第607話 リリィVSブレイドマスター(3)
数秒先の未来が見える。
ただの凡人にとっては、大して役に立たない未来予知ではあるが、コンマ一秒を争う戦いの世界に生きる剣士、いや、彼ならば剣闘士と呼ぶべきか、そうであるならば、これほど有益な能力もそうそうないだろう。
100%確実に相手の攻撃が読めるのだ。そこには最早、フェイントや心理的駆け引きなどの技術すら存在しない。ただ、結果だけを知ることができる。
そして、その結果を元に反応する肉体があれば――なるほど、ファルキウスという男は、伊達にスパーダでナンバーワンと呼ばれてはいない。類まれな剣術の才能に、厳しく、けれど丹念に鍛え上げられた肉体。そして、未来を見る加護の力。最強の剣闘士を名乗るに相応しい能力である。
だがしかし、防ぐことも避けることも敵わない、絶対的な火力に晒されれば――
「うーん、流石に、フィオナには及ばないわね」
アチチ、とちょっと慌てながら、赤熱化した長杖『アインズ・ブルーム』を空間魔法へと消しながら、リリィは目の前に広がる破壊の跡を眺めた。
出現したクレーターの大きさは、半径70メートルといったところか。その広さ、深さ、とても本人には及ばない。
しかしながら、不完全とはいえ、『星墜』を優に超える威力を叩き出す『黄金太陽』は、スパーダ最強の剣闘士を沈黙させるには十分な火加減であったようだ。
「……」
声はない。ただ、小さく、今にも消えそうなほど、かすかな吐息だけが漏れる。焼け焦げたクレーターの中心に、ファルキウスはいた。
膝を屈し、盾を掲げた格好で――全身、黒焦げとなっていた。
「あら、酷い、折角の美貌が台無しじゃない」
皮肉でも何でもない、ただ、ありのままを表現した台詞であった。
黄金の剣闘鎧は跡形もなく爆散したのだろう。強固な装甲も煌びやかな装飾も、彼の体には何一つ残ってはおらず、ほぼ裸。下着同然の腰巻が一枚だけ、どうにか灰になりきらずに残っている程度だ。
とても戦いを生業とする男とは思えない、高貴な美しい女性のように、白く滑らかな肌は無残にも赤黒く焼け爛れ、焼死体だとしか見えない。無論、それは体だけでなく、顔も同様。リリィと同じく、天然で『魅了』を宿すファルキウスの美貌は、完全に失われてしまっている。あの美しく波打つ金髪は全て灰燼に帰し、顔などはどうにか人間らしい形をしている、というくらいにしか分からないほど黒く焼け焦げてしまっていた。
ここにいる彼を見て、即座にファルキウスであると分かる者は、恐らく一人もいはしないだろう。そんな有様で、まだ生きているというのは、奇跡であった。
いや、『黄金太陽』の直撃を受けてもなお、まだ命を繋ぎ止めていられるのは、ひとえにファルキウスがこれまで一切の妥協なく鍛えつづけた肉体と、最高の防御力を誇る鎧を身に纏い、そして、一流の剣闘士が持つ守りの武技も修めていたからこそ。
醜い黒焦げとなって膝を屈したその姿は、無様な敗者ではなく、不断の努力によって命を繋ぎとめた、奇跡の生還者であると讃えられるべきだろう。
もっとも、リリィがファルキウスにトドメを刺さなかった理由は、そんな感動的なモノではなく、ただ単に、余計な手間だったからに過ぎないのだが。彼にはもう戦う力は残されていない。わざわざ、手をかける必要はどこにもないし、その命をあえて背負ってやる気もない。
「さて、これで残るは、あと一人――」
「ぁああああああああああああああああああああっ!!」
フワリ、と踵を返したリリィの背後から、『黄金太陽』の余波で崩れた建物の瓦礫を跳ね除け、凄まじい闘気と雄たけびを上げて襲い掛かる、一つの影。
振り返るまでもない。この燃えあがるような暑苦しい気配の持ち主など、一人しかいないのだから。
「加護に守られているからといって、無理をしてはいけないわ。貴方、もう内蔵がどこか傷ついているわよ」
背後から飛びこんでくるのは、青いオーラを炎のように燃やす、カイ。『一式・徹し』を一発受けただけの彼は、ルドラやファルキウスと比べれば最も軽傷である。まだまだ、大剣を振り回せる力は残っていて当然。
しかし、ネル渾身の武技がクリーンヒットして、全くの無事といくはずもない。
「だから、太刀筋も鈍っているわ――『二の型・返し』」
ユラリ、と舞いのようにゆったりと翻ったリリィの両手には、すでに白龍の爪が纏われていた。
振り下ろされた大剣の刃を、壁に立てかけたモップが落ちてきたのを受け止めるような軽やかさで、リリィの左手、すなわち、吸収を宿す『蒼天』で以て止める。と同時に、大木の如き揺るぎ無い体幹を誇るカイを、反射の『紅夜』で押す。
だが、そんな防御は所詮、天空龍掌の能力を生かしたオマケに過ぎない。夢の中でネルが放つ『二の型・返し』は、情け容赦なくその威力を現実に生きるカイへと叩き込んだ。
「ぐおっ――」
傍から見れば、腕を掴んで、勢いよく地面へと叩きつけた、といった様子。それだけでも投げ技のダメージとしては相当なものだが、ネルの術理はより悪辣にして残酷。
リリィは自分が体験している現実の戦闘情報を忠実にネルの夢へと反映させている。だから、夢の中のネルはカイという悪役が、すでに『一式・徹し』を腹に受け、内臓にダメージが入っていることを知っている。
故に、ネルは『二の型・返し』で炸裂させる魔力の破壊力を、狙って損傷した臓器へと集中させていた。
「ごはぁっ!?」
カイの口から、赤黒い血が溢れ出る。
きっと、背中を地面に叩きつけられた衝撃なんて忘れるほど、体内で炸裂した破壊力は凄まじい激痛をもたらしたことだろう。
「がっ、あ、あぁ……」
カイの戦歴からして、負傷なんて数限りないし、重傷だってそう珍しいものではない。ドラゴンに腹を食い千切られそうになったことはあるし、頭をエンシェントゴーレムの鉄拳でぶっ叩かれたこともある。腹を刃で刺されたし、その時に内蔵が傷ついた経験はある。流石に、心臓を貫かれたのは、サリエルが初めてだったが。
様々な重傷を経験したカイだが、刺されたワケでなく、潰されたワケでもないのに、体の中の臓器が破裂したのは、初めての体験となった。
痛い、なんてモノではない。臓器の損傷は、筋肉や骨が傷つくのとは全く異なる。負傷のレベルが段違いだ。
果たして、この腹の中でグチャグチャの肉塊となったのは、胃袋か、肝臓か、腸か。腎臓は二個あると何かで聞いたから、できればソレだったらラッキーだよな、と激痛で朦朧とした意識の中で、何故かそんな考えがカイの頭を過ったのだった。
「これで、完全にどこかが潰れたわね。ああ、何て恐ろしい技なのかしら。こんなのを受けてしまったら、私、とても立ち上がれないわ」
暗転しかける意識を、カイは気合いと根性で繋ぎとめる。痛覚を、あえて意識。忘れるな、この痛みは、まだ自分が生きている証。
生きているなら、まだ、戦える。
カイの右手は、剣を手離してはいない。
「でも、不死身の剣闘士に見込まれた貴方なら、まだまだ立ち上がってくるわよね」
次の攻撃が飛んでくると分かり切っていた。
カイは歯を食いしばって体を跳ね起こすのと同時に、至近距離に立つリリィに向かって刃を振るった。深刻なダメージを負って尚、その剣閃は鋭い。
「それなら、剣を振るえないようにすればいいのよ」
流れるような身のこなしは、ネルが教えてくれる。
カイが起き上がり様に放った斬撃。刃の軌道を掻い潜りながら、その手を掴む。掴んで、返す。
カイの視点で見れば、起き上がったと思ったら、いつのまにか地面とキスしていた、というように感じたことだろう。事実、その通りだった。
ネルの鮮やかな体術によって、カイはうつ伏せに倒され、そして、右手も、左手も、どちらも掴み取られる。両手を後ろ側へと捻り上げられ、さらに、その背中をリリィの小さな足が踏みつけた。
「大人しくしていてね。暴れると痛いわよ――『流星剣』」
二本の光刃が、カイの両肩に振り下ろされた。
魔法の剣は、手で握らずに振るえる。妖精結界の表面から生える大剣クラスの巨大な刃は、機械のように正確、それでいて無慈悲に振るわれたのだった。
「がぁあああああああああああああああああああああああっ!!」
絶叫と共に、血飛沫が上がる。灼熱を宿す光の刃は、キーンと甲高い音を立ててスヴァルディアスの青いオーラを削りつつ、カイの両肩へと深く食い込む。
「んんっ、固いわね。流石はスヴァルディアスの加護、素晴らしい防御力だわ」
一息に両断するつもりだったが、骨の半ばまで刃が食い込んだところで、止まってしまった。
リリィは初めて知った。加護の守りには、ただ体に纏うオーラだけにあるのではなく、皮膚も筋肉も骨も、全て強固にする効果もあるのだと。剣闘士の神であるスヴァルディアスだからこそ、肉体そのものまで鋼のような強度をもたらしているのだろう。
ともかく、『流星剣』だけでは切断しきれないことを悟ったリリィは、クロノに手を貸してもらうことにした。
「『炎の女王』」
切れないならば、力づくで引きちぎってしまえばいい。
すでに、肩は半ば以上まで切り裂かれているのだ。強い力で、そう、加護の守りさえ素手で引き千切るほどの腕力をもってすれば、カイの両腕をもぎ取ることなど、造作もない。
ブチリ、という生々しい音が、二つ重なって響きわたった。
「ぐううっ! くっ、う、がああぁ……」
「はい、これでもう、剣を握ることはできないのだから、大人しくしていてね」
リリィは無造作に引き千切った両腕を投げ捨てながら、血の泡を噴いて苦痛に顔を歪ませるカイを優しく微笑んで見下ろす。
内蔵が破裂し、両腕を失ったカイには最早、反撃どころかあとどれだけ命を保っていられるか怪しいほどに満身創痍。もう、二度と立つことはない。立ったところで、腕がないのだから剣を振ることもできない。
だから、これ以上の手をかける必要性はない――という思いを、リリィは即座に翻した。
カイが、睨んだからだ。
激痛を堪え、自分の命を繋ぎ止めるのに精一杯。今にも血の海に沈んでいきそうな顔をしているくせに、その青い瞳には、確かな戦意が燃えあがっている。
「やれやれ、しつこい男は、嫌われるわよ?」
これでは、口に剣をくわえて飛び掛かってきかねない。
サリエルに心臓を貫かれても蘇った男がカイである。ならば、きっちりトドメを刺すくらいの気持ちで、もう一発叩き込むのがちょうどいいだろう。
そう心得て、リリィはついこの間、自分がフィオナにやられたのと同じように、カイの腹を蹴り飛ばした。その小さな爪先に、クロノの力と、ネルの技を乗せて。
「がっ――」
命中した瞬間、カイが白目を剥いて意識を失うのを見た。と同時に、爪先が炸裂した腹部が、ついにバックリと割れて、鮮血と破裂した臓器の欠片と、千切れた腸が零れていく様も。
凄惨に血と肉とをまき散らしながら、凄まじい勢いで吹き飛んで行くカイを見送った。
飛んで行った先は、今にも崩れそうな何かのアトラクション施設。この勢いで突っ込めば、半壊の建物は完全に崩壊し、そのまま瓦礫で生き埋めになって、本当にそのまま死んでしまうかも――
「殺すにしても、余計に惨いことをする」
風にのって、そんな声が聞こえた気がした。
「あら、貴方、まだ生きていたの。んん、アンデッドに生きている、なんて言うのはおかしかったかしら?」
掃除が終わったと思ったら、まだ残っていた汚れを見つけてしまった、というような気だるい顔で、リリィは吹き飛ぶカイを受け止めたルドラを見やる。
「私は生まれながらに吸血鬼である純血種だが、ふっ、今となっては、ゾンビやスケルトンとひとまとめに見られようと、気にするほどの誇りは持ち合わせてはいない」
そんなことをうそぶくルドラは、正に死にぞこない、といった表現が相応しい有様だ。ファルキウスのように、かろうじて下半身に纏う僅かなボロキレだけが残る、裸も同然の格好。それでいて、リリィの強烈な光魔法に焼かれて、全身黒焦げである。
完全に灰となって消滅せずに済んだのは、何十年も愛用してきた黒鉄織りのコートが身代わりになるかのように、守り切ったからに他ならない。
だが、それはあくまで九死に一生を得たというだけに過ぎない。全身を焼かれ、刀を握るための利き腕を失い、十全に戦う力など欠片も残ってはいないことは一見して明らか。
それでも、仲間を助けるために、痛む体に鞭打って、無残に蹴り飛ばされたカイの体を受け止めたのだから、その献身ぶりは賞賛に値するだろう。
もっとも、そんなルドラの行動を素直に褒め称える第三者はこの場には存在せず、彼の前にはただ、これまでの人生の中で間違いなく最強の敵が立ちはだかっているのみ。
リリィが、どちらが死人なんだか分からない、カイを抱きとめたルドラを見つめる目は、どこまでも冷ややかであった。
「――しかし、事ここに至っては、私も禁を破ってでも、捨てた『誇り』に再びしがみつくとしようではないか」
ルドラは重そうに、カイの体を地面へと下ろすと、懐からキラリと輝く小瓶を取り出す。冒険者なら、よく見慣れた回復用のポーションである。
アンデッドには何の効果ももたらさない回復アイテムは、こうして仲間のためにわざわざ持っていたのだろう。怜悧冷徹、他種族を全て見下すと噂の吸血鬼とは思えない気遣い。
「クロノには命を救われた恩がある。カイを死なせるのも忍びない。恩義のため、仲間のため、禁を破るには十分な理由、だが……私にとって一番の理由は、妖精リリィ、貴様は、あまりに強すぎる」
カイへ与えたポーション瓶を投げ捨てると共に、ルドラはもう一つ、別の小瓶を取り出した。
それは、綺麗に透き通ったポーションとは対極にあるような、赤黒い不気味な色合い。まるで、血のような……
「……クロノの血」
リリィだからこそ、一目で分かった。その小瓶に満ちた血液が、一体、誰のものであるのかを。
「我が心臓を掲げよ。黒い雨。赤い雫。王国は血の海に沈め――『鮮血大公・ロア』」
ルドラは己が神の名と、クロノの血を口にした。
「――最大照射っ!」
一も二もなく、リリィは撃った。『メテオストライカー』と『スターデストロイヤー』を共に向け、二つの銃口より極光が放たれる。
着弾、爆発。大爆発。
真っ白い閃光が爆ぜ、次の瞬間には濛々と粉塵が舞い上がる。爆破の衝撃は近くで半壊していた建物を、軒並み全壊させていった。
ただの人が相手でも塵一つ残らず消滅させるだけの熱量を宿す、二筋の光線。まして、光魔法に弱い吸血鬼のルドラが受ければ……だが、リリィは自分の攻撃が一歩遅かったことを、すぐに悟る。
「……美味い」
声が聞こえた。
「ああ、美味い」
誰の声か。考えるまでもなく、ルドラの声に決まっている。
「なんと甘美な味わい。如何なる快楽の術も薬も、やはり、この一口には及ばない」
しかし、初めて聞く声だった。
ルドラの声は、その病人のような見た目に相応しい、暗く、重く、砂漠で行き倒れた者のように、カラカラに乾いていた。
「思い出した、実に四十年ぶりといったところか……そうだ、これが、血の味だ」
だというのに、この声は何だ。鳴り響く鈴の如く、高く澄んだ、綺麗な声音。大舞台の上に立つ女優のように艶やかで、神殿で祈りを捧げる巫女のように清らか。
誰だ。そこに一体、誰がいるのか。
疑問に答えるかのように、ルドラの姿を包み込む噴煙が晴れてゆく。自らが放つ、その禍々しい真紅のオーラでもって、漂う煙が瞬時に吹き飛んだ。
「ありがとう、クロノ、我が人生で最高の味だった」
ルドラの姿は、完全に別人。
風にそよぐ金髪は、リリィに負けず劣らずの滑らかさと艶やかさ。肌は乙女のように真っ白で瑞々しい。ただ病的にやせ細っていた体は、若々しくもどこか儚い、華奢な少年のものへと変わる。
青白くやつれた顔には、最早、どこにも陰気な影はなく、そこにはただ、神が愛した美があった。そう、リリィとファルキウス、二人のように、今のルドラの顔は、『魅了』が宿る美貌へと、奇跡の変貌を遂げていた。
否、これが、彼の素顔。
純血の吸血鬼として吸血を断つ、という最悪の弱体行為。だからこそ、自ら誓うに相応しい禁となる。加護を封じ、力を弱らせ、そして、この美貌さえも失った。そこで初めて、剣士としてのスタート地点に立ったルドラは、その後、四十年の歩みを経て――ついに、己の誓いである禁を破り、本来あるべき、真の姿へと戻ったのだった。
「ルドラ、貴方、何者なの?」
あまりに異様な、変貌。長い金髪をなびかせる、十代半ばの美少年といった、若さと美しさが溢れるその姿へ、リリィは問いかけた。
「我が名は、ゼルドラス・ヴァン・ベルモント。夜の王国、ネヴァーランドの第一王子である」