第720話 殺し屋(3)
フゴフゴフゴ――豚のような荒い鼻息を、レキの鋭敏な聴覚は確かに聞き取る。
「ほ、ホントに来たデス」
「嫌な予感ほど、よく当たるものなの」
子供の絶叫を聞きつけたクロノが救助に向かうと同時に、嫌な予感がするから戻れと言われたレキは、素直に学校へと戻ってきた。
クルスに子供達のお守りを任せて地下室へと避難させ、レキとウルスラは万一、敵が襲来した場合に備えて正面玄関で警戒態勢をとっていた。
そこに聞こえてきたのが、異様に大きな鼻息であり、そして、そっと覗きこめば本当にそこには豚がいた。
「フゴフゴ……ううぅーん、間違いない、ココにいるなぁ、ガキ共めぇ」
豚ではなく、男だった。丸々と肥え太った体型に、四つん這いとなって地面に潰れたデカい鼻をつけては嗅ぎ回っている姿から、豚のモンスターにしか思えないが、人の言葉を喋り、二足で立ち上がったことで、どうやら人間ではあるらしいことが分かる。
「レキ達を探してる……シルヴァリアンのシカクってやつデスか」
「うん、刺客」
レキの発音は怪しいが、その意味するところは正確に理解できている。
これまで散々、懸念してきたが特に動きはみせなかったシルヴァリアン・ファミリアだった。しかし、どうやらついに、クロノと子供達を始末するために、刺客を送り込んできたということは、容易に察せられた。
「うぉおおーい、出て来ぉーい! いるのは分かってんだぞぉーい!!」
豚男は大声を上げながら、グラウンドを真っ直ぐ歩いてくる。
「ウル、どうするデス? まだ隠れてた方がいいデス?」
「あの豚野郎は多分、臭いを辿ってここを突き止めたの。レキの匂いに違いない」
「ファッ!? レキそんなに匂うデスかっ!?」
「クロノ様に相手してもらった後は、特に。主にメスの匂いが」
「うううぅ、よく分かんないデスけど、なんだかそんな気がするデース……」
汗に濡れて自分にはない色気を放つレキに対するささやかな嫉みを晴らしつつ、ウルスラは相手と状況を鑑みて、決断を下す。
「豚野郎はここで倒す。アイツがいる限り、どこへ逃げても臭いで追跡されてしまうの」
「オーライ。あの豚一匹だけなら、レキ達だけで何とかなりそうデスよ」
ここにいるのは子供だけだと踏んで、豚男は一人で来たと思われる。周囲には他に人影はない。厄介な追跡者を始末する好機と見て、二人は思い切ってグラウンドへと躍り出た。
「ぶふっ、出て来たなガキぃ! おおーん、すげーカワイイ顔して――」
「消し飛ばせ『白夜叉姫』」
「ぶぉおおおい!?」
先手必勝とばかりに、ウルスラは『白夜叉姫』を浮かび上がらせ、ドレインの力を宿す白い霧の両腕を豚男へと叩きつける。
しかし、豚男は見た目に反して機敏な動き、丸い体で横に転がりながらアナスタシアの腕から逃れてみせた。
「うぉい! いきなりヤバそうな攻撃魔法かよぉ!」
「ちっ、動けるデブだったの」
「クッソぉ、ちょっとカワイイからって調子に乗りやがってぇ……お前らみてぇに顔がイイ奴らはいつもそうだ、俺のことを見下しやがってよぉ!」
「誰も顔の話はしてないデスよ?」
「レキ、こういう人はすぐ自分のコンプレックスが刺激されて、勝手にキレる面倒くさいタイプなの」
「オイ、なに分かったような顔してんだコラ! ふざけやがってぇ、絶対ぇ許さねぇ……ペロペロするまで許さねぇからなぁ……」
「ウル! この人なんかすっごい気持ち悪いデスよ!」
「来るの、レキ。アレは多分、魔法の武器」
気持ち悪い怒りを爆発させながら、豚男は腰元から二振りの手斧を抜いた。
淡い緑の輝きが刀身に渦巻くトマホークは、風属性の力を宿すことは明らかだ。本人はアレでも、持っている武器は立派な魔法武器である。
「切り刻めぇ――『旋風連刃』ぉおお!!」
両手にした双斧を地面へ叩きつけるように振るうと、轟々と風の刃が渦を巻き、中級範囲攻撃魔法『旋風連刃』と化してグラウンドを吹き荒れる。
「これぐらいでっ――」
風の刃は前方の広範囲に渡って舞い散り、逃げ場はない。だが、レキは迷わず前へと一歩を踏み出す。
右手には黒い両刃の長剣『オブシダンソード』。
左手には赤い刃の大斧『レッドウォーリア』。
共に魔法の力は宿らずとも、大振りで頑強な刃を誇る二振りは、ただそれだけで身を守る盾ともなる。まして、体は小さなレキが二本をかざすだけで、ほぼ全身をカバーできるほどのガード範囲となる。
そうして、レキは盾を構える重騎士のように、吹き荒れる攻撃魔法を正面突破で駆け抜けた。
「――止まるかデーッス!!」
「いいっ――ぎゃああああああああああああああああっ!?」
風の刃をものともせずに突っ切って来たレキを前に、豚男は慌てて回避をするが遅きに失する。
振るわれたオブシダンソードは男の肩を、レッドウォーリアは足を切り裂く。
転がって避けていく豚男にパっと鮮血が散ってゆく。だが、致命傷にはまだ遠い。浅い切り傷であった。
「い、いぃっ痛っでぇええええ! 痛ぇよぉ……ヤベェ、コイツら強ぇ……こんなの聞いてねぇよぉ……」
さきほどまでの怒気は一転。負傷したことで、豚男は転んだ子供のように情けない声を漏らして泣き始めていた。
「レキ、これは油断を誘う演技なの。無慈悲にトドメを刺すべき」
「まっ、待て待て、やめてよぉ、俺が悪かったからぁ! こんな依頼もうやめるからぁ、見逃しておくれよぅ……」
「うー、こんなに泣かれるとやりくにデスけどぉ」
しかし、一発でこの学校拠点を嗅ぎ付けてきた追跡能力は放置しておけない。本人の戦闘力はイマイチな上に、性格もさらに酷いものだが、何としてもここで殺しておかねばならないだろう。
残忍に向かってくる敵を殺すことに躊躇などとっくにないレキだが、それでもこんなに無様に泣きわめかれると躊躇いを覚えるのもまた事実。
その感情をねじ伏せて、みんなの安全のため、ウルスラの言う通り無慈悲なトドメを刺さんと一歩を踏み出した、その時である。
ギシリ
不快に軋む金属音。
錆付いた鉄の部品を無理矢理動かしたかのような、そんな気味の悪い音がやけに大きくグラウンドへと響き渡る。
見れば、そこには一人の騎士が立っていた。
「あっ……さ、錆付きぃ……」
振り返った豚男が、その騎士の姿を視界に入れると、それまでとは一線を画す、心の底から怯えきった声音でつぶやいた。
錆付き。そう豚男は騎士を呼んだ。
なるほど、確かにその騎士は錆付いていた。
元々は何の変哲もない、鋼鉄の全身鎧であったのだろう。華美な装飾はなく、実用的なデザインをしたオーソドックスな鎧だ。
しかし、その鎧兜は長らく戦場で戦い抜いた後に、一切の手入れなく放置していたかのように、すっかり錆付いてしまっている。そんな錆びた鎧を着用する者はいない。
故に、赤茶けた錆に塗れた鎧を纏って立つ姿は、まるで戦場跡から彷徨い出たアンデッドのようであった。
「お、俺は関係ねぇから、もう行くからさぁ……だから、見逃して――」
一閃。
鈍く煌めく剣閃が、恐る恐る錆びた騎士から後ずさっていた豚男を縦一文字に切り裂く。
「えっ、お……がぁ……」
自分の身に何が起こったのか分からない。そんな表情と間の抜けた声を漏らして、豚男は脳天から股下まで一刀両断にされ、その場で血肉の海へと沈んだ。
あまりの早業。そして、あまりに突然の凶行に、レキもウルスラも思考が一瞬、停止する。
一体、何が起こったのか。
豚男と錆びた騎士は、同じシルヴァリアンから送り込まれた仲間ではないのか。何故、いきなり殺したのか。殺す必要があったのか。
事情など何も分からなかったが、レキもウルスラも一つだけ確信できることがあった。
この錆びた鎧の騎士は、狂っていると。
「レキ! その錆付きは危な――」
「クォオオオ……『狂化』」
吐息のような、呻き声のような、不気味な声で『錆付き』は確かに唱える。
正気と引き換えに、力を得る状態異常魔法『狂化』。
錆びた騎士の全身から、俄かに赤い靄のようなものが湧き上がる――と同時に、豚男の次に近くに立っているレキへと向かって、動き出していた。
「ファック!」
全力で剣と斧を、迫る『錆付き』へとレキは叩きこむ。
ギギギギ――
不気味に軋む錆びた金属音を上げながら、錆付きは流れるような剣捌きでレキの強烈な二連撃を弾く。
「むぅーっ、ボロボロソードのクセにーっ!」
錆付きが手にする剣は、一般的な長剣といったところ。レキの持つ剣と斧に比べれば、頼りないほど細い刀身。さらに、その刃は鎧と同じく錆付いている。
普通に打ち合っただけでも容易くへし折れてしまいそうな赤錆の長剣はしかし、豚男を軽く両断するだけの斬れ味を誇り、子供ながらに怪力を発揮するレキのパワーと剛剣に真っ向から対抗している。
錆びた剣を振るう騎士の動きは、明らかに剣術の修練を積んだ者のソレであるが、ただ技だけでレキの猛攻は凌げない。
「レキ、その剣は見た目通りじゃない! 黒化みたいに強化しているか、もしかすれば呪いの武器なの!」
言われずとも、普通じゃないということは、剣を合わせるレキ本人が一番実感できている。
剣は特別で、錆付き本人はかなりの剣術の腕前がある上に、『狂化』によって膂力も底上げされている。単純にパワーだけで押しきれるだけの相手ではないが――それでもまだ、力だけなら自分に分があるとレキは確信した。
「クロノ様との特訓の成果っ、今こそ見せるデーッス!」
気合いの雄たけびと共に、レキ自身と、その手に握る二つの武器に赤いオーラが靄のように湧き上がる。
「ハァアアアアッ――『レイジブレイザー』ッ!!」
次の瞬間に繰り出されるのは、覚えたばかりの連撃系武技。
『双激烈』は本来、剣一本で二連撃以上の斬撃を続けてゆく武技である。
だが、レキの得物は剣と斧の変則二刀流。それも、扱い易い小ぶりなものではなく、基本的に両手で握る刃渡りの長剣と、重い戦斧の組み合わせ。重量級の二刀であっても『双激烈』を繰り出すに至ったのは、レキが持つ超人的な腕力と、そして何より、同じく超重量の二刀流で武技を使う先達がいたからこそ。
日々の組手で成長しているのはレキだけではなく、記憶を失ったクロノもまた同じ。日ごとに苛烈を極めてくるレキとの組手は、クロノ自身が忘れていた武技を思い出させるに至っている。
今のクロノは開拓村の頃にも見た、『黒凪』と『二連黒凪』の二つを使えるようになっていた。
黒染めの大剣を二刀携え、軽々と『二連黒凪』を放ってみせるクロノは、レキにとってこの上ない師匠であった。
そうして、レキは半ばオリジナルと化している剣斧二刀による連撃武技『レイジブレイザー』を、その威力を叩きつけるに不足ない相手へと炸裂させた。
「グッ……ガッ……」
思わず、といった呻き声のようなものが穢れきった兜の奥から漏れる。
錆付きをして、レキの繰り出す『レイジブレイザー』を真正面から受けきるのは厳しかったようだ。不動の姿勢で剣戟を繰り出していた錆付きは、赤いオーラに包まれた剣を受けてはよろめき、続けざまに飛んでくる斧の刃によって、弾き飛ばされる。
「グフッ……」
完全に力負けした錆付きは後方数メートルの距離を吹き飛ばされ、転倒こそ免れるものの、肩膝をつかされてしまう。
明確な隙を晒す格好となったが、渾身の武技を放った直後のレキは、そこを突けるだけの余裕はなかった。
「ウルぅー、今デス!」
「消し飛べ、『白流砲』」
だから、トドメは相棒に任せた。
レキには騎士道精神もなければ、剣士の誇りもない。特に一対一の勝負にこだわる気持ちは持ち合わせていなかった。
プライドなどと贅沢は言ってられない。そんな環境でずっと戦ってきたからこそ、危険な敵は、確実な手段で仕留めるに限るという、合理的な戦闘思考が培われている。
そして、それは親友であり相棒であるウルスラも同じ。正に阿吽の呼吸でもって、レキが作り出した決定的なチャンスを生かして、ウルスラは自分が持ちえる最大の必殺魔法を惜しみなく解き放った。
あらゆる魔力を根こそぎ奪い取る強烈なドレインの奔流が、膝を着いた錆付きを襲う。大きな竜巻と化して迫る『白流砲』を前に、錆付きが出来たのは左手に装着されている、赤錆塗れの小盾を翳すことだけ。
小さな盾の防御などものともせず、その全身を余すところなくドレインの渦は飲み込んで行った。
「……嘘」
必殺の『白流砲』は確かに直撃した。
しかし、数秒をかけて白きドレインの渦が過ぎ去った後、そこに現れたのは乾いた血のように黒ずんだ赤色の輝き。
円形に展開されていた不気味な輝きの光がバキバキと崩れ去りながら、その内から静かに立ちあがる錆付きの姿を見て、ウルスラは何かしらの防御魔法で『白流砲』を防がれたのだと察した。
思えば、『白流砲』が直撃して完全に防がれたのは、初めての経験だった。この技のリスクは、回避されることと、発動にかなりの魔力を消費すること。しかし、直撃さえすればどんな相手でも即死させられるという自負がウルスラにはあった。
絶望的なまでのショック――だがしかし、ウルスラとて、伊達に子供だけで大陸の果てまで旅をしていきてはいない。
「コイツには勝てないの! レキ逃げて――『閃光』!」
「オーライ! 『煙幕』!」
ウルスラが発動させたのは、初歩的だが多様な属性を扱える魔道書『ジェネラルセオリー』による、眩い光を発するだけの光魔法『閃光』。
一方のレキが投げたのは、瞬時に煙を撒き散らして視界を塞ぐ煙幕の玉。モンスターから逃げる際に用いる、冒険者が使う基礎的なアイテムでもある。
勝てないと見るや、すぐさま逃げの一手を打つ。引き際を見極めること、そして実際に手際よく逃げること。冒険者が生き残るのに大切なことを、ランク3に至るレキとウルスラはすでに心得ていた。
「コォオオオ……『大狂化』」
しかし、錆付きの力は最早、一般的に冒険者がとるような逃走術を許すほど甘いものではない。
『狂化』のさらに上位となる状態異常魔法『大狂化』を発動させた錆付きは、その身から目に見えて赤いオーラを吹き出す。
更なる狂気と力を宿した錆の騎士は、その剣の一振りでもって容易く煙幕のカーテンを切り開く。
「ま、まずい、これは逃げ切れるかどうかも怪しいの」
閃光が効いた様子もなく、一瞬で煙幕も晴らされてしまい、校舎へ向かって走る無防備な背中を晒す格好となったウルスラは焦る。
「レキが止めるデス!」
「無理に決まってるの! いいから逃げる!」
「3分くらいは止めてやるデス!」
すでに逃走の足を止めて武器を構えたレキ。
目の前には、猛然と駆けてくる錆付きの姿。
もう、再び逃げ出しても確実に背中を切られるだろう距離しかない。
「――私もいれば、5分はもつ!」
ついに、ウルスラも足を止め、杖を構え直した。
「クォオオオオ……」
狂気のオーラを炎のように揺らめかせながら、錆付きは無慈悲に、しかし絶対的な力を宿したその刃を、不退転の決意を固めて立ちはだかるレキへと振るう――
「――『大魔剣』」
その時、現れたのは漆黒の大剣。
天から降って来たように、まっ逆さまに落ちてきた大剣はレキの身を守る盾のように彼女の前で地面に突き立った。
そして、レキに向かって振るわれるはずだった錆付いた刃は、弾かれたように急激な軌道変更を行い、
「グッ、ヴッ!」
背後から飛んできた黒き大剣を弾き飛ばした。
大剣の投擲攻撃を弾いた錆付きは、すぐ目の前に立つレキへ再び向こうとするが、
「おい、こっちを向けよ錆野郎」
狂化によって正気が飛んだ頭でも、その存在感を無視することはできなかった。
挑発的な台詞に、怒りを覚えるほどの意識を錆付きは持ち合わせていない。故に、錆付きが振り向いたのは、ただその圧倒的な魔力の気配に反応したから。
「お前の相手は、俺だ」
錆付きの虚ろな視線と、鋭敏な第六感がそこに捉えたのは、静かな怒りに燃えるクロノであった。
2019年6月28日
24日にコミック版『黒の魔王』第10話が更新されてます。ちょうど序盤の山場となる回ですので、どうぞお忘れなくご覧ください!