第524話 答え
話は終わった。あとは、夕食をとって、眠るだけ。
長い、とても長く、苦しい戦いを終えたかのような、途轍もない疲労感が俺の体を包み込む。
「あまり、食べる気はしないんだが」
「私はお腹が空きました」
フィオナは、いつもと何も変わらない。言うことも、態度も、雰囲気も。
恋人となったからといって、急に猫なで声で甘えてこられても困るんだが。今の俺には、冷静に対処できる自信がない。
だから、いつも通りのフィオナが、ありがたかった。
まぁ、ついさっきまで泣いてはいたんだが。
「でも、先にシャワーを浴びてきます」
「ああ、俺が適当に作っておくから」
「ありがとうございます。サリエルはどうしますか?」
「そのまま、寝かせておいてやれ。シャワーは明日でもいいだろう」
すでに、サリエルは寮の中で余っている部屋に寝かせてきた。幸い、予備のシーツと毛布くらいは常備してあるから、使用するベッドが一つ増えても問題はない。
ここ三ヶ月はずっとサリエルと一緒に寝てきたが、今日からは久しぶりに、一人で寝ることになる。寂しいとは、断じて思わない。少しだけ、肩の荷が下りたような安堵感を覚えた。
「開拓村では、クロノさんがサリエルの体を洗っていたんですか?」
「……ああ」
「そうですか」
自分から聞いておいて、さして興味もないといった返事だ。けど、気にしているんだろうか。
好きな男が、ほとんど毎日、別な女の裸を見ていたことに。
少なくとも、男女が逆であったなら、気にするだろう。俺も気にする。それ以上の追及が何もないことが、かえって恐ろしい。
「サリエルの食事はどうしますか?」
「まだ起きてるだろうから、食べさせるよ」
ここで一緒に食べる、という提案を俺は自分から切りだせない。言えば許すかもしれないが、フィオナからすれば良い気分ではないだろうことくらいは、分かる。
「サリエルの手足は欠けたままですけど、何か薬とかは?」
「いや、治療に役立ちそうなモノは何もなかったから、特には与えていない」
「私、それなりに強い治癒ポーションを持っていますけど。飲ませれば、手足は生えませんが、欠損再生をする際の治りはよくなるかと」
「……いいのか?」
「はい、これを飲むくらいなら、死んだ方がマシなほど美味しくないので」
「や、やっぱりやめてくれ」
「そうですか」
サリエルの傷は、この際、ゆっくり治していけばいいだろう。とりあえず、彼女を傍に置いておける状況は整ったのだから。
あとはスパーダ軍の出方次第であるが……今日はもう考えない。
「では」
と、フィオナは事務的な確認だけを終えて、さっさとシャワーへ向かっていった。
ここのシャワールームは元からボロい上に、しばらく空けていたから、汚れていそうなものだが……まぁ、フィオナなら水魔法丸洗いとかで、どうとでもするだろう。
「はぁ……」
完全に一人きりになると、重苦しい溜息が出てきた。
情けない。本当に、これで良かったのか。迷いはするものの、結局、俺にはどうすることもできなかった。
「とりあえず、スープでいいか」
思考を打ちきって、料理に集中することにした。一種の現実逃避。
食料の買い置きは残してないが、スパーダ帰還のためにリリィ達が用意しておいた物資の残りはある。今日はそれを使って、簡単に済ませよう。
俺は久しぶりに寮の台所へ立ち、ぼんやりとした頭で、竈へ火を入れた。
時間を忘れるように、淡々と作業は進む。
適当に切った具材をスープの鍋に放り込み、厚切りのベーコンを焼く。ありあわせの食材ばかりだが、開拓村で食べたものよりも、かなり上等なものばかりだなと今更ながらに思う。
このベーコンと白パンだけでも、レキとウルスラにとっては御馳走になりそうだ。もう心の中にしかない、二人の笑顔を思い出すと、少しだけ気持ちが温かくなった。
「――上がりました」
「ちょうど、こっちも出来たところだ」
見計らったようなタイミングで、フィオナがシャワーから戻る。黒い魔女ローブから、ラフな部屋着へと着替え終わっている。前にも見た、水色のケープ姿に、少しだけスパーダの日常に戻った実感が湧く。
「先に食べましょう。後片付けと、サリエルに持っていくのは私がやりますので、食べ終わったらクロノさんは先に休んでください」
「ああ、ありがとな」
こうして、当たり前に会話をしていると、ついさっきのやり取りが全て夢だったかのように思えてくる。フィオナはどこまでも普段通りの自然体で、ただ、俺だけが複雑に渦巻く感情に振り回されている。
本当に俺は、フィオナと恋人同士になったのだろうか。実感はまるで湧いてこない。
「どうしたんですか、クロノさん。ボーっとして、疲れていますか?」
「いや、大丈夫だ」
すぐに思考の渦に囚われそうになる気持ちを振り切って、俺は再びテーブルへとついた。
とりあえず、今日はもう、これを食べて、寝よう。これからどうするのか、具体的なこと、細かいことは、全て、明日の俺に考えてもらおう。
コンコン、と古ぼけた木の扉をノックする。
「はい」
小さな、消え入りそうな返事を確認してから、私は扉を開けた。
目の前に広がるのは、私の自室と同じ造り、同じ広さの部屋。ただし、これまで使用者がいなかったので、ここにあるのは机と椅子のセットと、クローゼット、そして、ベッドだけ。
本来無人であって然るべきこの部屋の新たな主として、彼女は――第七使徒サリエルは、ベッドで横になっていた。
「食事を持ってきました」
「ありがとうございます」
顔色一つ変えない、機械的な受け答え。
何を考えているのか分からない。何も考えてないのだろうか。
「クロノさんが作ったスープです。温かい内に、食べてください」
そうして、私は手に持った熱いスープで満たされた器を、床の上に置いた。ちょうど部屋のど真ん中。飼い犬に餌をやるのと、同じような感じです。
「……」
サリエルはスープと私を、交互に見つめる。動きはない。
「どうしたのですか。早く、食べてください」
「……私が、憎いのですか」
「いいから、早く食べろと言っているのです」
長い、艶やかな銀髪を無造作に掴み、そのままベッドから引きずり出す。
手足がないせいか、それとも、元から小さく細身な体のお蔭か、私の腕力でも難なく床へと引きずり倒せた。
ドっと鈍い音を立てて、サリエルの体が床に落ちる。呻き声の一つも漏らさずに。
まぁ、クロノさんと同じ改造手術を受けたのなら、こんな衝撃など痛くもかゆくもないでしょう。
「さぁ、どうぞ。スプーンは、必要ありませんよね」
最初から、持ってきてはいませんし。
私が彼女に持ってきたものは、このスープと、あと、もう一つだけ。
「これは治癒ポーションです。とても不味いですけど、我慢して飲んでくださいね」
クロノさんは飲ませなくていい、と遠慮していましたけど、そんな必要はありません。サリエルに早く回復して欲しいと思っているなら、私は約束通り、手を尽くしましょう。
何より、彼が作ってくれたスープをそのまま味わうなんて、この女には贅沢が過ぎるというものです。
ポーション瓶の蓋を開け放ち、スライムのように真っ青な色をしたドロドロの液体を、スープの皿に流し切った。
「……ん」
サリエルは一本だけ無事な左腕を動かして、床の上を無様に這う。ベッドから僅か一メートルほどの距離を何秒もかけて、ようやく、不味いポーション入りスープの皿まで辿り着く。
「いただきます」
馬鹿馬鹿しいほど律儀につぶやいてから、サリエルは正しく犬のように顔ごと近づけて、スープをすすり始めた。
これが、シンクレア共和国が誇る最強の戦士。最も神に近い聖なる人間の十二人が一人、第七使徒サリエルの末路ですか。
「哀れなものですね、サリエル」
浅ましくスープの皿に顔を寄せるサリエルの頭を、私は土足で踏みつける。ガラハド山脈を踏破してきて汚れきった愛用のブーツの靴底を、情け容赦なく輝くような銀髪頭に押し付けた。
私の脚力など、彼女の身体能力からいって簡単に体を逸らして跳ね返せるだろう。けれど、サリエルはこの屈辱的な足蹴を、一切の抵抗なく受け入れる。
白い美貌が、スープとポーションの混じった気味の悪い、濁った青い液体へ沈む。
「けれど、同情はしません。私は、貴女が憎い」
私は、自分が嘘をつけない性格だと知っている。思ったことを、そのまま口にしてしまうタイプであるとも。
だから、素直に言う。最初に言っておかないと、とても、隠し通せないから。
「今すぐにでも、殺したいと思っています」
でも、殺せない。殺すわけにはいかない。
これは、私がクロノさんを手に入れるために、耐えなければならない絶対条件。そう、リリィさんには耐えられなくても、私には、耐えられる。
何故なら、私はずっと前から、覚悟していましたから。
私がリリィさんとの違いを確信したのは、アスベル山脈でのラストローズ討伐が終わってからのこと。私は彼女に問うた。クロノさんが、どんな夢を見せられたのかと。
答えは『故郷の夢』だった。
私はさらに聞いた。クロノさんは故郷に恋人を残してきたのではないか、と。
けれど、リリィさんはその質問を途中で遮った。彼女は聞かなかった。考えなかった。その可能性を。すでに、クロノさんには愛する人がいたかもしれないこと。いや、もっと端的にいうのなら、クロノさんが童貞ではないかもしれない、ということ。
リリィさんは、何よりも恐れていた。クロノさんが、すでに他の女を受け入れているかもしれないことを。
妖精だから、なのでしょうか。リリィさんは十字教シスターの理想のように、性に対して潔癖だった。高潔といってもいいかもしれません。
世の女性が見習うべき、見上げた貞操観念。
しかし、リリィさん、それを男性にまで押し付けるのは、少々、酷というものですよ。
私は純潔を捧げるのは愛する人、ただ一人のみと定めています。ですが、クロノさんには求めません。彼も男です。十七年の年月を、私達の知らない、ニホンという平和な異世界で過ごしてきたのだ。その間に、恋仲になった女性が何人かいたとしても、何ら不思議ではない。早ければ、結婚して、子供が産まれていることだってありうる年齢。
私は、今でも知らない。クロノさんは故郷に恋人がいたかどうか。サリエルが、彼にとって初めての女になったのかどうか。
気にならないといえば、嘘になります。けれど、気にしません。私は、ソレを諦める覚悟をしたのです。
私はクロノさんの『初めて』は、最初から諦めた。けれど、リリィさんは望んでしまった。それが、私と彼女の決定的な違い。
アルザス要塞でクロノさんがサリエルを抱えている姿を見た瞬間、勝利を確信した。告白しようと、決意した。
プランは、一瞬で頭に浮かんだ。
クロノさんは、サリエルを殺せなかった。生かすことを望んでいる。彼とサリエルの関係、正確には、シラサキ・ユリコという同郷の少女。それを聞いて、改めて分かる。二人の関係が、非常に複雑なものだと。
けれど、心から愛しているワケではない。クロノさんは、サリエルと結婚することまでは望んでいない。
それだけ分かれば、十分です。
サリエルは、私の告白を断らせないための、最高に都合の良い人質となりました。同時に、最強の恋敵であるリリィさんを排除する武器にも。
リリィさんは、決してクロノさんに抱かれたサリエルを許せない。彼女の高潔さ故に。
自分でも拍子抜けするほど、リリィさんはあっけなく敗走した。まるで、見た目通りのか弱い乙女のように、無様に泣きながら、逃げた。
もっとも、私もクロノさんに「やめろ!」と怒鳴られて突き飛ばされれば、同じように泣いて逃げ出してしまう自信がありますけど。
幸いにも、ああ、本当に幸いにも、彼は拒絶しなかった。
本当に、真面目ですね、クロノさん。こんな状況下で、あんな迫り方をする女なんて、気持ち悪くて普通の男なら殴り飛ばして黙らせていてもおかしくないでしょう。
けれど、彼は私の話に耳を傾けた。どんなに自分にとって不都合なことでも、耳を塞がず、一言一句、聞き届けた。
彼がどれほど悩み苦しんだか、私には計り知れません。
ごめんなさい、クロノさん。貴方を苦しませてしまって――罪悪感は、けれど、どうしようもないほどの歓喜の念で塗りつぶされる。
『分かった、フィオナ。付き合おう。いや、こんな俺で良ければ、付き合ってくれないか。これからは、ただの仲間ではなく、恋人として』
その言葉を引き出した瞬間、私は、世界で一番、幸せな女の子になりました。
願いは叶った。他には、もう、何もいらない。
だから、私は耐えられる。サリエルがここにいることを、許せる。
「――汚いですね、ちゃんと飲んでくださいよ」
ふと気が付けば、サリエルがスープに顔を突っ込んだまま、ブクブクしているのが見えた。気色の悪い色のスープは白皙の美貌と埃っぽい床の両方を等しく汚していた。
「ぷっ……はぁ……」
小さく、けれど、僅かに乱れた呼吸のサリエル。ただのスープ皿。溺れる深さもないでしょう。
「安心してください。こんな真似をするのは、今だけです」
私は魔法学院にいた、高貴な血筋でありながらも、醜くも卑しい、陰湿な、いわゆるイジメと呼ばれる行為を繰り返す、下等な女学生とは違う。
今はただ、ちょっと我慢しきれないだけ。
覚悟していても、いざ、クロノさんの口から語られると……リリィさんがいなければ、私の殺意も気取られていたに違いない。それくらい、ショックは受けていますし、動揺だってしているのです。
「貴女がクロノさんを裏切らない限り、身の安全は保証しましょう」
十字軍に内通するような怪しい動きでも見せてくれれば、殺す口実ができてありがたいのですけど。
しかし、いくら疎ましかろうと、ここで私が余計なアクションを起こすのはリスクが高い。サリエルを嵌めようとしたのが、万が一にでもクロノさんにバレれば、この関係はお終い。
また、陰湿なイジメを続けるのも、多大なリスクを背負うことになる。いくら彼が優しくても、そんな腐った心根の女性を受け入れるほど、甘くはない。
だから、これ以上はもう、私にすべきことはありません。必要なら、サリエルの世話だってしましょう。いえ、むしろ私が率先してやらねばいけませんね。クロノさんに、サリエルの風呂も下の世話も、これ以上させるわけにはいきませんから。
「あまり、手間をかけさせないでくださいね。まずは、早くその不味いスープを食べきってください。後片付けまでが、私の仕事ですから」
そうして、私は黙って、犬のように無様に食事する第七使徒を眺めながら、待つ。
少しばかりスープが散った床を掃除して、皿を下げて、サリエルの顔を拭いて、ベッドに寝かせて……それから、最後の仕上げに取り掛かるとしましょう。
「ああ、緊張しますね、初めての夜というのは――」
今日はもう寝よう。そう思って、いざベッドに入ると……かえって目が冴えてくる現象は、一体何なのだろう。
分かっている。この疲労感の原因は全て精神的なものであって、体力的には何ら消耗してはいないのだと。少しばかりの急ぎ足で、ガラハドの山越えに、要塞からのスパーダへの帰路。それなりの険しさ、そこそこの距離。だが、十分な装備に、要塞からはメリーに乗って来たのだから、俺の体で疲れるはずもない。
思えば、今のところ素直に再会を喜べたのは、愛馬である不死馬メリーだけである。俺の姿を見た途端、ブルルと鳴いては、顔をペロペロしてくる可愛い奴だ。サリエルのペガサスとは大違いである。
そういえば、サリエルはもう眠っただろうか。思えば、フィオナの告白をすぐ真横で聞いていたことになるのだが、アイツはこの一連の修羅場染みた状況をどう考えているんだろう。白崎さんの記憶と照らし合わせて判断して、俺のことを優柔不断なダメ男、だと思われたりするのか。
彼女は開拓村での生活を通して、ほんの僅かながらも、人間性らしき感情を取り戻す、いや、新たに学んだ、というべきだろうか。ともかく、そういった変化が見られたように思う。だから、意外と人並みにそういう感想を抱くのかも……いや、別にサリエルに俺のことなど、どう思われていようが関係ない。全く、下らない思考だ。
「――クロノさん、まだ起きていますか?」
と、ノックの音と共に聞こえてきたフィオナの声に思いきりドキっとしたのは、彼女を差し置いてサリエルについて考えていたことを後ろめたいと感じたからだろうか。
「まだ起きてるぞ。どうした、フィオナ」
「入っても、いいですか」
「ああ」
拒否する理由は何もない。
もしかしたら、サリエルに上手くスープを食べさせることができませんでした、とかいう介護の悩み相談かもしれないし。
そういうことなら、俺に任せろ。サリエル介護歴三ヶ月のクロエ司祭様が、懇切丁寧に指導しよう――何て、馬鹿馬鹿しい思考が、一瞬で吹き飛んだ。
「お、おい……フィオナ、その格好は……」
小さな室内灯用のランプを手に、扉を開けた彼女の姿が暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
ヒラリとした、ワンピース型のネグリジェを着ていることはすぐに分かった。そのテの寝間着は何度か見たこともあるし、別段、驚くべきことでもない。
だが、これは全くの別物。初めて見る、やけに生地の薄い――否、透けているのだ。
服の大半が透けている。胸元まではしっかり布地があるのだが、そこから下は覆っている意味があるのかどうか分からないレベルでシースルー。ボディラインがハッキリ見える、というより、素肌が透けて見える。ヘソも見えれば、その下にある、黒い……割と際どいビキニタイプの黒いパンツまで、俺のよく利く夜目が鮮やかに映し出してくれた。
「何か、おかしなところでも?」
どうして「普通にパジャマ着てますけど」みたいなしれっとした顔で言えるのだろうか。すでに俺は、童貞には刺激の強すぎる……いや、もう童貞ではないが、それでも女に慣れていない男としては刺激的な彼女の格好から、全力で目を逸らしている。
「いや、別におかしくはないんだが……」
「そうですか、似合っていないワケではないのですね」
「あ、ああ、似合ってはいる、と、思う」
微妙に歯切れが悪い上に、壁に向かって喋っている俺の答えに、一体如何ほどの信憑性があるのだろうか。
しかしながら、似合っている、という感想には嘘偽りない。
「それで、どうしたんだ、フィオナ」
「はい、もう少し、クロノさんと話をしておこうと思って」
「そうか。それなら、俺ももう少し聞きたいことがある――んっ!?」
フィオナがベッドに近づいてきた、と思ったら、彼女の歩みは止まることなく、さらに接近。当たり前のように、ベッドイン。
毛布が一瞬めくれて、ヒヤッとした空気が流れ込んできたと感じた次の瞬間には、温かく柔らかい人肌の感触が伝わった。ちょうど後ろからフィオナが抱き着いてくるような格好。二本の手が蛇のように、背中側から這ってきた感触にゾクリとさせられる。
「おい、フィオナ、ちょっと待て、これは――」
「良いではないですか。私達はもう、恋人同士なのですから」
ひょっとしなくても、夜這いというヤツなのだろうか。
いや、本当にちょっと待て。確かに告白はしたけど、それはついさっきの話で、俺としてはまだ心の準備とか覚悟とかそういうのが――
「ごめんなさい、クロノさん」
どこか悲しげな謝罪の言葉が、俺の馬鹿みたいに混乱した思考を止めてくれた。
「どうして、謝るんだ」
「酷い告白、でしたよね」
この女を殺されたくなければ、私と付き合え。
フィオナの告白は、要約すればそういうことである。酷いか酷くないかでいえば、断然、酷い。告白というよりは、最早単なる脅し。犯罪行為である。
「いや、そんなことはない。フィオナだって、今まで我慢してきただろうし、必死だったんじゃないのか」
「はい……クロノさんに断られることが、何よりも恐ろしかったです」
あんなムチャクチャなことを言ったのだ。生半可な気持ちではないというのは、十分に伝わる。それこそ、いくら鈍感な俺にだって。
「だから、嘘でもいいから、私を受け入れて欲しかった」
「嘘じゃないさ。断ろうと思えば、俺は力づくでも、フィオナを拒絶することだってできたんだ」
場所は寮のラウンジで、互いに至近距離。その状態で戦闘に入れば、魔術士タイプのフィオナよりも、狂戦士の俺に分がある。たとえ素手であっても、彼女を強引に拘束させることは可能だった。
「けど、そうしようとは微塵も思わなかった。とんでもない馬鹿だと思われるかもしれないけど……正直、俺は告白されて、嬉しかったんだ。こんなに可愛い女の子が、俺のことを好きだと言ってくれるのか、ってな」
「そ、そんな……でも、私は……」
「選べ、と言われて、悩みはしたさ。けど、リリィとフィオナを天秤にかけられるなんて、世界で一番贅沢な選択だろう。きっと、どっちを選んでも後悔はしない。だから、今も悔いなんてない。俺は最高の女性を選んだ」
体に絡むフィオナの両腕が、更にきつく締められる。
彼女は、俺の言葉をどう受け取っているだろうか。都合の良いことを言っているんじゃないかと、呆れられているかもしれないし、最初から嘘だと決めて付けて、ハナから気にもしていないかもしれない。
自分の気持ちを打ち明けるのは、恐ろしくもある。でも、今はもう、止められない。
「俺がサリエルを手にかけたことは、許されることじゃない。リリィは許してはくれなかった。けど、フィオナ……お前だけは、こんな俺を許すと言ってくれた」
それが、ただの甘い言葉だと分かっていても。
「ありがとう、俺を、許してくれて」
きっと、それこそが俺が心から求めていたものだったんだろう。
殺せなかったサリエルを連れて、開拓村で過ごした偽りの日々。結局、俺一人では、答えを出せなかった。サリエルをどうするのか、どうしたいのか。何よりも、サリエルを殺せなかった俺自身が、一体、何をどう贖えばいいのか。
その答えは、どこまでも単純だった。
俺はただ、許してもらいたかったんだ。
「愛している、フィオナ」
不意に、彼女の体が離れる。
だが、すぐに戻ってきた。さっきは背中、今度は、腹の上だ。
仰向けになった俺の上へ、フィオナが覆いかぶさって来た。凄い勢いで。毛布が半ばベッドから吹っ飛びかけている。少し、肌寒い。
「んんっ――」
三度目のキス。いや、もうすでに、何度目か分からない。ついばむように、フィオナは何度も、キスの雨を降らせてくる。
強く押し付けられる唇の得も言われぬ柔らかな感触に、俺の鼓動は瞬く間に高鳴って行く。そのまま意識が飛びそうな、というより、人間の持つ本能だけで支配されてゆきそうな感覚。そして、その支配は何よりも心地が良いことを、俺は知っている。
ああ、そうだ。俺が全てを諦めて、自らサリエルにキスをした時も、こんな感じだったな。
唇は、ついにそれだけの感触に満足できなくなったように、ヌルリとした小さな異物を受け入れようとしていた。
僅かに開かれた口の隙間から、フィオナの舌が入り込んでくる。さして広くもない口の中。すぐに、互いの舌先が触れる。
「ん、くっ――待て、フィオナ」
それなり以上に、強く彼女の肩を押さなければ中断させることはできなかった。
「どう、して……ですか……」
熱に浮かされたように、フィオナの顔が薄らと朱に染まっているのが見える。言葉を交わさなくても、彼女の感情の高まりは確信をもって感じられた。
「これ以上は……今夜は、やめてくれないか」
「……そんなに、私の体には魅力がありませんか」
「リリィと話をつけるまでは、俺はお前を抱くわけにはいかない」
その行いに、果たしてどれほどの意味があるだろう。少なくとも、フィオナを納得させられるだけの論理が、俺の言葉で語れるとは思えない。
だが、しかし、理屈を超えて強く感じる。今はまだ、流されるままに体を重ねるわけにはいかないと。
「すまない、フィオナ。これも結局は、ただの我がままかもしれない……」
「……いいですよ」
ややしばらくの間を置いてから、フィオナはそう肯定してくれた。
「ですが、あまり長くは待てそうもありません」
「ああ、次は必ず、俺の方から誘う」
俺だって、こんなあられもない姿のフィオナを見ておきながら、そう長く我慢できるとは思えなかった。こんな美少女の方から求められていると思えば……今、行為を中断できた自分の理性を褒めてやりたい。
「そうですか、それなら、少しだけ待てそうです」
ほぅ、と一つ艶っぽい溜息をついてから、フィオナは俺の体の上から退いた。心地よい重さがなくるのを名残惜しく感じる。
フィオナはさらに、ベッドからも抜け出した。枕元に置いたままだったランプを手に取る。どうやら、今夜は自分の部屋に戻るつもりのようだ。
「あの、クロノさん」
しかし、フィオナは退室のための一歩を踏み出せない。
当然だ。俺が彼女の手首を掴んで、引きとめているのだから。
「悪い、でも今夜は一緒に、寝てくれないか」
「……酷いです、クロノさん。これは生殺しというものでしょう」
頼んでおきながら、自分でも恥ずかしくなってくる。
「頼むよ、甘えさせてくれ」
これくらいは、いいだろう。
「いいですよ。だって私は――」
だって彼女は、俺の、恋人なのだから。