第559話 妖精女王の試練
「――ようこそ、私のフェアリーガーデンへ」
神滅領域・アヴァロンの正門を潜った先には、見渡す限りのお花畑が広がっていた。
出迎えてくれたのは、光り輝く三対の羽をもつ、妖精の女王。
「再び、拝謁の名誉に預かり光栄です、イリス女王陛下」
一目見て、この方こそが全ての妖精が信仰する女神なのだと分かる。二度目となれば、顔を見ずとも、その気配だけで何者であるかを察するに足る。
どうやら私は、再び妖精女王イリスの住まう神の世界へと招かれたようだった。
「ここは、あまり私の力が及ぶ場所ではないから、今回は貴女とゆっくりお話しする時間はないの……ごめんなさいね」
いえ、と私は一言だけ返答し、女王の言葉を待つ。
現実世界では、私はランク5ダンジョン『神滅領域・アヴァロン』へ足を踏み入れたところだから、神との繋がりが弱いのだろう。
「リリィ、貴女は今、真実の愛に至ろうとしているわ」
それは、前に見た時よりも、喜びに満ちた表情であった。
「ああ、素晴らしい。実に素晴らしいわ。千年待っても、この真理に至る者は一人もいなかった……認めましょう、貴女には資格がある」
「資格とは、何のことでしょうか」
「私の後を継ぐ者。王位の正統後継者、妖精姫となるのです」
両手と三対の羽を広げて言い放つと、キラキラとした輝きと共に、咲き誇る花々から一斉に花びらが舞う。華の嵐による、女神の祝福だ。
「さぁ、私の可愛い娘、リリィよ、試練へ挑みなさい」
「神の試練、ですか」
「いいえ、愛の試練です」
一歩、女王は私へと近づく。見上げたその顔は、どこまでも慈しみに満ちた微笑み。親という存在を知らない妖精でも、その顔を見れば『母親』とはどういうものであるか、理解するであろう。
私もまた、同じ。
この人は、私の全てを理解してくれている。この方は、私の全てを、許してくれる。
ああ、これこそが、神の、いや、母の愛、というものなのだろう。魂を焼き尽くすような激しい恋愛の感情とは違う、温かな安らぎを覚える、親愛の情。
「愛する人と、結ばれなさい」
私の唯一無二の願い。
「誰の邪魔も入らず、何者の介入も許さず」
願いを叶える、断固とした強い意思。
「ただ、愛する人と二人で、幸せに過ごすのです――どんな手を、使ってでも」
覚悟はもう、決まった。
「そうして、私は神になった。永遠に続く幸せの中で、貴女も、きっと――」
間近に感じた神の気配が、急速に遠のき始める。ここで時間切れといったところか。台詞も最後までは、聞き取れない。
けれど、十分に伝わった。
妖精女王イリスの、神として、母として、私に望むことは、全て……
「……んっ」
目覚めると、目の前には黒々とした巨大な石造りの街並みと、煉獄のように真っ赤に燃える空が広がっていた。そうか、ここが伝説のエルロ-ド帝国の首都アヴァロンなのか。
最も栄えた古代の街並みがそのまま残る光景は圧巻だけれど、今はじっくり観察している暇もない。
「おかえり、リリィ」
すぐ耳もとで、私の声が聞こえた。
傍らで幽霊のようにフヨフヨ漂っているのは、幼い姿の私を模した、真っ赤なオーラの集合体。
「ただいま……貴女の言ったことは、本当だったようね。妖精女王イリスに、祝福を与えられたわ」
「うん、そうでしょ、リリィの言ったとおりでしょ!」
「ああ、悪いけど、勝手に人の名前を使うのは、やめてもらえるかしら」
「どうして? リリィはリリィだよ」
「うふふ、そういうのは、もういいのよ。これから貴女のことは、レイと呼ぶことにするから」
「レイ? なんで?」
「貴女が『エンヴィーレイ』だからよ」
あっと驚いたような表情で、固まっている。いやだわ、子供の私って、こんな間抜けな顔をクロノに見せていたのかしら。
「そっか、知ってたんだ!」
「人の魂に巣食う、忌まわしき悪霊のモンスター」
クロノが探す、試練のモンスターの内の一体。
スパーダの冒険者ギルド本部で調べた限りでは、大した情報はなかったけれど、この子がソレだと確信するには十分だった。
人にとり憑く、いわば寄生するという点ではスロウスギルによく似ている。けれど、スロウスギルは完全に頭脳を乗っ取り、肉体を支配するのに対し、エンヴィーレイは魂にとり憑き、人の心に囁きかけることで、本人の意思を誘導、変革させる。
それは主に嫉妬の感情を増幅し、とり憑いた者を発狂させるという。
異常な言動を繰り返す、分かりやすい場合もあれば、表向きは平静を取り繕ったまま日常生活を送り続ける場合もあり、その狂い方は様々。
狂っていたとしても、決してエンヴィーレイ自ら主導して宿主を動かすわけではなく、あくまで体も心も本人のままという点が、このモンスターの発見を著しく困難とさせている。
そもそもエンヴィーレイとは実在するモンスターなのか。実は、狂人に共通する心の病に過ぎないのではないか。そんな説もある、存在さえ不確かな、正に幽霊の如きモンスター。しかし、本当に存在するならば、それは紛れもなく、人の心を惑わし、狂わせ、破滅へと導く、邪悪な悪霊に他ならない。
「けれど、貴女には感謝しているの。大切なことに、気づかせてくれたのだから」
開き直ったような笑顔のレイへ、私は微笑みかける。
「そんなことないよ。リリィならきっと、自分一人でも気づけたから」
「そうね、でも、時間はかかったわ。凄く、凄く、長い時間が必要だった……何もかも、手遅れになるくらい」
だから、この感謝の気持ちは本物だ。
レイが現れなければ、私が真実の愛に気づくまで、本当にどれだけの時間を擁したか分からない。十年か、百年か、それとも……けれど、そんな仮定に意味はない。私は『今』気づけたのだから。
「貴女の気が済むまで、私に憑いているといいわ」
「ありがとう! リリィと一緒にいるね!」
「仮初の力だけれど……これでようやく、本当の自分になれた気がするの」
私は今、何の条件も制約もなく、真の姿を保っていられる。あの小さく丸い幼児から、スラリと手足が伸び、顔立ちも大人びてくる、少女の姿に。
レイがとり憑くことで、私に力を与えているのだ。それは『紅水晶球』の力を使うのと同じように……いいや、全く体に負荷がかからず、この姿を保っていられるのだから、その魔力の質は遥かに違う。それだけ、レイが私の魂と深く結びついているということだろう。
彼女が供給してくれる魔力は、まるで自分の血であるかのように、よく馴染む。
そうだ、この光の泉から持ち出し、これまでずっと私の力と支えになってくれた妖精女王の大魔法具は、エンヴィーレイを生み出すことで、最後の役割を果たしたのかもしれない。さながら、母から娘への贈り物、とでもいったところ。
ああ、本当にありがとうございます、妖精女王イリス。今なら分かる、『紅水晶球』とはなんだったのか。
それは、ただの大きな魔力結晶なんかじゃない。天然の鉱石でもなければ、古代の技術で精製された宝石でもない。
血だ。
途轍もない嫉妬の怨念が込められた女達の鮮血で創られた、純血結晶。
一体、どれほどの生き血を啜れば、これほどまでに大きく、硬く、なるのだろうか。純粋なほどに穢れきった血の塊が、エンヴィーレイを生み出す胎となったのは、半ば当然の結果といえる。
そんな『紅水晶球』は、妖精女王がまだ、一人の妖精イリスであった頃に、数多の恋敵を血祭りにあげることで完成させた、愛の証に違いなかった。
「うふふ、私も頑張らないと」
妖精イリスに負けないくらいに、ね。
「でも、気を付けてね、リリィ。ここは『神滅領域・アヴァロン』だよ」
「お姫様になるための試練だもの、難しいのは当然よ」
恐らく、私を転移魔法でここへ導いたのは、エンヴィーレイではなく妖精女王イリスだ。このパンドラ最難関のダンジョンで、私の愛は試される。
「ヤル気だけで、どうにかなるほど甘くはないんだよ」
「分かっているわ、私一人の力なんて大したことはないもの。でもね、私は一人じゃない」
「レイが一緒だから?」
「貴女とはもう一心同体だから、私は私、一人分の力に過ぎない」
「じゃあ、他に誰がいるの?」
とぼけた顔をして。本当に分からないのかしら。だとしたら、私がしっかり教えてあげないと。
「ここに、クロノがいるじゃない」
手をかざせば、そこに愛しき人は現れる――正確には、その一部分だけど。
今は『黒ノ眼玉』という名の、大魔法具である。
「それは、ただの目玉だよ」
「そう、ただの目玉……でも、クロノの目玉なのよ。だから、これもクロノなの」
ちょっと何言ってるか分からない、みたいな顔のレイ。そういえば、まだ生まれたばかりなのだから、理解するには難しい話かもしれないわね。
でも、これは大事なことだから。
「クロノはね、いつも私に優しくしてくれるの」
とても大事なことだから。
「いつも、私を助けてくれる」
とってもとっても、大事なこと。
「いつも、私を満たしてくれる」
人を愛するって、どういうことか。
「クロノがいれば、何でもできる。クロノと一緒なら、何も怖くない。クロノはいつも、私に力をくれるの」
教えてあげる。
「だからね、ほら、今も、クロノは――あっ、ぐっ、あぁああああああああああああっ!!」
これが、人を愛するということよ。
「わっ、あ……リリィ、目が……」
目。私の左目が、なくなっている。
自分で抉り取った。思い切り、指を突っ込んで。
ちょっぴり不安だったけれど、やってみれば、なんてことはない。思ったよりも、綺麗にとれた。私の右手に、コロンと血塗れの目玉が転がる。
「はぁ……はぁ……ふふっ、これはもう、私にはいらないから……」
何の未練もなく、放り投げる。自分の目玉を。
「あっ、もったいない!」
レイが地面に落としたお菓子を拾うように、私の目玉を手に取ると、そのままパクっと食べちゃった。いいわ、欲しいのなら、あげる。
「私にはクロノがいる……クロノがついてくれている……一緒、これで、離れていても、ずっと、一緒だから……んっ、く、ああっ!」
クロノが入ってくる。私の中に、入ってくるよ。
ギシギシと軋みを上げるように、押し広げられる眼窩。掴んだ『黒ノ眼玉』、クロノの左眼を、私は無理矢理にねじ込んだ。
「あっ、ん……入った」
はぁ、良かった。ちょっと苦しかったけど、ちゃんと全部、入ったよ、クロノ。
「わぁーっ! 凄い、リリィ! 見えるの?」
「見えるわよ」
視界良好。よく見える。目を丸くして、興味津々といった様子で私に問いかけてくるレイの幼い顔と――フィオナ、貴女の顔がね。
「やってくれたわね……でも、今回ばかりは、私の負けよ、フィオナ」
小さな室内灯用のランプを手に、閉じられた扉を背にする彼女の姿が、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。ここは、クロノの部屋。ううん、私とクロノの部屋ね。
その光景が、私の左目に映る。
「私が弱かったから。私が愛しきれていなかったから……」
大胆な格好だ。スケスケのネグリジェに、際どい面積の黒い下着。
流石、クロノはよく夜目がきくから、女からしても魅力的に映るフィオナの艶やかな姿が、はっきりと見える。
だから、すぐに視線は壁の方へと逸れた。何て初心な反応。
そんなクロノじゃあ、きっと、気づかなかったわよね。今のフィオナ、凄く発情している。目がハートマークになるって、ああいうことを言うのかしら。
「いいわ、今は、クロノをあげる」
自分への罰。いや、これもまた、愛の試練の一環ね。
辛くても、苦しくても、耐えねばならない時はある。それもまた愛の一面。ただ、綺麗で、気持ちいいだけが、愛ではない。
「もう、大丈夫。耐えられる……だって、私はクロノを信じているから」
クロノを愛しているから。
クロノが愛してくれるから。
「ふふっ、うふふふ――感じるよ、クロノの力が」
目を閉じると、分かる。太陽のように眩しく光り輝く私の力。それと相反するように、黒くて、暗くて、奈落の底から湧き上がってくるような、闇の力を。
私は今、クロノと繋がっている。だから――
「ねぇねぇ、リリィ! 大変だよ!」
「なによ、うるさわいね。今いいところなのに」
「モンスターだよ!」
魂で感じるクロノの力にうっとりしているところに水を差され、私は渋々、目を開けると……なるほど、確かにモンスターが現れている。
巨大な正門を抜けた先は、大きな広場となっている。この構造は現在の都市国家アヴァロンと同じ。あるいは、ここを見て真似たのかもしれないけど。
その広場の向こうから、ガシャンガシャン、と鉄の足音を高らかに響かせながら、黒い鎧に身を包んだ騎士達が歩いてくる。気配から察するに、全員、アンデッド。
けれど、整然と並び、一糸乱れぬ行進をする様は、都市を巡回する本物の騎士のようでもある。実際、元々は騎士だったのか。
「こんなところでボーっとしてるから、見つかっちゃった」
古代都市アヴァロンは、今も生き続けるエルロード騎士による警備網が特に厳しい。このダンジョンを攻略するにあたって、まず気を付けねばならない点が、如何に騎士に見つからずに潜入するかということ。
そんな基本的な情報は、前にアヴァロンを訪れた時に、自然と耳に入ったものだ。こんなことになるんだったら、あの時にもう少し調べておけばよかったかしら。
「早く逃げないと!」
「うふふ、恐れる必要はないわ。だって、私には――」
現れた騎士はちょうど十体。揃いの鎧に、槍を持ち、剣を差した、典型的な武装。黒塗りの鎧兜は全身を覆い、その内にあるだろう骸骨の体は見えない。
私の目の前で行進を止めると、今度は横並びにズラズラと整列。その中から、頭一つ分以上は大きい、特に大柄な騎士が一体だけ、前に出る。
隊長だろうか。彼の纏う鎧は、他の隊員のものよりも重厚で、デザインも異なる。真紅のマントを羽織り、手には槍の代わりに、漆黒のハンマーが握られていた。
強い。見た目だけでなく、肌に感じる濃密な魔力の気配だけで、容易に察せられる。かなり高位のアンデッドとみるべき。
「――クロノがついているから」
警告の言葉も何もなく、ただ無言で歩み寄ってきた隊長騎士は、私の前に黒い壁のように堂々と立ちはだかり、そして、ハンマーを振り上げた。
けれど、私はまるで危機感を覚えない。妖精結界さえ、必要ない。だから私は、ただ一言、それを唱えるだけで十分だった。
「『炎の女王』」