第654話 血の条約
白金の月15日。
夜間の内に、無事にセントラルハイヴは攻略され、キングアラクニドの卵諸共、女王クイーンバタフライは討ち果たされた。緊急クエストは完了し、参加した討伐隊も、万一の為に避難準備を進めていた住民達も、もろ手を上げて戦勝を喜んだ。
古き都モリガンに迫る、『バグズ・ブリゲード』の脅威は去った。
戦場となった黒き森のセントラルハイヴ跡地は、人手と時間をかければ、順当に後始末ができる。一年もすれば、虫によって切り開かれた巣の跡も、黒き森の緑に飲み込まれるだろう。
急ぐべき用件はない。だからこそ、大神官アグノア・ミストレアは、街と森の危機の次に重要な案件に取り掛かっていた。
「此度の戦において、『エレメントマスター』の活躍、感謝の言葉に絶えない」
「いえ、私達は冒険者としての仕事を果たしただけですから」
モリガン神殿の奥、伝統的に内密の話をするのに使われる一室にて、大神官アグノアと、女王討伐の栄誉を手にした冒険者パーティ『エレメントマスター』の代表リリィとが、向かい合っている。
深い皺が刻まれた容姿ではあるものの、長い白髪にシャンと背筋の伸びた大柄な体は、老人でありながらも強い覇気を感じさせる大神官アグノア。対して、どこまでも愛らしい幼児の姿である妖精リリィ。祖父と孫娘のような外見でありながら、大真面目に向かい合って座る姿は、どこか滑稽に見えるかもしれない。
しかし、両者の間に流れるのは、冗談の一つも通じないような緊迫感。それは、さながら外交官同士が、両国のプライドと国益を賭けて条約交渉にあたるようであった。
事実、お互いの所属の代表という点では同じことである。
リリィはパーティリーダーではないが、負傷したクロノは静養のために外出を控えているため、彼女が代わりにこの場へとやって来た。全面的にリリィを信用しているクロノが、止める理由はない。
『光の魔王』の反動によって、両手が石化状態となったクロノは、今頃、メイドの使命を忠実に果たすサリエルと、惜しげもなくアプローチを仕掛けるブリギットによって、ベッドの上で世話を焼かれていることだろう。
そんな、愛する男の現状は気にせず、リリィは表向きの当たり障りのない会話を交わした後、本題を切り出した。
「クロノの血、あげてもいいわ」
「願ってもない申し出。だが、そちらはパーティーメンバー全員と恋仲にある、と聞いている」
「ええ、私はクロノの婚約者、フィオナは恋人、サリエルは奴隷よ」
うーむ、近頃の若い者は、などと言うことはせず、アグノアは眉一つひそめることなく、言葉を続けた。
「条件を聞こう」
「その前に、確認させてもらいたいのだけれど……どこまで、知っているのかしら?」
どこか挑発的な微笑みのリリィに対し、ついにアグノアの眉がピクリと跳ねる。
一拍の間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように、回答がなされた。
「大神官として、それを軽々しく口にすることは、許されぬのでな」
リリィにとって、十分な答えであった。
「そう、じゃあ、神殿仕えではない私が、勝手に、話させてもらおうかしら」
明確に大人の意識へと切り替えているリリィ。だが、その顔は子供が新しいオモチャを自慢するかのように、得意げな表情が滲み出てしまっていた。
「クロノは、古の魔王ミア・エルロードの加護を持つ、初めての男」
大神官アグノアを相手に、それを秘密にする必要はなかった。
初めてモリガン神殿に足を踏み入れた時か、それとも、次に訪れた時か、定かではないが、クロノの加護はアグノア自身によって、すでに『鑑定』されている。立派に大神官を務める男だ、自分の預かる神殿内で、相手に気づかれぬよう加護を見極める方法の、一つや二つ、持っているに決まっている。
そして、アグノアは知っただろう。
スパーダ神殿で、密かにクロノの加護を鑑定した、大神官オリヴァー・ヘロドトスと同じように。
「貴方達は、本当に見る目があるわ。パンドラの歴史上、二度と現れることがない、最高の男を見初めたのだから」
ブリギットの誘惑の理由は、一昨日の晩にクロノが語った通り。
ミストレアは、強い男の血筋を欲している。
史上初の、魔王の加護の獲得者。
事実であると知られれば、大陸中が大騒ぎになる。いや、騒ぎ、などという生ぬるい表現では足りない。ただ存在するだけで、どこで戦争が起こってもおかしくないのだから。
故に、アグノアはクロノが魔王の加護を授かっている、などとは軽はずみに口にはできない。あるいは、直接、口止めさえあったかもしれないと、リリィは推測している。
「いずれの神であったにせよ、彼は力を示してみせた。ミストレアの、いや、我が孫娘、ブリギットに相応しい男は、他にはおらぬ」
「五番目か六番目か、それ以下になるかもしれないけど、いいのかしら?」
「ふむ、四番目は空いているはずだが」
「残念ながら、先約があるの」
「スパーダか、アヴァロンか……どちらにせよ、譲らざるをえぬか。所詮、我らは森の奥で静かに暮らす、小さな一族に過ぎぬ」
「でも、ここはとても素敵な場所よ」
「虫が湧かなければな」
「些細なことよ、すぐに駆除できるから。昨日のようにね」
お互いに、おおよその事情は把握できた。
アグノアはファーレンの大神官としても、ミストレアの一族の長としても、クロノの血は喉から手が出るほど欲しい。
大それた野心はない。だが、大国や魔王信仰の強い国々が、事実を知って動き出すより前に、ブリギットと子供を作らせておきたい。もし、大陸を揺るがす動乱に巻き込まれれば、クロノはモリガンというファーレンの奥地にある都になど、寄りつくこともなくなるだろうから。
リリィは、ファーレンとの繋がりが欲しい。クロノを魔王にするために、味方へ引きこめる国は一つでも多い方が良い。
子供だけ作れれば、それで満足してくると向こうから言ってくれるのだから、かなりの好条件。クロノが離れる時間は、それだけ短くて済む。
「その血が得られるなら、こちらは一向に構わぬ」
「もっとも、私達は協力するというだけで、クロノをその気にさせるのは、ブリギットの魅力と努力次第よ?」
「無論、そのつもり。そこまで世話を焼かせたとあっては、あの娘も女の恥となろう」
究極的には、ブリギットと子作りするかどうかはクロノの意思次第となる。あくまで、リリィ達はその邪魔をすることも、止めることもない、オススメくらいしてあげる、というだけ。
リリィとしても、本気でクロノが嫌がるならば、無理にブリギットを抱けと進めるつもりはない。むしろ、自分の根回しの全てが台無しになってもいいから、そうなってくれた方が気持ち的には嬉しいが……それでも、嫉妬心を押し殺してでも、ファーレンとの結びつきを得るという利を、リリィはとってみせた。
きっと、それが自分の役目で、自分にしかできない役目だから。
「良かった、条約は成立しそうね――けれど、今すぐは無理なの」
「オリジナルモノリスの件、であろう」
十字軍の手先である修道会、奴らが狙うオリジナルモノリスと、その陰謀の危険性については、スパーダに対して報告済みである。スパーダ軍を通す正規ルートと、ウィルハルト第二王子を通す個人的なルートの両面で。
スパーダとしては、確たる証拠のない事象に対して、軍を動かすほどの劇的な対応を即座にとることはできないが、ある程度の妥当性、正当性、を認めることはできる。故に、オリジナルモノリス調査というクエストを、『エレメントマスター』に依頼する形で、現在の対応としている。
ファーレンはスパーダの隣国であり、正式な紹介状とセットで王宮に招かれた。当然のことながら、事情に関しては全て報告されている。そして、王家と強い繋がりを持つ大神官アグノアにも、同様の情報は回って来ているに決まっていた。
「ええ、先を急ぐ旅だから。でも、理由は他にもある、というより、時間をかけた方がいいというのが、私のアドバイスよ」
「こちらとしては、一晩あれば十分なのだが」
「それだと、クロノが困るから」
困る、とは文字通りの意味である。
その困惑ぶりは、風呂場でブリギットに迫られたクロノの態度そのもの。
アグノアとリリィ、両者の目論見が一致し、クロノとブギリットの間に子供を作ることが決まったとしても、容易に受け入れられることではない。クロノは戦場においては狂戦士であるが、日常においては常識人の青年だ。
要するに、クロノがブリギットを受け入れるには、まっとうにお付き合いして仲を深めるだけの時間が必要ということだった。戦闘面では狂戦士でも、恋愛面では初心なのだ。
「カーラマーラへの旅は、一年もかからないはず」
「だが、危険な旅になるのではないかね」
「もし、途中でクロノが果てたなら、そこまでの男だった、と諦めはつくでしょう」
確かに。真に魔王の加護を得た男であるなら、志半ばで倒れることはない。旅の完遂は、クロノの価値を、さらに強く保証する。
「それに、こちらとしても、貴方と条約を交わすなら、相応の準備期間が欲しいから」
クロノの血が欲しい、ミストレア側の要求はシンプルだ。しかし、その対価として、どこまで大神官から、ひいては、ファーレンから引き出せるか。その内容は慎重に検討しなければならない。
魔王の加護を持っていても、今のクロノはただの個人でしかない。
「後日、代理人をモリガンへ派遣するわ」
無論、それはホムンクルスである。決定権や権限はなくとも、御用聞きくらいは十分。リリィと連絡がとれれば、少しずつ交渉を進めていくこともできる。
「……うむ、よかろう。では、旅の無事を祈る」
交渉は成立した。旅を終えて、再びモリガンへクロノが訪れたその時、正式に条約が締結されるであろう。
もっとも、クロノが本当にブリギットと子供を作るというのは、その時まで伏せられることになるのだが。
白金の月17日。
両手が元通りになり、いよいよモリガンを出発する時が来た。
「おい、もう行くのかよ」
「キュー!」
出発の時間など連絡してはいないというのに、ディランが何故か見送りに現れた。隣には、やはりオフィスソフトのマスコット的な精霊イルカがフヨフヨと漂う。
「ああ、先を急ぐ、旅の途中だったからな。あまり、ゆっくりしていくワケにはいかないんだ」
「そうか、残念だな。戦勝の後のバカ騒ぎも、冒険者の楽しみの一つだろう。主役がいないせいで、ちっとばかし、盛り上がりに欠けたぜ」
新女王が出現し、王の卵と共に脱出を敢行したことで、最終的に女王蝶の討伐を果たしたのは、俺ということになっている。
だが『光の魔王』の反動で、強制的な入院生活を余儀なくされた俺は、祝勝会になど出席できるはずもなく、一人さびしく……というほどでもなかったな。ブリギットがほぼつきっきりでいてくれたし、それに対抗してか、サリエルも張り切ってるような気もしたし。フィオナ、お前は自分一人で食べてないで、俺にもその高級蛇肉を寄越しやがれ。
ともかく、討伐隊のみんなと、勝利を喜ぶバカ騒ぎに参加はできたなかったのだ。
「それにしても、わざわざ見送りに来てくれるなんてな。お前には、嫌われたものだと思っていたが」
「クエスト中は、冒険者同士はライバルだ。慣れ合うつもりはねぇ……だが、仕事が終われば、気張る必要はねぇからな。まして、クロノ、お前は、いや、貴方は命の恩人だ。セントラルハイヴ攻略中、自分のミスで死ぬはずだったところを、救っていただき、誠に感謝する」
どこまでも真面目に、頭を下げて謝意を述べるディラン。その姿は粗野な冒険者というよりも、むしろ騎士か貴族か、というほど堂に入った振る舞いに感じた。
ただ、一緒になって頭を下げているイルカちゃんが隣にいるから、ちょっと間抜けな構図である。でも、気持ちはちゃんと伝わっている。
「どういたしまして。次は、見えない敵の奇襲には気を付けようぜ」
「へへっ、言いやがる」
頭を上げれば、ディランはまた冒険者らしい雰囲気に戻った。ずっと、畏まられて接されると、俺が困るし、この方がありがたい。
「まぁ、今回のことで俺も実力不足は身に染みた。ランク5に上がることを、焦り過ぎていた……しばらくは、地道に鍛錬を重ねるしかねぇな」
単身で巣に乗り込んだことは、彼にとってもかなりの大博打だったのだろう。冒険者は冒険することも大事だが、堅実に実力を磨いていく、忍耐力もまた必要だ。
もっとも、すでにランク4にまで上り詰めたディランなら、何の心配もないだろうが。
「またモリガンに来たら、酒でも飲もう」
「ああ、そん時は、奢らせてくれよ。モリガンを救った英雄にな」
固く握手を交わして、俺は進む。
ディランのように、こういう男同士の別れ際は、さっぱりしていて気持ちがいい。
「クロノ様……本当に、行ってしまわれるのですね……」
ニヒルな笑顔で見送ってくれたディランとは対照的に、溢れんばかりの涙を零して大泣きしているのは、ブリギットである。
「いや、その……今生の別れというワケじゃないし、そんなに泣かないでくれ」
さめざめと、上品に泣く彼女にかけたれる言葉が、他にみつからない。
あまりの悲壮な雰囲気に、流石にリリィもフィオナも、余計な口出しはしないで、俺とブリギットのやり取りを黙って見守ってくれていた。
「必ず、また会いに来るから」
「約束……約束ですよ、クロノ様!」
約束しなくても、モリガンにはまた訪れなければいけない用事があるから、心配しなくてもいいのだが。
リリィは、俺が倒れている間に、大神官アグノアに十字軍の危険性と、オリジナルモノリスが狙われている旨の説明をしに行き、今後の協力体制が約束されている。だが、詳しい取決めは、時間がないので交わされていない。だから、カーラマーラへの旅が終わった後には、再び俺達はモリガンを訪れて、正式に決めごとを交わすのだとか。
今回は、あくまで協力体制の確立に向けての、根回しのようなものである。
「手紙も書くから」
「はい、絶対ですよ!」
旅はしていても、住所の変わらないブリギットに宛てて、手紙を送るくらいはできる。一刻も早い再会を願う彼女のために、旅の進捗くらいは教えないと罰が当たるだろう。
けど、ブリギットの方から、返信を受け取る手段がないのが残念だが、と思いきや、リリィがその手段を用意してくれていた。
モノリスを利用すれば、転移はできなくても、文章くらいはやり取りできるらしい。全てのモノリスで可能、というわけでもないのだが、転移よりも、格段に文章通信ができる可能性は高い。旅の先でモノリスを見つければ、そこである程度までやり取りが可能というわけだ。
通信役として、モリガンには後日、ホムンクルスが派遣されるらしい。勿論、彼らにはファーレンでの修道会の動きを監視する、という役目の方が強いが。俺達が去った後で、修道会の連中が、黒き森のオリジナルモノリスにちょっかいをかけないとは限らないからな。
「それじゃあ、もう行くよ。元気でな、ブリギット」
「ああ、クロノ様……私は、貴方のことを、お慕いもうしております!」
古風にストレートな告白の言葉と共に、強く抱きしめられる。
一瞬、悩みはしたものの、俺もまた、彼女の体を抱き返した。
「ありがとう」
それ以上、何も言えなかった俺は、ヘタレの最低野郎だろうか。
けれど、涙ながらに思いを告白する彼女に対して、俺にはとても、重ねて「お断り」の台詞を口にすることはできなかった。
口になどせずとも、ついに彼女へ指一本触れない、といったらダウトだが、異性として手出しをすることはなかった。昨日、一昨日と、ほぼつきっきりで俺の看病をしてくれたブリギットに、何度か誘惑の危機はあったが……それでも、俺は何事もなく断り切ったのだ。俺の気持ちは、十分に態度で示せているし、彼女も分かっていると思う。
確かに、俺はファーレン王にも大神官にも、その目に適った強い男かもしれない。クイーンバタフライを討ち、モリガンを救ったかもしれない。
でも、恋愛っていうのは、ソイツのスペックと功績だけで、するもんじゃないだろう。ブリギットは文句のつけようがない清楚なダークエルフの美人だし、俺と一緒に前衛やれるだけの戦闘力も持ち得る。彼女の魅力は大いに認めるところだが、だからといって、手を出して良い理由にはならないはずだ。
たとえ、リリィとフィオナがいなくて、俺が単なる独り身であったとしても、きっと、こうして知り合ったブリギットという素敵な女性に対して、安易に手を出すことをよしとはしなかっただろう。まずは、健全なお付き合いからお願いします。ヘタレな俺は、絶対にそんなことを言うに違いない。
「またな」
「はい、私はここで、ずっと、貴方の帰りをお待ちしています」
そうして、名残惜しくも、ブリギットと涙のお別れを経て、俺はついにモリガンを後にした。
クロノの姿が見えなくなるまで見送った後、あからさまに肩を落とした暗い表情で、ブリギットはとぼとぼとモリガン神殿へと帰った。
本気だった。
これが運命なのだと、心から信じられた。
クロノは、それほどの男だったから。
スパーダを救い、ファーレン王も認める、英雄的な武勇の持ち主。『黒き悪夢の狂戦士』の二つ名に相応しい、凶悪な容貌。だが、その人となりは、良識的で、気遣いに溢れ、そして、ちょっと自信なさげな、普通の青年であった。
英雄は、色を好むはずだった。
自分は、女として魅力的なはずだった。
だというのに、彼の口から飛び出た台詞は「自由恋愛はいいぞ」である。
そんなこと、言われるまでもなく知っている。ミストレアの巫女として、強い男と子を成さねばならない定めを受け入れていても、一人の女性として、自由な恋に焦がれる気持ちを消せるはずがない。
とうの昔に決めたはずの覚悟を、まさか、相手の男によって揺らがされるとは。
巫女であるブリギットにとって、クロノは最悪の男だった。
一人の女であるブリギットにとって、クロノは最高の男だった。
ああ、彼は何て、酷い男だろう。
ブリギットの胸の内に溢れるその想いは、最早、巫女としての宿命を果たす強い意思なのか、それとも、素敵な出会いに胸を躍らせる乙女の恋心か。自分でもどっちなのかが分からない。
自分の気持ちすら分からないまま、指一本も触れずに、再会だけを約束して、その答えを確かめる機会を先延ばしにしたクロノは、やはり、酷い男であった。
「あのクソ虫共が湧かなければ……浴場で押しきれたかもしれなかったのにぃ……」
唯一にして最大の好機を棒に振ったことが、今更ながら激しい後悔と怒りになって湧き上がる。
クロノが、確かに自分の体に性的魅力を感じてくれている、という確信。同時に、すでに恋仲にある女性に対する裏切りを許さない、強い意思がありながらも、涙ながらの懇願で、揺れ動いていたのもまた事実。
チャンスだった。
既成事実が作れれば、その後の展開も変わったはずだ。
しかし、今となっては、全てが「もしも」の話に過ぎない。
「っていうか、アレが私の人生で唯一の処女卒業のチャンスだったのでは!? もしかして、完全に婚期逃した……あぁ、うぅ……ああぁーっ!!」
「ブリギット、落ち着かぬか。いつ如何なる時も、心を静かに保てと教えておろう」
「ハッ、お爺様!」
モリガン神殿の最奥、例によって内緒話専用部屋だからこそ、決して他人には見せられない乙女としての醜態を晒せるブリギット。祖父であるアグノアは、家族なので見られてもセーフである。
「全く、どれほど外面を取り繕うのは上手くなっても、中身は子供のまま……お前が結婚どころか恋人の一人もできぬのは、そのワガママ故といい加減に思い知れ」
「うっ、う……うるせぇージジイーっ!!」
「ぬがぁっ!?」
怒りの雄たけびと共にブリギットがぶん投げたのは、ただ黒色魔力を固めただけのボール状の物体である。攻撃魔法とも呼べない、単なる魔力の物質化に過ぎないが、原理としてはクロノの魔弾と同じ。そして、ブリギットほどの才能を持つ者ならば、軽く作り出した小さなボールでも、鉄球並みの硬度と重量を誇る。
その黒い鉄球は、見事に祖父の顔面に命中。果たして、それはストライクなのか、アウトなのか。
「ふふん、図星を突かれてキレおったわー」
ニヤニヤと小ばかにした笑みを浮かべてブリギットを見下すアグノアに、ダメージを負った様子はない。どうやら、顔面セーフだった模様。
「ず、図星ちゃうわ! 今まで私に釣り合う男がいなかっただけよ!」
「うんうん、そうじゃな、その通りじゃな。だって、婚期を逃した独り身ババアはみんな口を揃えて同じことを言うからのう」
「死ねぇーっ!!」
ブリギット、怒りの鉄球攻撃再び。
だが、今度は避けるアグノア。老人のくせに、やたらアクロバティックな動きで、高速の投擲攻撃をヒョイヒョイ回避した。
「もう三十歳にもなって、なにが釣り合う男じゃ。こっちからお願いする頃だろうが」
「三十じゃねーし! まだ二十九歳だし! 私はまだ二十代だぁーっ!!」
「でも三か月後には三十代じゃな」
「ぬぁあああ……そ、それは言うなぁ……」
「くっくっく、三十過ぎると、あっという間じゃぞ、色々とな」
「黙れ! 聞きたくねぇ、聞きたくねぇよぉ……」
ダークエルフは、エルフと並び長命な種族である。
だからといって、三十路になっても美少女でいられるワケではないのだ。少女と呼んでいいのはティーンエイジャーのみ。二十歳からは反論の余地なく成人女性である。
たとえ寿命が長くとも、精神の成熟は人間と大差はない。特に、幼児から子供、少年少女へと成長する過程は、人間もダークエルフも獣人も、ほぼ皆同じ程度の年月だ。
永遠に心も体も少女のままでいられるのは、妖精族という例外中の例外のみである。
「はぁ……大体、お前は昔から高望みしすぎなのだ」
「あ? 別に高望みじゃないし、普通だし、フツー」
「自分より強い男がいい、だなんて……ミストレアの巫女を倒せる男が、ファーレンに一体どれだけおる。おまけに、お前は無駄に才能だけはあるし」
「私より強い男は普通にいるわよ。えーと……ほら、サンドラ王とか」
「そのサンドラ王との婚約も蹴ったのはお前だろうが」
「だって、私よりチビだったんだもん」
少女と見紛う麗しき美貌のサンドラ王。だが、少女と見紛うということは、その体型は少女と同じ。ブリギットと並べば、サンドラ王の方が頭一つ分は小さい。
「あんなのがいいだなんて、シャルディナ妃の性癖ヤバくない?」
「こら、王家に対する侮辱はやめぬか」
「お爺様だって、結婚式の時に、サンドラ王が背伸びしてキスするの見て噴き出しそうになってたくせに」
「噴き出してないからセーフじゃ」
とか言ってるアグノアだが、これでもファーレンを代表する大神官。王族の結婚式を取り仕切る程度には偉い。素に戻った孫娘の前では、最早、威厳も何もあったものではないが、それでも偉いことは偉いのである。
「しかし、サンドラ王の他にも、色々と紹介してやったというのに、どれもこれも気に入らんとワガママばかり言いおって」
ミストレアの巫女、それも一人娘であるブリギットには、普通以上に婚姻の話は持ち上がる。見合いの機会は数知れず。また、容姿と猫かぶりだけは極めて上手いブリギットは、私生活でも彼女に思いを寄せる男性は後を絶たなかった。
身分や政治的思惑などのしがらみに囚われず、純粋に彼女へ愛を語った男も、両手の数では足りないだろう。
「だーかーらー、私より弱い男は無理なんだって」
「そのハードルが高すぎるのじゃ。それに、苦労して強い男を見つけてきても、速攻で断るのはお前だろうが」
「だって、変なのばっかりだったんだもん」
「そりゃそうじゃ。飛び抜けた強さを持つ者が、マトモな神経をしておるワケがなかろう。変態か、イカれた者だけが、英雄と呼べる高みにまで至れるのだ」
強い者は、おおよそ、生まれながらに強い。それは、身体能力や魔力量、または剣や魔法の才能、あるいは、加護。それらを持って生まれた者は、早々に才能は開花する。
そうして、周囲とは隔絶した実力を持つ者が歩む人生は、果たして、何の力も持たぬ凡人と同じ道を行けるだろうか。天才に、凡人の眺める風景が見えるだろうか。
否。それは絶対に、相容れることはないであろう。
「それじゃあ、クロノ様は?」
「ああ、そうだのう……あの男は、儂が見てきた者の中で、最もイカれておるわ」
「ジジイ、ついにボケたか」
「甘いなブリギット、所詮は小娘か」
「なに、クロノ様が猫被ってたっていうの? 私みたいに?」
「いいや、あれで正直な男じゃ。典型的に、嘘を吐くのが苦手なタイプ、特に女の前ではな」
「じゃあ変態なの?」
「少なくとも、歪んではおらぬな。あの三人娘を見れば、趣味はかなり良いと分かるだろうが」
リリィ、フィオナ、サリエル、といずれ劣らぬ美少女を三人もパーティに抱えているのだ。女性に対する審美眼は確かなものと言えるし、そして何より、そんな美少女を本当に集めてしまうのが、クロノという男の恐るべき実力であろう。
「それじゃあ、クロノ様のどこがおかしいっていうのよ。強いし、優しいし、でもちょっと初心で可愛いところもあるし」
「強いのに、優しい。人を気遣える、至極、真っ当な倫理観、正義感をあの男は持ち合わせておる……あれほどの、強さを誇りながらな」
強い者はイカれている。
その強さ故に、普通とは違う道を歩かざるをえないから。
「どこも狂っていないから、おかしいのじゃ。正気の狂戦士とは、くくく、これほど狂った存在はあるまいよ」
アグノアは、モリガンに足を踏み入れてより、クロノの行動は逐一、監視をしていた。覗き見ていたワケではない。ただ、この街の住民全てが、神殿の協力者である。宿に泊まり、堂々と人目のある場所で活動するクロノの姿は、ありとあらゆる住民の目によって捉えられている。
そうして、僅か数日であるが、クロノという男のおおまかな人物像というのを、アグノアは把握した。その評が正に『正気の狂戦士』である。
「だからこそ、選ばれたのかもしれんがな……」
「選ばれた?」
「運命に、というやつじゃ」
「ちっ、答える気はないのかよ」
「いずれ、分かる時が来る――ブリギットよ、本当に、覚悟はいいのだな」
これまでのふざけた態度は一変して、アグノアは大神官に相応しい威風と共に、孫娘に問うた。
「無論でございます。我が身は全て、クロノ様へ捧げます」
そして、ブリギットも巫女として確固たる誓いをもって答えた。
「うむ、必ずや、あの男を手に入れろ。その血を継いだ子を成さば……我がミストレア一族は、千年の安寧を得るであろう」
クロノの血筋を対価に、リリィへと協力を確約した。
すでにその縁は結ばれたも同然であったが……ただ、当のクロノ本人だけは、何も知らず、何も気づかず、カーラマーラへの旅路を行くのだった。