第547話 恋人(1)
「あああ……」
薄い木の扉一枚向こうで、獣の呻きが響いてくる。
否、それは一人の男の、悲しい叫び。苦しくて、悔しくて、そして虚しい、泣き声であった。
「クロノくん……ごめんなさい、ごめんなさい……」
扉にすがりつくのは、白い衣を纏った亡者。
否、これは一人の女。希望と絶望の相転移に、正気を失った哀れな女。愛と性欲の違いも分からぬ、愚か者の末路である。
「ごめんなさい……クロノくん……」
「失礼します、ネル姫様」
扉へと無様に張り付いては、愛しい男の名前と、無意味な謝罪の言葉だけを吐き続ける狂気的な姿のネルに、サリエルは何ら躊躇うことなく声をかけた。
「フィオナ様がお呼びです。ラウンジまで来ていただけますか」
「ごめん、なさい……」
ネルの耳には入らない。入るはずもない。今、彼女は考え得る世界で最も深い絶望の奥底に叩き落とされた真っ最中なのだから。たかがメイド風情の呼びかけ、耳に留めるはずもない。
「ネル姫様――」
サリエルは出来の悪いゴーレムのように、同じ台詞を三度、繰り返す。
謝り続けるネル。呼び続けるサリエル。
しかし、いかな人形とて、流石に三度も繰り返せば、無駄だと悟るというものか。
「失礼します、ネル姫様」
実力行使。サリエルは表面上だけは敬語でありながらも、そこには一切の敬意も畏怖もなく、一国の姫君の襟首を引っ掴んで、強引に廊下を引きずる。
「ああっ! いやっ! 離して、クロノくん!」
「マスターは貴女の排除をお望みです。二度と近づけさせはしません」
古流呪術の達人も、正気を失えば子供が駄々をこねるような動きしかできない。襟首を掴まれた、その程度の拘束、ネルならば一瞬で引っくり返し、さらに相手を再起不能にできる痛烈なカウンターを何パターンにも渡って好きに撃ちこめるだけの技量がある。しかし、ネルは無様に手足をバタつかせるだけ。ただ、遠ざかるクロノとの距離に、無力に泣きわめくだけだった。
「――きゃあっ!?」
そうして、廊下を延々と引きずられたネルは、ラウンジに入るなり、サリエルがゴミの入った袋でも投げ捨てるように、無造作に中央へと転がされた。
小さな、非力な少女らしい悲鳴を漏らしたネルは、そこで、目の前に一人の女が立っていることに気が付いた。
「ネル姫様、貴女には失望しました」
「フィオナ・ソレイユ……」
黒衣の魔女が、難攻不落の要塞の如き威圧感でもって、そこに立ちはだかっていた。
「どうやら、クロノさんを怒らせてしまったようですね」
「ち、違っ……私は……」
「いえ、怒らせただけなら、まだ良かったです。貴女はクロノさんを傷つけた。彼の抱えるトラウマを抉るような、最悪の形で」
輝く黄金の双眸は、さながら氷点下の如き冷めきったオーラを発しているかのよう。魔女は、この無様に床へ這いつくばった姫君を、見下していた。
「貴女は最低の女です。クロノさんが多少なりとも心を許していたので、あるいは、と思っていましたが……とんだ見込み違いでした」
「違う、私、違います……だって、私は、クロノくんのことを思って……」
「よくも、そんな口が利けますね。ただ、クロノさんとセックスしたいだけのくせに」
フィオナの言葉は、深くネルの胸に突き刺さる。それは、ネルが『愛』という名の清らかなヴェールで覆い隠し、自分さえも純粋な気持ちだと錯覚していた、虚飾に満ちた心を打ち砕く。
自覚する。曝け出される。ネルが心の奥底に秘めた、愛という名の欲望を。
「な、なんで……どうして……聞いて、いたのですか」
「この寮の扉、薄いんですよね」
その気がなくても、話し声は聞き取れる。
だが、そんなことが、正当な理由になるはずもない。
「盗み聞き……してたんですか……」
「心外ですね、たまたま、聞こえてしまっただけです」
「私を、ハメたんですね」
涙を零し、赤くはれたネルの目に、暗い怨みの炎が宿る。地下墳墓の最奥で蘇った強大なアンデッドのような、恐ろしげな怨念の視線が、フィオナを下から見上げた。
「はぁ……本当に、度し難いほど愚かな女ですね」
しかし、フィオナの黄金の瞳は、ただひと睨みで如何なる悪霊も浄化させるが如き、力強い輝きで満ちている。あるいは、それはもっと強烈な、怨念さえも凌駕する不浄なのかもしれない。
「貴女の抱えた、そのあさましい欲望がクロノさんを傷つけたのだと、まだ、分からないのですか」
「違うっ! 私はクロノくんのことを、愛しているんです!」
「それなら、どうしてクロノさんは貴女を拒絶したのですか?」
脳裏に蘇る。ついさっき、今起こったばかりの、悪夢の光景。
「そ、それは……」
「そんなに愛しているのに拒絶されるなんて。それって、つまり、フラれ――」
「違いますっ! 違う、違う……クロノくんは、私のこと……思って……」
歪む。思考が歪む。マトモに頭が回らない。
帰れ、帰れ、帰ってくれ。頑なに拒絶するクロノの悲痛な姿ばかりが頭の中を埋め尽くして、ネルの思考能力は停止する。
「クロノさんの気持ち、貴女は本当に、分かっているのですか?」
「わ、分かり、ます……私、分かります……だって、こんなに、愛しているのに……クロノくんの、気持ち……」
こんな頭で、分かるはずがなかった。
「分からないんですか? テレパシー能力まであるのに」
分かるはずがない。
部屋を追い出されるまで、クロノはネルの手首をしっかりと掴んでいた。あんな状態でも、力の制御はきいていたのだろう。超人的な握力を持つクロノでも、ネルを掴んだ右手首には痕の一つも残ってはいなかった。
けれど、今のネルはそんなギリギリで残った彼の優しさの証さえも、気づけない。
なぜなら、ネルはクロノが触れた先から、彼がその瞬間に抱く最も強い感情だけを読み取っていたのだから。
「もう、ネルとは会いたくない」
それは、どうしようもなく絶望的な、拒絶の意思だった。
「貴女には、分からないでしょうね。だって、私の話を聞いて……羨ましい、って思ったのでしょう?」
「……えっ」
ビクン、と体が小さく跳ねる。まるで、悪戯が見つかった子供のように、稚拙で、浅はかな反応。
「クロノさんに抱いてもらった、私と、サリエルが」
違う。
否定の言葉は、確かに口にしたはずなのに、実際にはハァハァと荒い息が漏れるのみ。
「貴女は淫らな欲望に目を曇らせて、クロノさんの気持ちを考えもしなかった。彼が一体、どんな気持ちでサリエルを抱いたと思っているのですか?」
「あっ……あ……」
考えられる、はずもない。愛する男が、他の女を抱く時の気持ちなど。
それは、純粋なネルにとってはあまりに残酷すぎる。
それは、愛の行為に憧れる彼女にとって、あまりに難解すぎる。
「クロノさんは発狂しそうなほど思い悩んだ挙句、本当に、苦渋の決断をして、サリエルを抱いたのです。それは、自分が生き残るために必要で、また、サリエルを生かすためにも必要な行為だった。だから、クロノさんは罪の意識に苛まれながらも、彼女を抱いた――たった、一度の過ちです」
「えっ、え……一度、だけ……」
話が違う。
ネルの絶望で真っ白になったはずの頭でも、さらなる混乱をきたす。もう、ワケが分からない。
「もしかして、クロノさんがヤケになって、その後、何度もサリエルを犯したり、スパーダに戻ってからは私に手を出したりしたなんて……そんな、彼に対してあまりに失礼な想像、していないですよね?」
嘘。嘘だった。全部、嘘。
クロノは狂ってなどいなかった。傷ついたあまりに、女性の体を求められずにはいられないほど、弱くなどなかった。
どうして、気づけなかったのか。そう、ネルは今更に思う。
久しぶりに再会して、心の底から嬉しそうに笑ってくれたクロノの顔。部屋の中で、時間を忘れて語り合った時の彼の表情は本当に、楽しそうで……そこに、暗い情欲の色など、一点もなかったことなど、見れば明らかだった。すぐ目の前で、じっと彼だけを見つめていたネルには、気づいて然るべき、はずだったのに。
「あ、あぁ、うぅ……」
ネルは、クロノは自分のことも襲ってくれると、信じて疑わなかった。淫らな甘い妄想と、痛ましいほど優しい現実を、どうしようもなく混同してしまったのだ。
他でもない。この魔女の口車に乗せられたせいで。
「うぅ、うぅううううううっ! よくもっ、よくも騙しましたねっ! フィオナぁああああああああああああああっ!!」
猫よりも俊敏に、素早く身を翻して床より立ち上がったネル。その姿は、正に一匹の獣。それも、恐るべき古流柔術の技を備えた、獰猛な魔獣だ。
「サリエル」
「――はい、フィオナ様」
だが、ランク5モンスターに匹敵する凄まじい気配と殺意をまき散らすネルを前にしても、フィオナと、そして呼ばれて前へと立ったサリエルは、どちらも同じく、恐怖の感情など忘れ去ったかのように、人形めいた無表情。
人ならざる魔女と人形を相手に、ネルはどこまでも人間らしい、女の情念からくる憤怒を燃やして、襲い掛かった。
「死ぃいいいねぇええええええええええええええっ!!」
解き放つは、古流柔術第一の攻撃技。『一式・徹し』。
ネルの掌底に宿る魔力の乱流は、叩き込まれた先から相手の体内まで深く浸透し、そして内部から破裂させる、防御無視の無慈悲な一撃。
まず破壊すべきは、たった一度とはいえ、クロノと交わった、真っ白い人形娘。その可愛げのない無表情が、木端微塵に爆砕して脳漿をまき散らす姿を、ネルは幻視した。
「ふっ」
耳に届いたのは、短い練気の呼吸。けれど、その小さく、かすかな一呼吸だけで、どれほどの魔力が体内で練り上げられたのか、ネルの鋭い勘が察する。
だが、視界を真っ赤に染め上げるほどの怒りが、危機感を曇らせた。
「――っあ!」
気が付けば、繰り出した右腕は絡め取られ、自分の背中は強かに床を打っていた。受け身をとる暇もないほど速く、それでいて強烈なカウンター。
「がっ、あ……」
返し技を放とうと、反射的に体が動きかけたその瞬間、ネルの細い首に、白蛇のようにサリエルの腕が絡む。そして、容赦の欠片もない強烈なパワーで、締め付けが始まった。
「危ないですね。サリエルじゃなければ、死んでいましたよ」
急速に意識が遠のき始める。当然だ、サリエルの腕は、完全に自分の首に極まっている。
冷めた視線で見下ろしてくる彼女の顔が、ぼやけて見えた。
「非常に高い破壊力を秘めた掌底でした。速度、威力、共に申し分ない、驚異的な一撃です」
「その割には、すんなり抑えましたね」
「私には使えませんが、見たことのある技でしたので」
フィオナとサリエルの呑気な会話が、他人事みたいに聞こえてくる。
「では、後のことは任せます。外にお供の人がいると思うので、その女は丁重にお返しするように」
「はい、フィオナ様」
もうネルのことなどまるで興味を失ったかのように、フィオナは背を向けて悠々と歩き出す。
「く、はっ……ま、て……」
絞り出すように放った制止の声など、届くはずがない。
しかし、そこでフィオナは止まり、振り向いた。
「そういえば、私もハッキリと言わなかったので、貴女に勘違いさせてしまったのかもしれませんね」
すみません、などという白々しい魔女の台詞が、かすみかけた意識でも、不思議と耳に染み入ってくる。
「リリィさんはもういない。サリエルはただの奴隷。そして、貴女はフラれた。つまり――」
ネルの意識が途切れる最後の瞬間に見たのは、いつかの妖精少女と全く同じ、どこまでも邪悪にして、美しい乙女の微笑みだった。
「――クロノさんは、私の恋人です」