第578話 三人の旅路
新陽の月23日。朝。アヴァロンの大正門前広場で、二人の少女が立っていた。
一人は、黒衣の魔女。『エレメントマスター』のフィオナ・ソレイユ。
いつもの魔女ローブだが、今はさらに黒いマントを一枚、羽織った姿。初夏の季節にはやや暑苦しい格好であるが、当の本人はどこまでも涼しい顔をしている。
何とも思っていない、というより、フィオナにとってこのマントは、これから始まる最も過酷な戦いで必要な装備となるからこそ、覚悟をもって身につけているのだった。
もう一人は、サリエル。こちらも、冒険者として戦いに赴く時にはいつも身につけている、着慣れた修道服姿。無論、その聖なる衣装の下には、真っ白い少女の肢体を淫靡に飾り立てる過激な淫魔鎧が装着されている。
二人は、それぞれの愛馬を脇に、静かに待つ。
ほどなくすると、待ち人は現れる。
白と紅の鮮やかな神官服を身に纏い、純白の両翼を持つ、巫女。一つに縛った長い黒髪はサラサラと揺れ、足音は彼女が引く馬の蹄が石畳を叩く音のみ。
三人目のメンバー、ネル・ユリウス・エルロードは、一国の姫君に相応しい落ち着き払った表情で、優雅に頭を下げる。
「お待たせいたしました」
「いえ。準備の方は?」
「万端です」
「そうですか――」
それ以上、話すことはないとばかりに、三人は示し合わせたようにそれぞれの馬にまたがる。
「――では、行きましょう」
そうして、彼女達は静かにアヴァロンを旅立つ。愛に狂った妖精を討ち滅ぼすために。
『神滅領域アヴァロン』は最高難度のダンジョンとして名高いが、アクセスは良い。位置こそアヴァロン領北西の端になるが、そこに至るまでの街道は広く整っており、それなりの馬と術を持つ者なら、急げば三日ほどで踏破できる。
三人の旅路は順調に進み、予定通り新陽の月25日の夜には、『神滅領域アヴァロン』の入り口たる漆黒の大正門にまで到着していた。
ダンジョンに含まれるのは、何千年の時を経ても、欠けることなく、またヒビ割れることもなく立ち続ける、巨大な黒き城壁の内側だけである。
城壁の外には、遥か古代に崩れ去った瓦礫の山が無数に広がるのみ。如何なる呪いの影響か、草木は一本も生えず、生命の気配というものがどこにも感じられない。
そんな瓦礫の荒野には、低級のアンデッドが時折彷徨うくらいで、これといった危険はない。最強のダンジョンに挑む冒険者に与えられた、最後の安全地帯である。
「今夜はここで休んで、明日の朝から攻略を始めましょう」
冒険者として当然の判断を下すフィオナに、異を唱える者はいなかった。
あの黒き巨大門から、ダンジョン内のモンスターが出てくることもありえない。一応、最低限の警戒として、一人ずつ順番に見張り番をすることを取り決めて、その日は就寝することとなった。
「サリエルさん、聞いてもいいでしょうか」
「はい、ネル姫様」
厳正なるくじ引きの結果、最初の見張り役はフィオナに決まった。テントの中には、サリエルとネルの二人が寝転んでいる。一国の姫君と、一軍の将から身を落とした奴隷。そんな二人が同じように寝るのだから、冒険者のテントというのはこの世で一番、平等な場所なのかもしれない。
「貴女はクロノさんの故郷での友人だった、と聞いていますが……どこまで、本当なのですか」
ネルにとっては、今だからこそ、改めて確認したいことであろう。
スパーダへクロノに会いに行ったあの時は、フィオナの狡猾な罠に嵌って散々な結末となった。騙された自分にも非はあるが、フィオナの言葉にもそれなりの信憑性があったのも、また事実。
あの時に聞いたフィオナの話は、一体、どこまでが本当で、どこまでが嘘だったのか。ネルは聞かずにはいられなかった。
「私に回答の権利はない。特に、マスターに関わる情報の公開は制限されている」
「――構いませんよ、サリエル」
テントの外から、フィオナの声が飛び込んでくる。
どうやら、話は筒抜けな様子。もっとも、ネルとしても内緒話にするつもりもなかった。ただ、サリエルと二人きり、という状況が話を切り出すのには都合が良かったというだけに過ぎない。
「構わない、とは、どこまでが情報公開の範囲か、判断しかねる」
「私が知る限りのことは、彼女には教えても構いません。クロノさんの正体、貴女が何者か」
フィオナは知っている。クロノがあえて、ネルには自分が異邦人であることや、アルザス防衛戦での辛い経験を告白してはいないことを。
クロノにとってネルは、あくまで友人。自分はパーティメンバーであり、シモンはこれからも苦楽を共にする仲間である。ウィルハルト王子は、どうやら自らクロノが異邦人であることを見抜いたから知っているようだが、それは例外と言っていいだろう。
「マスターの意向を無視する危険性がある」
「ここまで付き合ってもらっているのです。彼女には、知る権利があると私は思います」
「私のこと、憐れんでいるのですか」
やや棘のある言葉だが、フィオナは平然と答える。
「権利があるだけで、教える義理はありません。貴女が知りたいと思うことを、聞けばいいでしょう。サリエルは嘘がつけません。知らないこと以外は、的確に答えてくれますから」
だから、後はご自由にどうぞ、とでも言いたげに、フィオナはそれきり押し黙った。
「……サリエルさん、私の質問に、答えてくれますか」
しばらく沈黙した後、ネルは問いかける。ここは、くだらない意地など張らず、聞けるだけ聞こうと判断したようだった。
「はい。私も、貴女にはマスターについて知る資格はあると判断した」
サリエルも、クロノがネルにはそれなり以上に心を許している、ということを察しているからこその、判断であろう。イスキアの戦いをはじめ、ネルとの思い出話は、開拓村でベッドの中で聞いたことがあるし、最近では神殿暮らしのしのぎに語ってくれたこともあった。
「それでは、まずは……クロノくんの正体、とは何ですか?」
これまでネルは、あえて聞かなかった。クロノが言う「遠い故郷」とは、何処なのか。彼は一体、どこから来て、何故、スパーダに辿り着いたのか。
クロノが自ら出身地を語らなかったのは、それを意図的に隠そうと思ったからに他ならない。そして、ソレを無理に詮索しようとするほど、ネルの分別は欠けてはいない。
だが、最も気になる情報でもあった。クロノ、彼が何者であるか知るのに、まず必要な第一歩である。
「マスターは異邦人です」
クロノの正体が、実は魔神が遣わした悪魔であるとか、十字軍の裏切り者であるとか、それくらいの予想と、ソレを受け入れる覚悟をしていたネルだったが、斜め上の回答にやや困惑した。
けれど、なるほど、と妙に納得もいった。
「本名は黒乃真央。クロノは姓で、名はマオ。ただ、この世界で『マオ』の発音は『魔王』と聞こえること、また、姓を持つことで貴族と勘違いされるのを防ぐために、『クロノ』と名乗っている」
「異邦人、ですか……ああ、だから、黒い髪に、黒い瞳を持っているのですね」
異邦人の容姿というのは、割と有名な話である。
アヴァロンでも黒髪黒目の異邦人の言い伝えや記録が残っている。図書館やギルドで調べればすぐに分かるほど公になっているものから、エルロード王家にしか伝わっていないような秘密の話まで。
「では、サリエルさんも異邦人なのですか? 全然、色は違いますけど」
「私は、かつて白崎百合子、という名の異邦人だった。この体は、彼女本人のモノではない」
「どういうことですか?」
「私とマスターでは、この世界に来た方法が根本的に異なる。私は、この世界で作られた人造人間の器に、白崎百合子の魂を封じた、転生。マスターは、本人そのものがこの世界へ呼び出された、召喚」
異邦人が落ちて来たり、赤子に憑依する、というのはどちらも昔から伝わる話ではある。だが、同じ時代に、召喚者と転生者が巡り合ったという話は聞いたことがない。
運命、という単語がネルの頭に過る。
「二人は、その……元の世界では、どういった関係だったのですか」
「白崎百合子は、黒乃真央に恋をしていた――」
そこから始まる、二人の物語。黒乃真央と白崎百合子。
自我を保ち、神に逆らう道を歩むクロノ。自我を失い、神に従う道を走らされたサリエル。
正反対の道を行く二人は、それぞれシンクレアの征服者とパンドラの守護者となって、互いに殺し合う――そんな二人が、如何にして同じ道を歩む今に至ったか。
それを語るには、長い時間を要した。
気が付けば、空は薄らと白んでいる。
凡その、事のあらましを聞き終えたネルは、クロノが辿ったあまりに過酷な運命に涙を流しながら、最後にこう言った。
「――サリエルさん、やっぱり、貴女が死ねば良かったのに」
新陽の月26日、朝。抜けるような青空が広がり、古の黒き都を照らし出す。
「では、そろそろ行きましょうか。今回の目標は、あくまでリリィさんを殺すこと。くれぐれも、仲間割れなどしないよう、お願いします」
「はい、フィオナ様」
「勿論です、そんな愚かなこと、するわけがありません」
言いつつも、ネルは親の仇でも見るような眼つきでサリエルを睨んでいる。対するサリエルは、いつも通りの無表情。
こういう反応が、さらに怒りを掻き立てるのだと、経験者であるフィオナは共感する。
やはり、事情を知ればサリエルという存在は、使徒として死ぬべきであったと、思わざるを得ない。少なくとも、クロノを愛する女性からすれば、これほど目障りな存在はないだろう。
「醜い嫉妬に燃えるのは、リリィさんだけで十分ですからね」
嫉妬。そう、嫉妬だ。
サリエルが羨ましい。
究極的に、フィオナはそう思っている。きっと、ネルも同じ思いを、意識的か、あるいは無意識的にでも抱いてしまっているだろう。
何故なら、サリエルは許された。最大の怨敵である使徒にして、十字軍の司令官でありながら、クロノが許したのだ。筆舌に尽くしがたい苦悩の果てに、それでもクロノは許した。
他でもない。サリエルが同じ異邦人だからだ。
クロノと同じ世界の人間。
それは、天才的な魔法使いであるフィオナでも、アヴァロンの姫君であるネルでも、決して得ることはできないステイタスである。
サリエルは知っている。本物の学生だった頃の彼を。彼と同じモノを見て、彼と同じ場所に住み、彼と同じ常識を共有する。
クロノから見れば異世界人となる、フィオナ達では共感できない、理解できない、知る術もない。
持たざる者であるが故の嫉み。あるいは、真に彼を理解することができないのではないか、という恐怖と不安こそ、嫉妬心を燃え上がらせるのかもしれない。
「行きましょう。私達が、あの狂った嫉妬の女王から、クロノさんを守るのです」
愛の名の下に集う三人の少女は、同じく愛を謳う乙女を討つ。
果たして、狂っているのは、リリィかフィオナか、全員か。
善悪を超越した愛の聖戦が、今、始まる。