第612話 クロノVSリリィ(1)
「――クロノっ!!」
「すまない、待たせたな」
リリィは大観覧車の天辺から、俺が出てきた白亜の城の正門前へとキラキラ赤い輝きを発しながら、軽やかに舞い降りる。
酷く驚いたその表情は、マクシミリアンの囮が上手くいったことの証。こんなにリリィを驚かせたことなんて、思えば、初めてかもしれない。
「その、格好は……」
「これが一番、相応しいと思ってな」
リリィは今日この日について、用意も準備もしなくていいと言っていたけれど……結婚する、というのなら、やはり、それなりの格好をしないといけないだろう。だからせめて、俺もリリィと再会するに相応しい格好をしてきた。
『バフォメット・エンブレス(悪魔の抱擁)』。リリィとイルズ村で過ごした、あの頃に着ていた、俺の最初の防具。懐かしい思い出の一品にして、駆け出しの冒険者にしては勿体ないほどの高級品だった。
けど、俺も今やランク5で、貴族街に屋敷を持つ、ちょっとした小金持ちだ。大都市スパーダで、金さえ積めば、コイツを手に入れることはそう難しいことでもない。
そんな思い出的な理由は実は二の次で、最初からマクシミリアンによる囮作戦を考えていた俺は、彼女に代わる防具が必要だと思い、別なモノを用意しようにもどれがより良い性能なのか吟味する時間もなかったので、信頼と実績の『|バフォメット・エンブレス(悪魔の抱擁)』を買い求めたというだけの話だったりもする。
そうして、俺は二着目の『バフォメット・エンブレス(悪魔の抱擁)』を纏い、リリィとの最初で最後の大ゲンカに臨んだ。
「ああ、そう、そういうこと……まんまと騙された、というワケね」
そうだ、マクシミリアンを装着せず、俺は最初からこの悪魔のローブに身を包んでいたというだけのこと。
「悪い、とは言わない。こうして、リリィと面と向かって会うには、全て必要なことだったから」
「ううん、いいのよ。だって、こうしてクロノが私に会いに来てくれたんだもの」
うっとりしたような笑顔のリリィに、なるほど、彼女の笑顔を見て初めて感じる、このプレッシャー。
本当に、人質の救出を最優先にして良かったと思った。今のリリィは、いざとなれば平気でフィオナの命を盾にできるだろう。
俺の知る、いや、俺が信じていたリリィは、絶対にやらない悪逆非道な行為。けれど、そんなのは単なる勝手な幻想で、本当の彼女は目的のためなら手段を選ばない冷酷な心を持っているのだと……今、こうしてその感情を包み隠さず露わにするリリィと面と向かい合って、初めて実感できた。
「すまない。本当は、もっと早く会いに来るべきだったのに。探しても見つからなかった、というのは、言い訳に過ぎないよな」
「私が見つけて欲しくなかったから、それはいいの。あの時、すぐにクロノに引きとめられて、そのまま一緒にいてしまったら……きっと、私の心は壊れていたから」
あのまま俺と共にいるということは、リリィに無理を強いるということだ。あのサリエルと一緒にいろと。そして、フィオナと結ばれた俺の傍に居続けろと。
確かにそれは、俺が望む最も理想的で、最も楽な関係性だ。
だが、それは同時にリリィの一途な恋心を全て無視したモノに過ぎない。そりゃあ、壊れるに決まっている。
そんなことを、俺は望まない。
だとすれば、この状況こそが俺が望むべき最善の道だったとでもいうのか。
「なぁ、リリィ、俺はいまだに、あの時、どうするのが一番良かったのか、誰も傷つかずに終われたのか、分からないままなんだ」
「悩む必要なんかないわ。だって、それはもう過ぎたことだし、何より、私も、フィオナも、サリエルだって、自分の思うがままに行動したのだから。全ての責任をクロノに被せようなんて、誰も思っていないし、そもそも、後悔なんてしていないのよ」
そうなのだろうか。この期に及んで、今の状況を悔いているのは俺だけなのか。
悩んだところで、意味はない。リリィが言う通り、これは全て、もう過ぎ去ってしまったことなのだから。
「誰もが、心のままに行動した、悔いなんかないというのなら、それを信じさせてくれ。今の俺には、悩み、なんていう雑念に囚われるわけにはいかないからな」
俺もまた、心を決めて、この場に立っている。後戻りは、もうできない。
「そう、それで……クロノは何を望むのかしら?」
「今更、戻って来いとは言わない」
人質は救出した。カイ、ファルキウス、ルドラ、セリス、全員がリリィを前に手酷い敗北を喫したようだが……まだ、息はある。かろうじて、ギリギリだが、生きているのだ。
リリィはまだ、誰も殺してはいない。
だから、今ならまだ引き返せる。取り返しなんていくらでもつく。ただ元の通り、『エレメントマスター』の仲間として、戻って来てくれ――そう、説得の言葉を放つのは簡単だ。そして、それはあまりに安易であるが故に、何の意味も持ちはしない。
「リリィを責めたりもしないし、俺も許しをこうつもりもない」
この場においては、もう、言葉を重ねることにあまり意味はないだろう。
だから、単刀直入に、俺は俺の望みを口にした。
「リリィ、愛している――だから、俺はお前を奪いに来た。力づくで、な」
彼女の愛も意思も、全てねじ伏せて、手に入れてみせよう。
そんな、男の傲慢ここに極まる発言に、果たしてリリィの反応は。
「ふふっ、はは、あはははは! ああ、まさか、こんなに早く、クロノの口から愛の言葉が聞けるなんて!」
高らかに、リリィの笑い声が響きわたる。
そして、その輝くエメラルドの瞳でもって、真っ直ぐ俺を見つめた。
「でもね、私はとっても嫉妬深いから……私を、私だけを愛してくれなきゃ、嫌よ?」
「どうやら俺は、とても欲深いらしい。リリィも、フィオナも、サリエルも、全て手に入れる――全員、俺のモノだ」
お互いの主張を交わすには、もう十分だろう。
「なぁ、簡単な話だろう。俺はお前が欲しい。お前は俺が欲しい。どっちがどっちのモノになるか――」
「勝負しよう、というワケね。うん、いいわ、シンプルで実にいい」
恨みはない。利害もない。
ただ、お互いの願いを叶えるために、戦う。最愛の人と、戦うのだ。
狂っている?
いいや、違うな。これが、俺の、俺達の、愛の形なんだ。
「さぁ、来て、クロノ」
「ああ、行くぞ、リリィ――」
先手必勝。
俺は一も二もなく、真っ先に右腕を振るう。その手に、呪いの大鉈も、悪食の牙も、何も、握られてはいない。
ただの素手。だが、今の俺に必要なのは、その鋭くつき立てた指先一つ。
「――ぐうっ!」
俺は自らの左目を、この手で抉った。
「っ!?」
流石のリリィも、この突然の自傷行為に驚く。
俺だって、やりたくはなかった。正直、かなりビビってたし、っていうか、くそ、めっちゃ痛ぇ……早くも、自分の無茶な作戦に後悔しかけている。
「うっ、くっ……ははっ、ちょっと潰れてる。なかなか、綺麗には取れないもんだな」
掌の中で、血塗れになって抉り取られた真紅の瞳を持つ眼球を、俺は隻眼の黒目で見た。
「ああっ、クロノ、なんてことを! 大丈夫!? すぐに私が治してあげるからね!」
「おいおい、待て、リリィ! いきなり勝負を投げ出すんじゃあない!!」
慌てて駆け寄って来そうなリリィを、俺は止める。
よほどショッキングな光景だったのか、いや、まぁ、リリィは俺のことが憎くて戦っているワケではないのだから、予想外に傷つくと焦ってしまうのだろう。だとしても、ちょっと取り乱しすぎだろ……リリィ、真面目に戦う気があるのかよ。
呆れ半分、素で心配してくる彼女の反応に嬉しさ半分で、俺は待てのポーズで制止を求めた。
「でもぉ……」
「落ち着け、これは俺の作戦だ。この左目を抉り取ったその意味、リリィなら分かるだろう」
完全に掌で左目を握り潰し、グシャグシャになった残骸を影の中へと放り捨てる。
「これで、神の眼はなくなった」
「……魔王の加護を、封印したのね」
ようやく落ち着きを取り戻したリリィが、真意を察した。
そうだ、俺は自ら、ミアから貰った神の眼を抉り出すことで、与えられた六つの力を捨てたのだ。
実際のところ、この左目が加護発動のキーになっているワケではない。もし戦闘中に敵が俺の左目を潰したとしても、恐らく問題なく加護は発動するだろう。
神と繋がるのは魂に開く門だ。目を潰したところで、完全に、俺とミアの繋がりが失われることはない。
だからこれは、俺自身の意思で果たす、一種の封印術ということになる。左目を潰したのは、そのためのキーアイテムであり、儀式のようなもの。
ただ、俺の気持ち一つで封じているだけなので、そう長くは持たないだろう。だが、今はこの一戦の間だけ、もってくれれば十分だ。
「フィオナとの戦いは見た。リリィ、もしかして、俺より上手く加護を使いこなしているんじゃないか?」
「そんなことないわ、クロノが一番よ」
お世辞なのか本気なのか、全く分からないリリィの笑顔。
調子が狂う。いや、あまりにいつも通り過ぎて、戦いの最中にあることを忘れてしまいそうになる。
けれど、左の眼窩から発する鈍い痛みをあえて意識して、集中を取り戻す。
「でも、いいのかしら。こんなことをすれば、クロノも加護が使えないわよ」
魔王の加護の強力さは、その使い手である俺自身が一番よく知っている。だからこそ、その最大の武器をリリィに利用されるのは厄介なことこの上ない。
ならばいっそのこと、無い方がマシ。という戦闘の上でのメリットとデメリットの比較なんてのは、二の次の理由に過ぎない。
「この戦いに、魔王の加護は必要ない。俺は、最後の試練に挑みに来たんじゃない。ただ、一人の男として、好きな女を手に入れるためだけに、ここへ来た」
ただ、この左目が示す、リリィの胸元に輝く赤い光を消したかった。証を捧げよ、としつこく訴えかける神の声の如き、忌々しい輝きを、もう一秒たりとも見たくなかった。それだけのこと。
魔王ミア、お前に邪魔はさせない。
これは、俺とリリィだけの戦いだ。
「ああ、伝わるわ、クロノの気持ちが。愛してる、ちゃんと私のこと、愛してくれているんだって――」
強く明滅する妖精結界の赤い光。禍々しい蝶の羽を羽ばたかせ、リリィの両手に、二つの燐光が弾けた。
瞬きするよりも早く握られていたのは、白と黒の二丁拳銃。アレが古代兵器『メテオストライカー』と『スターデストロイヤー』か。
二つの銃口は、すでに俺へと向けられていた。
「――でも、足りないの! まだまだ足りない! さぁ、クロノ、私にもっと愛をちょうだい。もっと、もっとぉ、私を愛してっ!!」
「喰らえっ、『極悪食』!」
迸る二筋の閃光を前に、『極悪食』を抜く。
魔力を喰らう悪食の牙は、攻撃魔法に対してはこの上ないほど頼れる盾となる。
「――ぐうっ、これは、なかなかキツいな」
この悪食の刃をもってしても、リリィの光魔法を真っ向から防ぐのは厳しい。なんて魔力密度だ。生身で直撃すれば、俺の体でも一発で黒焦げになりそうな威力。
連発されては叶わない。
巻き上がる粉塵に紛れて、ひとまずは開けた城の正門前から退避。大型のアトラクションが立ち並ぶエリアは、それだけ遮蔽物が多く、光魔法による遠距離攻撃がメインであるリリィの射線から逃れるにはうってつけだ。
俺も魔弾で遠距離攻撃にはそれなりの自信を持っているのだが、流石に弾幕シューティングゲームのボスみたいな攻撃をぶっ放すリリィを前にすると、正面切って撃ち合いしたいと思わない。開けた場所は、俺には不利だ。
「うふふ、隠れてしまったの、クロノ。恥ずかしがらないで、出てきてちょうだい」
ひとまずリリィの目を逃れて、俺は咄嗟に飛びこんだジェットコースター乗り場らしき建物で息を潜める。
リリィは本当に俺を見失っているのだろうか。実は監視カメラが仕掛けてあって、ランド内ならどこに逃げ込もうと全て筒抜けだったりとか……いや、フィオナ達の救出に成功した以上、それはないか。
だが、姿が見えなくとも、彼女から発する圧倒的な魔力の気配が、俺にプレッシャーを与え続けてくれる。この感覚、今のリリィは使徒並みの魔力を持っているかもしれない。
「勇んで来たはいいものの、コイツは想像以上の厳しさだ」
リリィと戦うのは、俺が最後だ。
フィオナはリリィとの死闘で、彼女の力を限界まで引き出し、その情報をもたらしてくれた。
『ブレイドマスター』の仲間達は、今この場でリリィと戦い、彼女に消耗を強いた。
今のリリィには、もう魔王の加護は使えない。
『女王鎧』と呼んでいた、フィオナ達を利用してその武技と魔法を再現する脅威の合体魔法も、彼女達を解放した以上、使うことはできない。
いまだにマクシミリアンを凍結しているから、シャングリラの副砲をはじめとした古代兵器を使うだけの魔力供給もない。
そして、彼女の隠し玉であろう、戦人機『スプリガン』もルドラが体を張って潰してくれた。
情報も揃ってる上に、リリィにも手札を切らせている。最後に戦っている俺が、最も恵まれた有利な戦況で挑んでいるのだ。
だというのに、リリィに勝利できるビジョンがはっきりと浮かんでこない。
「それでも、俺は――」
必ず、この戦いを乗り越えてみせる。俺は、俺が望む全てを手に入れる。ミアも、リリィも、フィオナも、誰の意思も思惑も関係ない。ただ、俺の欲望を貫き通すために。
「――俺は必ず、リリィを倒す」
さて、早くもかくれんぼに飽き始めたお姫様がお待ちだ。
覚悟を決めて、仕掛けるとしよう。