第731話 迷える子羊
「――まずは住み込みで働けるところを探そう」
自分の居場所を失ったことを悟ったクルスは、眠るリリアンを残して治療院を飛び出た後は、すぐさまこれから生きるための行動をはじめた。
今の我が身は文字通り、単なる孤児。奴隷として所有されていないだけマシといった程度。
チラりと路地裏に目を向ければ、薄汚いボロキレをまとった小さな子供が、鼠のように走り抜けていくのが見えた。あの子と自分に、立場の違いはない。
「当面の資金はある。焦らず行こう」
立場としては孤児であっても、持っているモノは違う。
着の身着のまま飛び出してきたものの、クロノから預けられている金はそれなり以上の額である。節約すれば一ヶ月は生活していける。
それに、見るからに路上生活をしているような汚らしい格好ではない。クロノのお蔭で、毎日着替えができるほどの子供服は手に入っている。治療院へ来るからと、クルスの格好も今まで一番良い服を着こんできた。
見た目だけなら、表通りを歩く一般庶民の子供と変わらないように見えるだろう。
クルスはそんな自分の状態を把握した上で、早速、職を探すべく朝のカーラマーラを歩く。
「――まぁ、そうそう上手くはいかないよね」
午前中の面接結果は見事に全滅だった。
商店街や市場を中心に、自分を手伝いとして雇わないかと店主に訪ねて回ったが、そもそも人で溢れるカーラマーラである、働き手の需要は十分に満たされている。多少の読み書き計算ができる程度では、この外周区でも平均的な学力水準だ。わざわざ身寄りのない子供を雇う必要性は、どこの店にもなかった。
あまりにもあっけない不採用通知の連続……だが、まだ半日活動をし始めたばかり。さほど気にするほどのことでもない。
「レキ、ウルスラ、今頃なにしてるんだろう……」
少しでも考え込んでしまったら、頭に浮かんでくるのはこんなことばかり。
レキとウルスラのことは勿論、子供達みんなのことも気になって仕方がない。一緒にいるのは一年にも満たない期間だけれど、共に苦難を乗り越えながら、世話をしてきた子達である。
年長の子達には、読み書き計算も少しずつ教えていた。年少の子には、読み聞かせていた本も途中で終わっている。
全てやりかけのまま、放り出してきたのは自分だ。
まだ一日も経っていない。今からでも治療院に戻れば、気の迷いだったと一言謝るだけでみんなのいる場所に帰ることができるだろう。
「いいや、帰る場所なんかない……帰れるはずがない……もう、みんなで一緒にはいられないんだ」
子供達はオルエンの申し出を受けて、孤児院へと入れられるだろう。
レキとウルスラは年齢だけなら子供だが、すでにしてランク3冒険者として自立できている。
そしてなにより、クロノがいる。
きっと三人で冒険者パーティを結成して、これからは大迷宮で活躍していくことだろう。あの三人組ならば、あっという間にランク5だ。
「僕の居場所はないんだから……自分で、見つけないと……」
「――やぁ、少年、浮かない顔をしているねぇ。迷子かな?」
いきなり、そんな風に声をかけられた。
俯いてた顔を上げれば、すぐ隣に見慣れない男が座っている。
クルスはやや遅めの昼食を公園のベンチに座って食べているところで、男はいきなりその隣に座り込んできたのだ。
「えっ、あの……違います」
「いいや、君は今、迷っている。そう、迷える子羊だ」
男がやけに強く断言するが、それがかえって胡散臭い。
肩まで伸ばした長い髪に、整えられた口髭。真っ白いハットとスーツをバリっと着込み、ネクタイは鮮やかな赤。
商人なのか、ギャングなのか、あるいは両方の肩書きを持つのか。
どちらにせよ、怪しい男であるのは間違いないのだが……気になるところがあった。
「この出会いは運命だ。おお、神よ、お導きに感謝します」
それなりの色男といった顔立ちだが、凛々しい表情で見つめられても、クルスにとっては困惑するしかない。まさか自分を本気で口説きに来た、とは思いたくなかった。
「あの……おじさん、もしかして教会の人ですか」
「ふふふ、分かるのかい?」
「迷える子羊、なんて言い回しは教会だけですし、その首にかけているのもロザリオですよね」
「素晴らしい、君は実に聡明な子だね」
「いえ、見ればすぐ分かりますけど……」
男がかけているロザリオだけで、ピンと来るには十分すぎた。
クルスのいたアリア教会は、オルテンシア王国の中でもマイナーな宗教ではあったが、十字をシンボルとした教義の歴史は古く、今も根強く信仰が残っている。クルスもそれなり以上に、アリア教会における神学を叩きこまれたものだ。
もっとも、現実の生活で役立っているのは、基礎的な読み書き計算の知識と、ささやかな治癒魔法のみだが。
「おじさんはどうして、僕が教会信者だって分かったんですか?」
「分かるさ、一目見れば、すぐにね」
自分は男とは違って、教会を示すようなモノは何一つ持ってはいない。お祈りの言葉を呟いてもいない。
まさか、無意識に口から漏れていた、とは考えたくないが。
「こう見えて、俺は司祭だからね。それも、結構偉いんだ」
「司祭様って、ちゃんと法衣を着なきゃいけない決まりが――」
「まぁまぁ、堅いこと言うなって。ウチはその辺、フリーだからさぁ」
ますますもって怪しい言い訳である。
だが、本当にこの男が見た目だけで信者を判別できる能力を持っているのならば、なるほど、司祭の位を授かるだけの実力はあるのかもしれない。
「そんなことより、何やらお困りなんだろう、少年? この司祭様に悩みの種を打ち明けてごらんなさい」
「ええぇ……」
正直、躊躇しかない。
こうして言い寄ってくる者は、大抵、こちらを利用しようとする悪どい大人ばかりである。
口車に乗せられれば、すぐさま奴隷として売り払われるだろう。
「心配することはない。君を奴隷にしようなんて思っちゃいないさ。ほら、こうして天下の往来で話をしているなら、いきなり攫われることはないだろう?」
確かに、ここは途切れることなく人々が歩いているし、その辺でくつろいでいる者も多い。実に人気の多い公園だ。
いくら奴隷商人でも、白昼堂々、人攫いの真似事はできない。
「だから、まずは話だけでも聞かせてくれないか」
悩みはあるし、話すのに不都合はない。
それに、怪しい風体ではあるものの、この男の身なりはかなり良い。こんな白スーツなんて、中心街の高級店じゃなければ扱っていないだろう。
もし本当に同じ教徒だと思って目をかけてくれるなら、働き口の紹介くらいは望めるかもしれない。
どの道、数をあたる以外に方法はないし、それだっていつ奴隷商人に騙されるか分からないのだ。
ならば、同じ神を信じる人を、少しだけ信じてみよう。クルスはそう思った。
「おっと、そういえばまだ名乗ってもいなかったね。俺はリューリック、リューリック・トバルカインだ」
「僕はクルスです。姓はありません」
「そうか、クルス、いい名前だ。古代の聖人の一人じゃあないか」
「よ、よく知ってますね」
「言っただろ、俺は司祭なんだって。こういうの、詳しいんだよね」
確かに、自分の名前の由来はその通りである。男が、リューリックがあてずっぽうで言ったワケでない限り。
「それで、話してくれるかな、クルス君」
「ええ、そうですね、実は――」
「んー、美味しー!」
と、両手に持つデカい串焼きに舌つづみを打っているのは、ミアである。
「おい、口元が汚れてるぞ」
「んんー」
「お前はみんなの中では年長の方なんだから、しっかりしろよ」
言いながら、ソースで汚れた口を雑に拭ってやる。
こういうことをしていると、本当に父親にでもなった気分だ。
まだ童貞なのに……いや、覚えてないだけで、レキとウルスラには一晩の過ちがあるんだっけ……
「クエスト、どうだった?」
「余裕だな。この分なら、すぐに稼げそうだ」
「そっかー」
子供相手には、これくらい楽観的に言っておいた方がいいだろう。
ミアの頭を適当に撫でまわしながら、俺は孤児院『ハウス・オブ・ザ・ラビット』の庭で遊び回る子供達を眺めた。
まだここに入って三日目だが、早くも馴染んでいるように見える。元からここに入っている孤児は獣人系が多い。
ウチの子もフサフサした毛皮の子達に入り混じって、元気に走り回っている。
庭の真ん中では、レキが木刀を持って模擬戦もとい、チャンバラごっこをして遊んでいるようだ。木刀大好きのカイルは、犬と猫の獣人の子を従えてレキへ無謀な戦いを挑んでいる。
案の定、ふっとばされてゴロゴロ転がっているが、それが子供達には楽しいらしい。
一方、室内の方では女の子達が集まっている。
テレビ、ではなく『ヴィジョン』と呼ばれている、映像を映す魔法具だ。
カーラマーラでは街中にデカいヴィジョンが各所に設置され、広告塔として利用されているが、屋内でもテレビのように小型のヴィジョンを置いてあるところもそれなりにある。
で、そのヴィジョンには今、カーラマーラで人気のアイドルが歌って踊っている。
ドレスのように煌びやかな衣装を纏った美少女アイドルによるアクティブなダンスに、ヴィジョンの前の女の子達は夢中になっている。
ウルスラは彼女達に混じって、一緒に踊っていた。子供に合わせているというより、多分、本人も好きなのだ。
「やっぱり、平和ってのはいいもんだな」
昨日、クエストから戻ったので、今日はほぼ休みとしている。
午後からは、ギルドでクエスト選んだり、装備を整えるために武具店に行くことになっているが。
「アッシュ様、この度はどうもありがとうございますぅー」
のんびりしているところに、声をかけてきたのは喋るウサギ――ではなく、兎獣人の院長である。
真っ白いモフモフした毛皮に、完全にウサギそのものの顔をしており、キグルミのようにしか思えないが、これで本体だ。二足歩行のウサギで服を着ている姿は、さながらピーター某。
「いえ、ウチの子を引き取ってもらって、助かってます」
流石に今は仮面を被ってはいないが、目の色を変える眼鏡と髪色を変えるアクセを使って、最低限の変装はしている。だから、名前もアッシュで通している。
「助かっているのはこちらの方ですぅ、こんなに寄付をいただいて……しばらくは経営も安泰ですよ」
まだ半分も返せていないが、でも、孤児院に百万単位で寄付する人はそうそういないだろう。このカーラマーラでは、慈善事業が推進されているとはとても思えないし。
「ああ、そうそう、オルエン様がお呼びです。客間でお待ちしているそうです」
「今行きます」
わざわざ訪ねて来るとは、アイツも暇なのか。
「ミア、リリアンを頼む。起こすなよ」
「はーい」
俺の膝の上で眠っていたリリアンを、ミアへと渡す。
実に不安な背負い方で、ちょっとヨロヨロしながら歩いていくミアを見送ってから、俺はオルエンが待つ客間へと向かった。
「――やぁ、アッシュ、順調みたいだね」
「ひとまずはな」
気安く話しかけてくるオルエンに、素っ気なく返事。
今日のオルエンは、初めて会った時のような丈の短いワンピースに、しっかり極狼会のダンダラ羽織を着用している。これで一応、オフィシャルな格好のつもりなのだろうか。
相変わらず太ももが眩しい出で立ちだが、男なのだと肝に銘じる。
「それで、何の用だ?」
「えー、なにその、用がなきゃ来ちゃいけないみたいな感じぃ?」
「遊びに来たってだけなら、それはそれで構わないけど」
すでにして友達感覚である。
オルエンには恩もあるが、別に借金しているワケではないのでへりくだる必要もないだろう。というか、徹頭徹尾、馴れ馴れしい態度なので、こういう対応になるのは自然なことだ。
「用件は二つほどあるんだけど……ボクの依頼と、君の過去について、どっちから先に知りたい?」
「俺のこと、何か分かったのか!?」
「あはは、やっぱそっちに食いつくよね」
当たり前だ。
オルエンには一応、頼むだけ頼んではいたのだが、まさかこんなに早く情報を掴んでくるとは。流石、人脈のあるヤツは違う。
「それで、どうなんだ」
「分かったことは、君がカーラマーラに来るのに乗っていた船のことだよ」
「というと……奴隷船に拾われる前、ってことか」
「そういうこと。まぁ、すっごい有名な船だから、すぐ調べはついたんだけど――大アトラス3世号、って船に聞き覚えある?」
残念ながらない。
説明によれば、この船はガルーダ運輸という流通大手の商会が完成させた、最大級の輸送貨物船だという。貨物のみならず、客船としても利用されているようで、かなりの人数を乗せてきた。
そして、俺もその乗客の一人だったようだ。
「ランク5冒険者『エレメントマスター』のクロノ。それで、間違いないんだよね?」
「ああ、俺の本名はクロノだし、そう書かれたギルドカードも持っている」
オルエンに調べてもらうにあたり、素性は明かした。もっとも、これ以外には大して情報もないのだが。
「エレメントマスターのクロノは、パーティメンバーと共にこの船に乗ってることが確認できたよ。乗客名簿に君のサインもあるそうだし、何だったら筆跡も確認する?」
「いや、信じるよ。それより、俺のパーティメンバーってのは、どんなヤツなんだ?」
「……」
「えっ、なにその沈黙」
「……見たい?」
「見たいに決まってるだろ。もしかしたら、仲間の顔を見れば思い出せるかもしれないし」
「しょーがないなぁー」
などと、無駄にもったいぶりながら、オルエンは実に渋々といった動作で、一枚の石版を取り出した。
オルエンが石版に向かって手を翳して、何やら呟くと、滑らかな黒い表面に光が灯る。
どうやら、ヴィジョンの一種みたいなモノらしい。タブレットみたいだな。
小型ヴィジョンに映し出されたのは、映像ではなく画像。
光り輝く小さな白い人影で、場所はどこかの冒険者ギルドらしい。隠し撮りした感じだろうか。
オルエンがさらに操作すると、画像は拡大されて、その小さな人物の顔が大きく映し出された。
「ランク5冒険者、リリィ。クラスは妖精、だって」
リリィというらしいその子は、小さな女の子だ。
プラチナブロンドのロングヘアに、エメラルドグリーンの瞳。幼いながらも輝くような美貌は、リリアンに似ている気もするが……何より目を引くのは、その背中から生える光り輝く二対の羽である。
「おお、本物の妖精なのか」
「その反応は、何も思い出せてないみたいだねぇ」
おっと、あまりの可愛らしさと本物の光る羽のインパクトを前に、素で感想を漏らしてしまった。
しかし、見れば見るほど、とんでもない美少女、いや、美幼女である。誰が選んだのか、身につけている水色のエプロンドレスとか神がかり的に似合っている。実写版アリスかよ。
しかしながらオルエンの言う通り、俺は単純に好奇の視線でしかこのヴィジョンに映る妖精さんを見れていないワケで、この子と冒険した記憶など全く心当たりがないのだった。
「じゃあ、こっちの子は?」
と、オルエンは次の仲間の画像を見せてくれる。
「同じくランク5冒険者、フィオナ・ソレイユ。クラスは魔女」
またとんでもない美少女が出たもんだ。
淡い水色のショートヘアに、輝く黄金の瞳。大きな三角帽子と黒いローブは、なるほど、魔女を名乗るに相応しい出で立ちだ。そんな分かりやすい衣装でもコスプレ感が全くないのは、彼女の美貌と、えも言われぬミステリアスな雰囲気があればこそだろう。
「ダメみたいだね」
「ああ、残念ながら、この子にも見覚えは全くない」
こんな超絶美少女を二人も連れておきながら、全く覚えがないとはどういうことだ。俺が忘れているというより、本当に何のかかわりもない、という方がありえそうに思える。
実は俺が持っていたクロノのギルドカードは、同名のクロノさんからパクったモノなのではないだろうか。
ギルドカードには漢字で黒乃真央と書かれてはいないし、住所と生年月日の記載もない。ただ、クロノという名前だけが被った可能性はありえるだろう。
「やっぱり、顔を見ただけじゃダメっぽいね。一応、これが最後の子だよ」
記憶復活はすっかり諦めた雰囲気の中で、三人目の仲間が表示され――
「コイツはっ!?」
「ええっ、なになに、まさかの大アタリ?」
などと、盛り上がっているオルエンの声も、どこか遠くに感じる。
そこに表示された顔を見て、俺はそれほどの驚愕と、再びの恐怖を抱く。
「第七使徒サリエル……」
一度見たら、決して忘れない、人形めいた白い美貌の少女。
俺はすでに、二度目をつい先日、目にしてしまった。
美しい相貌でありながら、まるで感情というものを感じさせない無機質な表情は、最初の時も、この間の時も、全く変わりがない。正に美少女の皮を被った化け物だ。
「凄い、名前まで思い出してるじゃん! そうだよ、この子はサリエルっていう名前で――」
「コイツは今どこにいる!? 俺の居場所はバレているのか!?」
「ちょっ、ちょっと落ちついてよクロノ君」
俺の取り乱しぶりに困惑といった感じのオルエンだが、そんな悠長なことは言ってられない。
「この女は敵なんだ!」
「え? いやだって、同じ冒険者パーティの仲間でしょ?」
「違う、コイツは――いや、すまん、最初から説明する」
目下、最大の脅威と思っていた存在だが、貴方の仲間です、と紹介された状況は、俺でも意味不明すぎる。ひとまず、オルエンにはイチから説明した方がいいだろう。
「俺は、ある奴らに捕まっていたんだ――」
こことは違う世界からやって来て、という異邦人関係の説明はまた別な意味で面倒なので省かせてもらう。
重要なのは、俺はある日突然、あの白いマスク共に拉致監禁され、非道な人体実験を受けたという事実だ。
ウルスラのお蔭で、アイツらは十字教という宗教の秘密組織だろうこと、そして、その十字教の軍勢こと『十字軍』が現在、パンドラ大陸侵略を目指して戦争を仕掛けていること。
このカーラマーラから遥か北での話になるが、十字軍はすでにダイダロスという国を征服し、着実にその足場を固めているということだ。
「ふーん、つまり、このサリエルって子は十字軍の手先ってこと?」
「ああ、それだけは間違いない」
今の俺が覚えている、ちょうど最後の方の記憶だ。今でもはっきり、奴と相対した時の恐怖が脳裏に焼き付いている。
「でも、それは妙な話だよね。君の敵だったはずの子が、どうして君の仲間として、冒険者パーティなんて組んでたんだろうね」
「そんなの俺が一番知りたいよ」
「もしかして、本当は仲間になっていて、この前に会った時は純粋に心から心配して君を探していただけ……ってことはないの?」
「いや、ありえないだろ」
一体どういう経緯があれば、あの化け物と心から信じあえる仲間になれるというのだ。
いや、一つだけある。俺がサリエルと仲間になる理由が。
「……もしかしたら、俺はあの時、奴らから逃げきれなかったのかもしれない」
俺の記憶は、ちょうどサリエルを振り切り、実験施設を脱し、パンドラ行きの船に密航したところで途切れている。
次に目覚めた時には、あの奴隷船でチンピラ兄ちゃんとお喋りしていたワケだ。
「最初に逃げた後、俺は再び奴らに捕まって、今度こそ操り人形となって利用されていたんだろう」
アイツらには、絶対服従の悪魔のリングがある。
アレを被ると、どうやら自我や人格やらといったものは消滅するらしい。それは同じ実験体を相手にしてきた俺がよく分かっている。何より、俺自身が、自我を失いかけていた自覚があるのだから。
「なるほど、その洗脳のマジックアイテムのせいで、君は記憶を失ったと」
「そう考えるのが妥当だろう」
「じゃあ、操られていた君が冒険者やってたのは?」
「恐らく、パンドラ大陸の調査か、工作員として使われていたんだろう」
十字軍はパンドラ大陸全土の征服を掲げている。ならば、南の果てであるカーラマーラにも調査の手くらいは伸ばしていてもおかしくない。
「この『エレメントマスター』は十字軍の工作部隊として活動していたんだ。サリエルが率いているなら、かなりの精鋭部隊だと思う」
リリィとフィオナというメンバーも、かなりの実力者であろう。表向きにはランク5冒険者を通せるくらいの力は当然持っているだろうし、最悪……あのサリエルと同等かもしれない。
「そんなに強いの?」
「俺じゃ全く、歯が立たない」
「えー、ウソぉ……」
殺し屋連中を返り討ちにするのが精々の俺である。
最初の脱出時とは比べ物にならないくらい強力な黒魔法使いになれた自覚はあるが――それでも、やはりサリエルと戦って勝てるかどうかと言われれば、無理だと断言できる。
逃げ切れたのは、運が良かった。アイツが白いオーラ全開で本気を出す前に、逃げ切ることができただけ。
多分、アイツは『虚砲』を直撃させても倒せないだろう。さらに磨きをかけなければ、サリエルに勝てるビジョンが浮かばない。
「君がそこまで言うなら、あの噂も本当かもしれないね」
「噂?」
「大アトラス3世号がカーラマーラに着く直前に、事件が起こったんだ。なんでも、空飛ぶ城が現れたり、途轍もない火柱が甲板で燃えたとか」
あまりに荒唐無稽な話であるため、船員にも乗員にも目撃者は多かったものの、カーラマーラでは真面目に取り合ってもらえなかったという。
しかし、オルエンは流石というべきか、その話を複数の船員からしっかりと聞き取り調査してくれたようだ。
「空飛ぶ城ってのに覚えはないが……サリエルがいるなら、何か物凄い戦いが起こってもおかしくはない」
「この戦いがキッカケで、君が逃げられたってことなのかな?」
「ああ、そうとしか考えられない」
話を聞いても、一体どういう戦いがその時起こっていたのかは分からないが、この船での戦いの結果、俺は砂漠の海に放り出されたことになったのは間違いない。
「『エレメントマスター』はさ、船が到着したその日の内に、ギルドにクロノ捜索の依頼を出しているんだよね」
「公にも俺を探しているのか」
「どうする、試しに会って確かめてみる?」
「マジでやめてくれ、取り返しのつかないことになる」
サリエルに見つかって、もう一度逃げ切れる自信はない。
まだアイツに勝てる手段がない以上、このまま避け続けるより他はないだろう。
「どうやら、君のことは匿っていた方が良さそうだね」
「いいのか? もし、サリエルと敵対することになったら」
「その子がどれだけ強いのか知らないけどさぁ、それでビビってるようじゃギャングなんてやってられないでしょ」
「そんな簡単に……」
「それに君が一人で潜伏するより、ウチの縄張りで暮らしてた方がよっぽど安全でしょ。ボクに任せてくれれば、エレメントマスターの動向はそれとなく監視してあげるよ」
そうしてもらえれば、非常に助かる。
どの道、大嵐が過ぎ去るまで逃げ場はないのだ。
俺が一人で隠れ潜むのと、オルエンの協力の下で匿ってもらうのとでは――後者の方が確実だ。
「どんなに強くても、向こうは少数。まだカーラマーラで十字軍だかいう勢力はどこにもいない。組織力は圧倒的にボクらのが上だから」
「本当に、いいんだな?」
「勿論、仲間は見捨てない主義だよボクは」
「手下になったつもりはないんだが」
「じゃあ友達ってことで!」
「ありがとう、オルエン。恩に切る」
「それじゃあ早速、仕事の話をしようか?」
うーん、この流れで頼まれて断るのは無理だぞ。
だが、悪逆非道な殺しの依頼でもなければ、何でも受けて立ってやろう。
「どんな依頼だ」
「クロノ君ってさ、アイドルに興味ある?」
「……はぁ?」
2019年9月6日
お蔭さまで、評価ポイントが20万を越えました。
応援してくれた読者の皆様、本当にありがとうございます。これからも、変わらずに更新を続けていきますので、どうぞよろそくお願いいたします!
感想欄にて、クロノ捜索の依頼と合わせてサリエルが日本語で事情を記した手紙でもつけておけばよいのでは、という物凄い的確なご指摘をいただきましたが・・・申し訳ありません、本編にその旨を追加するのは断念しました。
手紙を見て信用してクロノが戻ってくれば、カーラマーラ編のプロットが完全崩壊という作者的な事情もありますが、今回の話の通り、サリエルに対して最大限にビビりまくり、もとい警戒している今のクロノなら、日本語の手紙を読んでも会いに行くまでの決断はとれないだろうと思いました。
クロノからすると、実験体時代の経験を考えれば、サリエル(あるいは白の秘跡)が日本語を書くくらいは可能だし、それを利用して罠にすることも十分ありえる考えにもなります。
これで召喚された者がクロノだけ、と思っていれば自分が教えた以外に日本語を知るすべはないので信用もできましたが、実験体が日本人ばっかり、というのはクロノもよく知るところですので。
しかしながら、クロノに戻って来て欲しい一心で、白崎さんの記憶を利用して日本語の手紙を一生懸命したためた結果、一度も読まれることなく放置されるサリエルの気持ちは、なかなか情緒があって良いと思います。むしろクロノは「日本語で手紙とは姑息な罠をしかけやがって、誰がこんなもんん信じるか!」と怒り心頭でビリビリに破り捨てて欲しいですね。
ヒロインの純粋な思いは、相手に届くよりも、踏みにじられる方が輝く説を提唱。