第644話 黒き森へ
その日は、モリガン神殿の長である大神官アグノア・ミストレアとの挨拶だけで、宿へと戻った。
アグノア大神官は如何にも長老とか呼ばれてそうな、長身痩躯のダークエルフの老人で、正直、目の前にいるとサンドラ王よりも威圧感がある。ニコリとも笑わず、こちらを見定めているかのような鋭い眼光に晒されて、ちょっと疲れた。
見た目も雰囲気も怖かったが、話の内容そのものは酷く事務的で、黒き森に入るにあたっての注意点だとか、オリジナルモノリスがある神殿がどんな場所だとか、そういったことしか語らなかった。
必要最低限の会話だから早々に話も終わったのだが、そのまま出発するには少しばかり遅い時間帯である。
黒き森の神殿はコンビニ感覚で行けるほど近い距離にはない。普通は、半日以上かけて森を歩き続け、ようやくたどり着けるような道行だという。しかも、あまり整備された道などはないため、神官の案内がなければ、方向感覚に自信のある冒険者でも、ほぼ確実に遭難するらしい。
黒き森はモリガン神殿よりもさらに濃密な魔力が漂う、本物の神域である。殊更に方向感覚が狂わされるのは、その影響の一つだろう。森の神様は気まぐれだから、迷い込んだ人をそのまま神の世界へと招く、リアル神隠しも発生するとか、しないとか。この異世界ならば、マジで神隠しはあると俺は思う。
というワケで、遭難の危険性が非常に高い黒き森を進むにあたって、俺達にも案内役の神官がつくことになっている。
それが、門でパーフェクトなお出迎えをしてくれた、ブリギットさんである。
まさか、あの格好で来るワケではあるまい……
「あの人、怪しくないですか?」
「なんだよフィオナ、藪から棒に」
素敵なツリーハウスの宿に戻った俺達は、部屋に集まり雑談、もとい明日のモノリス調査について話し合っていた。
リリィは俺の膝の上。小さなテーブルを挟んで、対面にフィオナ、隣にサリエルが腰かけている。
「ただの嫉妬で相手に嫌疑をかけるなら、止めた方が身のためよ」
幼女の姿で、挑発的なことを言い放つリリィ。
「嫉妬? あの胸の大きさとかにですか?」
「そう、私達にはない、大人の魅力というヤツね」
「それならリリィさんが一番、妬ましいのではないですか? 一番小さいですし」
「いいえ、それなりに持てる者だからこそ、より一層に持てる者を羨む、ということもあるのよ」
「なるほど、流石はリリィさん。嫉妬を語らせて、右に出る者はいませんね」
そういう火薬庫で火遊びするようなギリギリの会話するの、やめてくれないか。さりげなく、サリエルが臨戦態勢に入っているのがより不安を煽る。
「実のところ、私も怪しいとは思っているわ」
「でも、リリィなら相手に思惑があれば分かるだろ?」
「いいえ、私も心が読めなかったの」
リリィのテレパシー能力は、全く無意識でも相手の感情がそれとなく察知することができる。特に、喜怒哀楽など感情が強ければ、うるさいほど聞こえてくるように感じるのだとか。
まず、これだけで普通の人間の心の内は看破できる。
しかし、特に感じるほど感情の波がない、あるいは、隠されている場合は、リリィはテレパシーを集中させ、さらに心を読むことができる。この集中、というのは、耳を澄ましたり、じっと見つめて凝視するとか、そういう感じのもの。
感情を押し隠すことに長けた者や、ある程度の精神防護があっても、リリィが集中させればほとんど読める。
「大神官も、あのブリギットという女も、何も感じられなかったわ。流石は本物のドルイド、といったところかしら」
少なくとも、両者はテレパシーを防ぐ並み以上の精神防護か、心を隠す術に長けているのは間違いない。
そして、そういった者の心にまで踏み込むには、いよいよテレパシーによるハッキングが必要となってくる。立派な精神魔法といえよう。
その精神魔法をかけるのだから、受ける方としては普通に魔法で攻撃されたも同然だ。物理的な被害がなくとも、ソレをかけられた、というのは完全に敵対行為とみなされる。
だから、テレパシーを集中して探るという段階までしか、リリィもできないのだ。
「でも、それは二人がそういう実力者だから、ってだけの話じゃないのか」
「心の内など読めずとも、十分に怪しい態度でしたけど」
「そうかぁ?」
「ええ、クロのさんのこと、凄い見つめてましたから」
何か、フィオナが言うと妙に疑わしいのは、気のせいだろうか。
「フィオナ様の主観的な思い込みではない。ブリギットがマスターへ注視する素振りをみせたのは、私も確認している」
的確なタイミングでフィオナの意見をフォローするサリエル。マジで俺の奴隷よりも、フィオナお嬢様のメイド、ってほうが板についてきた気がするんだが。
ともかく、サリエルが断言するなら、客観的な事実として間違いはないのだろう。
「俺を見ていた、といっても……警戒していただけじゃないのか」
まぁ、この顔だしね。
まさか俺に一目惚れとか、そういう可能性はありえない。
「そんなことないよ、クロノ!」
「いや、今はそういうフォローはいらないんだけど」
膝の上でお行儀よく座っていたリリィが反転して、俺にギュっと抱きついてくる。心遣いは嬉しいけど、こういうのはスルーしてくれるのが一番ありがたいんだよね。
「しかし、クロノさん本当に気づかなかったんですか?」
「いや、妙に視線が合うな、とは思ったけど」
ブリギットさんとは、門でのお出迎えから、大神官との話を終えて、帰る時のお見送り、というごく短時間しか接していないのだが、ふとした拍子に目が合うことがあった。
普通、俺と目を合わせた者は、速攻で逸らす。しかし、彼女は自然にさりげなく、優しく微笑みを返してくれた。
視線を逸らしたのは、俺の方である。あの美女と見つめ合うなんて、素面ではちょっと恥ずかしすぎる。
「クロノは敵意や殺意には敏感だけど、好意的な気配は、途端に鈍くなるから」
「ですよね」
「いや、そんなこと……あるわ、ごめん。鈍くてごめんな」
「マスターが気に病む必要はありません。その容姿と生い立ちを知れば、好意に鈍感な性格が形成されることに、十分な説得力があると認められる」
「よせ、サリエル。それ以上は、マジでやめてくださいお願いします」
顔が怖いせいで避けられてショック! みたいな話は、小中高とどの時代でもある。白崎さんの記憶を持つサリエルが、俺の悲劇的な強面エピソードは知っていてもおかしくない、というか、この口ぶりなら確実に知っている。
特に有名なのは、小学六年生の時に、席替えで隣になっただけで女子が泣き出してだな……俺の方が泣きてぇよ……
「了解。以降、固く口外を禁じます」
俺のささやかなトラウマ話は置いといて、本題に戻ろう。
「えー、他に怪しいと思った点は?」
「神殿にあの二人しかいなかったこと、ですかね」
言われてみれば、随分と立派で大きなモリガン神殿だが、ブリギットさんと大神官の二人しか見かけていない。たまたま、この二人しか見ていないというワケではないはず。神殿の中には、全く他の人の気配が感じられなかった。
暗殺者の如く気配を消してでもいないかぎり、モリガン神殿には二人だけしかいなかったと俺も思う。
「神殿には、明らかに二人以上が活動している形跡が見られたわ。あえて、今日この日に意図的に人払いをしている、としか考えられない」
「この規模の神殿で、神官が二人とか普通にありえないですしね」
「モリガン神殿はドルイドの総本山。百人規模で神官が在籍していると推測される」
「なるほど……確かに、何かしらの意味がないと説明はつかないな」
しかし、その意図が何かは、これ以上は分からない。
たとえば、今日はたまたま休みだったとか、俺達が知らない神殿のルールがあって、ただそれに従っただけの結果ということもある。
「でも一番怪しいのは、クロノしか案内しない、という条件よ」
「しかも、案内役は彼女ですからね」
大神官との話で、オリジナルモノリスの調査について唯一、課された条件がこれだった。
黒き森の神殿に入るのは、俺だけ。そして、道中を案内するのはブリギットさんだと決められた。
「わざと二人きりにしてる、ってか?」
そこに一体、何の意味が。
妙な思惑を疑うよりも、部外者には分からない宗教的な謎ルールによるもの、という方がしっくりくる。
「流石に、危害を加えるつもりはないと思うのだけれど」
「どうでしょうね、あの森の奥に生贄の祭壇があっても、私は驚きませんが」
「俺達は一応、ファーレン王から許可まで貰って来てるんだ。幾らなんでも、敵対行為はしないだろ」
「断定はしきれない。黒き森の特性からして、はぐれて遭難した、と主張すれば誰が行方不明になっても認められる可能性はある」
心配しすぎな気もするが、サリエルの言うことも事実としては間違いない。黒き森という場所は、完全犯罪するにはこれ以上ないほど適した場所ではある。
「だからといって、ちょっと怪しいから止めます、ってワケにもいかないだろ」
「ええ、ひとまず警戒だけはしつつ、予定通りにやりましょう」
「クロノさん、あの森にはどんな罠があるか分かりません。くれぐれも、気を付けてください」
「有事の際は、上空に閃光弾を上げれば、私とリリィ様が飛行能力をもって即座に救援へ向かいます」
「そんなに心配するなよ。別に、とって食われるワケでもないだろう」
そういうワケで、そこはかとなく怪しい雰囲気がしつつも、予定通りに明日は俺一人で黒き森へ入ることとなるのだった。
翌日、白金の月12日。日の出とともに宿を出て、真っ直ぐモリガン神殿へと向かった。
「皆様、おはようございます。お待ちしておりました」
門を叩けば、出迎えてくれたのはやはり昨日と同じブリギットさん。目のやり場に困る例の衣装も、同じであった。マジかよ、本当にその格好で森に入るのか……
露骨に視線を逸らしつつ、俺はそちらの条件通りに、単独で黒き森へ入ることを伝える。リリィとフィオナとサリエルは、この神殿で留守番となる。
「準備はよろしいですか?」
「はい」
黒き森へ入るための条件はもう一つあり、それは武装解除だ。まぁ、聖域のような場所に入ろうというのだから、血生臭い武器の持ち込みお断りってのは、半ば当然だろう。この辺は大体どこも同じである。
俺は普通の冒険者に比べれば、所持する武器の数が多い。面倒だから、影空間を丸ごとヒツギに預けて、そのまま離れてもらった。無論、人型で。
だから、今はサリエルの隣で、呪いの武器を一つも持たない武装解除した俺を、どこか心配そうな、寂しそうな、そんな表情で見つめてくる。
「ご、ご主人様……」
「失礼ですが、念のために確認させていただきます」
「キャーッ! ヒツギの主人様に気安く触るなですぅーっ!」
「サリエル、ヒツギをちょっと黙らせててくれ」
「はい、マスター。メイド長、失礼します」
「サリーちゃんの裏切り者ぉー、フガフガ!!」
サリエルが喚くヒツギの口を塞いだのを確認して、俺はブリギットへと苦笑い。どうもすみません、ウチの子がうるさくて。
それではどうぞ、と俺は大人しくその場でホールドアップ。ようやくボディチェックだ。
服装までは指定されていないので、格好は『悪魔の抱擁』を着こんでいる。流石に鎧兜はNGだが。
しかし、ローブという武器の隠し場所には困らない衣類を身に纏っている以上、そのまま自己申告を信用するっていうのは間抜けな話だ。
ブリギットさんは、手慣れた様子で、俺の体のラインをなぞるように触り――うわ、めっちゃ近いんだけど。これ、別な男の神官とかにボディエチェックしてもらうワケにはいかなかったのかよ。
その気もなければそういう雰囲気でもないのだが、扇情的な格好の美女にベタベタと全身を触られまくれば、男として全く反応しないワケもない。こういう時に「ラッキー、役得だぜ!」と素直に喜べる軽い性格の奴が羨ましくなる。俺はどうにも、悪い方向にばかり考えてしまい、苦しいと言ったらない。おまけに、リリィ達も見てるし……
「大変、失礼いたしました。それではクロノ様、黒き森へご案内いたします」
厳しいボディチェックを無事に乗り切り、俺はいよいよファーレンの聖地へと足を踏み入れる。
リリィは笑顔でお見送りしてくれたし、フィオナもサリエルも涼しい表情。少なくとも、あからさまな警戒感は出していない。ヒツギだけは最後まで泣きそうな顔してたけど、明日には戻って来るから、そんな心配しなくてもいいだろうに。俺は子供か。
ともかく、俺は武器もナシで単独行動だ。相手に何かしらの思惑がなかったとしても、せいぜい気を付けることにしよう。この森にだって、普通にモンスターは生息しているだろうし。
黒き森へは、モリガン神殿の裏手から入る。これといって仰々しい門が構えてあるわけでもなく、お地蔵さんのような小さな祭壇みたいなモノが、ここから先が黒き森の領域であることを示しているようだった。
鬱蒼と生い茂る森に向かって、広くもない小さな道が奥へと伸びている。ひとまずは、この道を歩いていくことになるらしい。
「ここは、モンスターは出てこないんですか?」
静かな森を歩き始めて数分。
あんまり無言でいるのも苦しいので、ひとまずは無難な話題を振って見る。実際、現状で最も気になるところでもある。
「ええ、黒き森にモンスターは生息していますが、神殿への道のりに現れることは滅多にありません。こう見えて、通り道には結界が施してありますので」
特に何も感じないのは、ダイダロスやスパーダの城壁のように、都市防衛用の強固な結界と同じタイプではないのだろう。
「警報代わり、ですか」
「それもあります。中型までのモンスターなら、自然と道から遠ざけてくれますよ」
それ以上の奴が進路上に乗り込んで来れば、それを感知して危険も知らせてくれるということか。
「ですから、もう少し気を抜いてもよろしいですよ、クロノ様」
「そう見えますか」
「うふふ、ここにはもう誰の目もございません。言葉づかいも、私にはそうかしこまる必要もありませんので」
「あー、えっと……その方がいいか?」
「はい。それに、外からお客様が来られるのは、とても珍しいことです。私は生まれてから、一度もモリガンから出たことはありません……ですので、是非とも、クロノ様の冒険者としての活躍を、お聞かせくださいな」
うわー、素敵な笑顔でそういうこと言うの、男心にグっとくるから止めて欲しいな。これは絶対、アルコールとか入ってたら、調子に乗ってベラベラと自分の自慢話とかしちゃうパターンだぞ。
まさか、俺を探るために、わざと乗せようとしているのか。
「俺の冒険者生活は、その、女性が聞けば眉をひそめるような、血生臭いことばかりなんで」
「夢とロマンを追い求める冒険者は、その一方で恐ろしいモンスターと戦う厳しい現実がある。そこは、よく理解しているつもりです」
ただの夢見る乙女ではない、ってことだろうけど……うーん、ガラハド戦争の最後と、
この間のリリィとの最強痴話喧嘩を除けば、まぁ人に話しても大丈夫なラインだろうか。イスキアの戦いとかは、素直にハッピーエンドで終われたし。
「ふふ、お優しいのですね、クロノ様は。嫌な思いはさせないようにと、配慮していただけるなんて」
これを優しい配慮と言い切るとは。そこまで良い方向に解釈されると、かえって心苦しい。
「ですが、どうぞお気遣いなく。私も魔物との戦いとは全く無縁、というわけではございません」
「そうか、それなら、俺も別に秘密にするようなことはあまりないから、幾らでも話すよ」
「ありがとうございます。まだまだ神殿への道のりは長いですから、ゆっくりとお話できますね」
言いつつ、隣を歩くブリギットさんが、距離を詰めてくる。ち、近い、もう肩が触れ合いそうなほどだ。
思わず、後ろを振り返ってリリィが見てないかどうか、確認してしまった俺は悪くない。
「とりあえず、スパーダでランク1の駆け出しだった頃から話そうか?」
「ええ、是非とも、お願いいたします」
2018年1月17日
書籍版『黒の魔王』第6巻、発売中です! 5巻から続く、書き下ろし外伝の続編も収録。どうぞよろしくお願いします!