第591話 リリィ誕生(1)
一人の女がいた。
女は、常に一人だった。
孤高を貫くワケでもなく、俗世を捨てたワケでもない。すでに少女の年齢を過ぎた大人の女である彼女は、人恋しくて仕方ない。いや、恋をしたくて仕方がない。
けれど、それは決して許されない。
何故なら、彼女は呪われているからだ。
「はぁ……死にたい……」
これが彼女の口癖だ。
別に、呪いのせいで重い病のような痛みがあるワケではない。
体はいたって健康そのもの。むしろ、常人よりも遥かに頑強で、それなりに魔力にも優れている。
お蔭で、女の一人身であっても、剣のみを頼りに生きる剣士クラスの冒険者として活動できる実力を身に着けることができた。
一人でも始められる、けれど、いつかは信頼できる仲間と出会い、さらなる高みを目指して行ける。危険と隣り合わせだが、この世で最も夢と希望に溢れる冒険者になったのは、さて、何年前のことだったか。
気が付けば、冒険者ランクは4である。ギルドではそれなりに名前も通って来た――そう、冒険者になって以来、ただの一度もパーティを組まない、孤高のソロ冒険者として。
「死にたい……死にたい……」
そんな孤高の女剣士様は今、人気のない暗いダンジョンの一室で、メソメソと泣いていた。あまりに悲痛な泣き声は、まるで暴漢に襲われた乙女の如しであるが、生まれてこの方、どんな無防備な格好で眠っていても男に襲われたことなど一度もないのが彼女である。
「な、なんで……酷い、折角、助けてあげたのにぃ……」
ここは『メディア遺跡』と呼ばれるランク4ダンジョン。危険度こそ4ではあるが、浅い階層では危険度も低く、トラップ関係も軒並み解除や撤去がなされている。何より、首都ダイダロスに近い立地ということもあり、ここにはまだまだ駆け出しの新人冒険者が訪れることも多い。
そんな前途ある新人冒険者のパーティが、少しばかり数の多いモンスターに囲まれてピンチになっていたところを、彼女は助けてきたばかりであった。
しかし、危ないところを助けた冒険者の少年が、ちょっと好みのカッコ可愛い顔立ちをしていたものだから、ついうっかり見つめてしまったのが、間違いであった。
「ひっ、ひいいっ!? いっ、う、うげぇえええ――」
これが、彼女と三秒ほど見つめ合った、少年冒険者の反応である。
一体、どんな化け物と見つめ合えば、たった三秒で嘔吐できるというのだろうか。およそ、女性に対して許されるとか、許されないとか、そんなレベルを遥かに超えた理不尽極まるリアクションであるのだが、彼女に限っていえば、それは仕方のないことである。
何故なら、これこそ彼女が生まれついて宿してしまった『呪い』なのだから。
「ふぅ……はぁ……き、今日は、もう、帰ろう……」
涙をぬぐって、女剣士は立ち上がる。その姿は、ダイダロスでは有名な怪談である、井戸に投げ込まれて殺された悲劇の女幽霊を彷彿とさせた。
腰を越えるほどにまで、長く伸ばされた黒い髪。流れる前髪の隙間から覗く顔は、アンデッドのように血の気が引いて青白い。
しかし、何より恐ろしいのは、呪いの刃の如き鋭さと禍々しさを備えた目である。凶悪なほど切れ長の目に浮かぶ瞳は、ボロボロに錆びついたように淀んだ赤茶色。白目もどこか血走っている。
ギョロリと動く錆びた目で睨まれれば、ランク1程度なら人もモンスターも苦悶の声を上げて逃げ出す。
彼女はそんな、病的なまでの陰鬱さと、おぞましさを持つ容姿であった。
だがしかし、単純にその形だけであれば、吐き気を催すほどの醜悪さとは言い難い。顔色も眼つきも雰囲気も、女であれば、化粧次第でいくらでも化けられる。線の細い顔立ちの彼女なら、あるいは、美人に変身できる余地もあったはずだ。
けれど、それを許さないのが『呪い』である。そう、彼女の呪いは、この容姿そのもの。
『魅了』と真逆の性質を持つ、『嫌悪』の状態異常が、常時発動するというのが、彼女の呪いの本質である。
実際の顔の造形はあまり関係ない。ただ、その容姿が偶然にも『嫌悪』が宿る形状であったというのが、最大の不幸。あと、ほんの僅かでも目の大きさが違えば、鼻の高さが、あるいは、唇の膨らみが違えば……きっと、『嫌悪』が宿ることもなかったであろう。
だが、一度でも呪われてしまったら、どうあがいても逃れる術はない。過酷な冒険者生活の中で、彼女は幾度も、目が潰れ、耳が落ち、鼻が削がれた、顔に重傷を負った経験がある。容姿が変わるほどの傷があっても、『嫌悪』は消えなかった。仮面を被っても、ジワジワとその効果は漏れ、抑えることもできない。
逃れられない『醜い』という呪い。
容姿、というものが人との関わりにおいて、どれだけ重要なものであるか、彼女ほど骨身に沁みて理解している者はいないだろう。
だから、彼女はこれまでも一人で、これからも一人であるに違いない。
何故なら、彼女の顔は呪われているのだから。家族ですら見捨てる醜さ。友人などできるはずもなく、まして、恋人など望むべくもない。
ああ、何と悲しき、不幸な女。
世界で最も醜い女。
彼女の名は、クロエといった。
一人の男がいた。
男は、常に群れていた。
孤独でいるなどとんでもない、俗世を捨てるなどありえない。すでに少年の年齢を過ぎた大人の男である彼は、一人では生きていけない。常に、誰かに頼らねば生きていけない。
けれど、それを省みることは決してない。
何故なら、彼はクズだからだ。
「ヤベぇ……金がねぇ……」
子供の頃からの口癖であった。
父親は盗賊、母親は娼婦。トンビが鷹を産むこともなく、彼は両親と似たような底辺の道を歩み続けた。
酒とクスリはスラムの嗜み。ギャンブルは必須科目。
そういえば、女を買って童貞卒業したのが先だったか、体を売って男の処女卒業したのが先だったか、今ではもう覚えてない。
女は何人も抱いたし、何人もの男に抱かれた。
腕っぷしも弱く、魔法の才能など欠片もない。だが、幸いにも彼は顔が良かった。
そこそこ美人ではあった母親譲りの、フワリとした柔らかい金髪と、キラキラ輝くエメラルドの瞳。
おまけに、口もよく回った。
口先ばかりのチンケな盗賊だった父親譲りだろうか、強い者には媚び諂い、弱い者には罵詈雑言、金のある者には美辞麗句を並べ立てる。
酒場の給仕をやっても、ボロ屋で男娼をやっても、整った容姿と巧みな話術で、彼は実に上手くやっていた。
成人して少し経った頃には、その才能を見込まれて、上層区画にある高級娼館に務めるようにもなった。客の中には、小金持ちの商人、そこそこ名の売れ始めた冒険者、時には爵位を持つ者がいることも。
稼げる金は、スラム街で暮らしていた頃とは比べ物にならない。
そうして、人並みに財産を築き上げた彼は、人並みの野望を抱いて、商売を始めた。
「やべぇ……やべぇよ……マジ、金がねぇ……」
そして、商売は見事に大失敗した。
彼に商才はなかった。どうやら、黒き神々が彼に授けた才能は、人に媚びる、というただ一つきりであったらしい。
現在、彼は夜逃げ同然に首都ダイダロスを抜け出し、恐ろしく鼻の利く狼獣人の借金取りから逃げに逃げて……とうとう、何もないダイダロス領の西端、イルズ村、などという聞いたこともないド田舎村にまで来てしまっていた。
「ど、どうするよ……こんなクソ田舎じゃあ、マトモに金も稼げねぇ」
すでに、所持金は底を尽きかけている。
流石にここまで来れば、借金取りの目からも逃れられるだろうが、こんな場所では商売のしようもない。あまりに村が小さすぎると、体を売るにしたって苦労するものだ。この村は、人が少なすぎる。人がいないということは、彼がたらしこめる人もいないということ。
「くそ、ちくしょう……おい! エールもう一杯つったろ! 客もいねぇのになぁにチンタラやってんだよ、さっさと持ってこいやぁ!」
行き場のない苛立ちと、八方ふさがりの状況下となれば、彼は酒を飲むことしか気を紛らわす手段を知らない。そしてこのイルズ村で酒が飲める店は、冒険者ギルド一つきり。
「ふにゃー、すんませんにゃー、エールですにゃぁー」
「ったく、遅ぇぞこのババア――って、おい、零すな! 零すなよ!? 待てコラ、テメぇ、めっちゃ指とか入ってんじゃねぇか!? ざっけんなよマジで、何でこんな耄碌ババアしか給仕がいねぇんだよこの冒険者ギルドはよぉ!!」
「にゃー? 大丈夫ですにゃ、孫が生まれたら、その子にギルドの看板娘を継がせるのにゃー」
「聞いてねーんだよんなことは! もういい、さっさと消えろや、このボケ老人!」
かなり年老いた猫獣人の給仕から、所持金からして最後の一杯となるエールを受け取るなり、彼は一気に煽った。
まずい。まずすぎる。
最早、酒の味など分からない。
とにかく金がない。すでに、首都ダイダロスに戻るための馬車代と宿泊代は残っていない。このエールを頼んだせいで、もう隣のクゥアル村にすら行くだけの金もなくなった。
「くそ……終われるかよ、こんなところで……」
ここが人生の終着点だとは、思いたくない。自分はこんなド田舎で落ちぶれていい人間じゃない。俺が本当にいるべき場所は、あの高級娼館のように、キラキラ輝く世界なのだ。
ちっぽけな自尊心が過去の幻を見せるだけで、彼には何も打開策など思い浮かびはしなかった。
外は抜けるような青空が広がり、爽やかな初夏の風が吹いている。夏越しの祭りを目前に控えた、長閑な初夏の農村で、彼は今正に、の垂れ死ぬかどうかの瀬戸際に立たされていた。
「はぁ……死にたい……」
それは、頭の中が真っ白になりつつあった、彼が聞いた幻聴か、はたまた心の声か。
否、その聞くだけで気分が滅入りそうな暗い声は、女のモノだった。
気が付けば、誰かがギルドの酒場席へと訪れていたようだ。まぁ、こんな昼間に冒険者ギルドに来るような奴など、ロクな冒険者ではあるまい。
「……うっ!?」
何となしに顔を上げて来客を見た瞬間、吐きそうになる。
待て、落ち着け、俺は吐くほど飲んじゃいない。俺は酒には強ぇんだ。そう言い聞かせて、どうにか生ぬるいエールが逆流してくるのを堪えた。
顔を伏せ、吐き気を落ち着かせて、ようやく、彼は気付いた。
「こ、この感じ、間違いねぇ……あの女……」
以前に一度、見たことがある。務めていた高級娼館に、金貨を握り絞めて入ろうとしたところを、黒服の屈強なガードマン達が涙目で立ち向かって入店を防いでいたのは、よく覚えている。
噂は聞いていた。世界一のドブス。吐くほど醜い。呪われた女。
彼女が男を買おうとしたことは、数限りなく。そして、そのことごとくを男性機能の喪失にまで追い込んだ、処女にして、男殺し。
故に、娼館のブラックリストの筆頭に名を連ねる、とんでもない女だ。
「けど、ソロでランク4に上り詰めた孤高の女剣士……」
冒険者の実力としては本物。
首都ダイダロスでは、男を買おうと大枚はたくが、彼女の被害が拡大するにつれて、ようやく諦めたのか、ある時からぱったりと話を聞かなくなった。その後は、毎日一人で黙々とダンジョンに挑み続ける、冒険者の鑑というより、命を賭けた荒行に挑む修行の神官のようだと、客の冒険者から聞かされた覚えがある。
つまり、彼女は金を持っている。
「いやいやいや、無理だろ……」
ネギを背負ったカモと見るか、財宝を守るドラゴンと見るか。
男の命を賭けてまで、挑む価値があるのかどうか。彼は悩んだ。
「けど……いや待て……でも……」
悩みに悩み抜いた。
そうして、ついに英断を下す。それは、彼の人生の中で、最も男らしい決断だったと言えよう。
「――あのぉー、人違いだったらすみませんけどぉ、貴女、もしかして、あのランク4冒険者のクロエ様じゃあないですか?」
「はぁ――はっ!? はひっ!?」
直視する、その呪われた容貌。真正面から、目を逸らさず、真っ直ぐに、見つめる。
「あれ、もしかして、やっぱり、本物ですか? うわっ、孤高の女剣士って噂のクロエ様に、こんなところで出会えるなんて、凄いっす、マジ感動!」
耐えた。
これまで色んな客をとってきた、その経験が生きた。
いいや、それくらいでどうにかなるようなら、この女は何もしてないのにブラックリストに名前が書かれることはない。
そう、これは神が与えた加護に他ならない。
確信する。俺には、ブスの呪いを耐える力があると。
「良かったら、ちょっとお話いいですかー?」
「ひぇ!? いいっ、あっ、う、うぇえええっ!?」
小さな丸テーブルを挟んで、勝手に彼女の正面に腰を下ろす。
「あっ、すみませんーん、まだ名乗ってもいなかったですよね。俺――」
さぁ、一世一代の、勝負の始まりだ。
「――リリエンタールっていいまーす。よろしくぅー!」
こうして、二人は出会った。
誰でもいいから愛が欲しかった、クロエ。
何でもいいから金が欲しかった、リリエンタール。
二人が結ばれたのは、最早、必然といってもよい。
クロエは、彼と出会ったその日の内に処女を散らした。あれほど渇望した念願の初体験だったが、いつの間にか頭の中は真っ白で、何も覚えてない。いつ服を脱いだのか、いつベッドに入ったのか、いつ、破れたのか。
けれど、心臓が壊れそうなほど激しい鼓動の高鳴りと、全身で感じる熱い充足感は、一夜の記憶として頭に、いや、体にしっかりと刻み込まれていた。
クロエは、この時ほど生きてて良かったと思ったことはなかった。
その一方、リリエンタールはこの時ほど死んだ方がマシだったと悔いたことはなかった。
というか、一度死んだかもしれない。隠し持っていたヤバいクスリでドーピングを決めて、どうにかこうにか、この呪われた女を抱いたのだ。性に関しては百戦錬磨のリリエンタールではあるが、クロエとの一晩は、これまでの苦労などお遊びに思えるほどの、地獄であった。
しかし、その地獄も夜明け共に終わりを告げる。
リリエンタールは一晩のサービスの代金として、ふっかけるにもほどがある破格の大金をクロエからせしめ、さっさと他の都市部へと向かう予定であった。
「おっ、お、お、お願い、リリくん……も、もう少し、だけ……私と……」
「いや、ムリ! マジで、もうホント俺ムリだからクロエちゃん!?」
だが、クロエに次を求められるのは、当たり前のことだった。
孤独に生きてきたクロエは、これまで出会ったどんな女よりもチョロい。リリエンタールの美貌と話術がなくたって、ただ声をかけるだけで簡単に落とせる。彼女はこの世の誰よりも、愛に餓えているのだから。
そんな女と関わり合いになれば、つき纏われるのは絶対確実。リリエンタールは女の醜い情念というものを、子供の頃からよく知ってはいたが……金が尽きたことで、目先の利益しか見えていなかった。つまり、クロエとどう別れるのか、全く考えてなかったのだ。
「払うから……幾らでも、何でも……ねぇ、リリくん、貴方のためなら、私……」
目がマジだ。女はこうなると、もう何を言っても止まらない。
これが、ただの女なら「うるせー黙ってろ」とぶん殴れば済む話なのだが……そう、クロエはランク4冒険者、孤高の女剣士様である。
逆上して襲い掛かってこられれば、ただの優男でしかないリリエンタールなど一ひねりだ。いや、剣で斬られなくたって、もう一度ベッドに押し倒されれば、それだけで死ねる。リリエンタールの呪い耐性は、最早、限界であった。
「……ねぇ、クロエちゃん、俺のこと、愛してる?」
「んへっ!? あ、あっ、あいっ、あいいぃえええっ!?」
「俺のこと、マジで愛してるの? それとも、ただ体だけが目当てなの?」
「あ、愛してる! 愛してる、私、リリくんのこと、本気で愛しているのっ!!」
まぁ、そりゃあそうだろう。呪われた顔の、世界一醜い女。そのくせ、人並みの恋愛に憧れて、焦がれて、願ってやまないことは、昨日、酒場で口説いた時に嫌というほど伝わってきた。
俺はそんな女に、楽しくお喋りしてやって、さらに一晩、愛してやったのだ――これで惚れないはずがない。自惚れではなく、純然たる事実であった。
「じゃあ、そこまでマジだってんなら……いいよ、付き合ってやっても」
「えっ、え――」
「ただし、一つ条件があんだよね」
リリエンタールは土壇場で、起死回生の策を思いついた。
「この村の近くに『妖精の森』っつーダンジョンあるっしょ?」
それはつい最近、この辺で聞いた噂話である。
「そこの、妖精が住んでる『光の泉』って場所にさぁ、妖精族のスゲー宝があるんだよね。何だか知らないけど、大魔法具級ってのは、マジらしいじゃん」
「……も、もしかして……欲しいの?」
「うん、欲しい。ソレをとってきてくれたら、俺、クロエちゃんと付き合ってもいいよ」
冒険者に無茶な依頼を押し付けて殺す。
そのあまりに古典的な方法はしかし、現代でも有効であった。
「ふ、ふふっ……うふふふ……い、いいの? ねぇ、本当に、そんなことで、いいの?」
「いいに決まってんじゃん! 俺、その宝を元手にして、マジでクロエちゃんのこと幸せにしてやんよ!」
ダメ押しとばかりに、リリエンタールはクロエを抱きしめた。
フワリと鼻をくすぐる、かぐわしい女性の香り。しかし、触れるだけでも蝕んでくる呪いの効力が、クロエの女の魅力を全て殺し尽くす。
「うん、分かった……分かったよ、リリくん」
クロエは、リリエンタールの頼みを受けた。その報酬は愛。命をかけるに相応しい、最高の報酬だ。
冒険者として、女として、受けないはずがなかった。
「リリくん、ありがとう……愛してくれて、ありがとう」
最後にそう言い残して、クロエは出て行った。
「……はぁ、バカな女で助かったぜ」
もう二度と会うことはあるまい。
リリエンタールは、一晩の報酬である金貨が満杯に詰まった袋を手に、イルズ村から去ったのだった。