第594話 答えはここに
「はい、コレ! 飲んで、お兄さん!」
やけに気張った表情で、ドーンとデカい酒瓶をシモンはテーブルの上に置いた。
「えっと、なんだ、急に」
「お酒を飲もうと思って」
「いや、それは分かるんだが」
「ほら、見てよこのお酒」
シモンが強気に進める酒瓶には、黒地に血で書いたような不気味な銘が記されている。
「……『魔王殺し』って書いてあるな」
「うん、コレはね、あの伝説の魔王、ミア・エルロードが飲んでも酔いつぶれてしまったというくらい、強いお酒なんだ。だから、コレを飲めばお兄さんも酔えるはずだよ」
なるほど、今の俺にピッタリの一品というわけか。魔王殺し、という名前も含めて。
「なんか、悪いな、余計に気を遣わせてしまったようで」
「ううん、こういう時こそ、飲んで酔うべきなんだよ」
俺の体では、普通のエールやワインなんかいくら飲んでも酔わないということは、シモンはすでに知っている。アルコール耐性が高いというか、ほぼ無効化している俺でも、酔えるようにと選んでくれたのだろう。
何かもう、それだけで涙が出てくるほど嬉しい気遣いだった。
「それじゃあ、いただくよ」
「うん、飲んで」
「シモンも飲むか?」
「えっ、僕は別に」
「酒は一人で飲んでもつまらないだろう。付き合ってくれよ」
「うーん、それもそうだよね。じゃあ、ちょっとだけ」
ややトロみのある、血のように濃厚な液体をグラスに注ぐ。これ、本物の生血とかじゃないだろうな。そう疑ってしまうほどの不気味な見た目だが、鼻を突く強い酒精と煙のような香りが、これが鮮血ではなく立派な酒であることを教えてくれる。
この酒、果たして何に分類されるんだろうか。ワイン、ブランデー、ウイスキー、どれも違う気がするが、まぁ、別に俺は酒に詳しくとも何ともないので、何でもいいし、異世界特有の酒かもしれない。いっそ魔法がかかっていても、おかしくない。
ともかく、まずは飲んでみよう。
「乾杯」
そうして、静かに二人で飲み始めたのだが……
「――だいたいさぁ、分かってない! みんな、分かってないんだよ! 根本からして理解してない、あー、もぉー、ゴチャゴチャ言ってないで、いいから早くぅ、覚えろってーんだよぉーっ!!」
シモンは今、真っ赤な顔で俺の膝の上にどっかりと座り込んでは、日常生活における不平不満を大爆発させている。今は主に、銃を布教しようと錬金術ギルドに行った際に、ほとんどマトモに取り合ってくれなかった時のことを話している、らしい。
どこからどう見ても、完全に酔っぱらっていた。しかも、あまり良い方向での酔い方ではない。
完全に理性がぶっ飛んでいる。そうでなければ、トイレに行って戻って来たら、自分の席じゃなくて俺の膝の上に座り込んで当たり前みたいな顔をしていることに、説明がつかない。
シモンは幼女リリィみたいに俺の膝の上でゴロゴロしながら、声高に叫ぶ。
「ダメなんだぁ! このままじゃあ、錬金術の未来がぁー!」
「あ、ああ、そうだな」
「全く、どいつもこいつも、まるで分かってな――あっ、ソレちょうだい」
「ほら、口空けろ」
「あーん」
「美味いか?」
「へへっ、よく分かんなぁーい」
にへら、と締まりの無い顔でツマミの燻製ベーコンをモグモグするシモンは、気まぐれでワガママな小悪魔のようである。
どうしてこうなった、と言えば、酒を飲んで酔ったからというより他はないのだが。根本的な原因は、やはり『魔王殺し』だろう。
この酒、確かに強い。ただアルコール度数が高くて強いだけでなく、風味も抜群だった。強いけど、美味いのだ。ブランデーに近い感じがするのだが、どうにも原材料がブドウではなく、別な果実を使っているっぽい。
そして何より、俺もコイツを飲んだら酔った。頭がちょっとフラフラするくらいには、明確に酔いというものを感じた。なるほど、これはなかなか気分がいい。ホロ酔い状態ってやつだろうか。
その一方で、シモンがこの有様である。飲んだのは、小さなグラスでほんの少し。それも、ストレートで一口飲んだら、飲めないほど強すぎたので、氷と水でかなり割って飲むことに。
その割った状態でも、グラスの酒は半分も減ってはいない。
シモンは特別、アルコールに弱いってわけではない。何度も一緒に酒を飲んだことがある。酔っぱらったとしても、普段より少し饒舌になるくらいで、正気を保ち続けていたものだ。
だから、この『魔王殺し』を飲んだからこそ、普段よりも違う酔い方をしているのではないかと、俺は推測しているのだが……そんなことよりも、俺は膝の上で食って飲んで大騒ぎのシモンの世話で精一杯である。
シモンだから現状維持を許しているが、これでウィルだったら、俺は多分、そのまま床に転がしているだろう。まったく、酷い酔い方である。
「んもー、もぉ一杯ぃー」
「おい、もうよせシモン、それ以上は飲むな」
もう一杯といいつつも、まだ一杯目なのだが、この残り半分となった魔王殺しの水割りを、一口でも飲むとヤバそうな気配だ。
「まぁだぁー、まだまだぁ、話はこれからなのらぁー!」
「ああ、分かってる。でも、今日はもうお開きにしよう。寝る時間だ」
「じかーん? 時間だってぇ……」
不満そうにモニョモニョ言ってるシモンを余所に、さっさと寝室に運んでもらおうかと思い、妙に俺のことを避けているヒツギを呼ぼうとした時だ。
「時間なんてぇ、もうないよ! あとちょっとで、リリィさんが来ちゃうのら!」
「……ああ」
「どーするのさ、お兄さんは、どーするのさぁ! 僕、聞いてない、にゃんにも聞いてないけどぉー」
どうするのか、どうすればいいのか。答えは出ない。出るはずもない。
けれど、何も答えない俺に対する不安、いや、いっそ不満というべきか。抱えていて、当然だよな。シモンは俺を気遣って、この二日間、何も言わずに傍にいてくれたのだ。結局、俺はそれに甘えていただけだった。
酒の勢いで、不満が噴出してしまったのだろう。
「すまない」
「なぁーんで、お兄さんが謝るのさぁー」
「俺は、情けない男だ。この期に及んで、まだ、どうするべきなのか答えを出せない。リリィとフィオナを選べない。どっちを選んでも、必ず後悔する。選んでしまったら、どちらか一方を失ってしまうから……」
大切な人を、愛する人を失うのが怖い。どう理屈をこねても、俺にはその恐怖に耐えられず、決断を下せない、覚悟を決められないだけなのだ。
だから、いまだに俺は、ありもしない全てを救う方法なんて、都合の良い答えを無意味に探し続けている。
「悪くない、お兄さんは悪くないよっ!」
「いや、優柔不断な俺が悪――」
「だって、リリィさんもフィオナさんも、勝手すぎるのらぁ!!」
「そ、そうか?」
「そうだよ! 二人ともおかしいよ、頭おかしいよ! 狂ってる、言ってることもやってることも、徹底して愛に狂ってるから! 何なんだよ、何であんなヤバい人ばっかり集まってんのさ、意味わかんないよ、っていうか、怖いんだよぉっ!!」
真の不満が大爆発、というようにシモンは絶叫する。
完全に目は据わり、細い眉は怒りに跳ね上がり、表情は初めて見るほど憤怒でプンプン状態だ。
「おい、落ち着けよ、二人には悪気があるわけじゃ……」
「そうだよ、お兄さんが悪い!」
えっ、さっき俺は悪くないって言ってなかったっけ?
「あんな危ない人、ちゃんとお兄さんが責任もって抑えておいてよ! なんで首輪つけないし!」
「す、すまん」
「謝んないでよ! 悪くもないのに謝んないでよぉー!」
どっちなんだ。俺は悪いのか、悪くないのか。
いや、そもそも酔っ払いの戯言に論理性を求めるのが間違いなのだが。やはり、シモンはもう限界のようだ。
「お兄さんが好きなのは、リリィさんの勝手。お兄さんが好きなのは、フィオナさんの勝手。二人とも、勝手に好きになっただけ。それなのに、自分のモノだと言い張って、殺し合いの奪い合いだよ……こんなの、おかしいよ」
「ああ、そうだよな」
「だからっ、こんなにおかしいのに、何でお兄さんは止めてくれないのさ!」
うっ、やっぱり俺が悪い流れか。うん、悪いのは認めるけど。
「俺だって、今すぐこんな争いは止めたいさ。でも、二人を止めるには……もう、どちらかを捨てるしかないんだ」
リリィを殺せば、フィオナ達は助かる。フィオナ達を見捨てれば、リリィを殺さずに済む。実質的には、リリィが死ぬか、フィオナが死ぬかの二者択一。
「なんで」
「なんでって」
言われても、今のシモンに説明しても仕方がないだろう。酔いが醒めれば、どういう状況なのかシモンには改めて説明するまでもない。
「なんで、二人とも選ばないのさ」
「選べないだろ、そんなの」
「選べるよ」
「どうやって」
それができたら苦労はしない。こんなに死ぬほど悩み苦しむことはない。俺がどれだけ、その答えを求めていると思っている。
あるわけないんだ、そんな都合の良い解答なんて!
「簡単だよ、二人ともお兄さんのモノにすればいいんじゃないか」
「は、はぁ? そんなの、許されるワケが――」
「許さないって、誰が?」
倫理的、道徳的に、許されるモノじゃない。けれど、そんな小奇麗な題目の以前に、
「リリィもフィオナも、許すはずがない」
「許すよ。だって、リリィさんも、フィオナさんも、お兄さんのこと、愛しているんでしょ?」
殺し合いをしちゃうくらい、愛しているんだろう。そう、シモンはどこか尊大に言い放つ。
「そういうことじゃない。そんなことできないから、こんな状況になってしまったんだろ」
愛しているなら全てが許される?
そんなはずはない。そんなはずがあるのなら、この世に『嫉妬』の大罪は存在しないのだから。
「ううん、関係ないよ、二人の気持ちなんて。二人が許さなくても、お兄さんが言うことを聞かせればいいだけでしょ。殴ってでも、言うことを聞かせればいいじゃないか、お兄さんは、強いんだから」
「馬鹿野郎! そんな勝手なことが、許されるはずが――」
「うん、それはお兄さんの勝手。でも、リリィさんも、フィオナさんも、同じくらい勝手でしょ? 勝手に殺し合ってるんでしょ? だったら、殴りつけるくらい、なんなのさ」
死なないだけマシ。でも、死なないというだけで、マトモではない。
「やっぱり、お兄さんは分かってないよ。だってこれ、結局は、誰の勝手を通すかっていうだけの問題でしょ。ただの自分勝手、でも、本人にとっては、何を差し置いても譲れない強い願い……だから、力を使ってる。本気で殺し合う、戦争してるんだ」
「……俺にも、そうしろと言うのか」
「リリィさんはクロノが欲しい。フィオナさんはクロノが欲しい。クロノは、お兄さんは、二人とも欲しい。ねぇ、その二人とも欲しいという気持ちは、二人の気持ちに劣るものなのかな。本当に、無理だと、許されないと、諦めて、譲ってしまってもいい程度の気持ちなのかな」
リリィもフィオナも、どんな罪をも恐れず、戦いを挑んだ。俺という、ただ一人、愛する男を手に入れんがために。
ならば、俺も罪を恐れず、戦うべきではないのか。愛する女を二人とも、手に入れるために。
「お、俺は……」
「何で迷うの。何に迷ってるの。まさか、後ろめたい、なんていうくだらない理由じゃないだろうね」
後ろめたい。つきつめていえば、それだけなのか?
一人の男が、二人の女を望む。その欲望が後ろめたい。色欲か、強欲か、傲慢か。罪の意識が、俺にはある。日本人として育ってきた、俺の心の奥底にある倫理として、根付いているのは間違いないだろう。
そうだ、だから、俺は否定した。それに強い忌避感を覚えた。異常だと思った。
ラストローズの悪夢の中。
「できるよ。私が死んでも、黒乃くんには、もっと素敵な彼女ができるよ。生きて、生き延びて、黒乃くんは、幸せだけを感じて生きてほしいな」
偽りの白崎さん、ラストローズの誘惑の思念が、そう訴えていた。すぐに次の女を用意しよう。二人でも、何人でも。望むだけ与えるし、欲望のままに、望めばいい。
「二人とも、大切なんでしょ。愛しているんでしょ。だったら、迷う必要なんかないよ。罪の意識さえ、感じる必要はない」
色欲の全肯定。
俺はそれを一度、跳ねのけたというのに……
「二人を愛している。二人もそれで心の底から満足している。俺が二人を幸せにする。俺にしか二人とも幸せにはできない。ただ、そう思いこめばいいだけでしょ」
気持ちが傾く。
「ホントかウソかはどうでもいい。だって、愛なんてどうせ、目には見えないモノだし。誰にも分からない、誰にも文句は言わせない。ハーレムなんて最低だ、って言う奴がいたら、ははっ、笑っちゃうよ、ただの嫉みでしかないのにね」
心が揺らぐ。
「ハーレムで何が悪い? 望んで当たり前の本能でしょ」
これが、答えか。
「お兄さんは、強くて、優しくて、カッコよくて、最高の男だよ。本物の魔王にだってなれる。百人でも千人でも娶ったって、そこらの男と結ばれるよりもよっぽど女の子だって幸せだよ」
こんなものが、答えなのか。
「愛しているんだ、リリィさんも、フィオナさんも。こんなに愛されているんだ。だったら、その想いに応えてあげなきゃいけないんだよ。だって、お兄さん――」
そうだ、答えはここにあった。
「――男だろっ!」
ピシャリ、とシモンの紅葉のような掌で、頬を叩かれる。両手で同時に、挟まれるように叩かれた。
痛くはない。でも、その小さな衝撃で、体の奥底にまで、気合いとか根性とか、そういう類のモノがしっかり注入された気がした。
「ありがとう、シモン」
心は決まった。
「悪い、とは言わない。覚悟しろ、リリィ、フィオナ」
罪を罪とは思うまい。
俺にはもう、これしかない。こうするしかない。
だから、俺は俺の全てを賭ける。身も心も捧げよう。
「嫌だと言っても、一生、離さない」
愛しているから。
リリィが愛してくれたように。
フィオナが愛してくれたように。
俺も、彼女達を愛するのだ。
「リリィ、フィオナ、二人とも、俺のモノだ――『海の魔王』」
悩むのは、もう終わりだ。さぁ、立ち上がって、俺の愛する彼女達を、迎えに行こう。