第608話 妖精姫VS吸血王子(1)
ネヴァーランドは、パンドラ大陸の北西部にある、小さな国だ。険しい山々を越え、広大な森林地帯を抜けた先に、ようやく辿り着く僻地にある上に、閉鎖的な態度の小国はしかし、パンドラ大陸では有名だった。
夜の王国。吸血鬼が支配する、アンデッドの国として。
「キャァーっ!!」
月明かりが照らす、静かな湖の畔に立つ大きな洋館。そこから、うら若き乙女の悲鳴が響きわたる。
無理もない。その叫びを上げた少女の目の前では、今正に、うら若き女性の首が切り裂かれ、致死量としか思えない大量の鮮血が噴き出たのだから。
「ふふ、恐れることはない」
血のシャワーを浴びて、真っ白い華奢な体を赤く染めてゆく少年は、悲鳴を上げる少女の反応を実に満足そうに微笑みながら、そんなことを言った。
「あ、貴方は、何て事を……こんな簡単に、人を殺すだなんて……」
目の端に大粒の涙を浮かべて、少女は信仰する女神の名前を唱えることしかできなかった。それも仕方のないことだろう。彼女は、まだまだ駆け出しの、新米の神官少女。
切れ味鋭い刀、それも、明らかに呪いの気配を漂わせる恐ろしい刃でもって、大きく首を裂かれた傷など、修めた僅かな治癒魔法ではとても癒し切ることはできない。
神官少女は、首を切られて仰向けに倒れた、年頃の綺麗な顔をした女性の傍で、震える手を合わせて祈りを捧げた。
「案ずるな、彼女はすでに、我が眷属として迎え入れられた」
血塗れの少年がそう言った途端、女の体がビクンと大きく跳ね上がった。
「ヒイっ!? う、嘘、そんな……こんなに早く、アンデッドになるなんて……」
神官であるが故に、宿敵ともいえるアンデッドモンスターに対する生態には詳しい。だからこそ、殺された直後にアンデッドとして蘇ることなどありえない、という常識に反した光景に、彼女は息を呑む。
「私の舌を満足させてくれる血の味の持ち主には、敬意を払い、こうして眷属にしている」
少年がスっと手を掲げると、首元からあふれ出た自らの血で体を汚す女は、傷の痛みも死の恐怖も全て無かったかのように、ただ、ベテランのメイドが如く穏やかな微笑みを浮かべながら、一礼して後ろへと下がった。
彼女はすでに、血を吸った吸血鬼を主とする、奴隷と化している。
「なんて、おぞましい! 貴方は、人の命をなんだと――」
「ああ、そうとも。人の命、特に、人間の命というのは弱い。何もせずとも、僅か六十年もすれば、老いて死んでしまう……けれど、私のモノになれば、その若さも、美しさも、強さも、そのままに長らえることができる」
自慢げに両手を広げる少年の背後には、何人もの男女が立っている。
女性は誰もが見目麗しく、妖艶な美女から可憐な少女まで様々。男性もまた、筋骨隆々の逞しい戦士のような大男から、女性と見紛う華奢な美少年もいる。
彼らは、全て少年が支配しているグールである。そして、首を切られたばかりの女性も、たった今、彼らの仲間入りを果たしたのだ。
「ふふふ、神官の血を吸うのは初めてなのだが……安心するといい、私の見立てでは、まず間違いなく、君は『合格』だ」
慈しむように優しく笑う少年の口からは、鋭い二本の牙が覗く。それは、これ以上ないほど分かりやすい吸血鬼の証。
そして、その牙を見れば最後。血に飢えた恐ろしい怪物は、必ずや、獲物にその牙を突き立てる。
「イヤッ! キャァアアアアアア――」
二度目の悲鳴はしかし、突如として響きわたった轟音によってかき消された。
バァン! と木端微塵に砕け散る、両開きの扉。
飛び込んできたのは、胴が真っ二つに両断された、鎧兜を纏った兵士の死体。この洋館を守る、吸血鬼の騎士であった。
「招かれざる客か。いいだろう、そういうサプライズもあった方が、血の宴も盛り上がる」
クツクツと笑みを漏らす少年の視線は、真っ二つになって死んだ配下などではなく、ソレを踏みつけて堂々と入室してくる男へと向けられていた。
「お前が、ゼルドラス・ヴァン・ベルモントだな」
真っ赤な髪の、大男であった。声音は静かに、けれど重く、有無を言わせぬ威圧感がある。だが、それ以上に、ギラギラと輝く黄金の瞳が、見る者を委縮させるほどの圧倒的な眼力を放っていた。
「如何にも、私がゼルドラス、このネヴァーランドの王子だ」
ゼルドラス・ヴァン・ベルモントは、この恐ろしくも静かな夜の王国を継ぐ、王子としてこの世に生を受けた。正統な血筋と、生まれながらにして強い加護の力を宿す彼の誕生を、誰もが祝福した。
だがしかし、その生まれのせいか、あるいは加護の影響か、それとも生来の気質であったか、理由はどうあれ、ゼルドラスは十歳にして、血の快楽に溺れた。
吸血鬼は、決して毎日、生血を吸わなければ生きてはいけない弱い生き物ではない。彼らが血を吸うのは生命を保つためではなく、力のためである。
生きた人から直接、牙を立てて吸う鮮血。そしてそれが、強い者、美しい者、貴き者、神に愛されし者であれば、さらに強い力を吸血鬼へと与えてくれる。
その吸血による力の増大は、この世のどんな快楽にも勝るという。
吸血鬼の国であるネヴァーランドであっても、人から直接、血を吸う行為は公には禁止されている。王侯貴族であっても、気まぐれに道行く民をその牙にかけてよいというワケではない。強いて例えるなら、吸血は性行為に近い扱いとして、基本的には特定の相手と、秘すべきものとして捉えられている。
だがしかし、単なる理性や道徳心といったものだけで、吸血衝動を抑えられるならば、そもそも吸血鬼として大した格ではないのだ。
歴史上に名を残す吸血鬼は、誰もがより多くの血を求める、恐ろしく残虐なエピソードがつきものだった。
ゼルドラスもまた、自らの神『鮮血大公ロア』の伝説をなぞらえるかのように、血の渇きに満ちた道を歩み始めた。
毎夜、開かれる血の宴。国から選りすぐりの美男美女が選ばれ、血に飢えた王子の下へ。しかし、ただの貢物だけでは満足できなくなったゼルドラスは、これぞと目をつけた者を攫い、血を求めた。それがたとえ、国外からやってきた者であったとしても。
ここにいる神官の少女は、そうしてゼルドラスによって攫われた、哀れな犠牲者に他ならない。
そしてそれは、こうして現れた見知らぬ赤髪の男も、また同じ。
「この私の屋敷へ無断で踏み込んできたからには、それ相応の理由というものがあるのだろう?」
咎めるよりも、むしろ楽しみで仕方がないといった喜色の浮かぶ顔で、ゼルドラスは侵入者たる男を見つめる。
「その子を返してもらう」
「ああ、この神官の少女は、君の連れだったのか……なら、君も一緒に、私のモノになればいい」
王族たる純血種たる彼は、一目でその男の資質を見抜いた。
その鍛え上げられた大きな体と、歴戦の戦士の如く険しい顔つきから、大抵の者は彼がまだ成人していない14歳の少年であるとは分からないだろう。だが、獲物を見定める審美眼には自信のあるゼルドラスは、一目で分かるのだ。
男の血の味で重要なのは、若さと強さ。彼は、極上の獲物だ。
「邪魔をするなら、斬る」
「私は彼女も君も欲しい。少しばかり血を捧げて、私の眷属となれば、その美しさ、若さ、強さ、全てをそのままに、脆弱な人間では考えられないほど長らえることが――」
「お前と話す気はない。返すか、斬られるか、選べ」
男の手が、いよいよ背負った大剣の柄にかけられる。ただ、握っただけ。だというのに、そこから迸る戦意は途轍もない。
「ふはは、いいだろう、力づくというのも、嫌いじゃない」
血を吸うために少女を攫った吸血鬼。彼女を取り戻すためにやってきた男。ハナから、交渉の余地などあるはずもない。二人が戦うことは、運命といってもいい。
「見たところ、君は剣士だ。そして、私も刀を手にしている以上、剣士ということになる。ならば、礼儀に乗っ取って、君の名前くらいは聞いておこう」
心にもない言葉、誇りの欠片もない冗談に過ぎない台詞だが、それでも、言われたからには、名乗った。赤い髪の彼は、真の剣士であるが故。
「俺の名は、レオンハルト・トリスタン・スパーダ」
そうして、ゼルドラスはスパーダ王、いや、当時まだ王子であったレオンハルトに負けた。
激戦ではあった。戦いは夜が明けるまで続き、レオンハルトの大剣がゼルドラスの心臓を貫いた時には、屋敷は見事に全壊し、美しい湖の畔もすっかり荒地と化していた。
「お前はこの国の王子だから、殺しはしない」
ただ、それだけ言い残し、レオンハルトはボロボロになった体でありながらも、神官少女を抱えて、静かに立ち去って行った。
心臓を完全に破壊され、ロアの加護があるからどうにか命を繋ぎ止めていられるという、死と隣り合わせの苦痛の中、ゼルドラスは去りゆくレオンハルトの背中をただ血塗れた視界の中で、見送ることしかできなかった。
それが、ゼルドラスの生まれて初めての敗北だ。
全力を尽くした。これほどまで神に愛された、凄まじい加護の力を全てつぎ込んでも――レオンハルトの剣に、届かなかったのだ。
血の力が、ただの剣に負けた。
その事実が、ゼルドラスを変える。
「……強くなりたい」
そう思った。
心の底から、そう思うようになった。
強さとは何か。
初めて、真剣に考えた。
「今日から私は……剣士だ」
そして気が付けば、これまではただオモチャのようにしか扱ってこなかった、呪いの刀だけを手に、国を出ていた。
『鮮血大公・ロア』に愛されるゼルドラスという本名を捨て、ベルモントという王族の名も国へと置き去りにして、彼は、ただのルドラとなった。
血を吸うことを止めたルドラは、あっという間に力を失った。見た目通りの、華奢な少年としての力しかない。
そこには最早、吸血鬼が誇る超人的な膂力もなければ、血や影を操る固有魔法さえ残ってはいなかった。その手に握る、刀のなんと重たいことか。
人並みの力をつけるまでに、五年。
普通の剣士としての実力を身に着けるのに、十年。
冒険者の身分だけを持ち、ただひたすらに剣士として戦い続けて十五年、ようやくベテランの域に達する。
そして、腕の立つ剣士として実力が認められ、その名前が通るにようになるまでに、さらに十年がかかった。
達人級の腕前に達し、盗賊やらギャングやらの用心棒として裏の世界で『朱刀のルドラ』と有名になったのは、本当にごく最近のこと。
世間的に見れば、自分は剣士として十分に強くなった。だが、求める強さは、さらにその先にある。
ルドラも達人になって初めて見えてくる壁にあたることで、また新たな強さへの悩みを抱えるようになった頃……クロノと出会った。
彼との戦いで得られたモノは大きい。達人の壁も、もう少しで越えられそうな光明が見えた。それは、ガラハド戦争を経て、確信へと変わった。
強くなれる。剣士として。
ようやく、四十年前のあの夜に敗れた、レオンハルトにも追いつける。
妖精リリィ。クロノも恐れる、この途轍もない怪物との戦いを征したなら、その時こそついに――そんなところで、ルドラはサムライであることを捨てたのだ。
義の為に。
悔いはある。
仲間の為に。
惜しくはある。
これまで積み重ねてきた全ての努力を無に帰す行い。
国を出たばかりで、ただのやせ細ったか弱い少年でしかなくなった頃、神の声を聞いた。
「血を吸え」
人並みの体力となり、血が滲むほど苦しい上に、面白みもない地道な基礎鍛錬を狂ったように繰り返した日々。
「血を吸えば、楽になれる」
最低限の剣士としての力を身に着け、低級のモンスター相手に戦いを挑んでは、死にそうになった。
「血を吸えば、強くなれる」
強くなった。剣士として、名前が通るようになった。『朱刀のルドラ』と仇名され、名指しで頼まれる仕事もくるほどにまで、上り詰めてきた。
「血を吸えば、もっと先へ行ける」
達人の壁にあたって、試行錯誤を繰り返す、もどかしい最近になっても、それでも、神は語り続けた。
「血を吸えば、越えて行ける。血を吸えば、全てを超越する」
毎夜、毎晩、神はルドラへ囁きかけるのだ。
「血を吸え、血を吸え――鮮血を啜れ」
神の誘惑に耐えきった。これまでも、これからも、耐えられるはずだった。あるいは、その忍耐こそが、ルドラを剣士たらしめる誇りであるかもしれない。
そんな全てを、今、捨て去ったのだ。
「我が心臓を掲げよ。黒い雨。赤い雫。王国は血の海に沈め――『鮮血大公・ロア』」
ただの一滴だけでも、舌に触れた血の味は全身へ雷撃のように走り抜けていく。
こんなにも、美味いものだったか。遥か記憶の彼方にある美味と、今、口の中に広がる血の味には、比べ物にならないほどの差があると感じた。
渇きに乾き切った吸血鬼の体に、沁み渡る鮮血の味は、途轍もない快感と全能感と、そして何より、力を与えてくれる。
しかし、それはきっと、飢餓だけが理由ではない。
ルドラが飲んだ血は、クロノの血だ。
黒き悪夢の狂戦士の二つ名を持つ、英雄の血。彼の力はすでに、語るまでもない。それでいて、年齢はまだたったの18歳。
若さと強さを、ここまで両立させた存在はそうそういない。十年に一人、百年に一人、あるいは、その時代で一人だけかもしれない。
そう、クロノの血は、吸血鬼にとって最高級品としか言いようのない代物なのだ。
ルドラは口にした瞬間、全てを理解する。
ああ、こんな血を吸えば、呪いの武器だって進化を果たすだろう。愛刀たる『吸血姫「朱染」』が『吸血戦姫「黒彩色」』へと進化を遂げた意味を、真に実感できる。
自分も同じだ。
力が、戻る。強く、美しい、神に愛されし吸血鬼の王子に相応しい姿が、蘇る。
否、クロノの血によって復活したこの体は、四十年前のあの日を、遥かに超えた強大な力を宿していた。
「ありがとう、クロノ、我が人生で最高の味だった」
世界が、全て変わって見えた。
修行の果てに、一端の剣士として鋭い知覚能力を得ていると思っていたが……そんなものとは比べ物にならないほど、鮮やかに、ルドラの目には世界が映る。
「ルドラ、貴方、何者なの?」
あまりの変貌ぶりに、流石のリリィも驚きを隠せないようだ。
しかし、純血種としての能力を最大限にまで引き出した今の自分から見ても、彼女の姿は尚、強大。
真の力を蘇らせ、神の加護を一身に受け、初めて、リリィと同じ土俵に上がれる。
「我が名は、ゼルドラス・ヴァン・ベルモント。夜の王国、ネヴァーランドの第一王子である」
妖精の姫と対等に戦おうというならば、自らもまた、吸血鬼の王子とならねば、釣り合わない。
「ああ、そう、そういうこと……貴方があのネヴァーランドの王子様だったなんて」
不死の王族に相応しい美貌と威風を放つルドラに対し、リリィは驚きの感情をすっかり消した、自らもまた王妃の如く気品に満ちた微笑みを浮かべて返す。
「今更、遥か昔に捨て去ったモノに頼るとは、情けないことこの上ないが――それでも、果たさなければならぬ思いが、今の私にはあるのでな」
「ふふふ、なんて素晴らしい、麗しい。クロノは本当に、いい友達を持ったわね」
笑顔は一転。冷たく残酷な、無表情の仮面をリリィは被る。いや、きっと笑顔こそが彼女にとっての仮面。
リリィという妖精姫の真の顔はきっと、どこまでも無慈悲で冷酷な、支配者なのだから。
「――だからこそ、全て断ち切る。クロノの縁は全て、この時代に切り捨てて行かなければいけないわ」
「そうはさせん。我が力の全てをもって、リリィ、貴様の非情なる野望を止めてみせよう」
かくして、無情に凍える妖精姫と、義に燃える吸血王子との戦いが、始まった。