第584話 白崎百合子の呪い
まず、リリィの爪が割れた。砕けたように弾け飛んで、そこから血が勢いよく噴き出る、が、その飛沫は散々に乱れ飛ぶ。続けて、指が折れ曲がったからだ。一か所ではなく、関節ごと、いや、それ以上にあらぬ方向へと折れてゆく。
その次に、掌が破れる。刃でズタズタにされたように大きな裂傷が幾筋も走っては、鮮血の華を新たに咲かせる。
それでも尚、叩きこまれた『一式・徹し』の破壊力は止まらない。
手首をねじ切るように回転させながら、浸透した魔力は衝撃波となってリリィの右腕を駆け昇っていく。肘を砕き、二の腕が歪み、次の瞬間には肩を超えて、胴体にまで衝撃波は到達するだろう。そうなれば、リリィの小さな心臓は止まってしまう。
「――『鋼の女王』!」
だが、発動する第二の加護がリリィを必殺の一撃から守る。かすかに漂う鈍色のオーラは肩口で輝き、そこで完全に伝わってきた破壊力をシャットダウンしていた。
その代り、行き場を失った衝撃は右腕内で跳ね返り、乱反射して荒れ狂う。リリィの肩から先の腕はビクビクと痙攣するように跳ね、一瞬の内に妖精少女の白い細腕を赤黒い肉塊へと変える。千切れ飛んではいないが、辛うじてぶら下がっているだけという有様。
歴戦の冒険者でも眉をしかめるような酷い負傷――だが、リリィは怯まない。
絶対的な優位を揺るがす、驚異の一撃。慢心を突いた手痛い反撃。けれど、だからこそ、リリィを本気にさせる。
「『スターデストロイヤー』――最大放射っ!」
抜刀術のような速さで、手元に輝く赤い光の中からリリィが黒き銃『スターデストロイヤー』を抜く。
ほとんどゼロ距離での発砲。さしものサリエルも、これを回避しきることは不可能だった。
「んっ、く……」
銃口より迸る凶悪な赤光を真正面から浴びたサリエルは、激流に押し流される小舟のように吹き飛ばされる。
サリエルにできたのは、防御としてかろうじて展開できた『暗黒雷雲』で、僅かながらの光量を逸らすのみ。それ以外には一切の集中力を割けない。
だから、サリエルが状況を再認識できたのは、かなりの距離を飛ばされ、冷たく硬い石の地面を転がり終わってからだった。
「ふっ、はぁ……」
まずは索敵。顔を上げれば、そこにリリィの姿はない。すでに何十メートルもの距離を吹き飛ばされた上に、途中で二回ほど石壁を突き破った感覚もあった。視界から見失ってしまうのは当然の結果だ。
距離が開いたことで、再び撃ちこまれるかもしれない副砲にも注意を払いつつ、自分の状態を再確認する。
ひとまず、戦闘不能に陥るほど深刻なダメージではない。立って動くに支障はない。かなりの威力ではあったが、それでもこの程度で済んだのは『暗黒雷雲』の魔法防御だけでなく、しっかり着込んでいた『堕落宮の淫魔鎧』の恩恵も大きいだろう。サキュバスの鎧だからこそ、苦手な光属性への耐性も高い。
防御魔法と防具のお蔭でダメージは半減。もっとも、残りの半分でも人間一人を消し炭にするには十分すぎる威力が残っているが、そこは『白の秘跡』が作り上げた超人の肉体で耐えられる範囲であった。
無論、頑丈な自分の肉体と防具は残っているが、何の防御効果も宿さないごく普通の修道服は綺麗さっぱり消失してしまっている。今のサリエルは、いまだにクロノが直視するのを憚る、過激なビキニ型の『堕落宮の淫魔鎧』のみの姿となっていた。
ひとまずは、失った『反逆十字槍』のせめてもの代わりとして、紫電の迸る『黒雷門』から予備の槍を取り出し、構える。
「……」
人の目もなければ、あったとしてもこの姿に何ら羞恥心を覚えないサリエルは、堂々と槍を構えて立ち、リリィの追撃を警戒して周囲へ感覚を集中させる。主の警戒心を反映するかのように、淫魔鎧の悪魔尻尾がちょっと不安げにユラユラと揺れていた。
「――見事な一撃だったわ、サリエル。ごめんなさい、貴女のことは、取るに足らない存在だと侮っていたと認めるわ」
リリィの声、しかし、姿はない。どこからともなく、声だけが聞こえてくる。魔力の気配も感じず、彼女が潜む位置を特定でするには至らない。
「だから、ここから先は本気で、私も手段を選ばず、全力で貴女を潰す。だから、ちょっと酷いことも言っちゃうかもしれないけど……ふふ、恨まないでちょうだいね?」
響いてくるリリィの声音に、思わぬ手傷を負ったことへの怒りの感情は窺えない。右腕一つ失っても、彼女はいまだ、絶対の優位を確信しているといった感じに聞こえる。
実際、リリィがサリエルとの接近戦を避けて、徹底的にアウトレンジでの一方的な砲撃を心がけるだけで、一気に形勢は不利となる。そんな最善策をとられた場合の対処法、突破法を考えながら、サリエルの頭には一つだけ引っかかることがあった。
「ねぇ、サリエル、貴女はクロノのことを、どう思っているのかしら」
弱点。フィオナにも、ネルにも、そして自分にも、それがあるとリリィは最初に言っていた。本気になるというからには、その弱点を容赦なく突かせてもらうと考えるのは妥当だろう。
「私が『見た』限りでは、そう悪くは思ってないように感じたわね。でも、それも当然よね、だって、クロノは優しいもの」
嫌な予感がする。
「クロノの奴隷だなんて、世界一幸せな奴隷よ」
ふと思い出すのは、フィオナに話がある、と言われて、露骨に顔をしかめては身をこわばらせるネルの姿。
精神攻撃。言葉、情報によって相手にショックを与え動揺を誘う。時にそれは、ただ一言で戦意を喪失させたり、正気を失うほど発狂させたりと、鋼の刃よりも劇的な攻撃力となって相手を無力化させることもある。
だから、人がそれを恐れるのも分かる。後ろめたいことがある者ならば、尚更。
しかし、自分には全く無縁なこと。
ただの言葉でショックを受けるのは、人の心があるが故。人間らしい感情を持たないサリエルには、どんな罵詈雑言も単なる雑音に過ぎない。口先だけで、一瞬でも隙を作りだすのは不可能――
「それで、どうなのかしら。貴女はクロノといられて、幸せ?」
けれど、この不安感は何だ。
他愛もないリリィのお喋りが、極大の攻撃魔法を放つための詠唱に聞こえるほど、ピリピリとした危機感が全身に走る。
自分にとって『嫌な予感』とはイコールで危機察知能力であった。
でも、今この胸に抱く感覚は、単純に身体的な生命の危機を知らせるものとは、どこか異質で、捉えどころがない。戦闘において自らの直感に身を任せることに一切の躊躇がないサリエルだが、この煙が燻っているような不快感には、素直に従おうという気は全くおきなかった。
「……」
集中。リリィの問いかけになど、答える義理はない。不安感も不快感も、全て忘れる。考えるべきは、どのタイミングで、どんな攻撃をリリィが仕掛けてくるか。
「答えてはくれないのかしら。ふふ、でもいいわ、自分の気持ちは、自分だけが分かっていればいいのだから……でも、クロノの気持ちは違うわよ。貴女も主と定めたからには、その意を汲む努力はするべきだと、そう思うでしょう」
これが本題か。そう直感する。
「貴女はちゃんと、クロノの気持ちを分かっているのかしら」
分からない。正直に告白すれば、そう言うより他はない。元より、人の心を失った神の人形。自分が真に人間の感情を解するには、しばらくの時間と経験とを要するだろう。
「そうね、人の気持ちが分からないのだから、クロノの気持ちも分かるはずないわよね。でも、それはしょうがない、今はまだ理解できないだけ。分かろうと努力している最中が、今なのだから」
テレパシーで心を読んだのか。いや、この程度の推測は、サリエルについてある程度知っていれば十分に立てられる。
事実、リリィの言う通りだ。
感情が理解できないことへの負い目はある。だからこそ、それを克服しようと心がけているのだ。
開拓村での生活、そして、スパーダでの冒険者生活を通して、少しずつ、けれど、確実に理解は進んでいるように感じる。それは喜ばしいことだし、今はまだ、それだけでいいはず。
人間らしくなれ。それがクロノの望みの一つであると何となく理解はしている。けれど、彼は一度も、それをサリエルに言うこともなく、急かすこともない。
「ええ、そうよ、クロノは貴女を待っていてくれてるの。いつまでも待ってくれる、十年でも、二十年でも……いいえ、最後の最期まで、分からないままでも、きっとクロノは許してくれる」
心。人の心。それを理解するというのは、一種、哲学的な命題であると言えるかもしれない。難しい問題。そもそも、サリエルでなくたって、普通の人がどれだけ他人の心というものを解しているといえるのか。
「ああ、何て優しいクロノ。その優しさに甘えてしまうのも、仕方がないわよね――でも、本当は分かっているのに、気づかないフリをするのは、どうかと思うの」
嘘、だというのか。
いや、嘘などではない。サリエルは本気で分からないから、悩むのだ。
「クロノの本当の気持ち、貴女は最初から、分かっていたはずでしょう」
いいや、到底、理解しきれているとは言い難い。ただ、深く悩み苦しんでいる、という様子を観測しただけで、彼の心を理解したとは言えないだろう。
「それとも、自分自身の心さえ偽って、忘れてしまったのかしら」
記憶の忘却はありえない。サリエルとして完成されたその時から、体験した記憶は全て克明に記憶され、色褪せることなく保持し続けられるだけの記憶能力が、この頭脳には備わっているのだから。
「あんなにハッキリとクロノは言っていたのに」
忘れてなどいない。クロノの言葉は、初めて出会った第三研究所の時から、一言一句、聞き違えることなく覚えている。
「忘れているなら教えてあげる。貴女が私の家でクロノに抱かれた、あの忌まわしい夜――」
「俺を舐めるなよ、サリエル。いいか、白崎さんだったお前は殺さない。そして、俺はお前に殺されたりもしない。お前を生かす、俺も生きる。どっちも絶対に、譲らない。だから俺が、お前を神から奪ってやる」
そう言って始まった、黒き悪魔に純血を捧げる背神行為。
あの夜のことは、覚えているというよりも、奴隷に焼印が押されるように刻みつけられている、と言った方がいいだろう。
瀕死の重傷、極度の疲労。使徒となってから初めて感じる、肉体的苦痛――そして、それを全てかき消してもなお有り余る、狂おしいほどの快楽。
今でも、その記憶を正確に思い出そうとすれば、背筋がブルリと震える。一つに繋がった体、触れる温もり、荒い息遣い。重なる、壊れそうなほど、溶けてしまいそうなほど。
そして、耳に届いた彼の声は――
「――百合子。そう、クロノは言ったのよ」
炸裂する、高密度の魔力砲弾。リリィの言葉をかき消すように、着弾したシャングリラの副砲が轟音をまき散らす。
濛々と立ち込める黒煙を割って、サリエルが飛び出す。警戒していたお蔭で、即座に発射を察知して回避行動に移れた。囮から始まり、リリィとの戦闘を経て、すでに何十、何百と撃ちこまれた大砲だ。多少は見切りも効くようになってきた。
そのはずなのに、一瞬、ほんの僅か、反応が遅れた。
「クロノは何度も呼んでいた、百合子って、その女の名前を」
それがどうした。
あの時のクロノは第四の加護『愛の魔王』を御しきれず、半ば混乱状態にあった。行為の最中、白崎百合子の名前を口にしても、何らおかしなことはない。
「――っ」
再度、叩きこまれる砲弾。サリエルの反応はさらに遅れる。
余波に煽られ、僅かに体勢を崩したせいで、少しばかり踏ん張らなければ倒れていたところであった。
「あの時、クロノが抱いたのは貴女じゃない、白崎百合子なの」
頭上に無数の赤い光が瞬く。リリィの光魔法による攻撃だ。
雨霰となって降り注ぐ赤い光弾の隙間を縫うように駆け抜けながら、術者たるリリィの潜伏場所を探る。
この廃墟のフィールドにあらかじめ仕掛けを施してあるのだろう。四方八方から攻撃魔法は飛んできて、単純に発射点を見るだけでは位置を特定できない。けれど、本人が魔法を行使している以上は、魔力の気配を辿ればおおよその位置を割り出すことができる。
「んっ」
攻撃魔法の嵐の中、三度、叩きこまれる副砲。直撃こそ避けるものの、さっきよりもさらに激しく余波に煽られ、体が宙を浮く。
「知らないはずがない、分からないはずがない。クロノはあんなにも激しく求めていたというのに」
地の上を滑るように着地したサリエルに向かって、一際に大きな赤光が襲い掛かる。そのサイズと不規則な軌道から見て、高い誘導性能を備えた『閃光白矢』に違いない。
回避よりも撃ち落とした方が確実。握りしめた替えの槍に紫電を迸らせて――突く。
サリエルの正確無比な突きは、それぞれ別方向から完璧なタイミングで飛来してきた上級攻撃魔法を見事に貫いてみせた。
しかし、何故だろう。槍を握る手が、震えていた。
「クロノが欲しかったのは、白崎百合子。貴女はいらない。第七使徒サリエルという忌まわしい神の人形なんて、いらないのよ」
知っている。そんなことは知っている。クロノが本当に助けたかったのは、白崎百合子に違いない。
けれど、彼女はもういなくて、自我も、魂も、一かけらだって、この体に残ってはいない。ただの抜けがら、残骸。
それでも、クロノはそんなサリエルを失いたくないと願ったからこそ――
「だから、ね、今からでも遅くはないから、貴女の体、白崎百合子に返してあげるべきなのよ」
「……そんなことは、できない」
不意に、攻撃は止んだ。まるで、自分が答えるのを待っていたかのように。
「どうしてできないの?」
「不可能。白崎百合子の意思は、一切残されてはいない」
「でも、貴女の頭の中には、ちゃんと残っているんでしょう、彼女の記憶が」
「記憶はただのデータに過ぎない。そこに人の意思はない」
「それだけあれば十分じゃない」
「繰り返す、白崎百合子はもういない――」
「ええ、いないから、貴女が白崎百合子になればいいのよ」
意味が分からない。理解不能。
けれど、それはいわゆる一つの『悪魔のささやき』というべきものだと、サリエルは直感した。
「彼女の記憶をトレースして、貴女が演じるの。限りなく本物に近い、白崎百合子を」
それはできない。サリエルの能力では、実現不可能な――
「できるわよ、だって貴女は人形だもの」
「不可能。私は笑うことも、泣くこともできない。人を演じることなど、できはしない」
「いいえ、できる、できるのよ。だって貴女はもう、全てを思い出しているのだから。うふふ、簡単だから、やってみなさい。貴女はただ、彼女の記憶にある通りにすればいいの――ほら、笑いなさいよ、白崎百合子」
彼女は、どうやって笑っていただろうか。
親に対して、友人に対して。あるいは教師、クラスメイト。さして親しくなくても、人は笑える。白崎百合子は良い子だった。大抵の人物とは、すぐに楽しく談笑できる程度には社交性も優れていた。
けれど、違う。本当の笑顔と、愛想笑いとでは、違う。
どうすればいい、どうやればいい。笑い方。笑顔の作り方。
思い出す。白崎百合子の笑顔。彼女は一体、どうやって笑っていた。どんな時に、心からの笑みを浮かべられていた。
そんなの、決まっている。クロノ、いや、黒乃真央。白崎百合子が恋い焦がれた、たった一人の男。恋する乙女が心からの笑みを浮かべるならば、思い人の前であるより他はない。
そうだ、白崎百合子は笑っていた。彼の前で、精一杯。普段は気持ちを押し隠し、表情を抑えていたけれど。彼の一言、何気ない仕草、その一つ一つが嬉しくて、愛おしくて、白崎百合子は、私は、笑っていた。
そう、こんな風に――
「素敵な笑顔よ、サリエル」
ごく普通の少女であるかのように、微笑むサリエルがそこにいた。
鏡がある。いつの間に現れたのか、全身を映し出せるほど大きな鏡だ。
「っ!?」
サリエルが息を飲んで元の無表情に戻ったのは、突如として出現した鏡になどではなく、そこに映った微笑む自分の表情であることに、違いはなかった。
「貴女は笑えるの。泣くことも、怒ることも、人間らしい喜怒哀楽の感情を、表情で表すことができる」
リリィの声は、鏡の中から聞こえてくる。大きな鏡面が揺らぐと、赤い光と共に、堂々とリリィは姿を現した。
古代の魔法具か設備を利用した転移魔法の一種。冷静な分析は、頭の片隅に過っただけ。そう、戦闘に関する推測などの思考能力が、すでに頭の隅にまで追いやられ、失われかけているということ。
動揺している。自分は今、明らかに集中を欠いている。事ここに至って、サリエルはそれを理解した。
「気持ちなんてなくたって、表情は幾らでも作れるの。そして、貴女は白崎百合子の記憶も思考回路も、全て知っている。彼女を演じるのは、とても簡単なことよ」
それ以上、考えてはいけない。
直感が激しく危機を訴える。
自分は今、リリィの精神攻撃を受けている。耳を貸してはいけない。
そう理解していても、もう遅い。
サリエルは、すでに笑ってしまった。彼女に問われて、試さずにはいられなかった。本当に、自分に笑顔が作れるのか――微笑んだのは、完全に無意識だった。
異常事態。この体は今、自らの意思の制御を離れようとしている。
「ほら、演じなさいよ。クロノのために」
白崎百合子になりたいと、思ったことはないか?
「貴女はなるの、クロノが求める白崎百合子に」
自分が白崎百合子だったらと、考えたことはないか?
「貴女は奴隷、クロノの奴隷。クロノが白崎百合子を欲しいと思っているなら、貴女はそれを与えなければいけない」
もし、白崎百合子が黒乃真央に告白できていたら――
「それが出来るのは貴女だけ。私にも、フィオナにも、ネルにもできない。サリエル、貴女だけが、クロノと白崎百合子を結ばせることができるのよ」
あの時、最後まで言えていたら。いいや、そもそもこんな異世界なんて存在しなければ……クロノは、白崎百合子のモノだった。
「帰りなさい、クロノの元へ。白崎百合子となって」
「……ない」
声が、震える。上手く、言葉にできない。
けれど、言う。ハッキリと、言わなければならない。
「それは、できない」
否定しなければ。
「私を殺さないと帰れない? 別にいいわよ。もし、私が死んだら、白崎百合子の貴女がクロノを慰めてあげてちょうだい」
違う。そうじゃない。
そういうことではないのだ。
「私は、白崎百合子にはならない」
「どうして? 真にクロノを満たしてあげられるのは、貴女の中にいる彼女だけなのに」
サリエルは考えた。もし、リリィの言う通り、本当にクロノが白崎百合子を求めていたとすれば。嘘でもいいから、彼女が欲しいと。あるいは、嘘であるとも知らずに、白崎百合子の意識が戻ったのだと、信じ込んだとすれば……
「私は……白崎百合子、ではない」
「いいじゃない、偽物でも。それでクロノが満足してくれるなら」
いいのだろうか、偽りの白崎百合子でも。クロノは喜ぶだろうか。たとえ嘘でも彼女が蘇ったなら、嬉しいだろうか。結論は、すぐに出た。
クロノは嬉しいし、喜んでくれる。なぜなら、彼は日本の料理を再現すれば喜ぶし、日本の話をすればとても嬉しそうにする。サリエルでも分かるほどに、クロノは楽しそうに笑ってくれる。
そんなクロノだ。白崎百合子と会話ができたなら、どんなに良いだろう。
彼女は死んだ、もう戻らない。そう諦めているから、クロノは考えたこともないだろうが……宿敵として戦った第七使徒サリエルなんかより、白崎百合子の方にこそ、生き残って欲しかったと思うに決まっている。
冥暗の月24日、運命の夜。加護と一緒にサリエルという人格を失い、替わりに白崎百合子の自我が蘇っていたならば、クロノはこれほどまでに悩み苦しむこともないし、ここまで女性関係が歪むこともなかったであろう。
分かっている。分かっている、はずだった。
自分は、ただ存在するだけでクロノを苦しめているのだと。
それを、忘れかけていたのかもしれない。奴隷となり、騎士となり、彼の傍にいるのが当たり前となって――本当にクロノの傍にいるべきなのは、白崎百合子なのに。
「クロノのために、白崎百合子になりなさい」
「……いや」
嫌だ。
「いやなの?」
「いや、それはできない……それだけは、できない」
「うふふ、どうして?」
何故か。そんなの決まっている――
「マスターの奴隷は私。白崎百合子ではない」
紫電一閃。気が付けば、サリエルは槍を繰り出していた。
無意識でありながらも、赤黒い雷光を纏った穂先は目の前に現れたリリィに向かって疾走する。
「そう、それが貴女の本心。貴女のアイデンティティ。貴女の欲望」
どれほど鋭く速い一突きも、今のリリィを刺すには不足。穂先は彼女の胸先数センチのところで、右手で掴み取られて止まっている。押しても、引いても、ピクリとも動かない。
いや、そもそも、リリィの右手はいつ復活したのか。真っ白い細腕は、傷痕一つも残っていない、完全な状態。
「貴女はそのちっぽけな心を満たすためだけに、クロノを騙したの。白崎百合子は死んだ、もう二度と元には戻らないと」
「違う」
槍が砕ける。いや、自ら砕いた。紫電黒化を限界までかけた上で、炸裂させたのだ。クロノの裂刃と原理は同じ。
けたたましい音を立てて雷光が弾けると同時に、サリエルは一足飛びに距離をとりつつ、さらに次の予備の槍を抜く。
「違わない。白崎百合子を演じれば、クロノを苦しませずに済むと貴女は知っていた。知らなくても、気づけた。機会は何度でもあったはずよ」
「違う――」
着地と共に地を蹴って、再び突撃を仕掛ける。立ち止まる余裕も、距離をとりつつ隙を窺う暇もない。いいや、そんな状況判断など、もうとっくに忘れている。
リリィを刺す。一刻も早く。
直感が、本能が、サリエルにそう命令する。
危険、危険なのだ。今すぐ、あの女を黙らせなければ――
「それをしなかったのは、出来なかったからじゃない。やりたくなかった。それだけは、絶対に、死んでも御免、いいえ、クロノを死ぬほど苦しませても、白崎百合子を演じることを、貴女は拒絶した」
「違う!」
酷い一撃だ。これが、かつて槍術を極めし聖騎士たる第七使徒なのか。力任せの、八つ当たりのような一撃。そこには完成された技のキレも、魔法の術理も宿りはしない。
そんな攻撃が、リリィに届くはずもない。
「そんなに、クロノに自分を見て欲しかった?」
ドン! と、巨大なメイスで殴りつけられたような衝撃がサリエルの脇腹に走る。けれど、実際は殴られたのではなく、撃たれたのだろう。瞬く赤い光と、傷口を焼く灼熱が、リリィの銃にゼロ距離射撃を許したことを教えてくれる。
「白崎百合子じゃない、サリエルである自分を、見ていて欲しかった?」
ドン、ドン! 連続で鳴る発砲音と赤いマズルフラッシュが上がる。避けるか、防ぐか。今のサリエルには、どちらも許されない。気が付けば、手にしていた槍が折れている。
視界を赤い閃光が過ったのは一瞬のこと。着弾、直撃。成す術がない。
「ただ、クロノが自分を見ていてくれるだけで良かったのに。そう、思っているのでしょう?」
どうして。体が動かない。
四方八方から飛来する光は、炸裂する度に小さなサリエルの体を宙へ吹き飛ばし、地へと叩きつける。
どうして、戦えない。
いや、分かっている。体の不調の原因など、精神的なショック以外にない。
どうして、自分はこんなに動揺している。この危機感、不安感は。
どうして、どうして――どうして、リリィはこんなにも、自分の心が分かるのか。
「貴女の望みはたったそれだけ。クロノが幸せになってくれるなら、他の誰と結ばれたっていい。フィオナでも、ネルでも、それこそ、こうして殺し合っている私とだって、クロノが望むなら、それでいいと納得できる」
リリィはきっと、自分よりもサリエルの心を理解している。
私が知らない私のことを、彼女は知っている。
「でも、白崎百合子だけは許せない。認められない」
二度目の戦慄。二度目の恐怖。
リリィ、彼女はなんて恐ろしい化け物なのだろうか。
この人の心を持たないはずの私を、ただの言葉で、ただの感情で、壊そうとしている。
「貴女がどうして、こんなにも彼女の存在を否定するのか……教えてあげましょうか?」
聞いてはいけない。知ってはいけない。
何も知らなければ、苦しまずに済む。何も聞かなければ、何の疑問も抱かずクロノの傍に居続けることができる。
「どう、して……」
けれど、知らずにはいられない。
「それはね――」
いつの間にか抱え込んでいた、心の闇の正体を。
「――貴女が白崎百合子に嫉妬しているからよ」
嫉妬。これが、嫉妬。
「そう、これが嫉妬よ。彼女のことが、羨ましくて、妬ましくて、仕方がないの」
気持ちが悪い。
苦しい。息が詰まるほど。
「クロノはどうして、第七使徒サリエルを殺せなかったのか」
「私が……白崎百合子、だったから……」
「そう、貴女が白崎百合子だから」
たとえ抜け殻でも、それでいいと、クロノは望んだ。
「クロノに抱かれたその時から、貴女は知っていた。彼が求めているのは白崎百合子だけ」
サリエルは気付いていた。
「クロノは最初から、貴女のことなんて見てないの」
それに、気づかないフリをしていただけ。
「クロノが見ているのは、白崎百合子。貴女を通して、失った彼女の幻影を見ている」
それを、忘れていただけ。
「クロノが助けたのは白崎百合子。クロノが優しくしているのは白崎百合子。クロノが話すのも、触れるのも、全て、全部、白崎百合子――貴女じゃないのよ」
一体、いつからそうなったのだろう。
「ああ、何て可哀想なサリエル。純潔を捧げても、懸命に尽くしても、それは全て白崎百合子のモノ。クロノがくれる何もかも、白崎百合子に奪われる。もう、この世のどこにも存在しない、亡霊以下の幻に、貴女の全てが奪われてしまうのだから……ふふ、嫉妬するのも、仕方のないことよね」
いつから、求めていたのだろう。
運命の夜からか。それが明けた朝。身分を偽って開拓村に潜伏した時。ウルスラと話し、村の生活にも馴染み、クロノに世話してもらうのが当たり前に感じた頃。それとも『暗黒騎士・フリーシア』の加護を授かってからだろうか。いや、もしかすれば、スパーダに来てから、メイドとして働く最近になってからかもしれない。
分からない。サリエルはいつから、白崎百合子に嫉妬を感じ始めたのか。
「でも、貴女が貴女である限り、それは決して逃れられない運命なの。他の恋敵は、始末すればそれでいい。けれど、もう死んでいる女には手の出しようはない。貴女の体も魂も、かつて白崎百合子だった、という事実は変えられない」
自分の気持ちが分からない。
でも、一つだけ、分かったことがある。ようやく、理解できた。
「貴女は、白崎百合子に呪われている」
そうだ、これだ。このどうしようもなく覆せない残酷な事実そのものが、白崎百合子が消える最期の瞬間に残した『呪い』の正体だ。
覚えている。記憶の枷がない今は、ハッキリと思い出せる。彼女は自分が消えるその時、こう言い残した。
「……ねぇ、もう一人の私。貴女のことは、別に恨んでもいないけれど、この思いだけは、消したくないの。だから、心に刻むよ……愛の呪い、を……黒乃くん、愛してる――」
「彼女は可能性にかけた。サリエル、貴女がいつか、いつかきっと、黒乃真央と出会える運命に」
なるほど、クロノはあの日、白崎百合子よりも先に倒れた。その直後、自分も強烈な頭痛に見舞われ、その結果として異世界転生を成したのだから、クロノもまた同じ、この魔法の世界に呼び出されていると推測くらいはできるだろう。
けれど、何も知らず、知る由もなく、ただ使徒となるための過酷な実験を受け続けるだけの日々の中では、その推測に確信が持てるだけの情報など得られるはずもなく……結局は、単なる願望でしかなかったはず。
「そして、奇跡が起こった。黒乃真央はクロノとして、白崎百合子はサリエルとして、この世界で再び巡り合った」
もしかすれば、初めて彼と出会った第三研究所、あの時から白崎百合子の呪いは影響を及ぼしていたのかもしれない。
彼女の記憶を完全に封印された当時の私は、明確な意図をもってクロノを見逃した。
それが、僅かながら残っていた、同じ実験体としての同情心かと自己分析をしていた。
けれど、それはおかしな話。よく考えれば、いや、よく考えなくても、おかしいと分かるはず。
アルス枢機卿は、はっきりと脱走した49番を抹殺せよと命令を下した。一度、命令として下されれば、サリエルはただ忠実にそれを実行するのみ。そこには一切の感情が介入する隙間も無い。
だが、クロノは逃げた。自分が見逃した。
そうだ、きっと、白崎百合子の意思が、サリエルの判断力を狂わせた。
「愛の呪いは成就した。白崎百合子は死んでいるけれど、貴女を通してクロノに抱いてもらった。彼女は貴女を利用して、今もクロノの傍に居続ける。そして、これからもずっと、白崎百合子はクロノに愛してもらえる」
くだらない。何てくだらない、詭弁、ただのこじつけ。
けれど、サリエルはようやく認める。このイカれた愛の論理が、どうしようもなく許せないということに。
「白崎、百合子……」
「嫉妬、嫉妬、醜い嫉妬。貴女のその気持ち、よく分かるわ。この私には、とても、分かる――」
目の前が怒りで真っ赤に染まるとは、このことか。
白崎百合子。彼女の存在が、疎ましくて仕方がない。ただ存在するだけでクロノの愛を一心に受ける彼女のことが、妬ましくて仕方がない。
一度、気づいてしまえば、一度でも、認めてしまえば、もう、自分を呪って利用する怨敵たる亜麻色の髪の少女のことしか見えない。
「――でも、悪いけれど、私と貴女は今、殺し合っているの」
リリィの声さえ、もう届かない。
サリエルは今、どうしようもないほど激しい嫉妬の炎に包まれながら――
「ここで消えてちょうだい、サリエル――『星墜』」