第592話 リリィ誕生(2)
それから一か月、クロエは『光の泉』攻略に向けての準備を整えた。一度、本拠地である首都ダイダロスに戻り、財産の全てをつぎ込んで装備を強化し、アイテムを揃えた。
冒険者人生の中でも最高の装備と覚悟とを身に纏い、クロエは妖精の森へと分け入った。
「ちょっ、ちょっと! そこのブサイク、止まりなさいよ! ここから先は、光の――」
「疾っ」
警告の声を上げる妖精は、分かりやすい目印だ。この先に目的地がある。迷うことはない。
クロエは一切の躊躇も罪悪感もなく、現れた妖精を切り捨てた。
それが、彼女と妖精達との、戦争が始まる合図であった。
「ふふ、うふふ……待っててね、リリくん……」
森は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっている。二目と見れないおぞましい顔の醜い女が、とんでもない速さで光の泉に向かって侵攻してくるのだ。モンスターよりも狂暴に、アンデッドよりも不気味に、一人の女剣士は長い黒髪を振り乱して突撃して来る。
当然、妖精達はこの頭のイカれた女を止めるべく、全力で迎え撃つ。
「はぁ……はぁ……こ、ここが、光の……いず、み……」
クロエは、数多の妖精を斬殺し、ついに光の泉に辿り着いた。
「ん、ぐっ……げほっ、ごほぉ!」
しかし、そこが限界だった。
滝のように血を口と腹から吐き出しクロエは倒れる。
すでにして、彼女は満身創痍。死んでいない方がおかしい瀕死の重傷であった。
妖精達は、もう手を下さずとも勝手に彼女が死ぬことが分かっているからか、姿を見せずに遠巻きに眺めているだけ。
「な、んで……動い、てよ……」
美しい花畑のど真ん中で、クエロは踏みつぶされた虫のように、醜くもがく。
「あと、少し……もう、少しで……」
かすみゆく視界の向こうに、美しい真円の泉がある。あの泉の中に、自分が求める妖精の宝が沈んでいるに違いない。
欲しい。アレが欲しい。愛が、欲しい。
けれど、伸ばした手は届かない。指先の感覚が、消えていた。
「愛して、もらえるのにぃ……」
分かっていた、無謀なクエストだということは。
知っていた、自分を遠ざけるための嘘だということは。
悟っていた、彼に愛してもらえるはずなどないことを。
「り、リリくん……」
でも、愛しているからやった。それでも、愛しているから信じた。
心の底から、本気で、自分の人生も、命も、魂も、何もかもをドブに捨てでも賭ける価値が、彼の嘘にはあるのだ。
だって、これが愛なのだと、クロエは知ってしまったのだから。
「愛して……愛して……」
全て嘘偽りであったとしても、愛されることの快楽には抗えない。
嘘でも「愛している」と言って欲しかった。死ぬほど嫌でも、抱いて欲しかった。
「もっと、愛したかったのにぃ……」
愛されたい、けれど、それ以上に、クロエは他の誰かを愛したかった。
自分の呪いがどういうものか、嫌というほど理解している。自分が誰かに好意を向けるということは、すなわち殺意を向けるに等しい。
確かに、醜いクロエは孤独だった。けれど、彼女自身もまた、自ら孤独を選んでいたのだ。他の誰も、傷つけないために。
それを不器用な優しさと言うべきか、可能性を捨てる愚かと呼ぶべきか。
死の間際にあっても、クロエに悔いはない。彼女は一人の女として『恋』することが、できたのだから。
「りり……く……もっと……あ、い……」
燃え盛る恋心で自らを焼き殺すかのように、クロエは愛を叫びながら、息絶えた。
どれだけの無念を抱えていようと、死体となれば伝わりようはない。彼女の亡骸は、光の泉への侵略者として、埋葬される。
妖精達が短い呪文を一言唱えるだけで、穢れた血塗れの死骸は花畑の土の中へと沈んで行く。人だろうがモンスターだろうが、こうして地面に埋めてしまえば、後は花畑の糧となるのみ。
凄惨な戦いの痕跡も、亡者の無念も、全てなかったかのように、光の泉はすぐにまた美しい景色に戻るのだった。
妖精達は、多くの仲間が命を落としたことに涙を流して悲しんだが、光の泉の風景と同じように、すぐにまた元通りの生活を送る。
ここは妖精女王の加護が満ちる聖域。仲間を失えば、その分だけ新しい仲間もどんどん生まれる。死の悲しみは誕生の喜びにより打ち消され、光の泉には、妖精達が楽しく遊び回るいつもの風景が取り戻された。悲惨な戦いの記憶を忘れて、無邪気な妖精は、ただ『今』を楽しく生きるのだ。
しかし、忘れた頃に、彼女達は思い出す。
「な、なに……この花」
それは、一輪の赤い花だった。
花畑には赤色の花など幾らでもある。しかし、この花だけが、鮮血のように禍々しい真紅に染まり切っていた。
けれど、この赤い花が目を引くのは、不気味な色合いのせいではない。
大きい。それは、あまりに巨大な花だった。
「ねぇ……この場所って……」
誰かが言ったせいで、凄惨な戦いの記憶が蘇る。
この花が咲いている場所は、前に光の泉を襲い、多くの仲間を斬殺した、頭のおかしい黒髪の女が倒れたところと全く同じ。
赤い花の真下に、彼女がいる。
いや、彼女から、この赤い花が生えているのだと、気づいてしまった。
「もしかして……産まれるの?」
「う、産まれるって、何が?」
妖精の産まれ方は、誰もが知っている。生まれながらに知っている。
妖精は、神様のご加護によって、花のつぼみの中から産まれるのだ。
他の動物のように、交尾などという生殖行為はしない。なぜなら、彼女達は純粋な存在だから。
人のように、育児などという行動はとらない。なぜなら、彼女達は生まれながらに、人格・知識・魔法、全てを神から授かった、完璧な生命だから。
妖精は、自分が何者であるかを知っている。故に、迷いはない。妖精は、自分がどこから来て、どこへ行くのか、知っている。故に、哲学もない。
花が開いて生まれたならば、それすなわち妖精である。
ならば、この赤い花――そう、いまだ花の開ききらぬ、巨大なつぼみの中から産まれたならば、ソレもまた、妖精であろう。
「違うっ!」
「違う! 違う!」
「こんなのは、妖精じゃない!」
「本物の妖精じゃない!」
ならば、これは何か。
この人間の子供がそのまま入っていそうなほどに大きなつぼみの中にいる者は、一体、何者であるのか。
「これは、人間だよ!」
「そうだ、あの女のお腹の中に、子供がいた!」
テレパシーに優れる妖精は、見れば分かる。眼の前の相手が、一人であるのか二人であるのか。
たとえ、自分の中に新たな生命が宿っていることに本人が気づかずとも、妖精には、分かるのだ。
あの恐ろしく醜い女の腹の中には、まだ人の形を成してもいないが、それでも、一人の人間、すなわち赤子が存在していたことを、戦いに参加していた妖精達は全員知っている。
無論、子供がいようがいまいが、光の泉を襲う者は全て敵。妖精女王の加護を汚そうとする、絶対悪である。一切の慈悲も容赦もなく、殺すより他はない。
「でも……人間の子供は、お母さんから産まれてくるんだよ」
「そうだよ、人間の子供は、花からは産まれないよ」
人間という種族に対しての、知識はある。全員が持っている。
生まれた時から妖精が得ている知識は、妖精女王が与えたもの。故に、その情報は疑いようもなく、全てが真実である。
妖精は花から産まれる。人間は母から産まれる。
「じゃあ、一体、誰が産まれてくるの?」
花から産まれさえすれば、妖精か?
母が産みさえすれば、人間か?
では、母の腹で作られた子が、花の中から産まれれば、ソレは一体、何者か。
「……半人半魔」
妖精女王が与えし知識。普段、生活している中では絶対に思い出すことのない奥の奥に、その情報はあった。
半分が妖精であり、半分が人間である。人と妖精のハーフ。
そんなモノが、この世に存在するのだという事実を、彼女達は記憶の深淵から思い起こした。
「なにそれ、こわい!」
「こわい!」
「こわい! こわい!」
知識として知っているだけで、ソレがどういうものなのか、理解できる者は一人もいはしない。
「こわいよ、この花は燃やそう!」
「産まれる前に、失くしちゃおう!」
「それはダメだよ!」
「花から産まれるのは、女王様が加護を与えたからなんだよ!」
意見は真っ二つに割れた。
あの醜い女の怨念によって産まれる、呪子である。否。人の子であっても、妖精女王が誕生を祝福した、御子である。
人の呪いと神の奇跡とを、共に体に宿す半人半魔の子。果たしてそれは、善なる者か、悪しき者か――妖精達の議論の中で、答えは出なかった。
そして、時が満ちる。満月の晩。妖精女王の加護が、最も強く発現する、月に一度の夜である。
「あ、ああ……産まれる」
「花が、咲く」
妖精達の恐怖と不安の視線を一身に浴びながら、巨大な赤いつぼみが今、花開く。
静かに、音もなく、大きな真紅の花弁が動いた。その隙間から、眩しい虹色の光を放ちながら。
「キレイな、百合の花……」
「……キレイな、人」
一輪の巨大な百合の花が咲くと、そこから、一人の少女が光に包まれながら、現れる。
「人なの?」
「妖精なの?」
大きさは、人間の少女と同じ。妖精では決してありえない、大きな体である。
しかし、少女の背には輝く二対の羽があり、全身は淡いエメラルドグリーンの妖精結界に包まれている。人間では決して発現しえない、固有魔法であった。
「貴女は、誰」
自然に、誰かが問いかけた。この場に集った、誰もが問うた。
妖精は産まれた時、まず、名前を聞かれる。そして、自ら何者であるのかを答える。
奇しくも、誰もが意図せず妖精の慣習に則っていた。
そして、彼女は答える。
「――私は、リリィ。妖精よ」
麗らかな春の日差しが温かい、ある日のことだった。
「あぁ……ヤベぇ、金がねぇ……」
子供の頃からの口癖を、もう五十を過ぎた歳になっても、いまだにつぶやき続ける男がいた。
「なんで……どうして、こうなった……」
人生の全てに絶望したような顔で、その男は、すっかり年老いてノロノロとしか進まないロバが引く荷馬車と共に、街道を歩いていた。
行く当てなんかない。ただ、道の続く限り進んできただけ……いや、逃げてきたのだ。遠く、首都ダイダロスから、こんな領地の西端にまで。
「……ああ? なんだぁ、ココ、なんか、見覚えがある気がすんなぁ……」
歳はとったが、まだボケたつもりはない。
うんうんと頭を捻って記憶を掘り返してみると、ようやく、思い出す。
「そうか……俺、前もここに、逃げてきたんだっけ」
三十年以上、前の話だ。高級娼館で働いて稼いだ金をもとに、デッカい野望を抱えて商売を始めたら、成す術もなく速攻で潰され、気が付いたら夜逃げしていた若かりし頃。
当時はまだ自慢の金髪もフッサフサだし、この緑の瞳だって本物のエメラルドもかくやというほどキラキラ輝いていたものだ。今では頭なんて薄ら寂しい限りだし、目の色だってそこらに生える雑草のほうがまだ瑞々しい緑色をしているというほど、曇ってしまった。
昔も今も、絶望しているのは同じ。強いて違いをあげるとするなら、再起のチャンスがあるかないか。
過去の自分には、まだ希望があった。
「そう、そうだ、思い出した、ちょうど、この先の村だ」
ボケた猫のババアしかいない湿気た冒険者ギルドで、有り金はたいて安いエールを飲んだくれていた時……運よく、金づるを見つけた。
運よく? いや、アレは正に黒き神々が与えし試練というより他はない。
「孤高の女剣士、か……へっ、へへっ、女とヤって本気で死ぬかと思ったのは、アイツだけだったな」
色々な苦難をひとしきり味わってきたが、あの一晩に比べれば、どんな苦痛にも耐えられた。あれよりはマシだと。
だからと言って、好きで苦労してきたワケではない。
試練の一夜を越えて得た金貨で、故郷ダイダロスを離れて、隣国スパーダで再起を図ろうと思った。実際、スパーダには無事に辿り着いた。
けれど、そこが夢の終着点。スパーダで待っていたのは、どこか見覚えのある、狼頭。ダイダロスから自分を追ってきた、借金取りの男であった。
有り金を全て奪われ、それでもまだ莫大な借金は帳消しにならず……その後、二十年以上の長きに渡って、スパーダとダイダロスの国境線ギリギリにある魔石を違法に採掘する秘密鉱山で強制労働に従事。過酷な労働条件の中、似たような身の上のクズどもが、バタバタと病に倒れて死んでいき、体を壊してはモンスターの餌にされ、たまに落盤事故で一網打尽にされたり。
ロクな思い出が何一つないが、それでも彼は天の神が見放さなかったように、生き残った。さらに、巨大な魔石の結晶を発掘したことで、ついに借金を返済しきり、自由の身にまでなったのだ。
それが、去年の話。
そして、シャバに戻るなり始めた商売でまたしても失敗し、夜逃げしてきたのが、先月の話である。
五十を超えて、二度目の大失敗。今度はもう、鉱山で働いても、生きている内に返済しきるのは不可能であろう。こんな老いぼれから、金貸しだって取り立てられるとは思うまい。せいぜい、腹いせに痛めつけられた上で、愉快な殺され方をされるのだろう。
次、捕まった時が、人生の終わり。
捕まらなくても、金もないし、いずれ人生強制終了。
「ひははっ……いっそのこと、俺も、妖精族のお宝に挑戦してみっかぁ?」
どうせ死ぬなら、最後の最後にイチかバチかの大博打をしてみるか。
「馬鹿か、賭けにもなんねーよ」
そうだ、孤高の女剣士様でも、返り討ちに遭ったという妖精の縄張り。素人の自分に攻略できるはずもない。
「いや、待てよ……お宝は無理でも、妖精一匹でも捕まえられりゃあ、いい金になるんじゃあ……」
二度も失敗した商売は、どちらも奴隷関係だった。業界については詳しい。別に詳しくなくても、小さくて、見目麗しい、しかも、永遠に歳の取らない妖精となれば、その価値が高いことは容易に想像がつく。
だが、古くから狙われやすいだけあって、取り締まりも厳しい。捕獲するのも難しい。妖精と出会うには、彼女達の縄張りまで足を運ばなければならないからだ。
需要はあっても、商品として流通することは滅多にない。
「くそっ、妖精の森とかいうんだったら、ちょろっと一匹くらい、その辺をウロついててくれりゃあ――」
その時、森の中に光が瞬く。
最初は、目の錯覚かと思った。だが、それは二度、三度、はっきりと何度も輝くのが見えた。
「お、おいおい……マジかよ、嘘だろ……」
その光は森の中を点々とウロつきながらも、どんどん、この街道の方へと近づいてくる。
光るモンスターは色々といる。けれど、ここに生息するなら、光る種族は一つしかありえない。
そう、何故ならここは、妖精の森なのだから。
「こんにちはー」
現れたのは、小さな女の子。
一糸まとわぬ全裸、だが、ぼんやりと白い光がを体から発している。そして、その背中からは虹色に輝く二対の羽が生えていた。
どこからどう見ても、妖精である。
「お、おう……妖精、なのかぁ?」
しかし、疑ってしまった。
妖精の特徴を持ってはいるが、この女の子は大きかった。人形のようなサイズではなく、普通の人間の幼児と同じだけの大きさがある。
こんなに大きな妖精は、見たことがないし、聞いたこともなかった。
「うん、リリィ、妖精だよー」
だが、本人は妖精であると主張する。ならば、そういうことなのだろう。
いや、この際、このリリィという子供が本物の妖精であるかどうかなど、関係ない。
凄い金になる。
男は一目見て、そう確信した。
見たこともない大きな妖精という稀少価値を除いても、リリィには幼いながらも完璧な美貌があると、審美眼には自信のある彼は見抜く。
彼女の髪は、キラキラと眩しいほどの輝きを放つプラチナブロンドのロングヘア。その円らな瞳は、本物のエメルラルドすら霞むほど美しく澄んだ翡翠の煌めきを宿す。
男と同じ、金髪翠眼。しかし、自分がどんな美人と子供を作ったとしても、こんな奇跡的な美貌の娘が産まれることはないであろう。
もし、この子が少女の年齢にまで育ったとすれば……間違いなく『魅了』を宿す、美の神に選ばれし奇跡の容姿になる。美しい。ただその一点だけで、人はそこに無限の価値を見出すのだ。
「ねぇねぇ、オジさんは商人のひとなの?」
リリィの問いかけで、我を取り戻す。
「ああ、そうだねー、オジさんは商人だったよ――」
話してみると、どうやら彼女は自分が行商人だと思って、何か面白い商品がないか興味本位で近づいてきたようだった。
しかし、見るからに人生の敗北者といった風体、事実そうなのだが、この荷馬車にはロクに売り物となるような商品は何一つ積んではいない。
「ごめんねーお嬢ちゃん、もう何も売り物は残ってないんだよ」
「ふーん、そうなんだー」
ひとしきり荷馬車の周りをウロチョロして、それから老いたロバと戯れて、リリィは満足したのだろう。
「それじゃあねー、ばいばーい」
小さく手を振って、背中を向けて森に戻っていく。
そこで、男が動いた。
「――うぉおおおっ! や、やった!!」
気が付いたら、自分は無防備に背中を向けるリリィに、大きな麻袋を頭から被せていた。人さらいをする際の、基本的な方法。これで女を捕まえるのを見たことあるし、やったこともある。ついでに、自分がやられたこともある。
葛藤はあった。だが、目の前で子供の形となって金貨の山がウロウロしていれば、男に飛び付かない理由はない。
「ひゃはははっ! やったぞ、これで、俺はまたやり直せる!」
手早く袋の口を、足首ごと縛る。
こうなれば、中の者は視界と身動きを封じられ、ロクな抵抗はできない。妖精は光魔法の使い手だというが、魔術士だってこうなれば、咄嗟に魔法で反撃することも難しい。
袋をかぶせた時点で、勝負は決まった。
「ははっ、そうだよ、俺はこんなところで終わる男じゃねぇ! やった、やってやったぜぇ、このリリエンタール様の人生、大逆転だぜオラぁ!!」
「……むぅー」
そんな、あからさまに不機嫌な声が、袋の中から聞こえてきた、直後である。
「うおっ!? なんだっ、コレっ、熱っ! 熱ぃい!!」
担ぎ上げた袋が、突如として熱くなる。まるで、急に火が点いたかのような強烈な熱さに、男は堪らず袋を落とす。
地面に落ちるはずの袋はしかし、宙に浮く。
そして、そのまま目が眩むほども閃光と共に、爆ぜた。
「……あなた、悪いひと」
眩しさに閉じていた目を再び開くと、そこには、美しいエメラルドグリーンの丸い光に覆われた、リリィの姿があった。
被せていた麻袋など、影も形もありはしない。彼女はただ、子供らしい怒ったような表情で、男を睨みつけていた。
「ひっ、ひぃいいっ!?」
男は、わき目も振らずに逃げ出した。
大の男が、あんな小さな女の子に睨まれて? いいや、アレは子供の姿をした、恐ろしい何かだ。妖精の力について詳しく知らないが、それでも、彼女が纏う緑の光が、とんでもない魔法であると、察することはできる。
勝てない。少なくとも、ただの人間としての力しか持たない自分では、あんな魔法使いには、勝てるはずがない。
「うー、まてー!」
「いいっ!? な、なんで追ってくんだよ――」
あれだけの狼藉を働いて、怒らない方がおかしい。犯人が逃げ出したからといって、見逃す道理はない。
「ぜっ、はぁ……はぁ……」
「まてまてー!」
森の中をひた走る。この森はすでに妖精の森の領域で、モンスターが出没する危険性がある。素人の男がまかり間違っても、足を踏み入れてはいけない場所だが、今正に命の危機に晒されていれば、ここがどこだか知らずに逃げ惑うのも無理はない。
しかし、そんなものは儚い抵抗というもの。
「ま、待て、待ってくれ……悪かった、すまねぇ、ほんの、出来心なんだ!」
どことも知れない、森の奥。ついに男の足は限界を迎え、大木に背中を預けて座り込む。
彼にできることは、もう命乞いだけであった。
「助けてくれぇ……い、命だけは……」
「だめ、あなたは、悪いひとだから」
目の前に仁王立つリリィから、無慈悲な処刑宣告が語られる。
「リリィは悪いモノから、森を守ってるの。だから、悪いのはみんな、リリィが駆除しなきゃいけないの!」
彼女が何を言っているのか、分からない。分からないが、自分を許すつもりは微塵もないことだけは理解できた。
男は、大泣きに泣いて、それでも必死に助けてくれと訴えかける。
「悪いことをしたら、ダメなんだよ――」
小さな手が振り上げられる。
男は知らない。リリィ、彼女が何者であるのかを。
「――メっ!」
そうして、何も知らぬまま、何も成せぬまま、男は降り注がれた、白い光の中へと消えた。
後には、大木ごと消失した、大きな焦げ跡が残るのみ。そこに誰かがいた痕跡は、何もありはしなかった。
「ふわぁ……ねむくなってきちゃった」
何事もなかったかのように、リリィは森の中を歩き出した。自分が一人の人間を殺したことなど、すっかり忘れてしまったかのように。
いや、事実、もうあんな男のことなど、リリィの頭には残っていない。
彼女はただ、仕事を果たしたのだ。森の害になりそうな、悪いモノを排除した。ただ、それだけのこと。敵であるならば、ゴブリンだろうが人間だろうがドラゴンだろうが、関係はない。
リリィにとって、この森を守ること、つまり、妖精女王の加護が満ちる聖域たる『光の泉』を守ることが、今の自分にある唯一の存在意義。ただ、使命感と義務感だけで遂行する、代わり映えの無い、退屈な日常の一コマにすぎない。
悩んだことはあった。満月の晩には、いつも必ず思い悩む。
自分は本当にこれでいいのか。永遠にこんなことを続けるだけなのか。自分は一体、何のために生まれて来たのか。
光の泉を守る使命は、妖精に課せられたもの。ならば、半人半魔のリリィには、その使命感はどうあがいても心の半分までしか、満たすことはできない。
心のもう半分、人の心の中には、何を入れればいい。どうすれば、私は満たされる。
そんなことを考え続けて、もう三十年以上の時が過ぎていた。
無意味な悩み。無為な思考。けれど、子供の頭なら、それほど気にはならない。苦しくない。
「おうち、かえろ」
そうして、リリィはこの先もずっと、毎日同じ満たされることのない退屈な生活を送り続けていく――そのはずだった。
キョワァアアアアアアアアアアアアアっ!!
けたたましい鳴き声が、大空より木霊する。
「あっ、この鳴き声は……ガルーダだ!」
森を守る役目を負っている以上、モンスターについてはそれなりに知識がある。
ガルーダは巨大な鳥のモンスターである。ドラゴンに匹敵するほどの速さで空を飛び、大きな体躯に見合った強靭さを持ち、さらに強力な風の固有魔法を宿す。人が定めた区分けによると、ランク4の危険度とされる。
リリィをしても、強敵と言わしめるモンスター。できれば、交戦は避けたい。しかし、ガルーダがこの森のど真ん中に巣を構えようというのであれば、それは阻止しなければならない。
リリィは駆け出す。天空で吠えるガルーダが見えるような場所にまで。
「わわっ、二匹もいる!」
森のはずれにある小高い岩山にまで登って来ると、空の様子が良く見えた。晴れ渡った青空を舞台に、二体のガルーダが相争っていた。
どちらも雄であろうか。繁殖期も近いから、気が立っているのだろう。何となく空ですれ違っただけでも、喧嘩に発展するような時期である。
ギャアギャアとやかましい鳴き声を森全体に響かせながら争っていた最中、一方のガルーダが足に抱えていた、大きな木箱を落とした。
喧嘩の邪魔になると、自ら離したのだろう。自由になった足の、するどいかぎ爪を相手に向けて、いよいよ激しくガルーダは猛り狂う。
「あっ、リンゴの箱だ!」
しかし、激しいガルーダの空中戦よりも、リリィは崖の斜面にあたって砕けた木箱から、大量の赤い果実がバラまかれていく様の方に、目を奪われた。
リンゴという名の赤い果物は、この辺では食べられない。知識の中には、リンゴは甘酸っぱくて美味しいらしい、という情報もある。
食べてみたい。
食べてもいいだろう。拾ってもいいだろう。アレはガルーダの落し物だ。
そして、落とし主は喧嘩に熱中しながら、どんどん森から離れて、どことも知れぬ遥か遠くへと飛び去って行った。
ひとまず、森の危機はさった。ならば、あとはリンゴだ。
「よーし!」
リリィは面倒事が回避された上に、美味しい果実を手に入れられると、喜び勇んで墜落地点へと向かう。
そこで、彼女は見つけた。
森の中、散らばるリンゴに混じって、一人の男が倒れている。
黒い髪の若い男だ。体は大きく、歴戦の戦士が如く引き締まっている。だが、どんな死闘を潜り抜けてきたのか、元は白かったと思しき衣服は赤黒く染まり切って、酷く汚れていた。
その服を汚す血は、果たして自分のモノか、誰かのモノか。
分からないが、もし、怪我をしているなら、助けなければと思った。
「今度は、いい人だといいな」
悪い人だったら、殺さなければならない。それは手間だし、面倒だ。誰かと出会うなら、それは殺し合いより、笑い合える方がいい。
「ん……うーん……あと5分待ってよ母さん……」
凄惨な血塗れの姿でありながらも、そんな甘い寝言を漏らす男を見て、リリィは思った。
「えへへ、いい人かも」
そうして、リリィは運命に出会った。
空っぽの心の半分どころか、その全てを満たしても足りないほどの存在が、この世にあるのだと彼女が知るのは、そう遠い未来の話ではない。