガルトからも、ティナからも漏れる。
「助けてあげる、と言っているの。ティナ、貴女の愛に免じてね」
にこやかな微笑みは実に妖精らしい愛らしさ。
だが、それが悪魔の笑みであることを、ゼノンガルトは本能的に察した。
「よせ、ティナ、奴の言葉に耳を貸すな!」
「愛しているんでしょう、その人を」
そんなこと、今更に言うまでもない。
奴隷の自分を買った主、ゼノンガルトのことを、ティナは愛している。心から愛している。
彼が自分を買ったから、彼が私を選んでくれたから、あの地獄の第一階層から抜け出すことができた。
人並みの、いや。人並み以上の生活ができるようになった。
才能を見出してくれた。
冒険者として力を磨けた。
加護さえも授かった。
自分の人生の成功は、全てゼノンガルトのお陰である。
たとえ、それが彼自身の野望のために、ティナの才能を買って育成してきたにすぎない、打算的な思惑があったとしても。
使える奴隷を買った主人と、意思もなく買われただけの奴隷。
当たり前の主従関係から始まった二人だけれど、このカーラマーラで歩んできた冒険の道のりは本物だ。その信頼と絆は、冒険者として最高の宝物。
愛している、愛している、だからこそ————
「ゼノンガルトを死なせたくはないでしょう?」
そんなの当たり前だ。
自分の命を捧げて、彼が助かるというならば、何の迷いもなく死ねる。
「選びなさい。今ここで無為に死ぬか、それとも、彼と共に生きるか」
「加護を使え、ティナ! 早くしろ、俺の命令が聞けないのか!」
「プライドのために潔く死を選ぶ……そんな馬鹿な生き方をする男を止めるのが、女の役目じゃないかしら」
「……本当に、助けてくれるんですか」
「ティナ!!」
心が傾く。
主の言葉さえ、届かないほどに。
「『黄金の夜明け』の実力は認めているの。ここで全滅させるにはもったいないわ。私に協力してくれるなら、彼と二人の幸せな生活を保障してあげるわよ」
「馬鹿なことを! この期に及んで、何故、心を惑わすようなことを言う! お前はただ、俺を殺して進めばいいだろう、魔王への道を!!」
そうしてくれなければ、意味がない。
自分は負けた。ここで、今この場で潔く散れるからこそ、気高く戦った誇りは守られる。
たとえ歴史に残らなくても、ゼノンガルトという男は、自らに恥じぬ生き方をしたと誇れるのだ。
「その輪っかは『思考支配装置』と言うのだけれど、まぁ、上等な奴隷の首輪とでも思ってちょうだい。それをつければ、もう彼を逃がさないし、なにより————魔王になる、だなんて馬鹿なことも考えなくなるわ」
「リリィ、貴様ぁあああ!!」
「危なっかしい死にたがりの困った男ね。そんな彼を助けてあげられるのは、貴女しかいないのよ?」
敗者に残された最後の誇りさえ奪おうというのか。
激高するゼノンガルトの叫びはしかし、リリィには届いていない。
彼女の視線はもう、選択を迫られた奴隷の少女にのみ、向けられている。
「さぁ、彼を救いなさい。そして、貴女だけのモノにするの」
「……さい」
それは、小さな呟き。
けれど、確かな決断の言葉。
「————ティナ?」
「ごめんなさい、ゼノ様」
振り向くよりも前に、背中に衝撃を受け、ゼノンガルトは前のめりに倒れこむ。
攻撃でも何でもない。ただ、背中を押されただけのこと。
しかし、満身創痍で死の淵に立つゼノンガルトにとっては抗いようもなく、そのまま転倒する。
「ぐっ、う……ティナ、まさかお前……」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
決死の表情で涙を浮かべるティナ。
その謝罪の言葉はすなわち、裏切りの証。
彼女の手には、『思考支配装置』が握りしめられていた。
「よせっ、やめろ、ティナ!」
「ごめんなさい、ゼノ様! ごめんなさい!」
倒れたゼノンガルトの背に、ティナは襲い掛かるように乗っかる。
超人的な身体能力を誇るゼノンガルトだが、今は立ち上がるのすら全力を振り絞らねばならないほどに消耗している。細身の少女でしかないティナを撥ね退けるほどの膂力は、どこにも残ってはいない。
まるで無力な乙女が暴漢にでも襲われたかのように、ゼノンガルトはティナに圧し掛かられたまま、無様にもがくことしかできなかった。
「やめろっ! やめろぉおおおおおおおおおおおおお!!」
「ゼノ様! あぁあああああああああああああああああああ!!」
カシュン————
醜い揉み合いの末、ついにゼノンガルトの頭にリングがかけられた瞬間、その音が響く。
頭蓋を貫き、自由意志を侵し、奪う、悪魔の機構が脳を支配する。
「ぐあっ……あ……」
激しい絶叫はピタリと止まる。
ゼノンガルトは身動きを止め、そして、その瞳から光を失ってゆく。
魔王になる、という壮大な野望。それを実現するために突き進んできた、ゼノンガルトの強靭な意思と欲望にギラギラと力強く輝く瞳は————すっかり色を失い、人形のような無機質さへと変わり果てた。
そのガラス玉のような瞳に、ティナの顔が映りこむ。
「……ゼノ様」
「ああ……なんだ、ティナ」
どこまでも平坦な声で、ゼノンガルトは答えた。
そこには、一切の感情が込められていない。呼びかけられたから、答えた。ただそれだけの機械的な反応。
「もう、やめてくれますか」
「ああ、やめよう」
「魔王になる、なんて言わないでください」
「分かった」
「ずっと、私と一緒にいてください」
「ティナと一緒にいる」
「私だけを、見てください」
「お前だけを、見ている」
一つの気持ちも籠らない無機質な肯定。
それでも、その答えを聞いたティナは、感極まったように涙を零した。
「どうやら、上手くいったようね。おめでとう」
パチパチと拍手を鳴らしながら、リリィは実に優しい笑みを浮かべて歩み寄る。
「これが、貴女の望みでしょう?」
「はい……ありがとう、ございます」
魔王になんて、ならなくていい。そんなこと、どうでもいい。くだらない。
ずっと、ずっと前からティナはそう思っていた。
「ええ、そうよね、その気持ちはよく分かるわ」
「わ、私は……私は、ただ、ゼノ様のことが、心配で……」
ゼノンガルトは強い。その強さを、カーラマーラの誰もが認めている。
ゼノンガルト自身が、誰にも負けないという絶大な自信を持っていた。そして、その強さと自負による堂々とした言動に、人は惹きつけられる。
妹であるエミリアも、『黄金の夜明け』のアイラン、セナ、ウェンディ、その他にも大勢の仲間や協力者達。誰もがゼノンガルトの力を信じている。
だから、その身を心から案じているのはティナだけだった。
いつか、負ける日が来るかもしれない。
とても敵わないような化け物と遭遇するかもしれない。
そんな後ろ向きな不安感を抱くのは、生来の臆病な性格だけではない、
愛しているから、心から愛しているから、不安になる、心配になる、怖くなる。
「……だから、魔王になるなんて馬鹿な夢は、早く諦めて欲しかったのです」
裏切り者は、最初から傍にいた。
ゼノンガルトの敗因は、最も頼ってきた奴隷であり仲間であり、伴侶ともなるはずだったティナ、彼女の本当の愛に気づかず、気づこうともせず、ただ前だけを向いて進んできたこと。
「ふふ、これでもう安心ね?」
「はい、ゼノ様は私がお守りします」
そっと、我が子を抱くように優しく、ゼノンガルトの顔をティナは抱きしめる。
彼はもう二度と、魔王となるための過酷な道を歩むことはない。
それがティナの望みであり、ようやく得た安息。
慈しむような穏やかな微笑みを浮かべて亜麻色の髪を撫でるティナ。
ゼノンガルトは、一切の感情が浮かばない無表情のまま、彼女を受け入れるのみ。
「そう、お幸せにね」
リリィは満足気に頷いて、新たなカップルの誕生を祝福するのだった。