特別企画 未発表作品体験版その1 『マッドネスアイランド(仮)』 第一章:深淵から覗く者
平成最後にして奇跡の10連休ということで、突発的に特別企画開催です。
題して、未発表作品体験版。
要するに、連載作品の傍ら、私が趣味または次の連載候補としてコツコツ書いてきた新作達を、どうせ何年先になっても公開できそうもないので、こういう時に放出して、あわよくば感想もいただこうという、そんな企画です。
本編『黒の魔王』とは一切関係ない、全くの別作品となりますので、他の作品に興味はない、という方がいれば残念ながらスルーで構いません。
本来なら、新しく投稿すべきなのでしょうが、現状では連載の継続が不可能な作品ですので、この場で書き上がった序盤だけ公開させていただく、という形にしました。
まだ10連休も二日目、長い休みのお供に、どうぞまだみぬ新作の序盤をご体験ください。
反応次第ではモチベーションが上がってまさかの三作目の連載が始まる・・・かも・・・やっぱ無理・・・
ちなみに、今回発表させていただく新作は3本あります。毎日順に公開していく予定。更新時間は、明日からはいつも通り17時とさせていただきます。
それでは、まずは記念すべき第一作目の体験版『マッドネスアイランド(仮)』をどうぞ。
なろう、のジャンル分けでは『パニック(SF)』となります。いわゆる一つのゾンビモノです。
プロローグ
初夏の日差しが照らすハイウェイを、陽気なカーラジオをBGMに愛車の4WDを走らせる。半開きにした窓から吹き込む風に、黒い髪が揺れる。右手には新緑に覆われた山々、左手には穏やかな波のオーシャンブルー。
朝の爽やかなドライブだが、俺の顔色はあからさまに暗いだろう。
「……パパは悪くないよ」
風に乗って消えそうな幼い声はしかし、はっきりと俺の耳に突き刺さる。
しまった。いや、参った、と言うべきか。10歳になったばかりの娘に、こんな慰めの言葉をかけられるとは。
「ママったら、いっつも人の話を聞かないで、勝手に決めつけるんだから」
むくれた顔で口を尖らせる、けど、そんな顔も可愛らしい。
いや、親のひいき目がなくたって、ウチの娘は目を見張る美少女だ。サラサラ流れる白銀の長髪に、透き通ったアイスブルーの瞳は、大きく、円ら。この目で見つめられたら、どんなお願いも断れない。
まるで、童話の世界から抜け出してきたかのような、愛らしくも幻想的な白い美貌。成長したら、一体どれだけ魅力的な美女となるか……パパは今から心配です。
「アリス、ママのことを悪く言ってはいけないよ」
ケチの内容については全くもって、娘の言う通りなのだが、それはそれ、これはこれ。母親の悪口を平気で容認するようでは、父親失格だろう。
「でも!」
「いいんだ、今朝はちょっとだけ、ママの機嫌が悪かっただけなんだ。大丈夫、帰った頃には、ちゃんと仲直りしているから」
実にくだらない言い争いだった。先日の嵐で、倒れた庭の柵を直すだの直さないだの。
昨日、日曜日の内には直すと約束したのに、何も手を付けていないじゃない。いつまで壊れたまま放置しておくつもり、こんなのご近所に笑われる、いいから早く直してちょうだい。それにプラスして、ささやかな日々の不満の数々――いつもの小言で、素直に俺が悪かったと言えば、それで流せたはずなのだが、つい、言ってしまった。
そんなに早く直したいなら、自分で直せばいいだろ。
完全に失言だった。そりゃあ、どうせ柵を直すのは俺で、妻は何も手伝わないし、不器用な彼女が手伝えることなど何もない。そのくせ、偉そうにさっさと直せと指図するなんて、そんなの会社の上司だけ十分だ。
つまらないイラ立ちをウッカリ表に出してしまったせいで、このザマだ。妻の文句は余計なことに飛び火はするし、可愛い娘には気遣いの言葉なんか言わせてしまった。ちくしょう、下らないケンカのせいで、朝食も食べ損ねちまった。
はぁ、月曜の朝っぱらから、何をやっているんだ、俺は。折角、昨日、アリスと遊んでリフレッシュしたのが台無しだ。まぁ、娘と夜まで遊び回ってたせいで、柵を直さなかったのだが。
「ねぇ、パパ、朝ごはん」
アリスは俺の子供だましな弁解に納得していない表情だったが、それでもこの話を続けるのは無為だと判断したのだろう。多少、強引だが、話題を変えてくれた。
その大人びた気遣いは、正直、ありがたかった。この子は本当に、頭がいい。
「そうだな……マックでいいか?」
「うふふっ、ママには内緒で?」
「ああ、絶対に言うなよ」
「はい、パパ」
全国展開している最大手のハンバーガーチェーン店、マックスナルドは、我が国の肥満促進に一役も二役も買っている、ジャンクフードの代名詞的存在だ。妻は元から健康志向で、娘のアリスが生まれてからは、尚更にそういうこだわりが強くなった。そんな彼女が、怪しい合いびき肉のハンバーガーに安い油で揚げたフライドポテトなんて、許すはずがない。
だが、俺も生粋のアストリア人として、たまにマックの安い味が無性に恋しくなる。この濃い目でジャンクな味付けは、子供のアリスも大好きだ。
だから、俺とアリスが二人きりで出かけた時は、よく食べに行く。
この朝からケチのついたつまらない気分は、肉汁滴るバーガーを食って忘れることにしよう。
ハイウェイ・ルート13を走り抜け、到着したのは郊外にあるマックスナルド、エンヴォルト・ブリッジ店。アリスの通う学校は、このエンヴォルト橋を渡ったすぐ先にあるから、朝食を済ませるならここしかない。
「いらっしゃいませー」
まだ朝も早い時間だからか、店内は閑散としている。これから仕事に向かうだろう、スーツ姿のサラリーマン、だが、あの男、やけにデカい。それに、対面に座っているのは、緑のモヒカンにパンクロックなヤバそうな格好の奴。どういうコンビなんだ。まぁ、いい、ここは自由の国アストリアだ。人のファッションや交友関係に文句は言うまい。
他にいるのは、店の中央に堂々と陣取っている、明らかに朝帰りな大学生のグループか。
眠そうに大あくびをしながら、コーヒーをすする若い男女の姿は、実にだらしない。全く、ウチのアリスを見習え。毎日、律儀に学校へ通っているというのに。
そんな反感を抱くのは、大学進学できずに、高卒で就職した自分から見て、大学生というのは羨ましく見えてしまうだけのこと。俺だって四年間、遊びたかったし、なにより、妻とは結婚するよりもっと恋人として過ごしたかった。
アリスがいたから仕方がないとはいえ、俺の選択に後悔はない。仕事も順調だし、何だかんだで主任に昇進もできた。
俺は幸せだ。自分自身でも、世間一般で見ても。勤め先はかの有名な大企業、エムロード重工。二十代で庭付きの家は買ったし、車だって新車で買った。美人の嫁さんと、世界一可愛い娘を持つ。ちょっと古いが、これがアストリアンドリームってやつだろう。
おまけに、朝から食うバーガーも美味い。
「どうだ、美味いか?」
「うん!」
笑顔でチーズバーガーを頬張るアリスは実に可愛い。こんなに可愛いアリスの口元を拭ってやるのは、お世話というより、むしろ役得といったところだろう。おっと、危ない、ソースは零すなよ。折角の、綺麗な白いワンピースが台無しになってしまう。
そんな憩いの一時を過ごし、そろそろ店を出ようかという時であった。
「あれっ、もしかして……クロード先輩ですかっ!?」
突然、酷く驚いたような女の声に呼ばれて、俺も驚いた。誰だ。
確かに、俺の名前はクロードで間違いないが、街中で女性に声をかけてもらえるような、イケメンのつもりはない。どちらかといえば、避けられる強面である。
けれど、顔を上げれば、すぐに納得がいった。
「あっ、お前、エイミーか?」
「そーですよ! うわっ、久しぶり、私のこと、覚えててくれたんですね!」
太陽のように眩しい笑顔を浮かべながら、紺色の制服に身を包んだ婦警が、俺の席へと駆け寄ってきた。
「忘れるわけないだろ。でも、そうか……お前、警察官になったんだな」
俺の記憶の中にあるエイミーという女性は、高校時代、同じ部活の後輩の、元気で明るい少女である。男勝りでおおざっぱ、少しばかり女性らしさには欠ける、とてもおしとやかとは言えない性格だったが、彼女の快活さには誰もが好感を持った。
褐色の肌に、黄金のようなショートのブロンドヘアと瞳は、俺が覚えている通りに今もキラキラと輝いているが……最後に見た高校二年の頃から、体の方は随分と成長しているようだ。あの頃は俺の胸元までしかなかった頭も、今は俺の顎あたりにまで届く。マジか、俺は身長190越えてるけど、エイミーも170センチは軽く超えているだろう。女性としては、かなりの長身。
恵まれた身長から、モデルのようにスラリと伸びた手足だが、タイトな制服の生地を盛り上げるように、しなやかな筋肉がついている。綺麗なだけじゃなくて、よく鍛えられている。それでいて、思わず凝視してしまいそうなほど、豊かな胸の膨らみに、くびれた腰から大きく広がるヒップのラインと、女性的な魅力に溢れた体つき。
見違えるとは、正にこのことか。持前の明朗な雰囲気はそのままに、一人の美女として完成しているエイミーを前に、ちょっと照れる。
「むー」
いかん、娘の前で、鼻の下を伸ばすなんて、あっちゃいけない。アリス、めっちゃ睨んでる。やめて、パパのこと、もっと信用して!
「ようやく、今年からこの街に配属になったんですよー、でも、こんなに早く先輩と会えるなんて……運命、感じちゃいます」
「はははっ、結婚するとモテるってのは、本当の話だったんだな」
「あーっ、なに本気にしてるんですか、先輩。もしかして、期待してました?」
「お前こそ、俺の幸せな家庭を乱すような真似はやめてくれよ」
「いいじゃないですか、思わせぶりな態度は、フリーの女の特権ですよ」
「なんてこった、俺の可愛い後輩は、悪魔になっちまった」
「そこは小悪魔って言ってくださいよー」
まぁ、コイツは高校時代からして、すでに小悪魔だったからな。当時は胸も尻も控えめではあったが、綺麗な顔立ちとその性格から、エイミーはモテた。よく告白されてたし、何故か俺もその現場に立ち会ったこともある。けど、特定の誰かと付き合ったという話は、ついぞ聞かなかった。恋愛よりも、部活優先だったからな。
「パパ、この人、誰」
おっと、放っておいたせいで、お姫様はお怒りのご様子。
「この人は、パパの高校時代の後輩で、久しぶりに会ったんだ」
とりあえず、自己紹介しなさい、と促しておく。
「初めまして、アリス・シルヴァインです」
「私はエイミー、エイミー・マクレーンよ。パパのお友達。アリスちゃんとは、凄く小さい頃に一度だけ会ったことがあるんだけど……」
「ごめんなさい、覚えてないわ」
「あはは、そうだよねー、でも、昔も今も、すっごく可愛いわね、お人形さんみたい!」
ニコニコ笑顔でアリスを撫でまわすエイミー。子供の相手は得意だと豪語していた彼女だが、アリスはあんまり面白くないって顔をしている。大丈夫か。
それにしても、エイミーがアリスと会った時といえば……ああ、卒業式の日に、俺は結婚するんだと、カムアウトした時だったか。まだ3歳だったアリスを抱える妻を紹介すると、エイミーは物凄く驚いていた。この世の終わりでも見たのかってほどの驚きぶり。驚きすぎて、ほとんどマトモに喋れてなかった気がする。
そんなに俺が結婚するのが意外だったか。全く、失礼な奴である。
「おい、エイミー! 何をしている、早く行くぞ」
「あっ、ごめんなさい、アンディー」
「ちゃんと先輩と呼べ、何度言わせる」
「私の先輩は先輩だけなんですー」
意味不明な事を言いながら、エイミーは組んでいる先輩の警官と思しき男の方へと向き直る。
「ねぇ、先輩……アドレス、教えてもらってもいいですか」
「ああ、あの頃と同じだぞ」
「そうですか、良かった」
「折角、こっちに帰って来たんだ。今度、みんな集めてバーベキューでもしよう」
「はい、是非お願いします! それじゃあ、また――」
思いがけず、嬉しい再会を果たしたものだ。朝の憂鬱を帳消しにして余りある出来事に、俺は清々しい気分でエイミーの背中を見送った、その時だった。
「パパ、見て、空が……」
不意に、晴れ渡っていたはずの外に、暗い影が差しこむ。何だ、今日は雲一つない晴天って予報だったが、大外れで雨雲でもやってきたってのか。
「おお、何だアレ……もしかして、日蝕か」
マックの道路に面する側は、全面ガラス張りになっていて、外はよく見える。空を仰ぎ見れば、そこには小さな雲がふよふよ漂うだけで、太陽の光を遮るものは何もない。
しかし、空は目に見えて分かるほど、暗くなっていく。突如として夜の帳を降りてきたような、この暗さは、いわゆる皆既日蝕でも起こらないと――
「ありえない」
けれど、アリスは断言した。
「アストリアで皆既日食が観測できるのは、十二年後だもの」
「いや、でも……太陽が、完全に覆い尽くされているぞ」
その時、俺は見た。
きっと、アリスも見た。店を出ていく直前だったエイミーも、店内にいる客も、店員も全員だ。皆が、このガラスの壁越しに、空を見た。
太陽が、漆黒の影に覆われて、その光を完全に閉ざす瞬間――
ギッ、ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイっ!!
「っ!?」
錆びついた扉を、強引に押し開くような、甲高い不快な音が響いた。
どこから?
空。
いや、きっと、それは、太陽からだった。
「な、んだ……」
黒い影に塗りつぶされた太陽が、開く。
意味不明。だが、それでも、開いたとしか、俺には表現できない。
それは、巨大な目のように。影が、瞼であったかのように、動いて、開く。
そして、目が合った。
赤い。不気味なほどに真っ赤な瞳が、太陽の代わりに、漆黒の空に鎮座して――俺を、俺達を、見下ろしていたんだ。
第一章 深淵から覗く者
「――ハッ!?」
目を覚ます。何だ、俺は、気を失っていたのか?
「……パパ」
「アリス!」
すぐに、自分の隣に立つ娘に気づく。
「アリス、大丈夫か。何か、おかしなことや、痛いところはないか?」
自分よりも優先すべき、守るべき存在がいるお蔭だろうか。俺は、ついさっき目撃したはずの、えもいわれぬおぞましい光景の衝撃を、一旦は脇に置いて、アリスの心配ができた。
「大丈夫、何ともないわ。外も、何も異常はないように見えるけど」
「……ああ、空も、明るくなっているな」
気が付けば、外は何事も無かったかのように、元通りに朝の景色が広がっている。
まるで、悪い夢でも見ていたかのようだった。
実際、悪夢だとしか思えない。突如として皆既日蝕が始まったかと思ったら、太陽の影が開いて、巨大な赤い目玉が現れるなんて……
「ねぇ、今の何だったの」
「何かヤバくなーい?」
「夢だったんじゃないっすかー」
「あー、俺ら、徹夜だったしな」
「これは集団幻覚というやつに違いないですぞ!」
大学生グループのアホっぽい会話が耳に入って来るが、どうやら、さっきの異常を見たのは、彼らも同じようだった。
「なぁ、アリスは……見たのか?」
「見たわ。太陽に開いた、大きな、赤い目」
間違いない。
太陽の目を見たのは、俺だけじゃない。アリスも、きっと、誰もが目撃したに違いない。
「アレが何だったのか、分かるか?」
「ううん、分からない……あんなの、自然現象では絶対にありえないもの。これが、単なる集団催眠や幻覚の類なら、大した問題じゃないのだけれど」
アリスに分からなければ、高卒の俺に分かるはずもない。
「パパ、怖いわ。何だか、凄く嫌な予感がするの」
「落ち着け、大丈夫だ、アリス。何があっても、アリスのことはパパが守ってやるからな」
ギュっと固く、我が娘を抱きしめる。この腕の中に感じる温もりが、俺の全てだ。
「ともかく、夢だろうと幻だろうと、何も変わったところはないんだ。心配することはない、けど……もし、アレが幻覚だったら、近くで危険な薬品が漏れたのかもしれない。一応、病院に行って、診察してもらった方がいいだろう」
「うん、私もそう思うわ」
俺は危険物取扱の資格は持っているが、薬品関係に特別詳しいワケではない。それでも、麻薬などの成分が幻覚を引き起こすってくらいは知っている。幻覚を見た、と感じたなら、自分でも気づかない内に、どこらともなく漂ってきたヤバい成分を吸ってしまった、と考えるのが妥当だろう。
少なくとも、俺はそう思いこむことにした。もし、アレが、あんな恐ろしいモノが現実だったとしたら……
「行こうか」
「はい、パパ」
アリスの小さな手を引いて、店を出ようとしたちょうどその時、けたたましい音を立てて、扉が開かれる。
「ァアアアアアアッ!!」
一人の男が、狂ったような絶叫をあげながら、マックの入り口の扉に全力で体当たりでもかますように押し入り、その勢いで、頭から突っ込むように、ドっと床へと倒れ込んだ。
何だ、コイツ。
見た目は、革ジャンに髑髏のバンダナを巻いた、ライダーといった風体。痩せぎすの初老の男で、ヒゲを生やしている。
多少、目を引くルックスであるが、アストリアではそう珍しい格好でもない。だが、あまりに異様な男の入店の様子に、ギョっとして誰もが視線を向けた。
「オオッ、アアァ……」
獣じみた呻き声を上げながら、男は起き上がった。見るからに鼻が潰れていて、ドクドクと鼻血を垂れ流している。
けれど、痛みなど感じてないかのように、男はギョロギョロと目玉を動かして――って、なんだ、あの目は。赤い。
いや、ただの赤い瞳なら、俺と同じで、別に珍しくともなんともない。けれど、アレは、本当に真っ赤に光っている。しかも、目元にはビキビキと血管が浮き出ている。いや、浮き出ているのは、本当に血管なのか。血管らしき筋は、どれも異様に太く、そして、目と同じように赤く発光している。血ではない。赤く光る別の『何か』が、そこに流れているのだと思わせた。
この男、マトモじゃない。
何度か、クスリでイカレてぶっ飛んだヤツを見たことあるが、雰囲気はソレに近い。けれど、異質。麻薬で正気を失うよりも、さらに深刻な狂い方。
「っ!?」
そして、最悪なことに、そんな狂った男の手には、ギラリと輝く一振りの刃が握られていることに、俺は気付いてしまった。小ぶりの、バラフライナイフだ。短くとも、本物の刃である。
キチガイに刃物。
その状況に気づいたのは、すでに俺だけではない。誰もが息を飲む。長閑なマックの店内は、俄かに緊迫した雰囲気に包まれた。
「――ふぃー、おっ、なに、みんなどうしたの?」
次の瞬間、呑気な声がやけに大きく響き渡る。
眼鏡をかけた、ヒョロイ青年は、大学生グループの一員だろう。彼が現れたのは、トイレへと続く通路。用を足していた彼は、何も知らず、出てきてしまった。
そう、彼はちょうど、ナイフを手にした異常者のすぐ前に、その身を晒してしまったのだ。
「ウォァアアアアアアアアアアアアアっ!!」
「えっ、なにっ、ちょっ! ちょっ、ちょぉおおおおお――おごぉおっ!!」
一瞬の出来事だった。止める間もない。
眼鏡の大学生は、男に刺された。
「ウォオオオ! ヴォオオオオオオオオオオオオっ!!」
「お、んおっ、ぐほぉ……」
刺す、刺す、メッタ刺しだ。
突進するようにナイフを刺されて、大学生は倒れた。そこへ、男が馬乗りになって、何度もナイフを振り下ろしていた。
一瞬にして、血飛沫が舞い散り、血の海が広がって行く。
「キャァアアアアアアアアアアアっ!」
「おいっ、お前、何してる、止めろ!」
「警察よ! 武器を捨てて、手を上げなさい!」
けたたましい女の悲鳴と、怒号。その中で、エイミーの凛とした声が響く。
最初に、イカれた男の殺人に対処したのは、流石は本職、警察官のエイミーと、その相棒らしい、えっと、アンディーだったか。
すでに二人とも腰から拳銃を抜き、油断なく構えて、男へと銃口を向けている。
「ウゥウ……グォオオオ……」
返り血で真っ赤に染まった男が、血塗れの刃を握り絞めたまま、幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。
「ナイフを捨てろ! おいっ、テメェっ、聞こえてんのか! 動くな、撃つぞ!」
かなり強張った、アンディーの怒声。エイミーも頬に大粒の汗を流し、酷く緊張した面持ち。
警官といえども、無理もない。平和なアストリア、しかも、割と治安の良いこの街で、殺人事件の現場に遭遇するなんて、滅多にあることではない。果たして、いざという時、あの二人は銃を撃てるのか。
厳しい銃規制が敷かれるアストリアでは、警察官といえども、発砲は厳しく制限されている。確か、最初の一発は威嚇用の空砲のはず。
「……まずい」
さほど広くもない店内。相手との距離が近い。もし、あのナイフ男に全力で襲い掛かって来られたら、恐らく、実弾の装填された二発目が放たれるより前に、刃の方が先に届く。
男の狙いは、アンディーかエイミーか。
大人しく投降する可能性? あるワケない。ヤツの目は、完全に狂っている。
「ォオオァアアアアアアアアアアアっ!」
「うおおおっ!?」
「くっ!」
男がナイフを振り上げて駆け出すのと、同時。パン、パン、と乾いた銃声。
そして、その空砲をスタートの合図として、俺も、一歩を踏み出した。
「おいっ、来るな、うわぁああああああああっ!」
男は、アンディーに踊りかかっている。大学生と違い、最初から身構えていたお蔭で、最初の一撃くらいは凌げそう。
大丈夫だ、落ち着け、間に合う。きっと、上手くいく。
走りながら、俺は手近な椅子を掴む。
手にした木の椅子は、あまり頼りにはならなそうな軽さ。多分、一発でお釈迦だろう。
けど、それで十分だ。
「オラァっ!!」
気合い一閃。アンディーに襲い掛かる男の背後から、俺は全力で椅子を振り下ろす。
「ンギァアっ!」
バァン、と木の足が折れ、木端となって弾け飛ぶ。一発で椅子が破壊されるだけの衝撃をくらい、男は短い声を上げて、ドっと倒れる。
しめた。倒れた拍子に、ナイフを落とした。
このまま、決める。
「ふんっ!」
倒れたところを蹴飛ばし、うつ伏せになるように転がす。そこから、すかさず背中から圧し掛かり、腕を男の首にかける。
ここまで無防備に背中をとれれば、決めるのは簡単だ。昔は、遊びでもマジ喧嘩でも、よくやった。
裸締め、ってやつだ。
「ンギッ、ギィ……」
男が激しく抵抗するのを感じるが、完全に決まった裸締めは、そう簡単に逃げられるものではないし、俺も軽く引っくり返されるほど甘くはない。何より、細身の男と、大柄な俺とでは、ウェイト差も圧倒的。
だが、相手はイカれた殺人犯。油断は一切しない……はずだったが、まずい、手落としたナイフが、思ったよりも近い位置にある!
男は目ざとくナイフを見つけたのか、必死に手を伸ばし、その柄に指先をかけ――
「先輩!」
「よくやった、エイミー!」
エイミーのブーツが、ナイフを蹴飛ばす。唯一の凶器を失った男は、最早、何の抵抗もできず――裸締めの絶対的な効果に負け、あっけなく気絶した。
「ふぅ……エイミー、コイツに手錠をかけてくれ。起きたら面倒だ」
「は、はいっ!」
ぐったりと気絶した男に、後ろ手にエイミーが手錠をかける。ひとまず、これで安心だろう。
「パパ!」
そこで、涙目のアリスが駆け寄って、俺の胸に飛び込んできた。そのまま抱きしめようと思ったが、返り血でベッタリだった男に密着したせいで、俺の腕にも少しばかり、血がついてしまっている。
「パパは大丈夫だ、アリス」
「本当? 怪我してない?」
「勿論だ。パパは強いからな、悪い奴なんかには、負けないのさ」
「うん、でも……」
「さぁ、いい子だから、ここは離れなさい。後は、警察の仕事だ」
恐らく、これから事情聴取なり何なりと、このまま真っ直ぐ家には帰れないだろう。早く着替えたいんだが。
それにしても、思い切ったことをしたもんだ。
もし、エイミーが刺されたら……そんな思いから、イカれた殺人鬼に立ち向かったのだ。
だが、全て終わってみると、恐怖で体が震えそうになる。喧嘩は沢山してきたが、本当に人が殺される現場に立ち会ったのは、初めてだからな。
「あの、先輩……ご協力、感謝します」
「おいっ、素人が出しゃばりやがって、危ねぇだろうが! いいか、こういう時は警察に任せて、一般市民は邪魔んなんねーよう隅っこで震えてろって、小学校で習わなかったのかぁ」
いきなり怒鳴ってきたのは、男に襲い掛かられ、ビビりにビビっていたアンディーである。
「まぁ、落ち着けよ。無事に犯人は確保されたんだ。それに、コイツの注意がアンタに向いていたから、俺も安心して背中を襲えた。だから、ちゃんと半分はアンタの手柄だ」
「てっ、テメぇ! この俺を囮にしやがったな!」
「アンタを襲ったのは、コイツの勝手だろう」
実際、アンディーがターゲットにとられていたからこそ、簡単にヤツの背後を狙えた。一発でダウンさせ、さらに絞め技で気絶させられる、それだけの格闘経験を俺は持っている。十分に勝算はあったのだ。
危険な事に変わりはないのだが、だからといって、余計なことをするなとキレられる道理もない。つい、売り言葉に買い言葉というヤツだ。
いかん、俺もあまりの緊張状態に、気が立っているのだろう。
「オーケー、分かった、公務執行妨害と侮辱罪、どっちか好きな方を選ばせてやる」
「やめて、アンディー。先輩のお蔭で助かったのは事実でしょ。それに、下らないことで揉めてないで、さっさと本部に連絡して。殺人事件なのよ」
「ちっ、それもそうか……あーあー、こちらアンドリュー・コールマン巡査、マックスナルド・エンヴォルト橋店で殺人事件発生、繰り返す、殺人事件発生――」
腰から無線機を抜いて連絡を始めたアンディー。やはり、俺に対してマジギレしているというより、襲われた恐怖と混乱とで、正常な判断ができなかったといったところか。
「助かったよ、エイミー」
「助けられたのは、こっちの方ですよ、先輩。本当に、ありがとうございました。やっぱり、先輩は凄いです」
「マジ喧嘩なんて、中学の時以来だ。大人になって、やるもんじゃないな……それより、一応、911(レスキュー)は呼んでおこうか?」
視線の先には、何が何だか分からない、といった表情で固まって白目を剥いている、血塗れの死体。万に一つでも、助かる見込みはあるのかもしれないが、それでも、俺にはナイフで滅多刺しにされた彼が、生きているとは到底、思えなかった。
「そう、ですね……お願いします」
「ああ」
俺はズボンのポケットから、今ではすっかり駆逐された二つ折りの携帯電話を取り出し、レスキュー隊へのコールをかけた。
「おい、本部――なんだよ、クソっ、繋がらねぇ!」
「ん、繋がらない」
何故か、アンディーと俺の感想が一致する。
携帯電話が繋がらない。バッテリーはまだあるし、今朝も目覚まし代わりに使ったから、故障ってことはないはずだが。
「圏外、だと?」
アンテナマークが、圏外を示すアイコンに変わっていた。繋がらないのは当たり前。
しかし、おかしな話だ。ここは郊外のマックで、決してアマゾニアのジャングルのど真ん中じゃあない。
「何なんだよ……」
ひとまず、俺の携帯がイカれたと思い、畳んで閉じる。代わりに、アリスにでも借りるか――と、顔を上げた時、ソレが目に入ったのは、本当に、ただの偶然だった。
ガラス張りの壁と同様に、入り口の扉もガラスだ。だから、すぐ外が見える。
外には、二つの人影があった。よほど急いでいるのだろうか、二人とも、全力疾走である。片方は、スーツにネクタイの若いサラリーマン。もう片方は、朝のジョギングをしているのか、ランニングウェアを来た中年女性。
二人はまるで小学生が50メートル走で競争でもしているかのように、互いに一歩も譲らぬデッドヒートで併走。そして、二人が向かうゴールの先は、どうやら、このマックのよう。
つまり、二人の人間が、物凄い勢いで、マックに駆け込もうとしているのだ。そう、体当たりで入店してきた、あの、殺人犯の男のように。
「ォオオオ……」
「アァアアアア……」
狂った声が二人分、分厚いガラスの壁越しに、俺は聞いた気がした。
「扉を締めろっ!!」
俺は叫び、畳んだ携帯を放り投げて、扉へとダッシュした。
「なにアレっ、イヤっ、キャァアアアアアアアっ!?」
迫る脅威を、理解したのだろう。再び響く、女の悲鳴。それと同時に、俺は扉へとたどり着く。
「グォオオオァアアアアアアアアアアアアっ!!」
「くうっ!」
サラリーマンが、扉にぶち当たる。凄まじい衝撃が、全身を走り抜けるが……どうにか、堪える。リーマンは細身に見えるが、かなりのパワーだ。実は鍛えた細マッチョというより、普通だったら危機感が働いてブレーキがかかるところを、そのまま全力で扉にぶち当たって来たからだろう。
僅かに扉が開きかけるが、俺は全力でそのまま押し戻した。
「イアァアアアアアアアアアっ!」
けど、マズい、ジョギング女の力も加われば、押し切られる!
「エイミー! アンディー!」
「はい、先輩!」
「おい、おいおいおい、何だってんだよぉ!?」
俺の必死の呼びかけに、即座に応えてくれたのはエイミーだけ。アンディーは、扉の外に現れた、新たな異常者の姿を前に、完全に硬直していた。
「コイツらはさっきの男と同じだ! 絶対に中に入れるな!」
「うっ、くぅ……」
エイミーが加わったことで、どうにか力は拮抗する。
「ゴォオアアア!」
「ギォオオオ!」
しかし、外の二人は怒り狂ったような形相で、力の限りに扉を押してくる。ガラス越しに見えた二人の顔は、やはり、ナイフ男と同じように、赤く発光する目と、血管が浮き出ていた。
「僕も手伝おう!」
「お、俺もっ!」
助かる。緊急事態を察してくれた、二人の男が加勢してくれた。
一人は、俺と同じくらいの長身で、幅は倍くらいある、熊のような大男。はちきれるようなスーツ姿に、坊主頭と丸眼鏡に顎髭が特徴的な、中年男性だ。
もう一人は、この店で真っ先に目を引く、緑のモヒカンのパンクロックな男だ。身長は平均的だが、それなりに鍛えているのだろう。剥き出しの肩と腕には、目に見えて筋肉が浮き出ている。
どちらも力には自信がありそうで、事実、俺にかかる負担はかなり軽くなった。流石に四人分のパワーがあれば、狂った二人組にも押し切られることはない。
だが、いつまでもこのままでいるワケにもいかないだろう。少なくとも、外の狂人はまるで諦める気配がない。
「おい、店員! この扉の鍵を持ってこい! 鍵を閉めるんだ!!」
「はっ、はひっ!」
俺の叫びに応えたのは、接客してくれたバイトの女の子ではなく、殺人の騒ぎを聞きつけて奥から出てきた、店長と思しき、小太りの中年男だ。
「か、か、鍵はここに!」
「締めろ! 早く!」
幸い、店長のエプロンのポケットに鍵は入っていた。ずっこけそうになりながらも、小走りに駆け寄った店長は、震える手で鍵穴に差し込む。
カチリ、と確かにロックのかかる音と共に、俺の体にかかる衝撃は完全にゼロとなった。
「オオッ、ガアアア!」
「ひいいいっ!?」
悲鳴をあげる店長。しかし、ギシギシと扉は軋むものの、ガラス製とはいえ、分厚い扉のロックは、人間二人分の力で押し開けるほど、脆くはなかった。
「はぁ……はぁ……店長、他にドアは?」
「あ、開けているのは、ここだけですぅ」
とりあえず、これで侵入は防げるか。まぁ、見るからに、裏口を使おうと気が付くような、理性は残っていなさそうだが。
「あの、先輩、これ、っていうか、この人たち、何なんでしょうか」
「俺が知るか……けど、暴動ってワケじゃあ、なさそうだが」
この街では、殺人事件だけでも珍しいのに、暴動騒ぎなんて、起こるはずがない。
「こんなの、絶対におかしいですよ。だって、麻薬を使っても、こんな風には……」
「それ以前に、アイツと、このリーマンとオバさん、三人が同時にヤバいクスリを決めてトチ狂ったとは、とても思えないがな」
これで、三人ともギャングのような強面か、スラムの浮浪者みたいな風貌であれば、近くでラリって暴走という可能性には、まだ信憑性があった。だが、この三人はどう見ても、赤の他人同士。関係性など全くない、それこそ、今の時間に、たまたまこの近くを通りがかっただけの人物だとしか考えられない。
「なぁ、この近くで、人を狂わせる劇薬でも流出したりしてるんじゃないのか」
ウチの会社の隣には、アンブレダ製薬という、そこそこ大手の製薬会社の工場がある。そこに運び込まれる予定だった、超ヤバい成分の材料を満載にしたトレーラーが横転したとか。
「やっぱり、あえりえないですよ。だって、この人たち、目が赤く光って――」
「うわぁああああああああああああっ!?」
今度は何だ!
叫びを上げたのは、店長と、グリーンモヒカンの男。
俺は慌てて振り返ると、今度こそ、我が目を疑う。
ああ、そうか、ありえない、って、こういうコトを言うんだ。
「ウッ……オオッ、アァアアアアア……」
血の海に横たわっていた死体が、起き上がった。ゆっくりと、長い眠りから目覚めたように。
ありえないだろう。だって、あの男は……眼鏡の痩せた大学生の彼は、ナイフで滅多刺しにされていた。俺は医者じゃないが、それでも、一目で見て分かるほど、手遅れだった。彼は、死体になっていたはずだ。
けれど、死んでいたはずの彼は――その目を赤く光らせて、再びこの世に、蘇っていた。
「うわぁあああ! ぞ、ゾンビだぁああああああああっ!?」
「グルゥウウウォァアアアアアアアアアっ!!」
動く死体を前に、店内は悲鳴と絶叫が響く、大混乱に陥った。俺も、何が何だか分からない。
ゾンビだって? ははっ、ナイスジョーク、ハロウィンにはまだ早いぜ。
現実にそんなモノが現れたというヤツがいたら、俺は鼻で笑ってそう言ったことだろう。
だが、俺は自分自身の目で、確かに見てしまった。一人の男が、ナイフで刺されて死んで、そして、狂気の雄たけびをあげながら、赤い目となり蘇った、今、この瞬間を。
「くそっ!」
咄嗟に、扉の前から逃げる。蘇った眼鏡の大学生、つまり、ゾンビは、扉を守っていた俺達の方へと向いて、猛然と襲い掛かって来たのだから。
「ひいいっ! 来るなっ、やめ――ぎゃぁあああああああああああああ!!」
俺もエイミーも、素早くその場から飛び退いていた。大男はモヒカンを庇うように抱きしめて、身を翻していた。そして、いかにも鈍そうな、小太りの店長が、襲い掛かってくるゾンビを前に、何も出来ずに呆然と立ちすくんでしまった。
必然、噛まれたのは、店長だった。
「グォオオ! ンゴォオオオ!!」
「あぁああああ! い、痛っ、いぃいいい!!」
咄嗟に両腕をつき出していたのだろう。ゾンビは、店長の毛深い腕に噛み付いていた。白い歯が肉に食い込み、鮮血が噴き出ている。大の男が泣き叫んでも、おかしくないほどの傷だ。
けど、まだ致命傷ではない。
大学生ゾンビが、ナイフを持っていなくて良かった。
「オラァっ!!」
渾身の蹴りを、ゾンビに放つ。ドン、と強く肉を打つ感触が、脚に伝わる。かなりいいヒットだ。ヒョロい学生の体なら、アバラが折れたかもしれない。
「グボォオオ!」
キックの衝撃により、ゾンビはあっけなく吹き飛び、イスとテーブルをガラガラと盛大に巻き込んで倒れ込んだ。
「やぁああああっ!」
そこで追撃を仕掛けたのは、俺ではなく、エイミーであった。
長い足が弧を描くように、綺麗な蹴りが放たれる。女性の身であっても、鍛えた体と技で繰り出せば、それなり以上の威力になる。特に、腕よりも遥かにパワーがある蹴りならば、男でも平気ではいられない破壊力にまで至る。
ゾンビの体は、その場でグルンと身を捻りながら、跳ね上がった。男一人を蹴り上げられるとは、エイミーの脚力はかなりヤバい。高校時代の比じゃないな。
「はっ!」
華麗にして強烈な蹴りに感心している暇はない。流れるような身のこなしで、倒れたゾンビの首を狙う。俺がナイフ男にやったのと同じように、絞め技をかけようというのだろう。
ただし、エイミーが繰り出したのは腕による裸締めではなく、脚を使う三角締めだった。
「ヒュッ、コッ、クェエエエ……」
エイミーはお手本のように、綺麗な三角締めを決めた。しなやか足で首を挟みこまれ、ゾンビは苦しげなうめき声を上げ――さしたる抵抗もなく、落ちた。
死体から蘇ったゾンビといえども、呼吸は必要なのだろうか。とりあえず、人間と同じように、首を強く絞められて気絶したように、ぐったりと動かなくなった。
「凄いな、エイミー。助かったよ」
「いえ、先輩と同じようにやっただけですから」
ふぅ、と息を吐いて立ち上がったエイミーの顔には、恐れはなく、凛としていた。凄い度胸だ。正直、ゾンビ相手に密着して絞め技をかけようか、俺はかなり躊躇した。
俺が情けなく迷う間もなく、エイミーが飛び出してくれたお蔭で、事なきを得たのは間違いない。
「ああ、クソっ! エイミー、喜んでる場合じゃねぇぞ、外がヤベぇ!!」
今更ながら、役立たずだったアンディーががなりたてる。今度は何を騒いでやがる、なんて、ケチをつける言葉は飲み込む以外にはなかった。
「ォオオオ!」
「ガァアアアアアアアアアアっ!!」
三人、四人、五人……いや、まだまだ増える。ガラス張りの壁に、赤い目の狂人、すなわち、ゾンビが張り付いている。
奴らは餓えた獣のように、正気を保った生きた人間である俺達を睨みつけ、雄たけびをあげていた。
「な、なんてこった……外はもう、ゾンビだらけなのか」
まだ人通りが少ない、朝の時間帯が幸いしたのか、溢れかえるというほどの人数ではない。しかし、壁に張り付いている奴らの他にも、通りの向こうから、あのリーマンとオバさんのように、全力疾走で向かってくる人影がちらほら見えた。
まずい、このままだと、どんどん集まってくる。
「アリス、こっちにおいで」
「パパ、ここは危険よ」
「分かってる」
一連の衝撃的な出来事に加え、地獄の亡者のように現れたゾンビを前にしても、泣き出さないアリスは実に肝が据わっている。
「おいおい、どうすんだ、どうすんだよコレ! 撃っちまってもいいのかぁ!?」
アンディーはホルスターにしまった銃に手をかけて、今にも透明な壁の向こうでうめきを上げるゾンビ共に発砲しそうな雰囲気だ。
「よせ、この間抜け。ガラス越しに撃ったら、割れて奴らが雪崩れ込んでくるだろ」
「じゃあ、どうしろってんだよ! ちくしょう、何がゾンビだ、ありえねぇ!」
「ちょっと、落ち着いてよ、アンディー! 警官の私達が取り乱したら――」
かなり錯乱しているが、無理もない。むしろ、冷静を保っていられるエイミーの方がおかしいのかもしれない。
けど、どうする。鍵を閉めた入り口には、まだリーマンとオバさんの二人がべったり張り付き、牙を剥いて唸っている。
「パパ、裏口から出ましょう。鍵は店長が持ってるわ」
「そ、そうか、そうだよな」
やはり、俺も冷静ではいられなかったのだろう。こんな当たり前のことが、すぐに気づけないとは。
「見た限り、奴らは私達の姿を見て、真っ直ぐ襲い掛かって来ようとしているだけ。回り込むような動きはなさそう。まずは、ゆっくり、おちついて、バックヤードまで避難できれば、奴らは私達を見失って、追いかけてこないかもしれないわ」
「アリス……怖くはないのか」
「大丈夫よ、パパが一緒だもん」
励ますような娘の微笑みに、闘志が湧いてくる。
落ち着け。そして、頑張ろう。
こんなワケの分からないところで、狂ったゾンビのような奴らに襲われて、死んで堪るか。勿論、死んで、ゾンビとして蘇るのもノーサンキューだ。天国へは、片道切符で行くと決めている。
「おい、みんな、落ち着いて聞いてくれ! 今から裏口を使って、この店から脱出する。騒いだら、外の奴らが裏にまで回って追いかけてくるかもしれない。ゆっくりと、静かに、ここから出るんだ――この中に、残りたい奴はいるか?」
誰もが、首を横に振るった。アンディーさえも、ケチの一つも飛ばさない。
そりゃあ、こんな所に残るなんて、絶対に御免だろう。奴らからすると、ここは美味しい餌の入った、檻にしか見えないだろうからな。
「エイミー、店長を連れて、先導してくれ。全員がバックヤードに入るまで、扉は開けるなよ」
「了解です! あの、立てますか?」
「うぅ……救急箱、取って来てもいいですか」
「ええ、応急処置は済ませてから、行きましょう」
腕に深手を負った店長は、ボタボタと滴る腕の傷口を必死に抑えつけながら、よろよろと立ち上がる。
「避難は、女子供から順番に……と、アリスも、先に行きなさい」
「嫌、パパと一緒がいい」
「脱出はパパが言い出したことだ。だから、責任を持って、逃げるのは最後にする。頭のいいお前なら、分かるだろ?」
「じゃあ、私も最後でいい」
「アリス、頼むから、ワガママを言わないでくれ――」
「待ってくれ、殿は僕が務めよう」
声をかけてくれたのは、眼鏡坊主の大男だ。
「いや、申し出はありがたいが、えっと……」
「僕はロディ。ロディ・ザクセンだ」
「俺はクロード・シルヴァイン。言いだしっぺの責任はとるつもりだ」
「その心がけは立派だけれど、娘さんを不安にさせない、父親としての責任の方が重いんじゃないのかな」
「……すまない、ありがとう」
「感謝するのは、こちらの方だよ。すでに君は、二度も危険に自ら率先して立ち向かったのだからね。それに、こういう時は、助け合いだろう? 僕にも少しくらい、格好をつけさせてくれよ」
朗らかな笑顔で肩を叩かれる。
ロディはどっしりと仁王立ちで、腕を組んで外のゾンビ共を睨みつけた。
「いざという時は、叫んでくれ。すぐに加勢する」
「ああ、脱出するまで、奴らの動きを僕が後ろで見張っているよ」
よし、ひとまずここは彼に任せておけば安心だ。頼れる男がいて、本当に助かった。
「行こう、アリス」
「はい、パパ。ありがとう、ミスター・ザクセン」
「礼には及ばないよ。お気を付けて、可愛いレディ」
俺はアリスを抱きかかえて、一足先にバックヤードへと向かった。
普段は立ち入ることのない、レジを乗り越え、調理場を抜けると、すぐにロッカーと事務所が兼用のバックヤードへとたどり着く。
「先輩、こっち側にはまだ、奴らの姿はないようです」
窓にはブラインドを下ろし、その隙間から外の様子を窺っていたエイミーが教えてくれる。鍵は、すでに彼女が持っている。
店長は青ざめた顔で椅子に座り、店員の女の子の手伝いで、腕に包帯を巻いているところだった。
「よし、それなら、何とかなりそうだな」
「でも、ここを出たら、何処へ?」
「あー、悪いけど、この辺は普段、通るだけで、あまり詳しくはないんだ」
「ええっ、逃げ場は決めてなかったんですかぁ!?」
「す、すまん」
とにかく、あの時は脱出しようと意見を出すことが最優先だった。錯乱したアンディーが、ゾンビに向かって撃ちそうだったし。
「エイミーは何か、候補はあるか?」
「えっと、避難所だったら、この辺の地区だったら……橋を渡った先にある、ハルバディア大学になりますけど」
「向かいのドラッグストアがいいわ」
抱っこしていたアリスが、いきなり口を挟んだ。
「あのABCドラッグ? なんで?」
平気な顔で大人の話に割り込んできたアリスに、驚いた表情のエイミーだが、俺としては、娘の意見はありがたい。
そういえば、ここのすぐ隣には、こじんまりした『ABCドラッグ』があった。全国展開している最大手の薬局チェーンだ。勿論、ウチのすぐ近くもある。
「外は他にもゾンビがいる。橋を越える前に、確実に犠牲者が出るわ。人間が全力疾走できる距離は400メートルだけど、実際に走れるのは200メートルもない。でも、あのゾンビはどこまででも走り続けられるかもしれない。徒歩で100メートル以上の距離を移動するのは危険よ」
裏口をでたら、すぐに他のゾンビに捕捉される可能性は高い。追いかけられた場合、振り切るのは難しい。足の速さにはそこそこ自信はあるが、アリスを抱えて走れば、あっという間に追いつかれるだろう。
「ここからドラッグストアまでの距離は、約50メートル。走れば、すぐに駆けこめる距離よ。他に、空いている店はないし、開く保証のある扉はない」
確かに、この時間帯ではほとんどの店はまだ閉まっている。適当な建物に駆け込んだとしても、ドアが施錠されている可能性は高いだろう。
「それに、あそこの店は入り口のシャッターさえ下ろせば、外からはほとんど中は見えない。封鎖するのは簡単。最悪、中にゾンビがいても、人数はたかが知れるから、安全も確保できる――けれど、古い造りの建物だから、最良の避難所とはいえないわね。それでも現状では、あのドラッグストアしか逃げ場の選択肢はないのよ」
「分かったか、エイミー、ABCドラッグに逃げ込むぞ」
「えっ、あぁ、はい……あの、アリスちゃんって、もしかして……凄く頭が良い感じですか?」
「ああ、この子は俺なんかより、遥かに頭がいい」
10歳児が理路整然と意見を述べれば、誰でもポカーンであろう。だが、アリスはこういう子なのだと、俺は知っている。こんな緊急事態でも頼りになる、自慢の娘だな。
「クロード、そっちの準備はどうだい?」
ロディの声が聞こえてくる。そろそろ、焦れて来たか。
「オーケーだ。奴らの動きはどうだ?」
「僕もレジの影にしゃがんで、奴らの目からは逃れている。外の奴らは、僕ら全員を見失ったようで、ウロウロし始めた」
「フラっと裏に来られたら厄介だ。今すぐ出発する。目的地は、目と鼻の先にあるドラッグストアだ」
「了解、殿は任せてくれ」
「すまない、頼んだ」
さて、それじゃあ、行くとしよう。
「みんな、話は聞いていたな? 今から、向こうにあるABCドラッグまで逃げ込む。声は出さずに、全力で走ってくれ」
皆、神妙な顔で頷く。店員の女の子も、緑のモヒカン男も、おい、アンディー、お前はもっと皆を引っ張れるよう頑張れよ、警官だろうが。
「エイミー、中に入ったら、ゾンビがいないかどうか、チェックしてくれ。俺は、シャッターを下ろす」
「分かりました、任せてください」
「よし、行くぞ」
最後にもう一度、窓から外を確認。ゾンビの影はない。飛び出すなら、今しかない。
カチリ、とエイミーが鍵を開け、俺達はマックから脱兎のごとく逃げ出した。
「ふぅ……とりあえず、上手くいって良かった」
閉じた白いシャッターの向こうで、うめき声と共にバンバンと叩く音が響いて来るが、一体だけ。力づくでシャッターを破れるほどの人数はいない。
このゾンビが避難する俺達に気づいて、道の向こうから猛ダッシュしてきた時は焦ったが、ロディがフットボール選手みたいな強烈なタックルをかましてブッ飛ばしてくれたお蔭で、無事に全員が駆け込めるだけの時間が稼げた。
「先輩、フロアにはゾンビはいません」
「よし、これでひとまずは安心だな」
シャッターの奴の他には、ここに集まってくるゾンビはいない。外からは、言葉にならないめき声と、時折、狂ったような絶叫が響いてくるのみ。
とりあえず、奴らの目を逃れ、安全地帯に逃げ込むことができたが……この異常な状況を前に、誰もが不安をぬぐえない。自然、皆は店の奥の方に集まり、疲れたようにぐったりと座り込んでいた。仕方あるまい、決死の全力疾走だったしな。誰もが、あれほど命がけで走ったことなどないだろう。
「なぁ、アレは一体、何なんだ……」
重い沈黙の中、アンディーがつぶやいた。
ここにいる全員が抱いている、最大の疑問である。
「何って、ゾンビとしか言えないでしょ、あんなの」
「分かってるよ、そんなことは! 俺は確かに見た、ナイフで滅多刺しにされた野郎が、むっくり起き上がったと思ったら、大声あげて噛み付いてきたんだ。ああ、間違いねぇ、アレはゾンビに決まってる――けど、そんなモンがどうして現れた、黙示録かB級ホラーの世界から沸いて出たってのかぁ!? 」
「おい、あまり大きな声を出すな、アンディー。外の奴らが寄ってくるかもしれないだろ」
本気でそんな当たり前の発想も浮かばなかったのか、アンディーは弾かれたように、閉じたシャッターの方を見る。
俺達の姿を見失って、諦めたのだろうか。すでに、シャッターを叩く音が聞こえなくなっていた。
「クソッ……どうしてこんなことに……どっから、おかしくなりやがった」
「異変が起こったのは、どう考えても、あの日蝕だろう。確認したいんだが、皆は、アレを見たんだよな?」
「アレって、その……太陽の影に開いた、赤い目のことですよね?」
やはり、エイミーも俺と同じモノを目撃している。
彼女に続いて、皆もぽつぽつと「見た」と証言してくれた。
「それじゃあ何か、あの目が開いた地獄の蓋ってことかよ」
「そんなオカルティックなモノだとは、思いたくないがな。集団幻覚なんじゃないのか」
「幻覚だって? じゃあこのゾンビどもも全部、幻だってのかよ!」
「近くでヤバい薬物が流出した。俺らは幻覚で済んだが、他の奴らはダメで、狂暴化した。そういうことにでもしておかないと、理解も納得もできないだろ」
「ふざけんな、あの眼鏡の野郎は確かに刺されて死んでただろうが! アレも俺らが見た幻覚だってのか」
「……そういうことに、しておけ」
「はっ、馬鹿げてる!」
「ついさっき、神がサタンに負けて、地上は地獄になりました、っていうよりかは現実的な解釈だろ」
クソ、と全く納得していない様子のアンディーだが、他にマトモな仮説も思い浮かばなかったのだろう。そのまま、押し黙った。
俺だって、本気でアンブレダ製薬が危険薬物の流出事故を起こして、幻覚症状と狂暴化を引き起こした、なんて信じちゃいない。
「あ、あのー、こういうのは薬っていうより、ウイルスなんじゃないっすかねー」
「そうそう、絶対、ゾンビウイスルだよ」
「俺らが無事なのは、ウイルスへの耐性があって――」
何かの映画かゲームで見たことあるような内容を話しだしたのは、大学生グループの男連中である。
彼らの人数は三人……ゾンビ化した眼鏡を含めれば、四人ってことになるのか。それに加えて、女子が二人で、元々は六人組みだったってことだ。
改めて見れば、三人はそれぞれチビとデブとノッポと個性的だが、揃って眼鏡をかけている。並べてみると、ゾンビ化した眼鏡が一番イケメンな気がする。
容姿的にも雰囲気的にも、これはアレか、いわゆるオタク的な子達なのだろうか。俺の後輩にも、そういうのが一人いる。眼鏡はかけてないし、もっと可愛げのある子だが。
「あー、その辺でやめておけ。これ以上、憶測で語っても仕方がないだろう」
「あっ、そうっすね」
「余計な情報は混乱を招くからね」
「真実に近づきすぎるのは死亡フラグですぞ」
コイツらは大丈夫だろうか。変な憶測を信じて、先走った真似をしなければいいが……まぁ、彼らの体つきを見る限りでは、とてもゾンビ一体に対抗できる格闘能力があるようには思えない。
ゾンビは動きこそ単調で、飛びかかってくるだけだが、容赦も躊躇もなく、全力だ。俺だって、前後から同時に襲い掛かってこられれば、捌き切れるかどうか分からない。
彼らも改めてゾンビの迫力を前にすれば、逃げ隠れする以外の選択肢は思いつかないだろう。
「そうだ、こんな状況下で、皆まだ混乱しているだろうから、とりあえず自己紹介でもしないか? これからどうするのか、考えるのはそれからでも遅くはないし、話し合うなら、その方がスムーズだろう」
「そうですね、賛成です」
すぐにエイミーが賛同してくれると、それに釣られるように、皆も了承してくれた。アンディーも、冷静ではない自覚があるのか、提案に頷いてくれた。
「それじゃあ、まずは俺から。俺はクロード・シルヴァイン。エムロード重工の工場で働いている。それなりに体は鍛えているし、格闘技の経験も多少あるが、ゾンビどもを相手に、あまり戦いたくはないな」
言い出しっぺの俺から、立ち上がって自己紹介。
先んじて、ナイフ男をぶっ倒したことから、皆も俺が少しは戦えるってことは分かっているだろう。けど、このデカい体と日頃の筋トレで鍛えた筋肉があっても、ゾンビを楽勝でなぎ倒せると思ってもらっては困る。
「こっちは、娘のアリスだ」
「アリス・シルヴァインです」
「マジで親子なのかよ、信じられねーな」
「それは言っちゃダメよ、アンディー、先輩が傷つくから」
うん、割と本気でそう言われると傷つく。
強面の大男な俺と、童話のお姫様みたいなアリスが並べば、あまりよろしくない絵面になると理解はしている。髪の色も目の色も、全く俺と異なる容姿も相まって、傍から見れば凶悪なギャングが身代金目的で可愛い女の子を誘拐、みたいに見えてしまうのも仕方がないことだろう。
でも、マジでちゃんと親子だから。街で見かけても、通報しないでくれよな。
「じゃあ、次は私。私はエイミー・マクレーン。見ての通り、警察官よ。格闘技は趣味だし、訓練も積んでいる。でも、それがどこまでゾンビに通用するかは、分からないわ」
「アンドリュー・コールマン、巡査だ。言っとくが、こんな異常事態、ただの警官の手には負えねぇ。いざとなったら、銃くらいは撃つが、あんま頼るんじゃねぇぞ」
もうちょっと市民を守る警察官としての自覚を持てよ、アンディー。なんて思うのは、一般市民という身分を盾にした横暴だろうか。確かに、こんな状況となれば、警察官なんていう肩書には、銃を所持しているという以上の意味はないだろう。
「僕はロディ・ザクセン。高校時代はフットボール、大学時代はレスリングをやっていた。けど、歳のせいかな、クロードやエイミー巡査ほど、キレのある動きはできそうもないよ」
ハハハ、と朗らかに笑うロディ。たしかに四十代といった年齢に見えるが、俺よりも大きな体は頼もしい。実際、彼の力には助けられたばかりだ。
「ああ、それと、こっちのサムは、僕の恋人だから」
サラっと爆弾発言のロディに、全員が息を呑む。彼が恋人と言って指したサムというのは、この中で最も目立つルックスである、緑のモヒカン男だからだ。
「マジかよ、ホモだったとはな」
「ゲイと言ってくれ! 俺とロディは、真剣に愛し合っているんだ!」
ドン引きしたアンディーの言葉に、サムが噛み付く。
「落ち着いて、サム。世間では、僕らのような愛は、まだまだ理解が得られないからね。分かっていたことだろう」
「でも、俺……ごめん、ロディ」
ロディが優しく肩を抱いてやると、サムは乙女チックな表情で大人しくなる。その何気ない仕草だけで、彼らが冗談ではなく本気で愛し合っているのだと、思い知らされた。
なるほど、これが世にいうベア系ゲイカップルというヤツか。
俺は差別主義ではないから、当人同士が幸せならそれでいいと思うが、あまり大の男同士でイチャつく姿を見せられるのも困る。どんなカップルであれ、恋人同士の甘い時間は二人きりだけの時にするべきなのだ。
「それじゃあ、次は――」
正直、ロディとサムの関係性が衝撃的すぎて、他の自己紹介の内容はあまり頭に入らなかった。自己紹介しようと言っておいてなんだが、俺もあまり人の顔と名前を覚えるのは、得意ではない。
それでも、今、この場に集った面々のおおよその事情は把握することができた。勿論、平日朝のマックに居合わせた人間である。特殊な事情などあるはずがない。
まず、俺とアリスは、それぞれ学校と職場へ向かう前に、朝食のためにマックを訪れた。エイミーとアンディーの警官コンビは、これから街の巡回に出るところで、先に腹ごしらえと店に寄っただけ。
ロディは俺と同じく、通勤途中に店に入ったクチだ。サムはついこの間、勤めていたタトゥーショップが潰れたので、求職中。ロディを見送った後は、面接に向かう予定だったという。その格好で、一体どこの会社の面接を受けるのかはなはだ疑問ではあるが、詳しく追及はしない。
大学生グループは、やはり、大学生であった。橋の先にあるハルバディア大学の生徒かと思ったが、違うらしい。この街の二流私立大学に通っている。まぁ、ハルバディア大学はアストリアで一番偏差値の高い超絶難関校で、世界大学ランキングでもトップ常連の、凄い学校だ。そこの生徒ではないからといって、馬鹿にはするまい。
チビとデブとノッポ、それと今は亡きイケメン眼鏡の男子と、二人の女子、このグループは大学のサークルメンバーだ。現代文化ナントカ、というよく分からん名前のサークルで、えーと、何だっけ、こういうの、オタサー、とか言うんだったか。まぁ、彼らの見た目からは妥当な所属であった。
ちなみに、二人の女子は、片方は三つ編みメガネの図書委員長みたいな子と、金髪にパーマをかけた、そばかす顔のぽっちゃりした子だ。正直、どちらも可愛いとも、美人とも言い難い。平均、平均以下……いや、これ以上は女性の容姿についてとやかく言うまい。
何にせよ、男子四人に女子二人の構成ってのは、容姿に限らずドロドロしそうなものだが、俺には関係ない。
まぁ、仲間内で、上手くやって欲しい。
それと、最後は腕を噛まれた店長と、店員の女の子だ。メンバーの中では、小太りで頭が随分と寂しくなった、何ともうだつの上がらない風体の店長が、一番年上ではあろう。しかし、負傷した彼にリーダーシップを求めるのも酷な話だろう。今はなるべく、そっとしておいてやるべきだ。
店員の子は、アルバイトで、まだ高校生だという。何と、俺と同じ高校だった。後輩である。つまり、エイミーにとっても後輩だ。急に親近感が沸く。
ちなみにこの子は、割と可愛い顔をしている。まぁ、ウチのアリスには遠く及ばないが。
「一通り自己紹介も終わったところで、これから、どうするか話し合おう」
「パパ、ちょっと待って」
さて、ここからが本題だ、と切り出したところで、真剣な面持ちでアリスがすっくと立ち上がる。
アリスのことだ、何か重大なことに気づいたのかもしれない。
「どうした、アリス」
「私、トイレに行きたいわ」
なるほど、そいつは一大事だ。急がなければ。
「パパ、怖いから、一緒についてきて」
「分かった、行こう」
すまん、と軽くジェスチャーして、俺はアリスと連れだって、その場を離れた。
「えーっと、トイレは」
「こっちよ」
同じチェーン店でも、内装は建物によって異なるから、微妙にトイレって見つけづらいんだよな。そう思っているのは俺だけなのか。キョロキョロしていると、すぐにアリスに手を引かれていく。
やってきたのは、調剤受付カウンター近くの扉。
「待て、アリス、中を確認する」
「うん」
念のため、窓に着いた小さなのぞき窓から、中を見る。ゾンビの姿はない。しんと静まり返った短い通路と、扉が三つ。その内の一つには、WCの表記。
入ったら、いきなり飛び出してくるってことはないよな。そもそも、この店に店員の姿はない。異変を見て逃げ出したか、それとも、すでにゾンビと化したのか。
「パパ、早く」
「ああ」
細心の注意を払って、俺は扉を開いて通路へ出た。バックヤードと倉庫だろうか、その二つに通じる扉と、トイレの扉に対しては、特に警戒しながら歩く。
すると、アリスは手を離して、トコトコと駆け出す。向かったのは、トイレ――ではなく、壁に設置してある、屋内消火栓であった。
「おい、アリス、何やってるんだ」
「んー、あっ、開いた。良かった、ちゃんとあったわね」
アリスはいきなり、消火栓を勝手に開いた。ゾンビは発生したが、火事はまだ起きていない。中に収納されている、ホースの出番はないはずだが。
「こういうのは、早い者勝ちだから。さぁ、パパ、持って」
と、アリスが示したのは、火を消す水流をぶっ放すホースではなく……そのすぐ脇にセットでかけられている、斧だった。
いわゆる、消防斧と呼ばれる、赤く塗られた刃が特徴的な、長柄の大斧である。
「まさか、これを取りに来るためだけに、呼んだのか」
「ううん、トイレにもいきたいわ。でも、一番の目的は、パパにちゃんとした武器を持ってもらうこと」
一切悪びれることなく、純粋な笑顔のアリス。これは一応、皆を出しぬいたってことになるのだろうか。
「これを手にしたら、パパに危険な役目を押し付けることになるって、分かってはいるの。ごめんなさい、私は弱い子供だから、戦うことはできない」
「何を言っているんだ、アリス。お前はまだたった10歳の子供だ。そんなこと、気に病む必要はない。いいかい、パパはどんなことがあっても、必ずお前を守る。アリスを守るためなら、ゾンビと戦うのなんて、怖くはない」
「ありがとう、パパ。だから、私が力になれるのは、武器を用意してあげるくらいしかできないの」
そうか、アリスなりに、俺の身を案じてのことだったのか。彼女は、ちゃんと自分が守られるだけの、無力な子供だという自覚を明確に持っている。その上で、自分にできることをやっただけ。
その賢さ、冷静さ。俺は時々、それが怖くなる。
「……そうだな、ゾンビと戦うなら、武器はあるに越したことはないよな」
アリスの言う通りにしよう。分かっている、俺がこの消防斧を手にするのが、自分と、そしてアリスにとって最も確実に安全を確保するための手段だと。
究極的に言えば、所詮は赤の他人の集まり。いざとなれば、自分のみを守れるのは自分しかいない。そして、この子を自分の命に代えても守ろうという意思を持つのは、父親である俺だけ。
ずるいかもしれない。でも、少しでもアリスを守れる可能性を高められるなら――俺は、意を決して、設置以来、一度も使われていないだろう新品同様の消防斧を手に取った。
ズシリと重い。だが、頼もしい重さだ。コイツを振るえば、人間の頭など、一発で叩き割れる。
「ねぇ、パパは、ゾンビを、まだ人間なのかもしれないモノを、その斧で殺すことができる?」
俺の心の底まで覗き込むかのように、アリスの透き通った青い瞳で見つめられた。
「奴らの恐ろしさは、すでに身を持って体験している。まだ、話し合いでどうこうできる相手だとは、思っちゃいない」
マックでは、たまたま上手く倒せただけ。正直、怖かった。分かっている。アレは、あのゾンビらしき狂った人々は、とても恐ろしい存在なのだと。
「大丈夫だ、いざという時は……ゾンビを殺す。迷いはしない」
アリスに、嘘や誤魔化しは通用しない。きっと、俺の抱える恐怖や不安なんかも、全て見抜いているだろう。
だから、ちゃんと言う。とても、10歳の子供に聞かせるべきではない、残酷な決意も、アリスには伝える。
膝をつき、小さな彼女の視線に合わせて、俺はそう答えた。
「ごめんなさい、パパ、ごめんなさい……私、パパに頼ることしかできなくて……」
「いいんだ、アリス。何も心配するな」
胸に飛び込んでくるアリスを、俺は抱きしめた。
どんなに聡明でも、この子は俺の娘だ。世界一可愛い、自慢の娘。
「パパ、愛してる」
「ああ、パパも、愛しているよ」
必ず守る。ゾンビだろうが何だろうが、恐れるものか。この子だけは、必ず守り切ってみせる。
そう、改めて覚悟を固めた、その時。
「――ま、待て! やめろ、やめてくれっ!!」
焦った男の声。これは、店長の声だろうか。
「おいおい、今度は何だよ」
その声音から、異常な気配を察した俺は、すぐに立ち上がり、消防斧を手にフロアへとアリスを連れて戻った。
「どうした、何を騒いでいる」
「クロード、お前――って、その斧なんだよ!?」
「そこの通路で見つけたから、持ってきた。いざという時のためにな。それより……どうして、店長を囲んでる」
アンディーの問いに適当に答えながらも、俺は何となく状況を察した。
壁際に追い詰められるように、腕を抑えた店長。そして、アンディーを筆頭に、大学生男子三人組が、店長へ詰め寄るような格好であった。
「だってこの人、腕噛まれてるんすよ」
「どう考えてもヤバいっしょ!」
「ゾンビに噛まれたら、感染するに決まってるでしょ常識的に考えて!」
なるほど、彼らの言い分は分かる。
俺だって、ゾンビが登場するホラー映画は見たことあるし、銃でバンバン撃ち殺しまくるゲームも、学生の頃には嗜んだものだ。ゾンビモノは、アストリアでは定番の題材である。
そこで、アストリア人なら誰でも知ってる、ゾンビの鉄則。
その一。ゾンビは走らない。
その二。ゾンビは喋らない。
そして、その三。
ゾンビに噛まれると、感染して、ゾンビとなる。
ついさっきまでは、マックから逃げ出すことに必死だったが、こうしてちょっと落ち着けば、誰でもすぐに、この考えに行きつくだろう。
「待て、落ち着け、お前ら。確かに、とりあえずゾンビと呼んじゃいるが、映画やゲームのモノと、同じように考えるのは早計だろう」
「クロード、今はもう、その映画やゲームみてぇに、死人が蘇る世界になっちまったんだ」
「だからといって、安易に疑うのか! 噛まれたら感染すると思い込んで、それで、お前ら店長をどうするつもりだ、まさか、殺すのか?」
「えっ、いや、殺すのはちょっと」
「でも、そのままにしとくのもヤバいだろ!」
「クロードさん、下手な正義感で感染者を庇うのは、死亡フラグですぞぉー!」
分かってる。俺だって、半分くらいは疑っている。だって、奴らはどこからどう見ても、フィクションの世界のゾンビそのものだった。なら、噛まれただけで、感染して、ゾンビ化してしまうことだって、十分にありえるんじゃないのか。
「ああ、そんな、待ってくれ……神様……」
咄嗟に飛び出して、俺は店長を背中に庇うような格好になっちゃいるが、もしかしたら、次の瞬間に背後から襲い掛かられるかもしれない。
普通だったら、ありえない状況。けど、噛まれて感染を信じる奴らが出てしまったし、エイミーやロディも、半信半疑だから、迂闊に止めには入れないのだろう。
まずい。まずい状況だぞ、これは。どうすりゃいい。俺はウイルス博士でも何でもないから、噛まれたら感染するのかどうか、その明確な解答を、物的証拠とセットで提示することなんて、できるはずもない。
噛まれた店長は、確かに怪しい。
だが、その疑心暗鬼に拍車をかけて、ただの怪我人なのかもしれない店長を、最悪、殺してしまうようなことになったら……きっと、俺はもうマトモな人間として、後戻りできなくなる気がする。
「クロード、そこをどけ! ソイツを庇ったって、危ねぇだけだろうが!」
「よせ、早まるな――」
「――店長はゾンビにならないわ」
緊迫した雰囲気の中、アリスの冷めた声が響きわたった。
「……おい、お嬢ちゃん、どうしてそう言い切れる」
一拍の沈黙の後、アンディーが問う。
「だって、ゾンビになってないじゃない」
確かに、店長は腕を怪我しているだけで、これといった変化は見当たらない。目が赤く光るとか、そういうことはないのだ。
「これからゾンビになるかもしれねーから、危ねぇだろって話だ」
「いいえ、ゾンビになるなら、もうなっているはずよ。刺されて死んで、ゾンビになった眼鏡の人。あの人がゾンビ化するまでの時間は、約五分。店長は、噛まれてから、すでに十分以上の時間が経過しているわ」
そういえば、あの眼鏡の大学生は、すぐにゾンビとして蘇った。ちょうど、押し寄せてきたゾンビ二人を入り口で食い止めて、店長が鍵をかけて、どうにか防いだ。そんなタイミングだ。
「いや、けど、死んでるのと、怪我とじゃ、色々、違うのかもしれねーだろ」
「そもそも、噛み付くことと、ゾンビになることに、関係性はないわ。だって、あの人は、ナイフで刺されて死んだだけ。噛み殺されたワケじゃない」
言われてみれば、その通りだ。
あのナイフ男、ようするにアイツもゾンビってことになるが……奴は手にするナイフでそのまま刺してきただけ。眼鏡には、一度も噛み付いていない。
「おい、それは、つまり……どういうことだよ」
「ゾンビと接触していなくても、ゾンビ化する可能性があるってこと。もし、この場で首つり自殺でもしたら……きっと、それだけでゾンビになるはずよ。逆に考えれば、死なない限り、ゾンビにはならない」
「いや、でもよ……」
「感染、というなら、噛む、噛まれない、に関係なく、きっと全員がすでに感染しているはずよ。例の日蝕が起こってから、五分と経たずにゾンビは発生した。噛み付く、などの接触でしか感染しないなら、この短時間であんなに沢山のゾンビが現れるはずがない」
「お、おい、嘘だろ! 俺達がもう感染しているっていうのかよ!」
「そうやって、自分の意思で喋っていられる内は、大丈夫でしょ。何にせよ、詳しいコトはまだ何も分からない。ひとまずは、万が一の危険に備えて、そうね、店長さんにはここのバックヤードにいてもらったらどうかしら。鍵もついていたから、本当にゾンビになってしまったら、そのまま閉じ込めておけて安全よ――まさか警察官の貴方が、どうしても今すぐ、彼を撃ち殺さないと安心できない、なんて臆病なこと、言わないでしょ?」
「別に、俺だって好きで人殺しがしたいワケじゃねぇよ。けど、まぁ、隔離しとくのは、確かに一番マシな提案だな」
「それじゃあ早速、案内するわ。パパ、店長さんを立たせてあげてもらえる?」
「あ、ああ……」
あれよあれよという間に、店長の処遇が決まってしまった。
だが、バックヤードに隔離しておくなら、店長の身も安全だし、皆も安心だし、悪くない解決策だろう。
ちょっと考えれば、すぐに思いつく当たり前のコトではあるのだが……ゾンビという非日常的な化け物が現れたことで、ちょっとしたことでもすぐに冷静さを失いかねない。俺も、先走って揉め事を起こした彼らを馬鹿にはできないだろう。
「う、うぅ……私は、一体どうなるのだろう……」
「申し訳ありませんが、とりあえず、今日一日はここにいてもらえますか」
「ああ、そうだな……なぁ、君、もし、私がゾンビになってしまったら、その時は――」
「落ち着いてください。アリスがゾンビにならないって言ったから、きっと大丈夫です。傷に障らないよう、部屋でゆっくり休んでてください。薬と食事は後で持ってきます。それと、もし、扉や窓からゾンビが入って来そうになった場合は、すぐに呼んでください」
「すまない、ありがとう……お嬢さん、どうもありがとう。君が意見してくれなかったら、私はどうなっていたことか」
「いえ、こうするしか、あの場を収めることはできそうもなかったので。一人だけ閉じ込めることにしてしまって、ごめんなさい」
「なに、あの雰囲気で、一発も殴られずに済んだのだから、僥倖だよ。本当に、賢いお嬢さんだ」
それから、改めて店長はお礼を言って、自らバックヤードに入っていった。一応、ここの鍵は俺が持つことにした。
「俺も助かったよ、アリス」
「パパ、ああいう場合は、何の根拠がなくても、自信満々に言い切れば、意外とどうにかなるものよ」
「はは、パパにはちょっと、真似できそうもないよ」
改めて考えれば、アリスの話は結局のところ、噛まれた店長がゾンビになるかどうかは分からないという結論になってしまう。だが、アリスは開口一番、堂々と「噛まれても、ゾンビにはならない!」と断言したことで、会話の主導権を自らに引き寄せた。
実際、アンディーが反論した「死亡と負傷とでは、ゾンビ化までの時間が異なるのでは」という意見は、可能性としては十分にありうる。
だが、アリスはこのもっともな意見を、わざと論点をすり替えることでスルーし、全員が感染しているかも、なんてわざと不安を煽り――そして、そのまま一気に店長隔離という落としどころに持って行った。
「現状では、店長さんを隔離するしか方法はないのだから、私が黙っていても、殺人にまで発展はしなかったでしょうけど」
なるほど、最初から『隔離』という答えが見えていれば、そこに着地するのはさほど難しくはないだろう。
「それでも、殴り合いにはなったかもしれない。騒ぎを大きくせずに、早期に解決できたんだから、やっぱりアリスは凄いよ」
「えへへ、もっと褒めてもいいのよ、パパ」
「はははっ、アリスは天才だ、世界一の天才だ!」
そんな天才児アリスも、ワシワシと頭を撫でてやれば、キャッキャと喜ぶ可愛い子供だ。
「ねぇ、パパ、戻る前に、ちょっと付き合って欲しいの」
ひとしきりじゃれあってから、アリスはそう切り出した。
「何だ、トイレか?」
「それもあるけど、話し合いの前に、少しは打ち合わせしておいた方がいいかなって」
なるほど、戻れば当然、議題は「これからどうするか」というモノになる。またアンディーや学生共が、不安に駆られて無茶を言い出すか分からない。馬鹿な事を、と思ったとしても、その瞬間に、俺は理路整然と彼らの意見に反論できるとも限らない。事実、さっきはあのザマだ。
「そうだな。みんなには悪い気もするが、パパもアリスの知恵を借りたいところだ」
「じゃあ、行きましょう」
俺とアリスは、今度こそ手を繋いで、トイレへと向かった。
「先輩、遅かったですね。ちょっと心配しました」
「すまん、俺も用を足してきた。一応、他の部屋の安全と、扉の施錠も確認してきた」
アリスと秘密の打ち合わせを終えて、俺は何食わぬ顔でフロアへと戻る。
店長を隔離したお蔭か、ひとまずみんなは落ち着いているように見える。外も、ゾンビのうなり声一つも聞こえてこないし、静かなものだ。
だが、言い知れぬ不安感だけは拭いきれぬ、雰囲気そのものは重たい。
「ロディはどこにいった?」
「彼なら、窓から覗き込んで、外を監視しているわ」
「そうか、ありがたい」
話しこんでいる内に、ゾンビが急に雪崩れ込んできた、では始末に負えない。ロディのフォローは本当にありがたい。
「それじゃあ、これからどうするか、話し合おう」
「どうするもこうするも、逃げるしかねーだろ」
アンディーが真っ先に口火を切る。
「今は静かになったようだが、外にはまだゾンビがウロついてるだろう」
「だからだろ、いつまでもこんな所にいられるかよ。ここは十字軍の砦でもなければ、核シェルターでもねぇ、ただのABCドラッグだ。奴らが気まぐれに群れて来たら、あんなチンケなシャッターすぐに破られる」
ここのシャッターは、ごく普通の電動式のモノだった。人一人が体当たりしたところで、少々凹むか開閉機能がイカレるか、くらいの影響しかないが……あの常に全力投球なゾンビ共が二三人ぶちあったてくれば、入れる隙間ができるくらい大きく変形するかもしれない。
「アンディー、正気なの? 私達、マックからここに駆け込んでくるだけで命がけだったのよ」
「それじゃあ、狼が来るまでこの藁の小屋で震えてるってのか、エイミー?」
「すぐに救助が来るかもしれないじゃない」
「来ないかもしれねーだろ……いや、救助なんて、アテにできねぇだろが」
分かっている、今の状況は、警察やレスキュー隊が想定する事態とは全く反している。ただの暴動だったら、いずれ鎮圧される。嵐だったら、いつかは過ぎ去る。耐えれば、必ず助けは来る。
「……無線が通じねぇ。何度やってもダメだ」
「ええっ、アンディ、本当なの!?」
「ああ、スマホも圏外になってやがる。電波異常だか何だか知らねぇが、とにかく、連絡を取る手段がねぇ」
「うわっ、マジだ!」
「おいおい、嘘だろ!?」
「うはっ、ネット使えないとか……あ、ありえないでござる……」
大学生グループは皆、スマホを手に確かめている。携帯電話が圏外なのは、やはり俺だけではないらしい。
「けど、固定電話は通じたぞ」
「先輩、本当ですか!?」
「バックヤードにあったからな。店長に110(警察)と911(レスキュー)の両方にかけてもらったが、向こうもパンクしているようだ」
何度かけても、電話に出ることができません、というメッセージが繰り返されるだけだった。
こんな状況だ、警察も消防も、電話が殺到するのは当然。地震や嵐などの災害が起これば、同じようなことが起こる。
「クソっ、それじゃあ直接、本部に戻るしかねーじゃねぇか!」
「落ち着け。電話が殺到しているってことは、今は街中、どこもパニックになっているということだろう。中央署だって、どうなっているか分からない」
つまり、ゾンビが発生して大暴れしているのは、このエンヴォルト橋一帯の、ごく
限られた地域だけではないということ。
「ええっ、それじゃあ、このセントエルス市全域が……」
「もしかしたら、アストリア全土かもしれない」
「おい、冗談だろ……」
俺だって、冗談だと思いたいさ、アンディー。けど、最悪のケースは想定しておくべきだ。
もし、あの日蝕が俺達だけが見た幻ではなく、そして、あの目が開いたことがゾンビ発生の直接的な原因であったとすれば……少なくとも、日蝕が観測できる地域は、全てこの異常な大異変に見舞われているということになる。
俺達は今更になって、目の前にある危機だけでなく、視界の外にある広い世界もまた、危機に瀕しているかもしれないという、最悪の可能性を認識した。その衝撃は、あまりにも大きすぎるためか、かえって現実感が湧かない。
「でも、これはあくまで最悪の場合だ。それに、もしアストリア全土でゾンビが発生していたとしても、上手く軍が鎮圧できるかもしれない。このセントルスに軍は駐留していないが、警察だけでも対処できる可能性だってある」
「へっ、ハンドガンしか持ってねぇ警官二人じゃあ、どうにもならなかったけどな」
「ああ、希望的観測かもしれないが、全ての希望を捨てるのも、まだ早いだろう」
結局のところ、この締め切ったドラッグストアの中にいる俺達には、この大異変の規模を図ることなどできない。電話線で繋がった固定電話しか通じず、無線もスマモもネットも封じられれば、一つ所にいて情報収集などできるはずがない。
「だから、まずはここで、三日は救助を待ったらどうだろう。リスクを冒して逃げ出すのは、それからでも遅くはないんじゃないか?」
これが、アリスと話し合った上で決めた、俺達の意見だ。
「けど、今すぐ奴らが押し寄せてきたたら、どうするんだよ」
「三日間、何もせずに黙って待つこともないだろう。いざという時の脱出路の確保に、逃走ルートの策定。ゾンビに対抗する武器の用意、色々とできる準備はあるはずだ」
ひょっとしたら、何も考えずに今すぐ逃げ出すのが唯一、生き残る可能性のある方法なのかもしれない。実は、ゾンビ達は虎視眈々とここに突入する準備を整えているだとか、あと一時間もしたら目に見えないゾンビウイルスが蔓延して、まだ生きてる人間も問答無用でゾンビ化してしまう、だとか。
可能性は、ないワケではない。
だがしかし、あくまで可能性。ソレも、半ば妄想に基づく、比較的、実現の可能性が低いモノだ。
救助の可能性。そして、逃げるにあたって万全の準備を整えること。この、二つを合わせた以上に、生存の可能性が高い選択肢は、今の俺達にはないはずだ。
「……まぁ、ここは食料もあるし、三日くらいなら、何とかなるか。けど、こんなドラッグストアじゃ、武器の方は期待できねーけどな」
「でも、着の身着のまま、逃げ出すよりかはマシだろ」
俺が手にする消防斧を掲げれば、反対意見は出なかった。ここには一本しかないが、こういう明確な武器を見れば、男なら、もう素手ではいられないはず。
「俺はクロードさんの意見に、賛成です。多分、ロディも」
最初に賛成を示してくれたのは、ベア系ゲイカップルのモヒカンの方、サムである。恋人の彼が、ロディの意見も代弁してくれた。
「あの、私も……助けを待った方が、いいと思うから」
賛成です、と小さな声だが、確かに自分の意見を表明したのは、マックのバイト少女ちゃんである。
「じゃあ、俺も賛成っす!」
「俺も!」
「エロゲで鍛えた俺の勘が、コレが生存フラグだと囁きかける!」
大学組みも、賛成で意見が統一したようだ。可愛いバイト少女に追従したようにしか見えないノリだったが、まぁいい。
「エイミーはどうだ?」
「私は先輩に従いますよ。何でも言ってください」
「お前はそれでいいのか」
「いいんです、だって私は後輩ですから」
随分と軽く、信頼を預けるもんだ。たった一年先輩なだけで、これほどプレッシャーをかけられるとは。
「アンディーは?」
「ここは自由の国アストリアだぜ。民主主義に逆らうバカはいねぇよ」
確かに、過半数はとっくに超えているが。
「一人で早まった行動は、しないでくれよ」
「一人で先走った奴が真っ先に死ぬのは、セオリーだろ?」
流石に、そこまで身勝手ではなかったか。
「それじゃあ、決まりだな」
俺達は、ここで三日間、救助を待つ。待っている間、脱出に向けての準備も整えていく。
「詳しいことを決めたいが、ここで少し休憩しよう。落ちついて、考えをまとめる時間も必要だろうからな。ただし、くれぐれも外のゾンビに気づかれないよう、静かに過ごそう。トイレに行く場合は、俺かアンディー、女性の方はエイミーに同行してもうように。安全確認はしたが、フロアから離れる時は万一に備えよう」
みんな、こっくりと頷いてくれる。
ひとまず、これで方針は固まった。良かった、意見対立と不安感で、余計な揉め事が起こらずに。
「ふぅ……アリス、どうだった?」
「うふふ、よくできました!」
疲れたように床へ座り込んだ俺は、満面の笑みを浮かべるアリスに頭を撫でられるのだった。
これじゃあ、どっちが親なんだか、分かったもんじゃないな。あまりに頼りになりすぎる娘も考え物だ。
複雑な心境ながらも、アリスに撫でられるのは、それほど嫌でもなかった。
「……くそ、繋がらない」
すでに三度目となる、機械的な電話に出ることができませんコールを聞いて、俺は受話器を置いた。
「ママはきっと、もう避難しているのよ」
「そうだと、いいんだが」
物理的に電話線の繋がった、バックヤードの固定電話だけは通話ができるということで、家族など、連絡のとりたい人は順番に使うことにした。ゾンビ対策も大事だが、まずは大切な人の安否確認を最優先したいのは人情であろう。勿論、俺もその一人。
だが、自宅にかけても、妻が電話に出ることはなかった。
「また、後でかけ直そう」
「クロードさんの家にも、私が定期的に電話をかけてみるよ」
「店長、ありがとうございます」
「どうせ、ここに一人でいるしかないんだ。何か仕事がある方が、気も紛れるよ」
俺を含め、大半の者はかけた電話に相手が出なかった。最悪の可能性も勿論あるが、ただのタイミングの問題だってことも十分にありうる。ずっとかけ続けていたい気持ちもあるが、あまり電話にばかり時間をとられていても仕方がない。
そんなワケで、各自の連絡先には、店長が一定間隔で電話をかけ、繋がれば呼ぶ、ということになった。一応、警察と消防、その他、情報が仕入れられそうな所には随時、電話することにもなっている。
希望がないわけでもない。奇跡的に電話が繋がった唯一の人物であるバイト少女は、電話に出た母親から、これから避難をするのだという話を聞いた。
どうやら、住宅街の方ではゾンビは確認されていないようだ。だが、大規模なテロが発生したとセントエルス市当局から、テレビやラジオ、そして地区に設置されたスピーカーなどから、避難指示が発令されるに至った。
バイト少女の母親は、幸いにも、家から出ていく寸前で、電話に出られたという。彼女はこれから、近所の人と共に、災害時の避難場所に指定されている中学校へ向かうと言っていた。
実は、バイト少女の家は、俺の自宅があるのと同じ地区で、距離もそう遠くない。だから、妻もすでに避難している可能性が非常に高いのだ。
ひとまず、全員が電話を終え、バックヤードからは解散している。俺もフロアに戻って、これからの準備を整えることにしよう。
「先輩、やっぱりラジオもダメですねー」
「そうか、この辺じゃもう、有線のモノしか使えなさそうだな」
バックヤードで発見したラジオを弄っていたエイミーだが、どれだけチャンネルを合わせてもザーザーとノイズがするのみで、どこの局にも合わなかったという。住宅街では発信されている避難指示も、ここでは聞くことができない。
「それで、まず何からします?」
「そうだな……まずはバリケードを作っておこう。今は近くに奴らはいないようだから、少しくらい音を立てても大丈夫なはずだ」
逃走ルートについて、のんびり話し合うのは、防備を固めてからでも遅くはないだろう。バリケードを構築するのとセットで、このドラッグストアの建物を隅々まで調べておくのも、優先的にやりたい。もし、ゾンビが侵入できる思わぬ空間があったりすれば、大参事である。
「了解でーす」
というワケで、仕事でもないのに肉体労働の時間である。
まずは、バリケードで塞ぐ場所、逃走のために開けておく場所の策定。改めて、このABCドラッグ店内を、フロアからバックヤード、倉庫、そしてトイレに至るまで調査。まぁ、平屋でこじんまりした店だから、全て見て回ってもさして時間はかからない。
その結果、当たり前のことであるが、この店の建物には、出入口は表のシャッターと裏口の二か所しか扉がないことが判明した。他に人が出入りできる場所といえば、バックヤードと通路にある窓だけ。トイレの小窓は小さすぎるし、ダクトも人が通れる太さではかった。
「裏口に鍵がかかってないから、まずはここを塞ごう」
普段から開けっ放しなのか、それともこの店の人が逃げる時に開けたのか、どちらにせよ、裏口には鍵がかかっておらず、探しても鍵は見つからなかった。
あのゾンビは、手にしたナイフで刺す、つまり持っている凶器を理解する程度の知能は残っている。多少なりとも人の知識と経験とが狂った頭に残っているなら、ドアを認識して、押す、引く、そして、ノブを回す、といった行動も勢いで自然にやってしまうかもしれない。ドアが閉まっていても、施錠していないのであれば、非常に危険だ。
「ふぅー、とりあえず、こんなもんか?」
アンディーは帽子と上着を脱いで、疲れたように言う。この程度の持ち運びで息を上げるとは、たるんでいるんじゃないのか。
裏口には、スチール製のロッカーを立て、重くなるよう、適当にモノを詰め込んでおいた。他に、椅子やら机やら、とりあえず大物を配置しておく。
工具があれば、もっと色々とできるのだが、ドラッグストアに釘とハンマー、ビスと電導ドリル、などのセットが置いてあるはずもない。仕方なく、文具コーナーにあったガムテープやビニールテープを拝借して、椅子やテーブル同士の足を括り付けて合体させとくくらいのことしかできなかった。
「脱出路は、この窓にしよう」
いざという時の脱出路に決めたのは、屋内消火栓のすぐ隣にある、店の裏手に面する窓である。
この店の裏にはフェンスがあって、正確には、隣の建物の敷地にあるのだが、ともかく、すぐ目の前にはそこそこの高さがあるフェンスが立っている。ゾンビが大挙してきた場合でも、裏はフェンスと建物に挟まれ狭い通路と化している。津波のように真正面から押し寄せることはないし、左右を塞いでおけば、時間稼ぎができるだろう。
そして、この窓を出たすぐ脇に、屋上に登るための梯子が設置してある。平屋とはいえ、軽くジャンプして登れる高さではない。店の全周囲を囲まれた時の為に、まずは屋上まで逃げ、そこから、近くの建物に乗り移る、というのが脱出する時の手筈となる。
まぁ、近くの建物に乗り移る、というのも、もう一工夫くらいしておかないと、難しいのだが。俺やエイミーなら、思い切りジャンプすれば、フェンスを設置してある隣のマンションの非常階段まで飛び移れるだろうが、アリスをはじめ、女子供もいる。スムーズに移動でき、かつ、ゾンビの追撃を妨害するような仕掛けが欲しいところだ。
とりあえず、こっちは時間がかかりそうなので、後回し。
裏口を塞いだ後は、表のシャッターを封鎖する。こっちの方は、幾つかの陳列棚を並べておけばいいだろう。俺、アンディー、ロディ、サム、この成人男性メンバーで裏口を塞いでいる間、エイミーが音頭を取って、残りのメンバーで移動する棚から商品の撤去などをしてもらっていた。
「よし、一斉に持ち上げるぞ。引きずったり、下ろす時に落としたりするなよ」
「おい待て、ちょっと休ませろ」
デカい棚を前に、ウンザリした顔のアンディーは、冷蔵棚から缶コーラを取り出し、その場で開けて飲み始めた。
「警官が真っ先に、そういう真似をしていいのか」
「非常時だ、いいに決まってんだろ。お前らも飲むか?」
好きなだけ飲めよ、とばかりに冷えたドリンクを進めてくる。お前のモノじゃないだろうが。
「どっちしにろ、この店の物資は使わせてもらうしな」
俺もコーラを拝借する。
見れば、他の者達もすでに勝手に飲み物を口にしており、大学グループの奴らなんて、チョコレートバーにポテトチップスと、好き放題だ。酒は飲むなよ。いざという時、酔って動けないのでは始末に負えない。
だらしない小休止を挟んで、シャッターのバリケードを構築する。表にある窓からエイミーが外を監視しながら、慎重に棚を並べていく。
「あぁー、クソ、疲れた。もうダメだ、やってられねぇ」
汗だくになったアンディーが、広々となったフロアにごろんと寝転がる。掃除はしてないんだから、汚いぞ。
とは言っても、俺も少しばかり疲れた。この程度の物移動なら、大したことはないのだが……やはり、ゾンビの襲来を警戒しながらの作業は、精神力を消耗する。緊張感が強いられる中、大きな陳列棚を、静かに、ゆっくり、運ぶのは中々に厳しかった。
「先輩、お疲れ様でした」
俺も上着を脱いで、シャツ一枚となって座り込んで休憩していると、エイミーが差し入れをくれた。
「もう、お昼は過ぎてますよ」
「ありがとう」
お茶とおにぎり、侘しいランチだが、贅沢は言えない。
「とりあえず、三日くらいなら、食料も飲み物も、十分に持ちそうです」
「ああ、これだけあれば、最悪、電気と水が止まっても、何とかなるだろう」
今のところ、店内に灯りは点くし、トイレも水が流れる。ライフラインはまだ、止まってはいない。だが、いつ止まってもおかしくない。覚悟と備えは、しておくべきだ。
「次はどうします?」
「逃走経路を決めておこう。ある程度の方向性を決めておけば、逃げる時も迷いなく走れるだろう」
本当にパニックになれば、右も左も分からず走り回ることになるが……できれば、そういうピンチに陥りたくはない。
「地図、ありますよ。見ますか?」
「ああ。というか、よくあったな」
「アリスちゃんが見つけてくれました」
そういえば、裏口を封鎖している時、バックヤードをウロチョロしていたのを覚えている。子供のアリスに力仕事は任せられないし、頭の良い彼女なら、余計な真似も絶対にしない。
安心と信頼の放置であったが……
「そういえば、アリスは?」
「倉庫の方にいます。多分、そこが女子の部屋になるだろうって」
「ああ、確かにな」
三日待つ、ということは、今日と明日は夜を過ごすことになる。複数の男女が雑魚寝、では精神衛生上、よろしくないだろう。
バックヤードに店長を隔離している以上、空いている部屋は倉庫しかない。女性はアリス、エイミー、バイト少女、大学生の二人、合わせて五人。狭い倉庫だが、全員で寝転がるくらいのスペースはある。
アリスは邪魔にならないよう、そこで大人しくしているといったところか。どこまでも、配慮の出来る子だ。
「アンディー、ロディ、サム、来てくれ。逃走経路を決めておきたい」
ぽつぽつと、エイミーと雑談しながら昼食を終え、三人を呼ぶ。
俺達は五人集まり、レジをテーブル代わりにして地図を広げた。
「改めて聞くが、この辺の地理に明るい者は?」
全員に確認したが、やはり、いなかった。誰もが、エンヴォルト橋を渡るために、ここを通るだけ。バイト少女はほぼ毎日マックに通っているが、この辺では遊ぶ場所もないため、近くを散策したこともないという。
周辺の地理を確認するには、今のところ、このアナログな地図に頼る他はない。
俺達は恐らく、人生の中でこれほど真剣に、自分達の住むセントエルス市の地図を眺めたことはないだろう。
アストリア合衆国、エルダーヨーク州、セントエルス市。アストリア有数の大都市となる、このセントエルスは大陸西海岸に密着するよう隣接している、小さな島だ。この島全体で、一つの市という区分けになっている。おおよそ、南北に延びる長方形のような形。本土にある隣の市は、大学名にもなっているハルバディア市だ。
セントエルスからハルバディアへかかる橋は幾つかあるが、大きなものは三つ。最大の橋は、中央部にかかるヴィクトリア大橋。次に大きいのは中央からやや南よりの歓楽街にかかるプリムエル大橋。そして三番目が、島北部、郊外の住宅街から伸びるエンヴォルト橋だ。
小さな島のセントエルス市だが、特徴的な地域がひしめきあう賑やかな島でもある。
俺の自宅は北側に広がる、中心街のベッドタウンとなる閑静な住宅街にある。ビジネスマンではない俺は中心街には行かないが、アリスをハルバディアの学校へ送るためにエンヴォルト橋を渡り、そこから戻って、島北側のトンネルを通って山を越え、島西側の工業地帯にあるエムロード重工セントエルス第七工場に到着、というのが通勤ルートである。
そして現在、ゾンビの発生といういまだに信じがたい異常事態によって、俺達はこのエンヴォルト橋のかかる郊外で、孤立無援となったのだ。
「避難指示が出ているというのなら、まずは決められた避難所へ向かうべきではないのかな?」
「その避難所が、本当に安全ならな」
ロディの意見はもっともだが、実際にゾンビの脅威を目撃している俺達としては、アンディーの意見にも頷ける。
「確かに、ゾンビに襲われたら、沢山人が集まっている方が危険かもしれない」
それこそ、アストリア人の誰もが見たことのある、ゾンビパニック映画の再現である。ゾンビに殺されれば、そこからネズミ算式にゾンビが増えていく。
「下手なとこに行くより、ぶっちゃけ、俺らだけで籠城していた方が安全かもしれねーな」
「けれど、それは本格的に街が壊滅した最悪の場合になるだろう。まだ市当局が機能しているなら、その指示に従って動くのが、僕ら市民としては最善じゃないかな。それに、みんな自分の家族は心配だろう。どの道、避難所を訪れて、家族を探すのが最優先になるよ」
「ああ、俺も妻の安否が心配なんだ。最終的には、住宅街の避難所に行きたい」
安全が保たれているなら、妻は必ずそこにいるはずだ。自分の身の安全も重要だが、みんなにも、それと同じくらい大切な人がいる。
「えーと、家族との合流を目的にするなら、やっぱりハルバディア大学には行かない方が良さそうですね」
「どうだろう、もしかしたら、ハルバディア市に実家がある奴がいるかもしれない。後で確認しておこう」
ともかく、俺達の命の次に大事な目的として、家族との合流が掲げられる。アンディーも、その意見を曲げることはできないと思ったのだろう。それ以上は、避難所へ向かう方針に反対はしなかった。
「でも、いきなり好きな所には行けねーだろ」
「そうだな、まずは、一番近い避難所に向かうしかないか」
「避難所なら、もう少し情報も得られそうだしね」
上手く警察や軍が、このゾンビパニックを鎮圧してくれるなら、俺達は避難所につけば、そのまま大人しく待っていればいいだけ。事態が解決に向けて動いているという保証があるならば、危険を冒して移動する理由もない。
「一番近いのは、どこになるの? アンディー、知ってる?」
「あー、どこだったかな、この辺なら確か……ああ、ここだ、ここ、ブルック第三中学校」
アンディーが地図で示した先は、ここから直線距離で400メートルほど進んだところにある、公立中学校である。
当然のことながら、災害時の避難所として利用されるのは、収容人数が見込める大きな建造物となる。基本的に、学校が最寄りの避難所となるだろう。
「車で飛ばせば、すぐの距離だが……」
「走れるかどうか、分からないですよねぇ」
「けど、やっぱ足はあった方がいいんじゃねーのか?」
俺の愛車である、パワフルな4WDなら、何人かゾンビを撥ねても大丈夫だろう。しかし、この状況下を思えば、通勤の車があちこちで事故って、道路そのものが塞がっている可能性は高い。
そして何より、ヴォンヴォンと高らかにエンジン音をならして走れば、ゾンビどもも気づいて押し寄せてくるだろう。
「車については、もう少し様子を見よう。三日過ぎて、周囲に全くゾンビの姿がなければ、マックの駐車場まで取りに戻ってもいいかもしれない」
車を使うリスクと釣り合うメリットがあるかどうか、慎重に考え、状況を見極めよう。俺としても、再び悪夢のマックに戻るというだけで、尻込みしてしまう。
「それじゃあ、徒歩で中学校まで向かう道を、しっかり確認しておこう」
全員で頭を付き合わせて、地図を覗き込む。
目的地となる中学校は、通勤の途中で前を通るので、場所は分かる。実際、マックから続く道をそのまま進めば、中学校の四角い校舎にグランウンドとフェンスが見えてくる。 だが、見通しのいい道路をまっすぐ行けば、ゾンビに見つかる可能性は当然、ある。実際、ここに駆け込んでくるまでの間にも、ゾンビ一体に発見されて追われたワケだし。
明らかにゾンビがいないという状況でもない限り、表通りを進むことはできないだろう。となると、裏道や住宅街を通り抜け、回り道をしていくことになる。
幸い、このブルック地区は旧市街のように複雑な道になっていない。基本的に碁盤の目状に住宅地は造成されているから、迷い込んでも、真っ直ぐ走ればどこかしら、表通りに出ることはできるだろう。ゾンビが回り道をするという知能がないのは、マック脱出で明らかとなっているので、迷いにくい道は俺達にとっては有利だな。
「先輩、もし中学校に近づけなかった時は、どうします?」
「ここに戻るくらいなら、もっと守りやすくて頑丈な建物に避難したいよな。今の内に、そういう場所もリストアップしておこう」
郊外という立地を思えば、頑丈な建物といえばマンションくらいなものだ。あのゾンビなら階段も難なく登って来られるだろうが、道路をウロついているような奴らが、わざわざ高い階段を上りに来るとは思い難い。だから、高ければ高いほど、ゾンビがいる、あるいは流入して増えている、ということはないはずだ。まぁ、高い階の住人がゾンビ化していれば、そのまま残っているだろうから、絶対安全という保障などないが。
一応、幾つか、立て籠もるのに良さそうな高さと立地のマンションを見繕って、地図の確認を終えた。
さて、次は武器の用意だが……その前に、アリスの様子を見ておこう。
しばらく放置してしまった我が愛娘の様子を窺うべく、倉庫へと向かった。
「アリス」
「あっ、パパ!」
振り返り、俺の顔を見るや、パっと笑顔の花を咲かせて、駆け寄ってくるアリス。なんて可愛いんだ。
と、普段ならその感想だけで終わるのだが、俺は彼女の背後にある、物騒なモノに目がいってしまった。
「なぁ、アリス、アレは――」
「パパはバリケード作りに忙しそうだったから、先に武器を作ってみたの」
夏休みの自由工作を自慢するように、アリスはギラついた刃のついた武器を俺に紹介してくれた。
「これは、槍か」
「うん、ゾンビが相手なら、なるべく距離を取って戦いたいでしょう」
道理だ。それに、素人が使うなら、ただ突き刺すだけの槍の方が扱いやすい。
穂先は包丁で、柄はモップ。
包丁は商品にあったし、モップは……この長い柄のタイプは商品にはなかったはずだが、この使い込んだ感じからして、フロア清掃用の店の備品だろう。
ただ包丁をテープでグルグル巻きにして止めてあるチャチな造りではなく、モップのブラシ固定部分の金具と、他の何かから流用してきたのであろうパーツを組み合わせて、きつくボルトで固定できるようになっている。
「大したもんだ。流石はアリスだな」
「彼女も手伝ってくれたわ。結構、器用だから、助かったわ」
えへへ、とはにかみながら、バイト少女が手を振ってくれた。高校生なのに、十歳児にこき使われるとは。ウチの娘が、どうもすみません。
「一番刃の大きい包丁は、残してあるわ。穂先にするより、サブウエポンとしてそのまま使った方が良さそうだったから」
アリスはすでに、店中の刃物をここに集めているようだった。槍に使われた包丁は、実際には果物ナイフみたいなものだろう。それなりの刃渡りがある文化包丁は、まぁ、ドラッグストアで売られているのだから、安物の量産品だろうが、それでもきちんとした刃物は、武器としての信頼性を感じる。
ここがホームセンターだったら、工具を含めて刃物も鈍器も多様な品ぞろえだったが……日用雑貨のレベルに留まるドラッグストアでは、この一種類の文化包丁と果物ナイフが限界だ。鈍器として利用できそうな、重量のある物も見当たらない。槍を拵えるのが、精一杯だろう。
「パパ、学生の子達がヘアスプレーとライターで火遊びしそうだから、釘を刺しておいて欲しいわ」
「分かった、よく言っておこう」
気持ちは分からないでもないが、アレをいきなり実戦投入されるのは危険だ。近くで自爆されたら、堪ったものじゃない。
殺虫剤やヘアスプレーなど、可燃性のガスが入ったスプレー缶をライターの火に噴射して火炎放射、というのは誰でも知ってるだろうが、アレは本物のように轟々と炎の帯が伸びるワケじゃない。確かに火は噴くが、射程は短い。向かってくるゾンビに噴きかけるくらいなら、包丁を振り回した方がマシだろう。
「でも、ゾンビ相手に火が有効なのかどうか、検証はしておきたいわね」
「そういう真似をせずに済めばいいんだが」
本格的にゾンビとの戦いを考えなければいけないということは、すなわち、救助が全く期待できないということである。
「あと、花火とか肥料とか消毒用エタノールとか、爆弾作れそうな材料も、よく見ていた方がいいわ」
「ああ、そうだな」
こんなところで爆弾なんか自作しようとしたら、ゾンビを吹っ飛ばす前に、自分が怪我する可能性の方が高い。素人が安易に手を出していいものではない。
「……アリス、俺はこれから隣のマンションを捜索しようと思う」
「うん、パパなら、ジャンプすれば非常階段まで届くわよね」
「ああ。脱出路を確保するために、こっちと向こうに、何かしら足場を用意しておかなければいけないからな」
三日を迎える前に、この脱出路の確保はやっておかなければいけない。日が暮れるには、まだ少々、時間もある。早い内に、済ませておきたい。
「パパ、行くなら、これを持っていって」
アリスが、ジャラジャラと細かい金属パーツを、俺に差し出す。グネグネと曲がった針金のようなモノと、柄がカラフルなプラスチックになっている、オモチャみたいな精密ドライバー、などなど。
「もしかして、ピッキングツールか」
「パパは使えるんでしょ?」
「……何で知ってる」
「昔は結構ワルかったんだって、ママから聞いたことあるの」
や、やめてくれ、愛娘に昔のヤンチャ自慢だなんて、恥ずかしすぎる!
「そんなことない、パパはどこにでもいるごく普通の中学生だったよ」
「ふーん、ごく普通の中学生って、不良の溜まり場の裏口をピッキングで開けて、奇襲をかけたりするものなのね」
「ごめんなさい、今は反省しています」
「大丈夫、もうとっくに時効だわ」
喧嘩だけで、盗みや恐喝とかはやってない。あの頃は、不良をブッ飛ばして勝つことが、最高にカッコいい男だと信じていたんだ。それで、妻が振り向いてくれると、本気で思っていた……いやぁ、ホントに、男ってバカだよな。特に、男子中学生は。
「とりあえず、ありがたく使わせてもらうよ」
「うん。隣のマンションは一階がガレージになっていたし、役に立ちそうな物も見つかるかもしれないから」
このピッキングツールがあれば、チャチな鍵なら開けられるだろう。何かお宝が見つかればいいが……っと、空き巣根性なんて抱いてはいけないな。
「それじゃあ、行ってくる」
「待って、パパ」
今度は何だ、と思いきや、アリスが抱き着いてくる。
「少しだけ、このままでいさせて」
俺はただ、愛していると囁いて、小さな彼女を抱き返した。
「……やはり、周囲にゾンビはいないようだな」
「そうですね」
午後三時。俺とエイミーはABCドラッグの屋上へとやって来た。多少なりとも高いところへ出たついでに、ぐるっと周囲を見渡してみるが、ここから見る限りでは、動く人影は見当たらない。
だが、あの通りを一つ越えたところ、あるいは、そこの家屋の影に、奴らが潜んでいないとも限らない。
「それじゃあ、行くか」
「はい、先輩」
メンバーの中で、最も運動能力に自信のある、俺とエイミーのコンビが、隣のマンションへ飛び移ることになった。ここから、迫るように裏手に立つマンションとはかなり距離が近い。非常階段目がけてジャンプすれば、十分に飛び移れる。
まず、大きな手荷物となる、消防斧を非常階段へと投げ入れた。ガランガラン、と音を立てて無事に着地。音に気づいて、ゾンビが飛び出してくる……ということもなかった。
「――っと! いざやると、緊張するもんだな」
「そうですか? 私はちょっとパルクールも齧ってるんで、これくらいはそれほどでも」
どうにか飛び移ることに成功して、感想を語る。
パルクールって、たしか街中でやる障害物レースみたいなヤツだろう。フリーランニングとも言うんだったか。
「相変わらず、お前は何でもやるな」
「色々、お付き合いってのもありますので」
「大変だな」
「そうでもないですよ、パルクールは楽しいですし。今度、先輩も一緒にどうですか?」
「今やったので、十分だ」
ゾンビから逃げるために、跳んだり跳ねたりするのは御免だ。そうならないように、精々、気を付けよう。
「よし、まずは安全確認だ」
「了解です」
消防斧を手に、俺は非常階段の扉を開き、まずは二階のフロアへと出る。さほど大きくはない、四階建てのマンションだ。全ての部屋を見て回ったところで、そこまで時間はかからないだろう。
このマンションの状態によっては、ドラッグストアから、こっちに拠点を移すことになるかもしれない。平屋のACストアよりも、四階建てマンションの方がゾンビの侵入は防ぎやすいだろう。階段も封鎖すれば、最上階まで上がってくるまでの時間稼ぎもできる。
見極める意味も兼ねて、よく、確認しておかなければ。
「それで……どうします?」
「まぁ、インターホンを鳴らしてみるしかないだろう」
当たり前のことだが、マンションの住人がいる可能性は非常に高い。例の日蝕を見て、いきなりゾンビ化してしまったかもしれないし、そうでもないかもしれない。無事な住人がいるならば、話はしておくべきだろう。
というワケで、意を決して、ピンポーン。
「出ませんね」
「ああ、鍵もかかっているし、すでに外出したんだろう」
この辺は謎の電波障害のせいで、避難指示は誰も聞くことができないはず。部屋にいて異常を知ったのなら、そのまま鍵をかけて引き籠るか、どこかへ逃げようとするか、行動は限られる。
とりあえず、二階の部屋は全て鍵がかかっていて、インターホンを鳴らしても、誰も出なかった。ピッキングして、中に踏み込む必要性はないので、とりあえず次に進もう。
「次は三階でいいか」
「一階は後回しで?」
「一番ゾンビがいる可能性が高いからな……上の安全確保ができていれば、後顧の憂いも断てるだろう」
一階で戦闘になった場合、上の方からゾンビがやって来られたら堪らない。まぁ、上で戦えば、一階の奴らが登ってくる可能性もあるので、どっちもどっちな気がするが。
ともかく、俺達は三階も同じようにチェックをしていく。
「誰もいませんね」
「慌てて逃げ出したんだろうな」
三階には、一つだけ扉が空いたままの部屋があった。中は、空き巣でも入ったかのように、随分と散らかり、あちこち引っ掻き回したような形跡が見られたが、十中八九、ゾンビの存在に気づいて、逃げ出したのだろう。
他の部屋は、二階と同じく施錠されていて、鳴らしても誰も出なかった。
非常階段とは別の、本来の階段である中央階段を通って、最上階にあたる四階に辿り着く。
俺は何も考えず、近くの扉に手をかけた。鍵はかかっている。インターホンを鳴らす。
「ァアアアアアっ!!」
ドアの向こうから聞こえた、その声に、俄かに緊張感が走る。
いる、ゾンビが。けど、この声の感じからして、違う、この扉じゃなくて、隣の――
「キョァアアアアっ!」
バァン、とけたたましく扉を開いて、俺の立つ、隣の部屋からゾンビが飛び出してきた。
長い髪をふり乱した、女性。エプロン姿の若奥様といった出で立ちだが……エプロンにはドス黒い返り血がべったりと付着し、その手には血塗れの包丁が握り絞められていた。
武器持ち、か。いきなり、危険な相手だ。
「先輩!」
あえて、エイミーを庇うように俺は前へ出る。
「キィイイェエエエイイっ!!」
問答無用で、飛びかかってくる女性ゾンビ。それなりに整った顔立ちの彼女であるが、今や完全に理性も正気も失い、憤怒の形相に美貌を歪めている。その真っ赤に光る赤い眼に、俺の姿は一体、どのように映っているのか。
「――オラァっ!!」
気合一閃。思考も迷いも、何もかも振り払って、俺はただ無心に、消防斧を叩きつけた。相手は包丁。恐るべき刃物だが、俺の武器の方がリーチは長い。振るえば、先に斧の刃が届くのは道理。
肉と骨を打つ、鈍い音。耳をつんざく奇声も、その瞬間にぶっつりと途切れる。
即死……ってのは、当然か。俺のような大男が、全力で斧を振りおろし、脳天をカチ割ったのだ。前のめりに倒れた女ゾンビの頭部はバックリと割れ、そこからドロリとした――
「はぁ……はぁ……く、クソッ……やった、ついに、やっちまった……」
覚悟はしていた。アリスを守るためなら、この手を血に染める決意は、十分に固めてきた。
お蔭で、俺はこうして斧を振るえた。やったぜ、ゾンビを一撃でぶっ殺してやった。
だがしかし、いざ物言わぬ死体と化した女性を見ると、俺は途端に言い知れない恐怖と不安とに襲われる。
やったのか、本当に、俺は……人を……
「先輩! 大丈夫、大丈夫ですよ……先輩は、やるべきことを、やったんです。私のことを、守ってくれました」
エイミーが後ろから抱き着いてくる。ついさっき、アリスを抱きしめたのとは違う。ギュっと、きつく、彼女の細身ながらも引き締まった両腕が、俺の体に絡む。
荒い息を吐くだけで、冷静さを欠いているのは明らかだったのだろう。ちくしょう、後輩に、格好悪いところを見せてしまった。
「あ、ああ……エイミー、俺は大丈夫だ」
「本当、ですか?」
「覚悟の上で、やったことだ。流石に、ちょっと動揺しちゃいるが……すぐに、収まるさ」
「じゃあ、それまで、こうしています」
背中に感じるエイミーの柔らかな感触を、途端に意識してしまう。落ち着け、俺は、こんな時に、いや、こんな時だからこそか。命の危険を感じると、子孫を残そうと生存本能がどうたらこうたら、聞いたことあるけど、そういうの、今はマジで勘弁して欲しい。
「……俺は大丈夫だから、離れろ、エイミー。こんなところ、妻に見つかったら殺される」
「今は誰も見てないから、大丈夫ですよ」
「ええい、冗談の通じないヤツめ。いいから、早く再開するぞ。いつまでも抱き合ってたら、陽が暮れちまう」
「私はこのままでも……なんて、もう大丈夫そうですね」
うふふ、と俺の体を放したエイミーは、ちょっと小悪魔じみた笑みを浮かべていた。
全く、コイツは自分の魅力を理解しているのだろうか。俺じゃなかったら、絶対に勘違いしている対応である。
「ありがとな、エイミー。お蔭で、落ち着いたよ」
「いえいえ、今度は先輩が私のこと抱きしめてくれれば、それでいいですから」
「そうならないように、努力はするさ」
ゾンビ相手だと割り切っていても、やはり、殺人への抵抗というのはデカい。エイミーにまで、余計なモノは背負わせたくない。
「もう、鈍いんですから」
「何だが」
「何でもないです――それより、この部屋、どうします?」
ゾンビが飛び出してきたのだ。当然、扉は開けっぱなし。中に入れる。
「確認するしかないだろう」
「ですよね」
嫌な予感はしていた。
けれど、現実を目の当たりにすると、俺は、いや、俺達はすぐに後悔することになる。
「なんてこった」
「ひ、酷い……」
リビングのど真ん中に、赤ん坊の死体が転がっていた。どれだけ刺されたのだろう、胴体がボロボロになり、半ば千切れかけている。
ドス黒く変色し、乾き始めた血の海からは、点々と血の足跡が続いている。そこの行きつく先は……ついさっき、俺が倒した女ゾンビの足である。
この部屋で一体、何が起こったのか。これ以上、考えたくはなかった。
「なぁ、エイミー、思ったより、状況は最悪なのかもしれないな」
「そう、ですね……」
とりあえず四階のチェックを終えてから、俺とエイミーは階段に座り込み、ぐったりしながら話していた。
「くそ、何がゾンビだ……あんなの、地獄の悪鬼じゃねぇか」
母親が、我が子を殺す。それも、まだ赤ん坊だぞ。
悪夢の妄想が、俺の脳裏を過る。あの母親が、俺の愛する彼女であったなら。あの惨殺死体が、アリスであったなら……考えたくもない。
あの家の表札には、父親の名前もあった。すでに仕事に出ていたから、家にはいなかったのだろう。もし、彼が生きていて、この惨状を知ったら、どう思うだろうか。そして、もし俺が彼の立場になってしまったら……
「先輩、行きましょう」
「ああ、さっさと終わらせよう」
やるべき仕事がある、というのはこういう時にはありがたい。俺も、妻と割と深刻な仲違いをしてしまった時なんかは、仕事に集中して気を紛らわせたものだ。
俺は余計なことを考えず、けれど、消防斧を固く握り絞めながら、一階へと降りてきた。
幸い、ゾンビの姿は見当たらない。オートロックの自動ドアはよくある透明のタイプで、外は丸見え。この入り口前を通るゾンビもいないようだ。
「あっ、先輩、ガレージの扉、閉まってますよ」
「仕方ない、試してみるか」
一階からガレージに繋がる扉は、流石に個人が使用するものだからか、施錠されていた。ピッキングなんて中学以来、ってこともないか。うっかりロッカーの鍵を失くした時、仕事場から使えそうな工具を集めて開けたのは、去年だったか。
かといって、本職の鍵屋でもない俺に、開錠できる鍵など限られてくるのだが……アリスの加護でもあったのか、思いのほか、あっさりとガレージの鍵は開いた。
「おお、先輩、やっぱり中学の頃ワルだったという噂は、本当だったんですね」
「頼むから、深く追求しないでくれよ」
「大丈夫ですよ、私、ちゃんと目はつぶっといてあげますから」
「警官のお前が言うと、冗談にならないぞ」
みんなして俺の黒歴史を暴こうとしやがって。憤然やるかたない思いで、俺はガレージの捜索を始めた。
マンションの探索結果は、上々であった。
ガレージには長めの脚立があり、最大まで伸ばせば屋上と非常階段の間に、ギリギリでかかる。これを伝って行けば、アリスもドラッグストアから、このマンションへ移動ができるだろう。もっとも、すぐ後ろからゾンビに追いかけられている状況では、貧弱な足場である脚立を渡れるだけの猶予はないが。
それと、ガレージには武器になりそうな工具もあった。
手斧、鉈、園芸用の鎌、バールが一本ずつだが、ないよりはマシだ。残念ながら、消防斧は見つからなかった。
俺は鉈を貰い、エイミーは手斧、ロディはバール、サムは鎌を持つことに。アンディーは銃があるから、別にいらないと言っていた。
一応、これで全員が武器を持つことになる。アリス謹製の槍は三本あり、エイミー、ロディ、サムが持ち、包丁は学生男子三人組に配った。一応、バイト少女と学生女子二人にも、小さな果物ナイフは持たせてある。物騒ではあるが、この状況下では致し方ない。
なにせ、俺はすでに、あのゾンビと言うほかない、正気を失った人間を一人、殺してしまったのだから。半分は正当化かもしれないが、それでも、改めてあのゾンビを目の当たりにすると、殺すより他に、止める手段はないと実感する。
ともかく、俺達はこの平和な日常が一変した、最初の一日を終えることとなった。
「電気は全て消そう。なるべく、外に灯りはもれないように、注意してくれ」
日暮れの直前に、そう決めて、各自、就寝につく。
ゾンビは少なくとも、目で見て獲物を捉えている。ならば、夜中に煌々と灯りが灯っているのを見れば、虫のように集まってくる可能性は高い。夜の闇にまぎれて、息を潜めて過ごすより他はないだろう。
勿論、見張りは交代で立てるし、いざという時に備えて、全員がドラッグストアの商品である懐中電灯を持たせている。出来たばかりの脱出路も全員にしっかりと見せているので、まぁ、大丈夫だと思いたい。
「……」
夜中の二時。割り当てられた見張りの時間を、一人で過ごす。
アリスはエイミー達、女性陣と共に倉庫で眠っている。男はフロアで雑魚寝。ただ、アンディーだけは裏口のバリケードに使ったソファで横になっていた。まぁ、そっちにも人はいた方がいいだろう。
全員の寝具なんて、ドラッグストアにあるはずもない。だから、日が暮れるギリギリに、マンションにあったマットレスや毛布などを慌てて運び込んだ。脚立の足場しかないから、かなり大変だったが、まぁ、なんとかなった。
外は静かなもんだ。不気味なゾンビの呻き声は聞こえてこない。車が走る音さえしない。こんな状況だ。流石に、夜中に車で爆走しようなんて思う奴はいないだろう。
聞こえてくるのは、ささやかな夏の虫の鳴き声と……たまに、ウォーン、と狼の遠吠えのようなものが遠くから響いてくる。セントエルスには野生の狼どころか、野犬さえいない。主を失った飼い犬が、吠えているのだろう。
静かな夜闇の中、一人でじっとしていれば、とりとめのないことばかり考えてしまう。俺はこんなところで、一体何をしているのか。この先どうなってしまうのか、どうすればいいのか……
「クロードさん、交代の時間ですよ」
俺が起こすまでもなく、次の見張り役であるサムが声をかけてきた。
時間通りに起きたというより、あまり眠れなかったのだろう。緑のモヒカンも、どこかしなびて見えた。
「それじゃあ、後は頼む」
「はい、ゆっくり休んでください」
全く外見に似合わぬ丁寧な台詞だが、妙に慣れた感じもする。根は良いヤツなのだろうか。サムは真っ先に問題を起こしそうな危ない男に見えるが、男メンバーの中では大人しい。言うことも常識的だ。人は見かけによらない、のお手本みたいだな。
そんなサムに見張りを交代し、俺はあまり眠れる気もしなかったが、大人しく薄い毛布をかけて横になる。
幸い、夜中にたたき起こされることもなく、俺達は無事に、次の日の朝を迎えた。
そして、朝一で問題が発覚。
「……電気が止まったか」
「先輩、水道もダメですね」
「これじゃあ、ガスも止まっているだろうね」
地震ではないが、ゾンビの発生は十分に大災害と呼べる。ライフラインが止まるのは、当然の結果だ。
しかし、これも予想されていた事態である。俺達の方針は三日、一夜明けたので、もうあと二日は救助を待つことなので、慌てて動く必要はない。ライフラインが止まっても、二日くらいは持つ。
ただし、問題はやはり、救助がこない場合……そして恐らく、この可能性は高いだろう。
地震に襲われたワケではないから、電柱が倒れたとか、水道管が破裂したとか、ガス漏れしたとか、そういった設備の破損は起こっていないはず。それでもライフラインが止まったということは、止めざるを得ない緊急事態になっているということ。あるいは、動かす人間そのものが、いなくなってしまったか。せめて、避難をしたのだと信じたい。
ともかく、止まってしまったのはどうしようもない。俺達は、今自分にできることをやろう。
「拠点を隣のマンションに移そうと思う」
電気の灯らない薄暗い店内で、俺は全員を集めて提案した。
反対意見は出なかった。すでに昨日、俺とエイミーでマンションの安全は確保済み。誰も、このドラッグストアにこだわる者はいなかった。
「当初の予定通り、救助を待つのはあと二日。けど、それ以上の時間、屋内に立てこもることになるかもしれない。そのつもりで、準備しよう」
というワケで、移動が始まった。
まずは俺とエイミー、それに加えて、アンディーら他の男も加えて、昨日は鍵がかかっていたから開けなかった、部屋の中全ての探索から始める。チャイムの音だけでは、反応しなかったゾンビ、あるいは、生存者が居留守を使った可能性もある。拠点にするなら、全ての部屋を検めておかなければいけない。
鍵はピッキング、というワケにもいかなかった。流石にマンションの部屋のドアは、ちょっとガチャガチャしただけで開くほどチャチな鍵ではない。空いている部屋から、ベランダの非常用パーティション、蹴破り戸、とか言うらしいが、それを蹴破れば侵入できる。今は正に非常時なのだから、蹴破ったところで文句は出まい。
それじゃあ早速、と試す前に、一応、管理人室を訪れてみれば……あっさり、マスターキーを発見。ない場合も多いらしいが、今回は幸いだった。
マスターキーのお陰で、全ての部屋を検めるのは一気にはかどった。やはり、昨日俺が殺した女性のゾンビの他には、誰もいなかった。
この作業も昼前には完了し、いよいよ全員の移住となる。
「アリス、気を付けるんだぞ。下を見るんじゃない。大丈夫、パパがついている」
「もう、パパったら、心配しすぎよ」
脚立の上を渡るアリスを、俺はハラハラしながら見届けたものだ。俺の方が遥かに緊張してしまった。
ちなみに、一番手こずったのは、大学生の女子二人組である。男子連中が声援を送っていたが、勝手にやってくれ。
「……クロードさん、すまないね」
「いえ、店長は大丈夫ですか?」
「今のところ、ゾンビになりそうな気配はないよ」
乾いた笑いを浮かべる、ゾンビウイルス感染疑惑の店長は、最後に渡ることになった。彼の申告通り、見た目には異常はない。傷口が妙に変色しているだとか、目が赤く輝き始めただとか。
丸一日、無事に乗り切ったことで、よくあるゾンビモノのように、噛まれれば一発感染、即発症、ではないことが半ば証明されている。もしかすれば、店長だけが稀少なゾンビウイルスへの抗体持ち、なんていう奇跡のような可能性もなきにしもあらずだが。
「申し訳ないですが、もうあと二日は」
「ああ、分かっているよ。その方が、みんなも安心だろうから」
マンションの空き部屋は沢山ある。バックヤードと同じく、店長には適当な一室で、鍵をかけて過ごしてもらう。
さて、これで無事に全員、マンションへの移動が完了したワケだ。それじゃあ、昨日に引き続き、バリケード作りに励むとしよう。
「あの、クロードさん、ちょっといいですか」
そう切り出したのは、サムであった。
「どうした?」
「俺、料理、作ってもいいですか」
いきなり何を言いだすのかと思ったが、とりあえず理由は聞いてみる。
「えっと、電気止まってるし、冷蔵庫の食材は早く使った方がいいですよ。それに、美味しいモノを食べた方が、元気も出るっていうか」
「けど、もうガスも止まっているんじゃないか?」
「あ、それは大丈夫ですよ。このマンション、プロパンですから」
渡ってくる時に、灰色のガスボンベが設置されているのを見たという。言われてみれば、確かにあった。
都市ガスだったら、直接ガス管から引いているので、電気や水道と同様に、災害時は大元から遮断できる。だが、プロパンガスは建物に専用のガスボンベを設置してあるから、その容量分だけ使うことができる。
もっとも今の状況では、ボンベを使い切ったらガス会社に連絡しても、補充に来てくれることはないだろうが。
「一応、聞いておきたいんだが……料理、できるのか?」
「俺、調理師免許持ってるんで、一通りは」
マジかよ、人は見かけによらない、って、何度目だこの感想は。
「美味しい料理もいいけど、今の内に保存食を作っておいた方がいいと思うの」
いきなり横から口を挟んできたのは、アリスである。
「できる?」
「任せてよ、アリスちゃん。どんな食材でも常温保存で三ヶ月は持たせてみせるよ、俺!」
「素晴らしいわ」
笑顔でパチパチするアリスと、得意げな顔のサム。
どうやら、決まりのようだ。
「最悪の事態を想定すれば、食料はあるにこしたことはない。サムに任せる、すぐにとりかかってくれ」
電気が断たれた以上、冷蔵庫にある生鮮食品はすぐダメになる。少しでも食材を無駄にしないためには、今すぐ保存食への加工が必要だろう。
サムをリーダーとして、力仕事に向かない女性陣に料理を担当させる。
それじゃあ、残りの男性陣は、力仕事に専念するとしよう。
それから、バリケードの構築で一日を費やした。一階の正面玄関とガレージは、完全に封鎖。自分達が出入りする前提にはしていない。
外へ出る場合は、二階の窓か、再び非常階段からABCドラッグに戻るか。
二階の階段は、いざという時は即座に封鎖できるようなバリケードの組み方をした。その分、一階よりも脆いが、ここまで侵入を許した時点で、この拠点は放棄せざるをえないだろう。
脱出ルートは、三階と四階、両方で確保した。とはいっても、火災用の避難梯子だけだが。
「あー、クソ、めっちゃ疲れた……」
夕方になり、作業を終えて撤収すると、相変わらずアンディーがぼやいていた。しかし、流石の俺も、疲れを感じている。
今日は女性陣の方も、サムの保存食作りに忙しかったようだ。各部屋から食材を集めてくるだけでも、それなりの労働である。塩漬けやらオイル漬けやら干物やら、本当に色々と作ったようだ。
昼食も夕食も、どちらもサムの手料理で美味しかった。彼の料理の腕は間違いない。料理関係と食材の管理は、彼に一任すべきだと誰もが納得した。
ひとまず、拠点化作業は順調だ。見た限り、ゾンビの姿もほとんど見かけない。三回ほど、通りの前をフラフラ歩いている奴を見かけたくらい。咄嗟に、全員で息を潜めたが、こちらには全く気付かず、とぼとぼと歩き去って行った。
隠れている人間の居場所を正確に察知する、みたいな能力はやはりないようで、一安心である。ひっそりと隠れ住んでいる分には、奴らの目を逃れられそうだ。
「パパ、お疲れ様」
「ただいま、アリス」
作業も夕食も終えて、俺とアリスは四階の部屋へとやって来た。
全員同じ場所で固まっていた方がいいのかもしれないが、ただでさえ息の詰まる避難生活だ。空き部屋は沢山あるのだから、折角だから好きに利用させてもらうことに。
部屋の割り当ては、俺とアリス、ロディとサム、大学男子三人、大学女子二人とバイト少女、それとエイミー、アンディ、店長、はそれぞれ単独、となっている。このマンションは一つの階に部屋が六つ。四階の一室は、例の女ゾンビと赤ん坊の死体を安置して封鎖しているから、使えるのは五部屋。死体と同じ階に、という忌避感はあるものの、安全性では最上階が一番ではある。
結果、女性陣は四階、男性陣は三階、という割り振りに決まった。俺が四階にいられるのは、アリスがいるからだ。
「まだバリケードも完全じゃないし、やることは沢山ある。明日の朝も早いから、早く寝よう、アリス」
「はい、パパ」
夜の帳がおりても、電気がつかない暗い部屋の中、懐中電灯だけを頼りにベッドにはいる。俺達の利用している部屋は、家族だったに違いない。夫婦用のダブルベッドがある寝室と、明らかに子供部屋と思われる一部屋。食材目当てで台所回りしか漁っていないから、家主の写真などは見ていない。見るつもりもない。つらくなるだけだ。
不安を押し殺し、俺はアリスとベッドに寝転ぶ。娘と一緒に寝るなんて、いつぶりだろうか。少なくとも、アリスが今の学校に入学してからは、一度もないような気がする。
「ねぇ、パパ」
「どうした、アリス」
「私、今日はゾンビを解剖してみたわ」
「なっ!?」
突然の爆弾発言に、言葉を失う。
「パパが倒した、女性のゾンビよ。頭部が真っ二つに割れていたから、中を覗くにはちょうどよかったわよ」
何故、どうして、そんな危ないことを……だがしかし、俺はアリスの天才性を知るが故に、口を挟めなかった。ただの子供が興味本位でやってはいけない、とんでもないことだ、なんて普通の十歳児を持つ親のように、俺は頭ごなしに叱れない。
「……アリス、大丈夫だったのか。下手すれば、感染したりとか」
「感染しない、と最初に言いだしたのは私よ。ちょっとくらい、血肉に触れても何ともないわ」
それだって、憶測でしかなかっただろう。
いや、けれど、ただでさえゾンビについて何も分からない現状だからこそ、アリスは解剖によって少しでも情報を得ようと思ったのだろう。
「けど、無茶なことをする……せめて、一言相談してくれれば」
「言ったら、パパは止めるでしょう。それに、他の人が聞いても、止められると思う」
「だから、黙って一人でやったのか」
「ごめんなさい。勝手な行動をしたことは、謝るわ。けれど、どうしてもゾンビについて調べなければいけなかったの。パパがもっと、ゾンビと戦わなければいけない時が来る前に……」
「ああ、分かってるよ、アリス。アリスは賢いから、よく考えた上で行動したんだってことは」
けれど、それでも心配なものは心配だ。そして、ただそれだけの感情でアリスの行動を止めるのは、くだらない感情論で、生き残るための最善策ではない、ということも、理解している。
「アリス、次は何かしたい時は、必ずパパに相談しなさい。危ないから、と安易に反対したりはしない。アリスが言い出すことなら、必ず意味があるだろう」
「パパ……」
「父親としては情けない限りだが、天才のアリスは、ただの子供ではなく、知恵を借りるべき仲間として扱うべきなんだ。だから、相談してくれ。パパは必ず、アリスの力になる」
「ありがとう、パパ……ありがとう、私のことを、認めてくれて……」
ベッドの中で身を寄せて、ギュっと抱き着いてくるアリス。こんなに小さな娘にまで、頼らなければいけない現状が、本当に悔しい。
けれど、目の前の娘を守るだけで、精一杯なのが今の俺だ。この国が、いや、世界がどうなっているのか、ただの工場員に過ぎない俺に分かろうはずもない。
「……ねぇ、パパ、少しだけ、ゾンビを解剖して分かったことがあるの」
「ああ、教えてくれ、アリス」
しばらく抱き合った後、俺の胸の中で、アリスは語り始めた。
まず、彼女はひそかにABCドラッグへと戻り、解剖の準備を整えたという。ドラッグストアだから、マスクや医療用のゴム手袋なんかも置いてある。それに雨合羽を着れば、多少の返り血は気にならない。切るための刃物は、部屋で調達したという。
「目に見えて異変が分かったのは、やっぱり頭部。パパ、あのゾンビの目元に浮かぶ血管のようなものの中には、何が入っていると思う?」
「そりゃあ、血じゃないのか」
「ううん、血によく似た、別の赤い液体が入っていたわ」
それは、血液に似た色合いだが、酷くネバネバしたゲル状の液体であるらしい。
「血が変化したのか?」
「少なくとも、全く別の成分に変わっているのは確かだわ。酸性だったから」
人間の血液って、アルカリ性なんだっけ?
「人の血液は弱アルカリ性よ。ペーハー値は7.4」
詳しい説明ありがとう。
「酸性ってことは、えーと、胃液みたいなものなのか?」
「そこまで強い酸性はなかったわ」
「そうか……っていうか、どうやって調べたんだ」
リトマス紙って、ABCドラッグで売ってたっけ?
「リトマス紙は探したけど、なかったわ。しょうがないから、面倒だけど自分で指示液を作ったの。一足遅かったら、サムが紫キャベツを使ってしまうところだったわ」
紫キャベツ?
「紫キャベツを塩で揉んだら色素が出るから、それを水に溶かすと、色が変わる指示液になるのよ」
マジか、なんだその豆知識。絶対に日常生活で使うことないぞ。まぁ、こんな異常事態だから、実際に試みるという日の目を見たのか。
ともかく、アリス特性の紫キャベツ判別法によって、間違いなく謎の赤いゲルは弱酸性であることが証明された。少なくとも、そういう性質の体液は、人間が分泌することはない。
「それで、この赤いゲルは目元の肥大化した血管だけでなく、眼球そのものも満たしていた。人の目玉は水分で膨らんでいるけれど、その分が全て、このゲルに置き換わっているみたい」
「……奴らの目が赤く光るのは、コレが輝いているってことか」
「活動停止していると、もう光らなかったけどね」
しかし眼球も調べたってことは、アリス、あの女性の死体から目玉を抉り取った上に、切り裂いて中身を……あまり、想像したい光景ではない。
「それじゃあ、ゾンビ化の原因は、この赤いゲルが目にうつったからということか?」
「外部的な感染経路としては、その可能性が最も高いわ。けれど、ゾンビのような狂暴化を引き起こす大元は、眼球ではない」
「大元? って、もしかして――」
「そう、脳よ」
アリスは、俺が消防斧で叩き割った脳天を、覗き見たのだ。そこで、彼女ははっきりと確認した。
「彼女の脳は、全体があの赤いゲルに覆われていたわ。いえ、真っ赤に染まっていた、と言うべきかしら」
ただ覆うだけでなく、脳みそそのものが血のように赤く染まりきっていたと。目に見えて、脳そのものが変質しているということになる。
「ゲルが目に感染すると、そこから脳に至って、ゾンビ化させるってことか?」
「確証はないけれど、私はそう思う」
「……けど、目に何か入ったようには見えなかったが」
俺達が最初にゾンビであるという認識に至ったのは、ナイフで刺殺された大学生の青年が蘇ったからだ。彼は刺される直前までは、間違いなく普通の人間であった。最悪のタイミングでトイレから現れ、ナイフ男に襲われて、何が何だか分からないという混乱ぶりは、今でも鮮明に覚えている。
あの時、青年はほとんど無抵抗のまま押し倒されて、そこから馬乗りになってナイフで滅多刺し。
その一連の動作で、彼の眼球にナイフ男から感染源になるような血液やら、あの赤いゲルやら、そんなものが入ったとは思えない。なにより、彼は眼鏡をしているから、飛沫が舞っても目に入るのはかなり防げるはず。
「パパ、ここから先は、私の想像、いえ、ただの妄想と言うべき話なのだけれど……」
言葉にするのが恐ろしい、というように、アリスはつよく俺の胸元に顔をうずめた。
「あのゾンビには多分、物理的な感染源は存在しない」
「……どういう、ことだ?」
「血でもゲルでもない。でも、目からうつる」
それじゃあ一体、何がうつるというのだ。
「目にうつる……そう、映るの。この目で『見た』だけで、うつってしまうものなのよ」
「そんな馬鹿な、催眠術じゃあるまいし」
人間をあそこまで狂暴化させ、さらには死者さえ蘇らせるなんてこと、ただの催眠術なんて怪しい刷り込みにできるはずがない。
「でも、私達は、きっとアストリア人の全てが見たはずよ。確かな異常を」
「まさか、あの日蝕の目が!」
「アレはプロヴィデンスの目かもしれない――ただのひと睨みで、世界の理を変えてしまう、邪悪な神の瞳を、私たちは見てしまったのよ」
だから、人も狂うし、死人も蘇るというのか。どこぞの邪神か魔神が、なんの気まぐれかこの世界を覗き込んだせいで。
「……ありえない、そんな馬鹿なこと、あるわけない」
「うん、分かってるわ、パパ。こんな非科学的なこと、あるはずないもの。だから、これは私の妄想。怖いの。怖いから、こんなバカなことを、考えてしまうのよ」
ああ、そうだよな。だってアリスは、まだ十歳の子供で、こんなに、小さな女の子なんだ。
「今のことは、皆には言わないで。くだらない妄想でも、こんな状況だもの、きっと、余計に怖がってしまうわ」
「そうだな、俺とアリスの秘密だ」
ゾンビは謎のウイルスによって引き起こされ、それが感染することで目と脳に真っ赤なゲル状の液体が発生する。そういうことに、しておこう。
「怖いわ、パパ。もっと、強く抱きしめて。私のこと、離さないで」
「ああ、パパはずっとアリスと一緒だ」
たとえ邪神の目が世界を狂気が支配する地獄に変えてしまったとしても、この腕の中にある小さな温もりだけが、俺にとっての真実。
絶対にアリスを守る。そして、一緒に家に帰るんだ。家族三人で、また平和な日常に、必ず戻って見せる――
明日、第二章を更新します。お楽しみに。
金曜日は通常通り、『黒の魔王』は更新します。