第536話 楽園
そこは、涙が出るほど懐かしい場所だった。
小さくて、薄暗い、けれど、三十年もの間、一人で暮らしてきた部屋。そして、たったの三ヶ月ほどだけど、何よりも鮮烈に脳裡へ焼き付いている、二人で穏やかな生活を送った部屋でもある。
そう、ここは、私の家だった。
「――黙れ! 勝手に人の気持ちを知ったような口を利くな、この人形女がっ!」
ぼんやりとランプの頼りない灯りが薄らと室内を照らす中で、クロノが叫んでいた。
怒っている。普通の人なら、そうとしか思わない。
でも、私には分かるよ。クロノは今、この瞬間、胸が張り裂けそうなほどの悲しみと苦しみに襲われているんだということ。
「俺を舐めるなよ、サリエル。いいか、白崎さんだったお前は殺さない。そして、俺はお前に殺されたりもしない。お前を生かす、俺も生きる。どっちも絶対に、譲らない――」
どうして、こんなに苦しんでいる時に、彼の傍にいられなかったのか。私は、自分で自分が許せない。
でも、もっと許せないのは――
「――だから俺が、お前を神から奪ってやる」
「そう、ですか」
第七使徒サリエル。
お前は一体、どれだけクロノを苦しませれば気が済む。お前の存在そのものが、クロノを発狂させそうなほどに追い詰めていることが、どうして分からない。
ああ、何で、どうして……私には分からない。私には、信じられない。
この女が、私のベッドに寝ていること。こんなに苦しみにもだえているクロノを前にして、平然と無表情でいられること。
こんなこと、ありえない。そこは、私の場所だ。そのベッドは、クロノの隣は私だけの場所。私はそこで、彼にそっと寄り添って、手を取って、抱きしめて――「大丈夫だよ」「泣かないで」「私がついてるよ」そう言って、慰めてあげないと、いけないのに。
「貴方に、私の全てを委ねます」
やめろ、やめろ、クロノに触れるな。
やめて、やめてよ、触らないでクロノ。
この女は敵なの。絶対に殺さなくちゃいけない敵。首を落として、心臓を抉り出して、四肢をもいで、全ての肉体を灰にするまで焼き尽くして、殺さないといけない。
使徒を殺す。それが願いだったはずなのに。それが、今すぐにでも叶うはずなのに。
けれど、どうして、クロノはそんなに優しく、彼女へ触れるの。
もうほとんど力も入らないはずなのに、血塗れの腕を伸ばしてサリエルを抱き寄せる。震える指先が、小さな体を覆うセーターを脱がせてゆく。
現れたのは、壊れた人形の体。手足がなくて、ベットリと血に塗れた、醜く、汚らわしい肉体。
それを、そんなモノを、クロノは愛しい人であるかのように、優しく抱きしめた。
「――『愛の魔王』」
「――や、やめろぉっ!!」
そこで、私の視界は途切れた。
見上げる視線の先にあるのは、もう薄暗い小屋ではなく、煌々と光を発するランプのかかった木の天井。
寮のラウンジだ。
「リ、リリィ……」
クロノがいる。凄く、驚いたような、ううん、何か取り返しのつかないことをしてしまったような、絶望的な表情をしている。
そんな顔をして、どうしたの。クロノは何もしてない。何も、悪いことはしてないんだよ。
ごめんね、クロノ。いきなり記憶を読もうとして。
そんなことしたら、つい突き飛ばしちゃってもおかしくないよ。記憶を見られるのなんて、誰だって嫌だもん。
だから、クロノが私を拒絶するのも、仕方ないことだよね。
「……クロノ」
ごめん、ごめんね、ごめんなさい。
何故か、言葉が出てこない。
苦しい。ねぇ、苦しいよ、クロノ。息ができないみたいに、苦しいの。
ああ、そっか、そうだよね……どんなに苦しくても、クロノはもう、私を助けてはくれない。
クロノは私を拒絶したから。彼は、私じゃなくて、サリエルを選んだのだから。
「クロノ……嘘……う、あ、あぁ……」
頭の中が、真っ白になる。
状況を認識できない。事実を受け入れられない。認められない。認めたくない。
けれど、どんなに拒絶しても脳裏に浮かび上がるたった一つの光景が、私をどうしようもなく狂わせる。
血塗れのサリエルを抱き寄せ、自らキスをするクロノの姿が。
「あ、うぅあぁああああああああああああああああっ!」
逃げるしかなかった。
無様にも、泣いて、叫んで。自分がどこにいるかも分からないまま、ただ、走る。
それも当然。だって、私はクロノに捨てられた。突き飛ばされた。一番、触れてはいけない部分に触れた。
許されない。許してくれない。許されるはずがない。
きっと、クロノはもう二度と、私に触れてはくれない。ギュっと手を握って、頭を撫でて、抱きしめて。同じベッドで、一緒に寝ることだってできない。
ああ、そうか。私は自ら、あの場所を手離してしまったんだ。
「うっ、ああ、ああああああっ!!」
走る、走る。走り続ける。無限に続くような暗闇の中を、どこまでも。
逃げ場なんてないのに。クロノのいない場所で、生きてなんかいけないのに。今すぐ、帰りたいのに――
「帰らなくても、いいよ」
声が、聞こえた。
聞き覚えのない、けれど、聞きなれている、不思議な声音。
誰。なに、胸が、熱い。
「逃げなくても、いいよ」
確かに聞こえた謎の声。それが耳に届くと同時に、何かが私の胸元から零れ落ちた。
「あっ」
思わず、受け止めようと手を伸ばしたけれど、虚しく空を切る。カツンと甲高い音が響いた。
地面に落ちたソレは、真っ赤な血だまりを作っていた。まるで、私の心臓が落っこちてしまったように。
けれど、血に沈むそれは脈動する臓器ではなく、鮮やかに光り輝く真紅の結晶――『紅水晶球』だった。
「……割れてる」
『紅水晶球』は砕けない。妖精女王イリスの加護を受けた大魔法具だ。よほどの攻撃が加えられるか、分解専用の高度な錬成陣にでもかけない限り、破壊されることはない。
けれど今、私の足元に転がるそれは、ただのガラス細工だったかのようにあっけなく割れていた。真ん中から、綺麗に真っ二つ。
純粋な結晶体であるはずなのに、どうしてだろう。割れた中から、ドクドクと止めどなく血が湧き出ていた。
「リリィは、どこに行ってもいい。だって――」
どこまでも流れ続けて広がる血の泉から、俄かに光が発する。目も眩むほど鮮烈に、毒々しい真っ赤な光。
「――そこに、クロノがいてくれれば、それでいいんだよ」
分かった。この声は、私のものだ。
真紅の閃光が過ぎ去ると、目の前に、私が立っていた。可愛い可愛い、純真無垢で良い子ちゃんの、小さく幼い、私の姿。それが、真っ赤な輝きのオーラで形成されている。
さながら『妖精合体』でクロノに憑依する守護霊のような形態だ。
「貴女は……私、なの」
「うん、リリィだよ。だから、リリィのことは、リリィ、全部分かるよ」
嘘だ、というのはすぐに分かった。
私は私。子供の私も、大人の私も、表裏一体の同一人物。二重人格のように、決して別たれたりしない。
だから、この私によく似た姿の霊体、幽霊のような魔法生命は、ただのニセモノ。私自身だと騙る、悪しき者だ。
「サリエルが羨ましい」
目の前の存在に殺意を傾かせた刹那、その一言で私の動きは止められた。
「……違う」
絞り出した否定の言葉は、弱々しい。
「クロノに選ばれたサリエルが、妬ましくて仕方がないの」
「違うっ」
「クロノの初めては、リリィのものだったのに」
「違うっ!」
違う、違う、私は、違う。
「嫉妬、嫉妬、醜い嫉妬」
「わ、私は……ただ、クロノに……」
「クロノに苦しんでほしくない?」
そう、私はクロノのことを思っている。
「クロノに悲しんでほしくない?」
いつも、常に、第一に、私はクロノのことを思って行動している。
「クロノのために、何でもできる?」
何でもできる。
クロノのために、クロノのために、クロノのために――彼のためなら、私はどんな非道も外道も、一切の躊躇なく行える。
「クロノのためなら、私は何でもする、何だってできる! だって、私はクロノを愛しているんだから!!」
「あはは、嘘、嘘だよ。だってリリィは、クロノが欲しいだけだよね。自分だけのクロノに、なって欲しいだけなんだよね」
それは、愛の美しさを否定する独占欲。純粋な思いを汚す、猛毒のような感情。
クロノを愛している。その気持ちが生きる全ての意味である私にとって、ソレはこれ以上ないほどの侮辱だ。
「私が、クロノを愛していない?」
クロノを自分だけのものにしたいだけ。それは結局、自分のためであって、彼のためではない。
どこまでも醜く、歪んだ、ドス黒いエゴの塊。
「うん、リリィ、愛してないよ?」
「愛してる」
「愛してないよ」
「私はクロノを愛してる! この世で誰よりも、私が一番、クロノを愛しているんだからっ!!」
「でも、クロノを許してあげなかったよね」
「っ!?」
私は、クロノを許さなかったのだろうか。
「クロノを受け入れてあげなかったよね」
拒絶したのはクロノの方じゃなくて、私の方だったというのか。
「ねぇ、どうして。サリエルを抱いたクロノを、許してあげられなかったの?」
「……」
そんなことない。そんなはずはない。私はクロノのためを思っている。だから、サリエルが死ねば良かったんだ。私が殺してあげるのに。
悪いのはサリエルなんだ。あの女の存在が、全ての元凶。
クロノは悪くない。クロノは汚れてなんかいない。クロノは今でも、私のことを思っていてくれる――
「うふふ、泣かないで、リリィ」
泣いてる? 私、泣いてるの?
ああ、本当だ。涙が溢れて、止まらない。
どうして。情けない。私は今、ちゃんと少女の姿になっているのに、こんなに子供みたいに大泣きして。子供の姿の私に、慰められるなんて。
「リリィは悪くないよ」
「ううん、違う……私が、悪いの」
「悪くないよ。だって、嫉妬しちゃうのは当たり前のことなんだから」
「嘘……違う……だって、こんなに、苦しいの……」
胸が苦しい。嫉妬すると、身を焦がすように胸が苦しくなる。
私が嫉妬心を初めて覚えたのは――そう、確か、シモンとクロノが出会った時だったっけ。異世界の知識を理解できるシモンに、クロノはとても嬉しそうに、楽しそうに、話していた。
私とお喋りする時とは違う、顔の輝かせ方だった。
私には、それができないと悟った時、生まれて初めて嫉妬心が湧いた。
「そう、そうだよ、リリィは嫉妬しているの」
一度芽生えたそれは、意識しなくてもその時々で、私を苛むようになる。
たとえばフィオナ。私の親友にして、最大の恋のライバル。いつか、殺し合うことになる女。
「フィオナがクロノに貰った指輪、凄く羨ましかったよね」
あの何の変哲もないシルバーリングが、彼女の恋心に火を点けたのだと、私は知っている。
私だって、クロノからプレゼントは貰ったことはある。このエンシェントビロードのワンピースだってそう。最高の防具であると共に、私の一番の宝物。
「ううん、指輪なんかなくても、クロノが笑うだけで、喜ぶだけで、優しくするだけで、妬ましかったよね」
うん、特に、私に向けるのとはちょっと違う感情には、殊更に嫉妬心が刺激される。
フィオナの天然ボケに、呆れたり慌てたりするクロノだけれど、心の中では、それもまた楽しいと思っている。私には、そういう風にクロノを楽しませてあげることはできない。
「フィオナだけじゃない。他の女をクロノが見るだけで、リリィは――」
アヴァロンのお姫様も、エルフの受付嬢も、私にとって、嫉むには十分すぎる相手。それは、幼心にも不機嫌になってしまうほど、あからさまに顕著だった。
あの心優しい子供の私でも、ネルの存在には警戒心全開だしね。
「リリィはいつも嫉妬している。あの女にも、この女にも、誰にでも」
「ええ、そう、そうね……私は、嫉妬しているわ」
「うん、でもそれは当たり前なの。恋する乙女なら嫉妬するのは当然で、仕方のないことなんだよ」
「でも、それは抱くべきではない、醜い感情よ」
「しょうがないよ、だってリリィは、クロノのことを愛しているんだから」
矛盾。その論理は矛盾している。
「嫉妬するのは愛じゃない。自分のものにならないことを恨む、自分のためだけの感情だわ。相手を思う気持ちとは、違う」
愛とは、違う。
「ううん、違わないよ。愛しているから嫉妬するの。リリィはこの世で一番、誰よりもクロノを愛しているんだから、リリィが世界で一番嫉妬深いの!」
無邪気な笑顔で、彼女はそう言い切る。
「嫉妬するのは……愛して、いるから?」
「そうだよ」
違う、そんなはずない。
「嫉妬しても、愛して、いいの?」
「もちろん」
ありえない。あってはならない。私はソレを、認めてはいけない。
「ねぇ、私は……クロノのこと、アイシテル?」
「うん、リリィはクロノのこと、アイシテル!」
けれど、一度でも認めてしまえば、もう逆らえない。
愛と嫉妬は、少女の私と子供の私のように、表裏一体なんだ。どちらも合わせて、私の愛。リリィの愛。
「私は、クロノを愛している」
蒙が啓ける、とはこういうことをいうのだろうか。知ってしまえば、世界はガラリと変わって見える。
「世界で一番、誰よりも」
苦しみも、悲しみも、何もかもを呑みこんでいく、愛。愛、愛、ああ、愛が止まらない。
「だから――」
世界は光で満ちている。世界は愛で溢れている。私の目の前には、もう、輝かしい未来への道しか見えない。
この道の先に、きっと、ある。永遠にあの日の思い出が続く場所が。
「――クロノは、私のモノよ」
「おめでとう、リリィ。ようやく、本当の愛を知ったんだね」
ありがとう、私。目が覚めた。ついに私は、真実の愛に至った。
「妖精女王イリスも、祝福しているよ」
ええ、そうね。その通り……力が、湧き上がってくる。胸の中、魂の奥底から、いくらでも、無尽蔵に。私の愛に、応えるように。
「さぁ、行こう。最後の試練が待っているよ」
愛に溢れた幸せな未来へ向かって踏み出すべく、私は俯いていた顔を上げる。
そこに、黒い石版があった。
『歴史の始まり』。魔王を讃える古代の石碑が、私の進むべき道を開いてくれる。
漆黒の板面に踊る、血のように真っ赤な古代文字。解読不能の魔法陣はしかし、一目でその効果を表してくれていた。
夜の湖面のように静かに揺らぐ石版。その向こう側に、大きな、大きな門が見えた。ガラハド要塞の正門よりも高くそびえ立つ、漆黒の巨大門。その黒き鋼の門扉に飾られているのは、翼を広げた、黒き竜の紋章だった。
「……『神滅領域・アヴァロン』の入り口ね」
「うん」
初めて見るけど、すぐに分かった。首都アヴァロンの正門は、前に見たことがある。アレは芸術品のように美しい白亜の門。それ以外に黒竜の紋章を掲げる門があるとすれば、失われた真なる魔王の都をおいて他にはない。
どうやら、『歴史の始まり』を入り口として発動された転移魔法は、そこへ繋がっているようだ。
「ねぇ、リリィ、このアヴァロンを進んだ先に、何があるの?」
その先へ私を誘うように小さな手を伸ばしながら、ソレは笑って答えた。
「楽園だよ」
私も笑って、彼女の手を取った。
「少しだけ待っててね、クロノ。すぐに楽園へ連れていってあげるから」
そこはきっと、苦しみも悲しもない、幸福の国。私とクロノ。二人だけの、楽園だから――
今回で第27章は完結です。
次回の更新は……偶然にも、年明け(2016年)一月一日となります。なにやらリリィさんが覚醒してくれたお陰で、とても黒の魔王らしい話で一年の締めくくりとできて、喜ばしい限りです。
それでは、次回もお楽しみに&良いお年を!