第726話 コキュートスの狭間
コキュートスの狭間は、スパーダ王城の地下深くにある特殊な封印施設である。
元々は古代遺跡の一部であり、いまだ効果を保ち続ける古代魔法の儀式装置によって運用されている。
スパーダ建国以来、あるいは、もっと昔の暗黒時代から、この儀式装置の研究はされているが、いまだにその原理・術式は解明されていない。
分かっていることは、ただ一つ。このコキュートスの狭間に閉じ込められた者は、決して出ることはできない。
人を生きたまま捕らえておくことのできる施設としては、スパーダにおいて最上級の牢獄であろう。
そんな場所へ、スパーダの第二王子、ウィルハルト・トリスタン・スパーダは訪れていた。
「……ここが、コキュートスの狭間」
「ああ、お前が来るのは初めてだったか。まぁ、普通はこんなトコロに用はないからな」
やや緊張の面持ちのウィルハルトの隣に立つのは、第一王子アイゼンハルト。
ウィルハルトをここに誘ったのは彼である。
「本当に、よろしいのですか兄上?」
「そうビビるなよ。いざって時は、俺がちゃんと守ってやるから」
「いえ、そういう心配ではなく……」
「なに、そう気負うな。適当にお喋りできりゃ上々だ」
細い弟の背中をバンバン叩きながら、兄は笑う。
父親に似て豪快な性格と思われがちだが、アイゼンハルトは人の心の機微に非常に聡く、気遣いのできる男であることを、ウィルハルトは知っている。弟の心配など、兄は全てお見通しだ。
「分かりました、責務を全うします」
「相変わらずお堅いな、お前は」
いや流石に兄を相手に普段のノリは……などと内心で思いつつ、ウィルハルトは凍てつく牢獄へと足を踏み入れた。
古代遺跡の深層に特有な、両側にスライドする分厚い鋼鉄の大扉を潜り抜けると、そこには白一色の無機質な広間が広がっている。
中央には大きな祭壇。古代魔法の魔法陣が青白い輝きを放ち、その機能が今も生きていることを目に見えて教えてくれる。
その祭壇と部屋の四隅には、赤いローブを纏ったスパーダの宮廷魔術士が控えており、王子兄弟の入室を最敬礼で迎えていた。
しかしこの広間において目が行くのは、彼らの姿ではなく――祭壇の真上に浮遊している、巨大な氷の塊だ。
おおよそ30メートルはあろうかという荒削りの氷塊は、まるで海を漂っているかのように、祭壇の上の中空で浮いている。氷は魔法陣と同じく青白い輝きをボンヤリと纏っており、特に第六感の優れないウィルハルトでも、膨大な魔力がそこに注がれていることが察せられた。
「あれが……第八使徒アイ」
輝く氷塊の中に、一人の少女の姿が見える。
長い金色の髪に青い目をした、可愛らしい、けれどごく普通の少女といった外見だ。
しかし、その少女が身に纏うのは漆黒の拘束服。黒竜の翼膜で作られたベルトが衣服代わりに巻きつき、暗黒物質製の首輪と手枷と足枷がかけられている。
その姿は大罪人というよりも、彼女がそれほどまでに危険な存在であることを示しているように感じられた。
「解凍しろ」
アイゼンハルトの命により、第八使徒アイの一部解凍が実行された。
効果は、即座に現れる。
「ん……んー」
氷の中で、パチパチとアイがまばたきをはじめ、起き抜けのような呻き声を上げた。
「んぁー、おはよー。またアイク君かぁ……次は可愛い女の子連れて来てって言ったのに」
「悪いな、声はかけたんだがみんな断られちまってな」
「あはは、王子様のくせにモテなさすぎー」
ケラケラと無邪気に笑うアイの姿に、ウィルハルトは若干驚くと共に、なるほど、とも思った。
使徒。あのクロノすら恐れる存在だ。それほどの力を、神から授かった選ばれし者にとっては、この永久の牢獄に捕らわれようとも、欠片も恐怖を覚えることはないのだろう。
「まぁ、こういう奴なんだ」
「肝が据わっておるようで」
「こんな感じで、いくら尋問しても大した情報は吐かねぇ。ただ口が堅いってよりも厄介だ」
コソっと耳打ちしてくる兄の言葉に、ウィルハルトは頷く。
第八使徒アイによる尋問があまりに上手くいかないので、アイゼンハルトは試しに聡明な弟を連れてきたという経緯だ。
元より、さしたる期待はされていないことは、ウィルハルトも承知している。だが、ヤル気がなければ兄の頼みごとを引き受けてはいない。
サリエルとは異なる、今もまだ白き神を信じ、その力を受ける本物の使徒。それが如何なる存在であるのか、ウィルハルトは自分の目で確かめたいと以前より思っていた。
その機会が巡って来たのだ。ここは是が非でも、使徒から情報を引き出してみせたい。
祖国スパーダのために。そして、魂の盟友のために。
覚悟を胸に、ウィルハルトは堂々とアイが封じられている氷塊の前へと歩み出た。
「我こそは、偉大なるスパーダの『剣王』レオンハルト・トリスタン・スパーダが息子、白き聖なる剣、黒き禁断の魔法、そして、全知たる灰色の頭脳を併せ持つ希代の英傑、古の魔王の再来、そう、我こそぉ! ウィルハルト・トリスタン・スパーダでぁああるっ!!」
「ぷははははは! なにこの子、超痛いんですけどー!」
掴みはOKだ。
後ろで兄貴が引きつった笑みを浮かべているか、気にはするまい。
「第八使徒アイ、貴様が目を覚ましていられる時間は限られておる。単刀直入に聞こう、我と取引をせよ!」
「うーん、私、これでも十字教徒なもんで。魔族と取引はちょっと」
「ならば、我は今より十字教徒となろう! さぁ認めよ、白き神の使徒よ!」
「あはは、その勢い嫌いじゃないよ。いいよ、じゃあウィル君は今だけ十字教徒ってことで」
「計らい、感謝する!」
どうやら、少しはアイの興味を引けたようではある。対話のスタート地点には立てたといってよいだろう。
「で、取引ってのは?」
「汝が知りたいことを答えよう」
「それで、私はウィル君の質問に答えると」
「然り! 正々堂々、一問一答である!」
「真実を言うとは限らないんじゃないの?」
「嘘を嘘と見抜けぬ方が悪いのだ」
「ふふん、言うねぇ……いいよ、何でも聞いてよ」
「ふっ、我が冴え渡る弁舌を前に、全ての真実を晒すがよい! 第一問! 歳は幾つですか?」
「永遠の17歳でーす」
どうやら、見た目通りの年齢ではないようだ。
アイの外見だけなら、申告したように17歳で何の違和感もないが……本当に17歳であれば、正直に言うか、黙秘か、現実的なサバを読む、といった答えに限られる。
恥ずかしげもなく堂々とふざけた年齢を主張した時点で、本物の17歳ではない。それでいて、年齢を気にするような中途半端な年増ではなく、もっと歳を重ねている可能性が高い。
サリエルからの情報提供を元にすると、使徒は老化を抑えられる者もいる。かつ、第八使徒はサリエルが第七使徒となるよりも前から活動をしており、容姿も変わっていない。
すなわち、アイは若さを保ったままでいられる類の使徒であると考えてよい。
もしかすれば、長寿のエルフと同等の年齢かもしれないと、ウィルハルトは思った。
「ウィル君は幾つなの?」
「一万と17歳」
「なるほど、そういう答え方もあるのかぁ……」
何やら感心しているアイだが、反応としては悪くなさそうだ。
「第二問。何故、先のガラハド戦争で汝の持つ『特化能力』を使わなかった?」
「へぇ、よく知ってるね。サリエル先輩から聞いた?」
「今は我のターンである。それを二つ目の質問とするならば、答えることもやぶさかではないが」
「いや、いいよ。それで質問の答えだけど、使わなかったんじゃなくて、使えなかったんだよね」
それ以上、アイは言葉を続けなかった。引き出せるヒントはここまでといったところだろう。
だが、推測は立てられる。
アイはサリエルのように元から特化能力を持たない類ではないということ。
それでいて、その力が自身が生け捕りにされるほどの窮地においても使えなかったということは、回数制限のある能力か――否、戦闘向きの能力ではないということだ。
第八使徒アイが現れたのは、サリエルの登場とほぼ同じ。つまり、ガラハド戦争の最終局面までに、彼女が戦闘する機会は一度もなかった。あの時点で、アイは戦力を消耗することなく、万全の状態で現れていたということだ。
その上で、特化能力を使わなかったならば、それは戦闘において役に立たない類の効果であると考えるべきだろう。
「ねぇ、サリエル先輩って、今どうしてるの?」
「ふはは、彼女は全面的にスパーダへと降服し、無罪放免、自由の身となっておる」
「ふーん、そっか……まぁ、サリエル先輩はその方がいいと思うよ。黒髪の彼氏とお幸せにー、って伝えておいてよね」
クロノとサリエル、二人の関係を察しているのか、それとも邪推か。
どちらにせよ、アイ自身に使徒を裏切ったサリエルに対する憎悪の感情は全く見られなかった。
「汝も、彼女に身の振り方を学ぶべきではないかな」
「残念だけど、私はまだ使徒をやめるつもりはないし、やめられないからさ。仕方ないから、大人しく氷漬けになるしかないワケよ」
まるで、サリエルが使徒の力を失ったことを知っているかのような口ぶりである。
神託、という名で白き神の言葉を使徒は聞くことがあるという。最悪の裏切りを働いた第七使徒のことは、他の仲間全員に伝わっているのかもしれない。
「第三問。汝が知る限り、最も強い使徒は誰だ?」
「スペック的には第一使徒なんだろうけど、まぁ、いない人のこと言ってもしょうがないよね」
第一使徒アダムは聖書にも記されている最初の使徒であり、そして、今も第一の位に君臨し続ける伝説の人物……とされているが、本人の姿を見たことは誰もなく、シンクレア共和国の歴史においても、一度も降臨したことはない。
その存在を信じているのは一部の熱心な信徒くらいなもので、シンクレアでも大半の者は存命している人物だとは思っていないという。
「だから、最強は第二使徒アベル。『白の勇者』と呼ばれる、十字教で最強の男だよ。うん、ホントに、アレは化け物だから」
「ほう、その勇者とやらの力の一端を知っておるようだな」
「そりゃあ私もそれなりの使徒歴だし? 機会くらいはちょこっとね」
「17歳なのでは?」
「永遠だから。でも、そんなアイちゃんでも、悲しいかな使徒の中じゃ下っ端なのがつらいところよ」
「真か」
「うんうん、マジだって。第二、第三、第四、第五の勇者パーティ組みは、格が違うからね」
第二使徒『白の勇者』アベル。
第三使徒『聖女』ミカエル。
第四使徒『賢者』ユダ。
第五使徒『聖騎士』ヨハネス。
この四人組が他の使徒と一線を画す力を持つというのは、サリエルの見解とも一致している。アイの言葉に嘘はない、というより、使徒の間では常識といったところだろう。
スパーダ最強の四人がかりでどうにかアイ一人を生け捕ったというのに、これ以上の怪物を十字軍が抱えているのは、頭の痛い問題である。
「逆に言えば、他のは大体、私と同じくらいだから。一人ずつなら、君らでも何とかなるんじゃない?」
「侮るな、我がスパーダは如何なる敵が相手でも屈しはしない!」
「どうかなぁ……スパーダは人間中心の国みたいだし、さっさと屈した方が楽なこともあるかもよ?」
「敗軍の将がそれを口にするか」
「十字軍の恐ろしさは、使徒だけじゃないからね」
「どういう意味だ」
「第四問、ってことでいいかな? 私は一回パスにしといたげるよ」
十字軍の戦力評価としては、十分以上に脅威的であるとスパーダは見ている。
単純な動員兵数、士気、装備。さらにキメラ兵や古代兵器タウルスの存在。そして、文字通りに一騎当千の力を持つ使徒。
だが、ガラハド戦争で見せたそれ以上の何かがあるのならば、その存在は是が非でも知るべきだ。
「いいだろう。第四問、答えよ」
「十字軍がいるのはダイダロスだけじゃないよ。このパンドラ大陸には、他にも十字軍がいるってこと」
「……秘密裏に展開しているということか」
「秘密といえばその通りだけど、ヴァージニアを作った今の十字軍とは違うよ」
「ならば、いつ他の場所に現れたというのだ」
「最初からだよ。パンドラ大陸は元々、十字教徒のモノだったんだから――」
かつて、パンドラ大陸を支配していたのは黒き神々ではなく、白き神だった。
しかし、魔王の手によって邪神崇拝が蔓延り、十字教徒は全てアーク大陸へと放逐された。
故に、今こそ真なる信仰の地であるパンドラを取り戻さんとしているのが、今回の十字軍である。少なくとも、従軍している十字教司祭の共通認識はこれである。
「大義名分など、幾らでも言い張れるであろうからな」
「別に私はパンドラ大陸が十字教のモノになろうが、魔族のモノだろうがどっちでもいいんだけど……その昔、十字教徒がここで沢山暮らしていた、というのが問題だと思わない?」
「まさか、残党がいると」
「それじゃあ聞くけどさ、君達はモノリスをどれだけ抑えてる? この大陸に全部で何個あるのか知ってる? 大地脈と巨龍穴の変化はちゃんと把握してる?」
「無論だ。スパーダ情報部は大陸一である」
勿論、全く把握していない。
モノリスなど自国内にあるものを管理しているのが精々で、大陸全土でどこに幾つあるのか、などとても調べようがない。そもそも、大陸統一をできていないパンドラにおいて、大陸全土を合わせたデータを集めるのは不可能だ。
大地脈と巨龍穴にしても、その存在が知られているだけで、特にこれといった観察、記録もされていない。
「まぁ、精々注意した方がいいよ。パンドラには十字教徒が最初からいるんだ。このスパーダにもいるかもね、先祖代々、密かに十字教を受け継いできた、裏切り者がさぁ――」
「時間だ、凍結しろ」
そこで、アイゼンハルトは再びアイの封印を指示した。
「兄上、お待ちください、今しばしの時間を!」
「ウィル、これ以上は危険だ。次の機会は作ってやる」
アイゼンハルトの対応は規定通りのものである。
だが、恐らく次はないだろうと、ウィルハルトは察した。
氷の向こうでは、屈託ない微笑みを浮かべたままのアイが、時間ごと凍り付いている。
「よくやった、ウィル。今までにない話を奴から引き出せた」
「兄上、次からは精神魔法使いの尋問官より、弁の立つ外交官にでも聞き取りをさせた方が良いでしょう」
「ああ、これなら本当に美人を用意してもいいかもしれないな」
結果としては、兄のひいき目を抜きにしても上々であろう。
しかし、ウィルハルトは素直にその成果を喜ぶ気にはなれない。
「大陸中に潜伏した十字教徒に、スパーダにも裏切り者がいる可能性……クロノよ、状況は思ったよりも悪いかもしれんぞ」
2019年8月2日
本来なら今回で章は終わりなのですが、事情によって第36章は引き続き続行となります。
話の内容から、単に章で区切るほどのものではない、という判断で、すでに執筆済みのストーリーに変化などはありません。
それでは、次回もお楽しみに。