第577話 高貴なる女騎士の憂鬱
「……はぁ」
最近、溜息が多いなと、ふと気が付いた。
その最近とは、はて、何時の頃からかと問われれば……騎士選抜、よりもっと前、では、神滅領域に潜った時か、いや、さらに前、スパーダに……認めよう、この溜息を吐かずにはいられない心労の原因は、ネル姫様に他ならない。
生徒会室で騎士選抜のメンバー選出に頭を悩ませていた私は、一体、どれだけ幸せだったのだろう。あの日、セーラー服を身にまとい、凛とした雰囲気を漂わせる、美しく成長されたネル姫様が現れた時から、きっと私の運命の分かれ道は茨が生い茂っている方向へ引きずり込まれたのだと思う。
かといって、恨んでいるワケではない。アヴァロンの騎士として、仕えるべき姫君を恨むなどとんでもない。そんな建前を差し引いても、ネル姫様は私にとってかけがえのない大切な幼馴染でもある。彼女のことは純粋に好きだし、人柄は尊敬できるし、本気で命に代えても守りたい、と思う。
それに、苦労に見合った成長もあった。神滅領域アヴァロンに挑んだ時は、通常の鍛錬の比ではないほど強くなれたと実感できたし、カオシックリムとの戦闘では、自分の限界を越えた戦いを経験した。私の騎士としての実力は、騎士選抜の前と後で、一段は違うものとなっているだろう。
そして何より、とても素敵な出会いもあったのだ。
クロノ。スパーダのランク5冒険者。『黒き悪夢の狂戦士』の異名をとり、その名に恥じぬ戦いぶりをガラハド戦争で見せつけたという、本物の英雄だ。そんな人物が、自分と同じ年齢だというのだから、天才だの学園最強だの呼ばれても、所詮は井の中の蛙に過ぎないと実感させられる。
そんな凄い人物と知己を得られたのは、この上ない幸運だと思う。勿論、それはクロノのネームバリューと冒険者としての実力だけではない。知り合って間もないが、彼の人格の素晴らしさは、十分に理解できている。だから、クロノのことはカオシックリムを倒してくれた命の恩人であるという以上に、尊敬している。
しかしながら、困ったことに、このクロノも私を悩ませる大きな要因の一つなのである。彼自身に問題はない。何も問題がないことが、強いて言えば問題なのかもしれないが。
全ての事の発端は、スパーダ留学中に、ネル姫様がクロノに惚れてしまったこと。今だからこそ分かるが、私がネル姫様と再会してからずっと、彼女の行動原理は全てが全て、クロノのため、である。しかも、その悉くは空回りで、実際、クロノはネル姫様のことを一人の女としてというより、大切な友人としてしか扱っていない。ベルクローゼン様の恋愛相談とは何だったのか。あまりの進展の無さに、そう思わなくもない。
いや、決してネル姫様を非難しているワケではない。クロノに惚れてしまう、それも、狂人一歩手前くらいまで入れ込んでしまう、というのも理解できないこともないほど、彼は色々な意味で魅力的な男性だから。それはもう、あの心優しいネル姫様も他の者のことなど一顧だに省みることもなくなるし、乙女歴250年のベルクローゼン様も一目惚れするというものだ。
色恋沙汰とは無縁でやってきたこの私でさえ、クロノにはドキリとさせられることが多い。何というか、彼は無防備だ。女性には性欲という概念が存在しない、とでも信じているかのよう。ネル姫様の餓えた雌獅子のような視線を向けられてもまるで気づいていないのだから、鈍感というより他はない。
けれど、それならそれで、ネル姫様もさっさと告白すればいいのだ。聞けば、クロノと出会った頃はまだ、彼はフリーだったという。ガラハド戦争の前に告白しておけば、事態はここまで拗れることもなかったのではないだろうか。
やめよう。過ぎたことをただ恨むのは、愚者のすること。
拗れてしまった以上、その解決法を模索するべきだ。
「はぁ……しかし、悪い予感しかしない」
今日も今日とて、私とネル姫様は神殿暮らしのクロノの元を訪れたのだが、何と彼はいないのだという。
彼のパーティメンバー兼恋人のフィオナ某から詳しく話を聞いたネル姫様は、やけに思いつめた表情で戻ってきた。当然、事情説明を求めた私なのだが、返って来た答えは……
「クロノくんは、退院の予定を早めてスパーダに帰りました。彼のことは、心配いりません。それと、私は急用ができたので、今日はこれで失礼させていただきます」
と、クロノの行方が分かったのはいいものの、肝心の事情が全く不明である。私は勿論、食い下がる。
「その、リリィさんが帰ってくる、と言っていましたが……どういう意味なのですか」
「リリィさんは……恋敵です」
無表情で答える姫様だったが、私はその瞳に燃え上がる怒りの炎を垣間見た。
それ以上は、私も聞き出せなかった。
だが、同時に聞くべきでもない、とも思った。
これはきっと、いわゆる一つの『痴情のもつれ』というヤツだろう。
女と女の戦いで、外野がどうこう言える義理はない。正直、最悪の事態ではないと、少しだけ安堵した。
クロノは別に、モンスターに襲われたワケでもなければ、謎の暗殺者に狙われたというワケでもない。まして、険悪な雰囲気だったネロ様が怒りの余りにクロノを始末しようと暗躍し始めたということでもない。差し迫った命の危険はないのだ。
ネル姫様も、あのクロノの恋人だというフィオナ某、それと、奴隷だというサリエル某。三人とも尋常ではない恋の気配を感じるが、いくらなんでも刃傷沙汰に及ぶことはないだろう。
恐らく、リリィさんという女性を交えた四人で、クロノを巡ってドロドロした愛の戦いを繰り広げることになるはず。その結末は……いい予感など、するはずもないだろう。
「最悪、もう一回『忘我の秘薬』を……いや、アレは一回しか使えないのだったか……」
ネル姫様が恋の戦いに勝つにしろ負けるにしろ、どちらに転んでも私の苦労は変わらない気がする。せめて、話し合いで円満に解決、とまではいかなくても、上手い落としどころか、とりあえずの現状維持、にでも決着がついてくれることを祈るより他はない。
「……はぁ」
三度、溜息。
正直、面倒くさい。というか、気まずい。
クロノはもう、覚悟を決めて惚れた女を全員囲い込むハーレムにするか、誰かと駆け落ちでもしてこんな面倒な女性関係から逃げ出せばいいと思う。普通の男だったらそうする。
貴族ならば財産の許す限り好きなだけ気に入った女性を傍に侍らせていればいいし、金のない平民だったら全てを投げ出して駆け落ちすれば済む。そのテの話は、この帝国学園でも何度か聞いたこともある。
冒険者パーティで組んだ平民の女の子二人に手を出した貴族のボンボンが、紆余曲折あって結局は二人とも愛人にするとして決着がついたと一連の噂を聞いたのは、一年の頃だったか。また、政略結婚の相手がどうしても我慢できないお嬢様が、これまた冒険者パーティで組んだ平民の男の子と駆け落ちして、ルーンだかに逃げたという噂は、二年の頃だな。
色恋沙汰など、当人にとっては世界の全てのように思えるのかもしれないが、所詮、そんなものはどこにでもあるありふれたモノ。何もかも犠牲にするほど、大したモノではない――と、以前の私ならため息交じりに思っただろうか。
今なら、そういう気持ちが、少しだけ分かる気がする。私だって、もし、クロノに……
「フィオナもサリエルもネルもリリィさんも、みんなが俺を苦しめるんだ。もうこんな生活には耐えられない……だから、頼む、セリス、俺と一緒に駆け落ちしてくれ! お前を一番愛してる!」
とか、いきなり言われたら、勢いに押されて頷いてしまいそうになる、かもしれない。
うん、あくまで可能性の話だ。別に、私もクロノに惚れているとかそういう話ではない。私は彼の強さも知っているし、尊敬もしている。だから、そんな情けない告白などされようものなら、あのクロノが……と憐れむというか、放っておけないというか。普段の彼の頼りない面も見ていると、私が何とかしなくては、という使命感も湧くというか。
いや、それ以前にクロノは、私のファーストキスを奪ったことの責任も、少しくらいは感じてくれてもいいような気がする。
カオシックリムの寄生攻撃にやられて、致し方ない状況、いわば人工呼吸のようなもの……といえばそれまでだが、それでも初めては初めてだ。乙女の初めてを奪ったのなら、男としては当然、それ相応の責任を取るのが筋というものだろう。すでにして恋人のいるクロノは気にしてないのかもしれないが、私は気にしている。何度か夢に見るくらいには。
「あー、もう、何を考えているのだ、私は、くだらない!」
変な方向に回転を始めた思考を無理矢理に打ち切る。
落ち着いてくると、一人静かな部屋の中で悶々としている自分自身がバカみたいに思えてくる。
実際、バカだ。
ネル姫様とは結局、神殿で別れてそれきり。行き場を失った私は、そのままトボトボと一人寂しく学園の寮へと帰った。今日の予定は、いきなり空白になってしまったな。
私とネル姫様は、基本的に昼からはクロノと遊び歩くために、授業は午前で済むよう調整している。まぁ、私も姫様も三年生の成績優秀者だ。この時期になれば、ある程度の自由時間も作れるようになる。
かといって、今更、授業に出る気にもならないし、暇つぶしがてらに生徒会へ顔を出す気もおきない。誰かと話したい気分ではない。
となれば、後はもう、鍛錬くらいしか選択肢はない。いいだろう、体を動かせば、多少は気も紛れる。
そうと決まれば、最早、このガクランを着ている意味はない。
私はあまり着替えに時間をかけない。流れるように五つの金ボタンを外し、中のブラウスも脱ぐ。
「ふぅ……いい加減、胸がキツい」
自分でもウンザリするほど、結構な大きさの胸が飛び出す。私のガクランとブラウスは特別性だ。そこそこのバストサイズであっても、抑えられるよう造られている。男装用の装備、というヤツだ。
このスラックスも同様。あまりお尻が大きく見えないようになっている。つまりコレを着れば、ネル姫様くらい恵まれたボディラインを描く女性でも、ちょっと細身の男っぽく見えるのだ。
だから、普段の私が身に着ける女性らしいモノといえば、この下着くらいのものだろう。それにしたって、色気の欠ける機能性重視の無地なのだが。
ネル姫様はクロノと会うにあたって、毎日、下着も選んでたりするのだろうか。毎日が勝負、みたいな。今の彼女なら、ありうる。
「うーん」
それに比べて、今の私はどうだ。女を捨ててるといってもいい。見えないところにもこだわるのがファッションだというのなら、私はハナから諦めているといってもいいだろう。
魔法剣士として鍛えてはいるから、スタイルはそれなりに良い方だとは思うのだが……次にクロノと会う時は、私ももう少し女性らしいファッションを意識するのが礼儀なのかも。
なんて、つい部屋の姿見に映った自分の下着姿をボンヤリ見ていたせいだろうか。
「ただいま、先輩、もう帰ってたんです――ねええっ!?」
同居人が戻ってきた。
「ああ、リュートか。どうした、君はまだ授業中だろう?」
何故か大袈裟なほどに驚いている眼鏡の少年は、リュート・エクスヴァリス。一つ下の二年生で、同じ生徒会の役員であり、騎士選抜にも出場し、そして、私の婚約者だ。
「す、すみません! 俺はただ、次の授業の忘れ物をとりに戻ってきただけで、決して先輩の着替えを覗こうとかそういう気は全然ないただの偶然で、っていうか、早く服着てくださいよ!」
「着替えくらいで騒ぐな、いつも見ているだろう」
「いつもは見えないようにしてるじゃないですか!」
「そういえば、そうだったか」
別に裸まで見せるわけじゃないのだから、大袈裟だな、といつも思う。流石に全裸を晒すのは私とて恥ずかしいが、下着程度の露出度なら、さほど気にする必要はない。
冒険者の経験があれば慣れるものだし、生粋の貴族のお嬢様だって、セレーネの浜辺で水遊びする時は下着のような水着を着用して人目に晒すだろう。一体、何の違いがあるというのか。
「……それで、何で先輩が帰ってきてるんですか? 今日もネル姫様と出かけるって話じゃあ」
手早く訓練用のシャツと革ズボンに着替え終わると、ようやくマトモに顔を向けてリュートが声をかけてくる。でも、まだ顔はほのかに赤い。意識しすぎだろう。
「急にキャンセルになってしまってな。仕方なく、一人で学園に戻って、これから鍛錬でもしようかというところだ」
「そうだったんですか」
なるほど、と真面目に頷くリュート少年。
その中性的で年齢よりもまだあどけない顔立ちは、女子の間で隠れファンも多いと聞くが、浮いた話の一つもないのは、私という婚約者がいるからだろう。
しかし、貴族同士の婚約というからには、往々にして本人の意思とは無関係のことが多い。その例にもれず、私とリュートも完全に親の意向のみで決められた政略結婚となる。
それでも、あまりに歳が離れているだとか、人格破綻者であるとか、変態だとか、そういう無茶な相手ではないだけ恵まれているだろう。
私にとってリュートは可愛い後輩だ。弟のような、というヤツだろうか。
生徒会役員になれるほどには成績も素行も優秀で、騎士選抜メンバーに選ばれるほど腕も立つ。彼が眼鏡で封じている魔眼も、非常に強力だ。それでも、まだリュートには負けてやるつもりはないが。
容姿も悪くはない。身長だけは、まだ私に今一歩及ばないところだが、もうあと二年か三年もすれば、追い越されるだろう。
アヴァロン十二貴族である私の家と、下級貴族にすぎない彼のエクスヴァリス家では、家格には天と地ほどの差があるものの、どういう理由か父が婚約に賛成している以上、家のことも問題にはならない。
そして私自身も、この婚約に否やはない。貴族に生まれた以上、政略結婚は義務であり承知の上。リュートという相手にも、何の文句もない。
何とも円滑に進んだ婚約関係。だからこそ、こうして貴族寮で同室が許可されている。帝国学園では将来を見越して、婚約関係にある男女に限り、同室を許す制度がある。そういう二人であるならば、在学中に子供ができても構わない。家を継ぐ男児をこしらえるチャンスは早いうちからあるに越したことはない、という貴族の要望もある。
もっとも、私とリュートの間に限っていえば、無為に終わったといえるが。別に、私が拒否したワケではない。同室になると決まった時に、彼自身から言い出したことだ。何でも、私と結婚するまで、そういうことは絶対しない。そして、結婚までに必ず私を倒せるほど強い剣士になるのだと。
なるほど、これが男の意地、と呼ばれるものなのだろうか。恋に恋する乙女なら、感動にむせび泣くところなのかもしれないが、如何せん、幼いころから顔も見知っているリュートが相手では……やはり、弟感覚でしかない。素直に喜んでやれず、申し訳ないとは思う。本気でリュートを慕う何人かの女の子には、さらに申し訳なく思う。
何にせよ、こうしてリュートがいまだに私の下着姿程度でドギマギしているように、彼の涙ぐましい努力、もとい『誓い』は守られている。あとは、私を倒せるだけの剣の腕前が身に付けば、晴れて誓いは果たされるだろう。
まぁ、そんなモノは自己満足に過ぎない、といえば聞こえは悪いが、私としては、どちらでも構わなかった。彼が性欲に負けて夜中に襲い掛かって来ようと、別に軽蔑したりもしない。私はクロノと違って、男には性欲という概念がある、ことくらいはきちんと理解しているからな。変な理想は抱いてない。
どの道、リュートが私の夫なる日はそう遠くない。今年は私が卒業し、来年にはリュートも卒業する。そこで、正式に結婚するという予定だ。別に待ち遠しくもなければ、嫌というほどでもない。貴族の娘としては、変に男遊びをすることもなく、親が決めた通りの相手と清い体で結婚するというのだから、これ以上ないほど上出来といったところか。まるで、綺麗に舗装された道を行くが如き、何の面白みもない恋愛経験である。
けれど私に比べれば、即死トラップ満載で凶悪なドラゴンまで出現するダンジョンを進むような恋愛をネル姫様はしている、ということになるのだろうか。複数人の恋敵はいるし、記憶を忘れる薬を使わねばいけないほど悩み苦しみ、そして今、壮絶な修羅場に赴こうとしているのだ。
冗談じゃない――と、少し前の私なら思ったかもしれない。今は不思議と、そんな姫様が少しだけ羨ましく思えた。
「なぁ、リュート、君は修羅場というものを経験したことはあるか?」
「はい?」
唐突に投げかけた何の脈絡のない質問に、やはり訳が分からないと面食らうリュート。
「修羅場というのは、ほら、あれだ、一人の男を巡って、二人の女が激しく奪い合うとか、そういうシチュエーションのことなのだが」
「いや、まぁ、それは分かりますけど……」
ふむ、それが分かるなら、話は早い。
「何でまた、いきなりそんなこと聞くんですか。いつもの先輩らしくないですよ」
確かに、普段の私はこんなバカげた質問をぶつける真似はするまい。冗談なんかも、円滑に会話を進める上で必要な最低限だけ、というくらいで、自分からおふざけのようなことを口にしたりすることもないし。
「私の友人が、少しばかり恋愛関係の悩みを抱えているのだ」
「それって、もしかしなくてもネル姫様のことじゃ――」
「よせ、リュート。詮索は君のためにならない」
「す、すみません……」
君まで私と同じような目にあう必要はない。姫様の恋のとばっちりを喰らうのは、幼馴染の私だけで十分だ。
「それで、どうなのだ?」
「修羅場の経験、ですか? そんなの、あるワケないじゃないですか」
「そうか。君の周りには、あの幼馴染の神官だとか、家に仕えている唯一のメイドだとか、中等部の後輩だとか、可愛い子も多い。それなりに経験があるのかと思ったのだが」
「酷い誤解ですよ! アイツらとは別に、そういう関係じゃないですし、っていうか、俺には先輩という婚約者がいますから、浮気とか、絶対ありえないですから!」
「ああ、済まない、別に浮気を疑っているとか、そういう話ではないのだ」
心外です、とばかりに真剣な表情で返されると、私も困る。
「もっとも、君が彼女達と密かに付き合っていたところで、私は別に気にはしないさ。そういう事ができるのも、学生でいられる今だけだし、私としても、彼女達に対しては申し訳なく思う気持ちも――」
「やめてください、俺は真剣に先輩のことを……すみません、やっぱり、俺がまだまだ弱いから、そういう風に思われるんですよね」
どうやら、私の発言は火に油だったようだ。こちらとしては、精一杯、気を利かせたつもりだったのだが。
リュートには私のことなど気にせず、本気で彼のことを愛する女性達へ少しでも答えてあげて欲しいという親心、とはちょっと違うか。男の浮気を許容する、女の甲斐性ということで。
私としては、本気で彼が結婚後に、彼女達を愛人として囲い始めても一向に構わないと思っている。というか、そんなことでいちいち目くじらを立てていたら、貴族の円満な夫婦生活は望めない。最低限の節度くらいはあるが。
「君は十分、強くなっている。何も悲観することはない。帝国学園の代表として誇れるだけの実力があると、私は認めている」
「先輩……でも、俺は」
「ふっ、だが、私も剣士としてのプライドというものがある。後輩の君には、そう簡単に負けてやるわけにはいかない」
リュートには悪いが、まだしばらくは超えられない高い壁でいようと思う。
いやしかし、こういう扱いをしてしまうから、いつまでたってもリュートに男性的な魅力、というモノを感じないのだろうか。
クロノはあんなに……いや、彼と比べてやるのはいくらなんでも可哀想というものか。
「話が逸れてしまったな。それで、結局、リュートにはこれといった経験はないということか」
「あっ、はい、すみません」
謝る必要はない。むしろ経験豊富だったら、それはそれで問題だ。結婚する前に刺されて死んだら困る。
「それなら、別にいいさ。引き留めて悪かった、早く授業へ向かった方がいいのではないか?」
そうだった、と半ば慌てながら、リュートは自分の机を漁って、一冊の資料集のようなものを手に、またすぐ扉から出て行く。
「あ、そうだ先輩、手紙が届いてましたよ」
「手紙?」
「はい、封蝋の紋章から、アークライト家からのモノみたいですけど」
わざわざウチから手紙が届くとは、珍しいこともあるものだ。
今度こそリュートが去った後、私は彼が置いといてくれたと思しき手紙を自分の机の上で見つけた。ソレは確かに、アークライト公爵家のものに違いなかった。
一体何用なのかと、すぐに封を開けて手紙を読む。
「一度帰れ、か……ちょうどいい、どうせ今日は暇になった」
このまま真っ直ぐ、実家に帰ってやるかと、私はすぐに決めた。
私の名は、セリス・アン・アークライト。アヴァロン十二貴族の筆頭と謳われる、アークライト公爵家の長男――と、偽っていたのは何年も前の話。イメージが定着してしまったせいで、何となく今でも男装を続けているが、この学園で私がアークライト家の長女である、というのを知らない生徒はいない。
実家といっても、同じアヴァロンにある。馬を走らせれば、すぐに帰ることができる。
「おかえりなさいませ、セリス様」
急な帰宅にも関わらず、ズラズラと使用人が並んで出迎えてくれる。子供の頃は何とも思わない光景だったが、今となっては彼らも仕事とはいえ、大変だなと労いの気持ちも湧く。
「父上は?」
「ちょうど、お帰りになられたところでございます」
タイミングが良かった。わざわざ呼び出しておいて、忙しいからと散々待たされた挙句、やっぱり忙しすぎて会えずじまい、なんて無為な時間を過ごさずに済むのは僥倖だ。
執事の先導で、父が待つという部屋へ向かう。そこはいつもの書斎ではなく、ウチでも最も大きな応接室だった。どうやら、客人もいるらしい。
ウチに招かれるなら、それ相応のお偉いさんに違いない。挨拶くらいはしておくのが礼儀か。
そんな程度の気持ちで、入室の口上を執事が述べ、父が許可をする儀礼的なやり取りを経て、私は久しぶりに父と対面することになった。
「早かったな、セリス。手紙を出したその日の内に来るとは」
「ちょうど、時間が空いていたもので」
久しぶりではあるが、別に感動の再会というほどでもない。
私の父、ハイネ・アン・アークライトは相変わらずの仏頂面。話に聞けば、騎士選抜でカオシックリムと戦った私を大層、心配していたというが……本当だろうか。冷徹な貴族らしく、あまり人の情というものを見せない父が、娘の身を案じてオロオロする様というのは、私には想像できない。
「父上、そちらの方は」
話に入る前に、客人への挨拶は済ませておかねばならない。
チラリと視線を向ければ、見慣れない男が、さして緊張した様子も見せずにソファに座っていた。アークライト公爵を前に、全く気を張った様子がないということは、よほど肝の据わった人物か、単に無礼で図太いだけか。
少なくとも、同格の貴族連中ではないというのは、顔を見れば分かった。アヴァロン貴族の顔は、おおよそ知っている。幼いころから何かとパーティだ何だと連れ回されれば、いつも似たような面子で見飽きてくるほどだ。
「ああ、実は彼を紹介するために、呼んだのだ」
「どうもぉ、お初にお目にかかります、私――」
父に促されて、挨拶のために男が立ちあがる。
白い法衣を纏っていることから、やはり貴族ではなくパンドラ神殿の神官だろうか。しかし、似てはいるがデザインは異なるし、胸元に輝く十字の飾りというのも、見た覚えがない。
それにしても、気になるのは男の顔だ。
「――グレゴリウスという者です。以後、お見知りおきを」
恭しく礼をする様は、妙に堂に入っている。礼儀作法に厳しい者が見ても、ケチをつけられないほどの所作である。
だがしかし、男の顔にはどうにも、礼を尽くそうと言う心からの気持ちは感じられない。
一言で言えば、胡散臭い。
実に怪しい男だ。糸目の細面に浮かぶ笑みは、童話に描かれる狡賢いキツネの悪役を思わせる。
あまりよろしくない第一印象を抱きつつ、私もひとまずは挨拶を返す。どうも、向こうは私の顔と名前だけでなく、これまでの経歴に至るまで知っていそうな雰囲気だったが。
「セリス、そこにかけなさい。お前には司祭様の話を聞くよりも前に、まずは色々と説明をしなければならない」
「はい、父上……ところで、そちらのグレゴリウス様は、司祭なのですか?」
「おっと、これは失礼致しました。麗しいアークライトのお嬢様を前に、つい、名乗り忘れてしまいましたよ」
軽薄な笑みを浮かべながら、その男は堂々と言い放った。
「私、『アリア修道会』で、しがない司祭をやっております。アークライト卿には、平素より格別にお引き立て頂き、真に感謝の念が――」
まだ何かベラベラと喋っているが、私の耳にはあまり入って来なかった。
『アリア修道会』。その名は、つい最近、聞き始めた新興宗教のもの。そして、クロノはこう言っていた――「奴らは、十字軍の手先だ」と。
「……父上、どういうことですか。何故、『アリア修道会』の者が我が家へ」
「セリスよ、先に断わっておく。我がアークライト公爵家が真に仕えるべきは、アヴァロン王家などではない」
クロノは十字軍を憎んでいる。彼らは残酷で無慈悲な侵略者であり、ダイダロスで暴虐の限りを尽くしている。
だから、彼はガラハド戦争に身を投じた。すでに犠牲となった仲間のために、そして、スパーダの平和のために。
しかし、それはアヴァロンで平穏な学園生活を謳歌していた私などには、どうあっても実感の得られないものだ。私はまだ、何も失ってはいない。私はまだ、十字軍と戦ったことはない。どんな者達なのか、見た事すらないのだ。
「な、何を……」
「幾千の時を経て、我らはようやく、仕えるべき、いや、崇めるべき至高の存在を迎えられるのだ。『アリア修道会』は、その使者である」
けれど、今、私は確かに見た。
「遥か古の時代、あの忌まわしき魔王ミアによって、聖地エリシオンはパンドラの地より消滅した。しかし、神の意思を継ぐ聖なる十二使徒の血は保たれた――我らが祖は、第二使徒カイン・アークライト」
白き侵略者は、私のすぐ、目の前に現れていた。
「時は満ちた。今こそ、我らアークライト一族は十字の御旗を掲げ、再びパンドラ大陸へ遍く『白き神』の威光をもたらすのだ」