第621話 野望
クロノが助けに来た――そんな夢のような話を、改めて聞かされたフィオナは、やはり現実感のない夢を見ているように感じたのだった。
リリィに敗れ、死んだと思った。あるいは、生きてはいても、もう二度と目覚めることはない。
しかし、不意に目覚めの時は訪れ――気が付けば、今はこうして、王族御用達と言っても信じられるほど立派な造りのスイートルームで、のんびりと熱いお茶を飲んでいる。
「……はぁ」
憂いを秘めた溜息は、一体、何に対するものなのか、自分でも分からなかった。
現実を理解していながらも、フィオナの頭は回らなかった。きっと、こんな状況は想定していなかったからだろう。リリィに勝ってクロノを手に入れるか、それとも、リリィに負けて死ぬか。
敗北したのに死ぬことはなく、さらに、リリィと和解しなければいけないという、この状況。
万一に備えて、クロノが救出作戦、あるいはリリィ討伐のために、ヴィヴィアンという情報を残しはしたが……それでも、こんな結末は想定外であったのだ。それはきっと、自分だけでなく、リリィもサリエルも、ネルだって、誰も望まなかった。
いや、ただ一人、クロノだけが願い、そして、それを叶えた。
「まさか、クロノさんに負けるとは」
悔やむべきか、喜ぶべきか。何を思えばいいのか分からない。けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「……あ、これ美味しいですね」
お茶とセットで用意された、山盛りのお茶菓子の一つを口に放り込むと、そのほどよい甘さが体に沁みた。
なにはともあれ、生きていて良かった。そう、フィオナは心から安堵の気持ちを抱いた。
「――失礼するわ。ウチの子が煎れたお茶の味はどうかしら、フィオナ?」
俄かに扉が開かれると共に、リリィが現れる。
ノックがないのは、そもそもこの部屋は彼女のものだから。
分かっていながらも、落ち着いた心にさざ波が起こる。
「美味しいですけど、サリエルほどではないですね」
「そう、もっとよく練習させておくわ」
平然と答えたフィオナだが、対するリリィはさらに悠然としつつ、目の前の席に腰をおろした。
最も見慣れた美しい少女の姿。そう、リリィの羽は妖精本来のものに戻っており、禍々しい赤い蝶の羽はなくなっていた。ついでに、『黒ノ眼玉』が嵌っているはずの左目も、元通りに治ったかのように、エメラルドグリーンの瞳となっていた。
「意外に早い、再会となりましたね」
「ええ、クロノのお陰でね」
知っている。
リリィとクロノの戦いの顛末は、全てこの目で見届けたのだから。
目覚めた直後のフィオナには、立っているのがやっとというほどの体力しか残っていなかった。少しでも力があれば、シモンよりも先に両者の戦いに、無粋も無茶も承知で介入しただろうが、幸か不幸か、その時のフィオナはただ傍観者として見届けることしかできなかった。
「さて、状況は理解しているわよね?」
「はい、一通りは」
リリィと顔を合わせたところで、今更、事情について問いただすことは何もない。
故に、彼女の聞くべきことは一つだけ。
「リリィさんは、どうするつもりですか」
「うん、それを話しに来たわ。クロノが目覚める前に、貴女とは話をつけておかないといけないから」
ありていに言ってしまえば、いわゆる一つの元鞘、といった状況なのであろう。
しかしながら、これほどの戦いを繰り広げておきながら、何事もなかったかのように元通りの関係に戻ろうというのが無理な話である。これで、何の話し合いもなく、目覚めたクロノと、リリィとフィオナがそのまま一堂に会すれば、再び泥沼の修羅場に陥る危険性もあるだろう。
「私はクロノを愛している。だから、彼の願いを叶えるわ」
クロノの願い。それはつまり、リリィもフィオナもサリエルも自分のモノにするという、言い訳しようもないほどストレートなハーレム願望である。
「……本当に、リリィさんはそれでいいのですか?」
フィオナでなくとも、女性ならば聞いて当然。疑って当たり前の言葉だろう。
「ええ、だって、私は負けたもの」
しかし、リリィは一片の悔いもないかの如く、堂々と言い切ってみせた。
「そう、ですか」
どうして、だとか、そんな簡単に、だとか、フィオナはそれ以上に疑いの言葉は出なかった。ただ、リリィは本気なのだと理解してしまったから。
自分にテレパシーなどないけれど、不思議と彼女の気持ちが分かる。あるいは、これが友情のなせる技なのだろうか。
「フィオナ、貴女はどうかしら。クロノのことを、今でも愛している?」
幻滅した。普通なら即答する。
男の堂々たるハーレム宣言など、女性からすれば千年の恋も冷めるというものだろう。そんなことを言われるくらいなら、まだ黙って浮気される方がマシというもの……だがしかし、リリィの愛は永遠で、そして、自分の愛もまた彼女に劣らないという自負がある。
たとえ、クロノを賭けた戦いに敗れたとて、この燃え盛る太陽のような熱い気持ちが衰えることは決してないのだから。
「私はクロノさんを愛しています。ですが――」
「いいの、分かるわ、フィオナ。愛する気持ちと、他の女を許すのとは、また別の問題だものね」
正しく、その通り。
愛しているからといって、無限に相手の欲望を満たすことが是というワケではない。ただ一方的に尽くすだけの関係、それは最早、単なる奴隷である。
「だから、私は貴女を説得しにきたの」
「説得、ですか?」
「ええ、クロノのハーレムを実現させるために、ね」
その微笑みに、ゾクリとさせられる。
フィオナは反射的に、今の自分がどこまで戦えるか、シミュレートしてしまっていた。
リリィの迫力に一瞬とはいえ、怯んでしまった恐怖心はしかし、空虚な心に闘志の火種を灯す燃料へと即座に代わる。
「フィオナ、貴女にはしばらくの間、クロノの恋人でいて欲しいの」
「リリィさんは?」
「んー、私は婚約者」
なるほど、そう来たか。微妙に肩書きを変えてくるあたり、リリィのプライドが窺える。
「フィオナは恋人として、私は婚約者として、そしてサリエルは奴隷のままで、クロノといればそれでいい。ひとまず、今のところは、ね」
「随分と曖昧というか、中途半端な関係ですね」
だが、クロノにとってはその方がいいだろう。それくらいは理解できるものの、納得に足る理由かと問われれば、即座に頷きがたい。
「まだクロノと結婚できない理由があるの」
「別に、スパーダで重婚は禁止されてはいないはずですが?」
むしろ、明確に法として禁じている国の方が少ないだろう。基本的に男女関係には厳格な十字教でも、産めよ増やせよのスローガンのもと、子供を産むことに否定はないのでハーレムも暗黙の了解といったところ。
だが、そういうルール的な問題を言っているのではないと、リリィの顔をみればすぐに分かった。
「結婚すること自体は簡単よ。むしろ、責任感にかられてクロノの方から言いだしそうだけれど……ねぇ、フィオナ、私達がクロノと結婚した先には、なにがあると思う?」
「幸せ、でしょうか」
「そうよ。そこまで進んでしまえば、もう後戻りもできないし、きっと、傷一つつけられないほど、大切な幸せがそこにはある――だから、そこで終わってしまう」
「終わる? 何がですか?」
「結婚したら、クロノは戦えなくなるわ」
それはクロノ自身の気持ちの問題ではなく、状況の問題である。
たとえば、このまま帰って、リリィとフィオナはクロノと結婚したとしよう。果たして『エレメントマスター』の新婚生活がどのようなものになるかは分からないが、それでも面白おかしい幸せな日々を送れるだろう。
そうして過ごす内に、子供だってできるかもしれない。
「そんな時に、十字軍が攻めて来たらどうなるかしら」
「また、ガラハドに行くでしょう」
「ええ、悩んだ末に、クロノは行くでしょう。でも、もしも一人でも子供が生まれていたりすれば……」
「まさか、クロノさんが逃げるとでも?」
「フィオナ、私達が愛しているのと同じように、クロノもまた、私達のことを愛してくれている」
愛しているから。一番大切だから。何よりも守りたいと願ってしまう――故に、ガラハド戦争の英雄『黒き悪夢の狂戦士』でさえ、戦場から逃げ出す理由に足る。
「クロノだからこそ、悩み苦しんだ末に、スパーダを捨ててでも、私達の安全を優先する決断を下すはず。そして、クロノに逃げようなんて言われたら……ふふ、貴女、断れるかしら?」
「あっ、それは無理ですね」
あのクロノが、スパーダの平和を諦めてでも自分を優先してくれたなら、喜んで彼の手をとり地の果てまでだって逃げて行ける。
そう、リリィもフィオナも、クロノほどスパーダを、ひいてはパンドラ大陸を十字軍の魔の手から守ろうという使命感はないのだから。クロノが正義に生きる男だとすれば、二人は愛に生きる女である。無辜の民という名の、顔も知れないその他大勢を、自分の命を賭けてまで守る義理など彼女達には欠片もない。
「私達はそれでもいい。一生、十字軍から逃げ回るような生活でも、私達なら大丈夫だし、クロノがいるなら幸せよ。けれど、逃げた先にある未来はきっと、死ぬまでクロノを悩ませることになる」
愛と平和を天秤にかけ、クロノが愛を選んだとしても、それで平和に対する全ての未練も後悔も断ちきれるわけではない。
クロノは一生、自分を責め続けるだろう。もし、俺が戦い続けていれば、と。自分自身の選択に対する悔いだからこそ、伴侶たるリリィにもフィオナにも、打ち明けることもない。一番大切だと選んだ二人だからこそ、言えるはずもないのだ。
「私はそんな思いを、クロノにはさせたくない」
「ですが、そのためには――」
「ええ、簡単なことじゃないわ。だから、私は覚悟を決めた」
今までだって、リリィもフィオナもパンドラの平和のために戦ってきたのではない。ただ愛する男のために、尽くしてきただけのこと。
しかし、今だからこそ、彼女達にも戦う理由ができた。
「十字軍を倒すのですか」
「ええ、彼らはクロノにとって一番の悩みの種であり、私達の幸せな未来にとって邪魔となる最大の敵……だから、十字軍は殲滅する。使徒も殺す。クロノと私のためにね」
「本気ですか」
「言ったでしょう、私はクロノの願いを叶えると」
クロノには英雄願望も大陸統一の野望も、あるわけではない。ただ、これまで過ごした日々と、出会った人々との結果、自然と生まれた守護の意思。彼は、みんなを守りたいのだ。
しかし、そんなクロノもまた一人の人間であり、ただの男である。自分のありとあらゆる全てを犠牲にしてまでも、正義や平和という大義のために尽くすことにも耐えられない。リリィとフィオナに愛を誓った今、クロノは究極の選択を迫られた時、きっと平和を犠牲にしてでも愛を選ぶ。
「つまりクロノさんの願いとは、私達と幸せな生活を送ることと、十字軍を倒して平和をもたらすことの両方ということですか」
それを欲張りと呼ぶべきか、それとも、人なら抱いて当然というべきか。望むだけなら、願うだけなら、誰でもできる簡単な理想はしかし、だからこそ決して実現しえない夢に過ぎない。
「そう、クロノにはまずパンドラを救ってもらう。だから――」
けれど、もし、そんな大望を個人が叶えたとしたなら、その人物はパンドラにおいては、こう呼ばれるだろう。
「――私が、クロノを魔王にしてあげるの」
クロノ魔王計画。
それがリリィの新たな目標、いや、野望というべき堂々たる宣言であった。
「そう、ですか……そうですね……いいでしょう、リリィさん」
「理解してもらえて、嬉しいわ」
「迷いがない、といえば嘘になりますが、きっと、私にはもうその道しか残っていないのだと、自分でも分かっていますから」
フィオナはリリィに負けた。そしてリリィはクロノに負けた。自分が唯一無二の恋人として、彼を独占することは、この先もう二度とないだろう。
「いいのよ、フィオナ。我慢できなくなったら、また私が相手してあげる」
「しませんよ。次こそ、命はないでしょうから」
リリィとフィオナ、二人とも生き残ったのは奇跡としかいいようがない。もう一度、嫉妬に駆られた独占欲で戦えば、必ず命を落とすだろう。それが、フィオナかリリィかクロノか、それとも全員か。
曲がりなりにも命拾いしたフィオナは、今だからこそ、死によって永遠にクロノと別たれることに恐怖を覚える。
「そうね、私ももう貴女と、いえ、貴女達と戦いたくはないわ。だから、これからはクロノのために手を取り合って協力していきたいものね。今までみたいに」
「『エレメントマスター』再結成、ですね」
そうして、リリィとフィオナは握手を交わす。
「うん、クロノの隣は私達二人のモノよ」
「ですが、それも安泰というワケではないのでしょう、これからは」
フィオナとて、クロノが魔王への道を歩むことの意味は理解している。そして、それを推し進めるリリィの覚悟もまた、どれほどのものであるか。
「ええ、必要とあらば、私は何人でも、他の女をクロノのモノにしてみせるわ」
「でも、彼の隣を譲る気はない……魔王のハーレムになるのなら、せめてその頂点にはいないと、耐えられそうもないですからね」
「そういうこと。私はね、フィオナとなら上手くやっていけると思うの。だって、親友だから」
「そうですね、親友ですから」
白々しい友情の言葉。けれど、お互いにとってクロノの隣に座るのが、リリィであり、フィオナでなければ、きっと心から納得することはないであろう。
今更、他の誰にも譲る気はない。
「サリエルはどうですか」
「あの子については、心配いらないわ。サリエルは奴隷、決して、主人の隣には立てないもの」
「ですが、彼女は――」
「だからこそ、よ。あの子のライバルは私でも貴女でも、他の誰でもなく、ただ、自分自身だけだから」
白崎百合子の呪い。
それについてリリィが語れば、流石のフィオナも合点がいった。
サリエルが何かを抱えているらしい、ということはフィオナもいわゆる一つの女の勘というもので察してはいた。しかし、その正体を明確に暴いて見せたリリィの手腕は……正直、戦慄を禁じ得ない。
同時に、いかにしてリリィがサリエルを倒したのかも、容易に察しがついたのだった。
「そういうワケだから、サリエルは私達にとってもう邪魔者にはならない。彼女は自分が満足いくまで、クロノの奴隷で居続ければいい――ふふっ、だから、あの子は二つ返事で私の計画に賛成してくれたわ」
「ああ、参りましたね、先にサリエルへ根回ししているとは」
リリィはフィオナよりも前に、サリエルにクロノ魔王計画を持ち出していたのだ。
クロノの願いを全て叶えるこの野望は、サリエルにとっては反対する余地がない。たとえクロノがこれから沢山の女性を囲う本物のハーレムを築く可能性があるのだとしても、サリエルならば、奴隷という立場と、そして何よりも白崎百合子の呪いに囚われたその心が、否定の意思を作ることはない。
そうして、リリィとサリエルの二人の意見が一致していれば……フィオナが反対を表明したところで、形勢は不利。少なくとも、クロノにとって三人とも平等に愛すべき存在。ならばこそ、その発言権は人数差によって変わってくる。
リリィはすでにして、自分に有利な状況を作ってから、フィオナに話を持ちかけたということだった。
「それでも私が嫌だと反対していれば」
「大丈夫、フィオナなら必ず分かってくれると信じていたから」
「なるほど、私に対してもすでに餌を用意していたということですか」
「いやだわ、貴女のためを思って考えたのよ――クロノと子供が作れる方法を、ね」
撒かれた餌だと分かっていても、食いつかずにはいられない。
フィオナは思わず溜息をついてしまう。
そのことは、今この場で聞くべきことではない。冷静にそう思うまで、一拍の間を要してしまった。
「本当に、敵いませんね……」
「うふふ、ありがとう」
自分は戦いが終わって呆けてしまっていたというのに、リリィは早くも自らの計画のために動き出していたのだから。
堂々と褒め言葉として受け取る笑顔のリリィを前に、フィオナとしては、自らの不甲斐なさを恥じ入るのみだ。
「それで、具体的な計画は?」
「そうね、当面はこれまでのように自分達を鍛えることと、このシャングリラもあるから本格的な戦力の増強も考えているわ」
「傭兵団でも立ち上げますか?」
「それもいいかもね」
やれること、やるべきことは沢山ある。十字軍打倒を目指すなら、いくらでも備えることはあるのだから。
「ああ、それから、これはまだ構想段階でしかないけれど――」
「何ですか?」
「ネルと結婚させて、アヴァロンを貰おうと思うの。どうかしら?」
そしてリリィは、満面の笑みで特大の爆弾を炸裂させた。