第622話 火種
無事にフィオナとも和解(?)を果たした俺は、そのまま住み心地抜群のスイートルームでお茶とお菓子をしばきながらリリィとフィオナを相手にお喋りし続けたいところだったが、くつろぐにはまだ早い。目覚めたのならば、他のメンバーにも会いに行かねば。
「ネルもクロノが目覚めるのを待っていたわ。会いに行ってあげて」
と、微笑みと共にリリィに送り出された。
「ネルの部屋までは、サリエルが案内してくれるから」
そして、早速メイドとして働かされている、サリエルもセットでくっついてきた。
何だそれ、新しいメイド服か。それにしては随分と短いスカートでなんかちょっといかがわしいけど、淫魔鎧よりはマシだからもうそれでいいよ――なんて、くだらないことを普段と違うタイプのメイド服に身を包むサリエルを見て思っている内に、部屋を出ていた。
スイートルームを出れば、静かな廊下が広がっているのみ。
サリエルと二人きりになってしまい、気まずい沈黙を味わうのは何度目のことだろうか。これといった考えもまとまらない内に、とりあえず俺は口を開いた。
「あー、えっと……」
いざ、こうして再会を果たすと、フィオナとはまた違った意味で困惑してしまう。俺は一体、彼女に対してどういうスタンスで接するのが正解なのだろうか。
もう少し、考える時間が欲しかったのに……リリィめ、余計な気を回してくれる。あるいは、狙ってやったのか。
「すまなかった。俺のせいで、余計な苦労をかけてしまった」
「いいえ、私は自分の使命を果たしただけ」
サリエルは普段よりも輪をかけて、感情の読み取れない無表情で言い放つ。コイツは本気で、命がけの戦いを経験しても「仕事だから」で割り切ってしまいそうな気がする。
「俺の身を、守ろうとしてくれたんだよな」
「はい、マスターの身の安全は最優先事項……たとえ、その意に背いてでも、私は貴方の命を守る」
勝手なことをしやがって、とは口が裂けても言えないな。ヒツギだって、同じ判断をしたワケだし。あの時、現実を見ていないのは俺だけだった。
「俺のために、戦ってくれてありがとう」
「私は彼女に負けた。私の戦いは無意味でした」
サリエルがどんな風にリリィに負けたのか、ヴィヴィアンが目撃していない以上、俺には全く分からない。だが、いくら使徒の力を失ったとはいえ、類まれな戦闘能力を誇るサリエルを相手に、リリィだって楽勝とはいかなかったはず。きっと、命がけの激戦だったに違いない。
「何も、気にすることはない。戦いはもう終わった。俺もお前も無事だったんだから、それだけで十分だろう」
「……はい、マスター」
肯定するものの、サリエルの表情がどこか納得いかなさそうに見えたのは、俺の気のせいだろうか。
彼女なりに、リリィに負けたことが悔しいのかもしれない。使徒の力があれば楽勝だったのに、とか、うん、思うわけないな。
ちょっと気にはなるが、下手に突っ込むと藪蛇になりそうだからやめておこう。俺としては、微妙に責任と負い目を感じる話もあることだし。
「ところで、話は聞いているかもしれないが……その、なんだ、俺はリリィを取り戻した。戻れば、一緒に住むことになるけど――」
「問題ありません」
元より承知、と言われれば、まぁ確かに、サリエルを連れてスパーダに帰った頃は俺だって普通に『エレメントマスター』のメンバーで生活していくつもりだったけども。
「リリィ様は、すでに私をメイドとして受け入れる意思を表明しています」
「いや、リリィじゃなくてお前がどうなんだってことを聞いたんだが」
「争った者が互いに遺恨と呼ばれる感情を抱くことは理解している。ですが、私にそのような感情はありません。マスターが気に掛けるほどの心理的問題は一切ない」
「こういう時、お前が無感情で本当に良かった、って思ったらダメなんだろうな男として……」
すみません、ちょっと本気でサリエルがこの性格で良かったと俺は思ってしまった。いやだって、リリィとフィオナに対して、二人とも愛している! と豪語するし、絶対に離すつもりはない、と覚悟もできている……だがしかし、サリエル、そう、コイツだけは非常に微妙な立場にあるから困りものなのだ。
俺にとってサリエルは特別な存在である。だが、付き合いたいとか、結婚したいとか、そういう純粋な恋愛感情ではない。
単なる恋愛関係にはないが、無理を通して奴隷にして、メイドとして傍に置いているし、何よりも、最初に一回やらかしてしまっている、というのがさらに問題と関係性を複雑化させている。
だから単純に、リリィとフィオナの二人と共に、三人目としてサリエルを愛して囲ってやる、みたいなことにはならないのだ。でもメイドだから、一緒にはいると……ああ、もう、サリエルの立場って、一体なんなんだ!
「マスターは、何も気にする必要はありません。私はただ、貴方の傍にいるだけ」
まさか、気を遣われてしまったのだろうか。サリエルをして気を遣わせるとは、よほど困った顔をしていたのか俺は。
だとすれば、実に恥ずかしい。だが、恥ずかしついでに、ここは思い切って聞いてみよう。
「なぁ、サリエル……俺の選択は、やっぱり間違っていたんだろうか」
事ここに及んで、とんでもない弱音である。
リリィにもフィオナにも、きっとシモンのように男友達にだって、誰にも語らない弱音だが――これほどまでに俺が思い悩む、現代の日本という同じ価値観を知るサリエルだからこそ、俺は聞かずにはいられなかった。
「私はマスターの判断の全てを肯定します」
「あー、そういう立場的な意味じゃなくて、第三者的な意見が聞きたかったんだ。俺の小説を酷評した時みたいに、白崎さんの感覚で俺のことを罵倒してくれて構わない」
「……」
流石にとんでもない罵詈雑言が飛び出しそうになっているのか、サリエルは物凄く考え込むように、押し黙る。まるでフリーズしたポンコツロボみたいな固まりぶりだが、時折、目をパチパチと瞬かせていた。
「……分かりません。申し訳ありません、マスター」
「いや、いいんだ。変なことを聞いて、悪かった」
「私は白崎百合子の記憶を全て持っていますが、人間としての彼女の心を理解しているわけではありません」
「そうか、そうだよな……今の話は忘れてくれ。俺はリリィもフィオナも愛しているし、お前だって手離すつもりはない。その選択に、迷いや悔いなんて、ないんだからな」
自分に言い聞かせるようにして、この話は打ち切った。
どの道、サリエルと今すぐどうこうなるという話ではない。何とも不思議な主従関係に落ち着いた俺とサリエルの関係が変化するとすれば、彼女自身の気持ち次第。黙ってメイド生活を続けてもいいし、自我に目覚めて自由を求めて出て行っても構わない。
俺は、サリエルが自らの意思で選んだことを支持しよう。
「それじゃあ、ネルのところに案内してくれ」
「はい、こちらです、マスター」
ネルが待つ一室へ、クロノが入っていくのをサリエルは見届けた。ひとまず案内の仕事は終わり、静かな廊下に一人残される。
「どうして嘘ついたの?」
声が聞こえた。
目の前の部屋の中、クロノとネルの話声ではない。室内の音は廊下にまで漏れないよう、しっかりとした防音の造りとなっている。
ならば、リリィかフィオナか。いいや、この廊下に人の気配はない。ホムンクルスの召使さえ通りがかっていない、無人。
ここにいるのは、サリエルただ一人。だから、その声はきっと、自分のものだった。
「うそつき」
目の前に、白崎百合子が立っていた。
現実ではない。
彼女が存在するのは、最早、サリエルに残された記憶の中だけ。肉体はおろか、魂の一欠けらさえ、この世に残ってはいない。
だから、これはただの幻。強いて言うならば、サリエルの頭の中に渦巻く、後悔と罪悪感。あるいは、逃避と嫌悪感かもしれない。
「私の気持ちは、分かっているくせに」
サリエルは人の気持ちが分からない。ホムンクルスという人形だから。人並みの経験をしても、人並みの感情を得られない、無感情な殺人マシーン。
だが、白崎百合子という名の、一人の恋する乙女の気持ちだけは、正確に理解できる。かつて自分であった存在。その全ての記憶を有するが故に、サリエルは白崎百合子の心を正確無比にトレースできる。
彼女ならこう思う、彼女ならこう言う、こう動く。ありとあらゆる感情と言動を、サリエルは確信をもって想像できるのだと――リリィが教えてくれたから。リリィに、思い知らされたから。
クロノに「俺は間違っていたか」と問いかけられ、サリエルは嘘を答えた。クロノの選択に対する白崎百合子の思いなど、考えるまでもなく直感的に理解できていたのだから。
「折角、聞いてくれたんだから、ちゃんと黒乃くんに伝えて欲しかったな」
やけに鮮明に映る、亜麻色の髪の少女は、寂しそうに、悲しそうに、けれど確かな不満を秘めて、サリエルへ訴える。
その姿、その表情、その雰囲気。頭の中に思い描いただけの白崎百合子の虚像は、まるで幽霊になって今もサリエルにとり憑き、その全てを見ているかのようだ。
事実、そういう前提で考え出されているだけ。もし、白崎百合子が自分の行いを見ていれば、どう反応したか。その想像が、あまりにもリアルに思い描けるからこそ、本物の白崎百合子と対話をしているように感じてしまう。
「伝える必要はない」
彼女の訴えに、サリエルは冷たく答える。
現実に言葉を発する必要はない。ただ、心の中で言う。いわば、自問自答。
「どうして?」
「マスターの意思はすでに決まっている」
サリエルもすでに知っている。リリィから話は聞いたし、何より、自分の目で彼女とクロノの戦いの結末を目撃したからこそ、分かるのだ。
クロノは、誰も諦めず、切り捨てず、愛する者すべてにその手を差し伸べ、そして、力強く掴み取った。もう、二度と離さないと。
「私も、マスターは最善の選択をし、最良の結果を勝ち取ったと判断している」
サリエルはクロノの幸せを願う。故に、ハーレムの実現は唯一の最適解なのだ。
そう、クロノという一人の男の心にとっては。彼を愛する女性達は、皆等しく、クロノへの独占欲を抱えているのは、覆しようもない事実であるから。
「それでもマスターは倫理的な葛藤を抱いている。それは自分自身の心の問題であり、自らが納得しなければ解決することはない」
「うん、黒乃くんは、今でも悩んでいるよね。二人とも愛しているだなんて、不純だって」
「故に、その選択を後悔させる要因は排除されるべき」
サリエルはクロノを肯定する。その意思の全てを。
彼がハーレムを築くことの何が悪い。それで彼の心が満たされるなら、そうするべきであり、奴隷の自分はそれを成せるよう尽力するのみ。
恋愛関係における、誠実、貞操、節操、高潔、ただ一人を愛するべき、といった文化や価値観を理解してはいる。しかし、ソレがマスターの心を苦しませるならば、守る必要はないのだ。むしろ、積極的に破るべき悪習と化す。
そう思っているからこそ、サリエルはついさっきまで殺し合っていたリリィの計画に、迷うことなく乗った。クロノのために、他のありとあらゆることを省みない、彼女の方針は見習わなければと思えるほどに徹底している。
「だから、私の気持ちも伝えなかったんだ?」
「そう、白崎百合子の嫉妬心など、マスターを惑わすだけの害でしかない」
「あはは、嫉妬しているのは、貴女のほうでしょ?」
サリエルの思考が凍りつく。
「黒乃くんが、貴女じゃなくて、私(白崎百合子)の気持ちを聞いたから、嫉妬したんでしょ。ご主人様に嘘ついちゃうくらい、悔しくって、妬ましくって……私じゃなくて自分を見て欲しい、ううん、私のことなんて忘れて欲しい。気にかけないで、思い出さないで、消え去って、この世からなくなって、なんて、随分と恨まれたちゃったね」
心が、凍てつく。
「でも、私がいないと人形の貴女は何もできない。黒乃くんを喜ばせることも、楽しませることもできない。私の記憶があるから、彼の傍にいられるし、振り向いて、見てもらえるんだよ」
氷れるほど冷たい感情はしかし、サリエルの目の前を真っ赤に染める。燃え盛る赤。嫉妬の炎。
「ね、だから、私に体を返してくれないかな。私が戻れば、黒乃くんは――」
「消えろ」
一閃。鋭い手刀のスティンガーが、忌まわしい呪いの幻影を切り裂く。
現実にそこには何もない、ただの素振りでしかない動きだが、サリエルにとって走り出した思考を振り払うには必要だった。
「ふふふ、貴女がその気になってくれれば、私はいつでも戻って来れる。それを忘れないで」
白崎百合子の幻は、そう言い残してかき消える。
「白崎百合子は、もういない。私は、貴女にはならない」
自分に言い聞かせるようにそう言い切ったサリエルは、それきり、考えることをやめた。
頭の中にしかない、妄想の産物たる白崎百合子。彼女の姿が、嫉妬の女王と化したリリィのように赤く輝いて見えたことも、気にすることはなかった。