第517話 自由へ向かって
半壊した城の窓から、ウルスラは眼下に広がる戦いの跡をぼんやりと眺めていた。
要塞内に入り乱れる敵味方の死骸は、すでにおおよそ片付けられているものの、一部が崩れた城壁の向こうに、完全にまる焦げとなったグラトニーオクトの巨躯が黒い小山となって地形の一部と化しているのが見えた。
要塞を丸ごと喰らえる巨大なモンスターの死骸は、速やかな撤去が求められるところだが、今すぐ手を付けられないということは誰の目にも明らか。十字軍の増援が来ないことには、どうしようもないだろう。
しかし、今のウルスラが考えているのは、そんな戦後処理についてのことではない。
「クロエ様、シスター・ユーリ……」
グラトニーオクトが黄金の炎に包まれて絶命し、生き残った多数の群れも方々へ散り散りとなって逃げだしていき、ついに十字軍の勝利は決したが――二人は、帰ってこなかった。
いいや、実のところウルスラは知っている。二人は確かに帰った。偽りの生活を送るここではなく、本当に帰るべき場所へと。
「……もう、スパーダには着いたのかな」
今日は氷晶から月が移り変わり、清水の月1日。グラトニーオクトとの戦いから、すでに三日が経過している。
二人がもう自分の元へ帰ってこないという現実を受け止めるには、年齢以上に聡明なウルスラにとっては十分な時間でもあった。何より、彼女はスパーダへの帰路につく、二人の姿を遠目から目撃している。
グラトニーオクトが地響きを伴う轟音をたてて墜落してから、ウルスラはすぐに外へと出た。
見晴らしの良い城壁まで駆け上がったところで、太陽の如き眩い輝きを発する火球が山のような巨体をただの一撃で焼き払うところを見た。想像を絶する威力を前に、それが攻撃魔法であったと気づくには少しばかりの時間を要した。
燃え盛る火の山を眺めながら、戦いの勝利を理解し始めたその時、遥かガラハド山脈へと続く街道の上に、光る人影を見つける。
天使が実在すれば、正にそんな感じかというように、神々しく光り輝く小さな人影。羽の生えた少女のように見えたが、その隣に佇む男が、クロエであるということだけはすぐに分かった。重厚な鎧兜を纏いながら、手足の欠けた少女を抱える男など、彼を置いて他にはない。
クロエ司祭とシスター・ユーリ、二人の無事をはっきりと確認し、喜ぶのもつかの間。
一度だけ、彼がこちらを振り返ったように見えた。城からここまで、結構な距離がある。ギリギリで人影を確認できる程度の距離にあって、まさか自分の視線に気が付いたとは考え難い。
ただの偶然でも気のせいでも、それがウルスラにとってクロエの存在を感じた最後の瞬間であった。
光り輝く少女に導かれるように、クロエはシスター・ユーリを抱いたまま街道を歩き始める。アルザス要塞ではなく、そびえ立つガラハド山脈へ向かって。
そして、彼らが歩き出した思った次の瞬間に、忽然と姿を消す。一瞬、空間がグニャリと捻じれたように彼らの周囲が歪んで見えた、直後のことである。
それが、光を捻じ曲げて姿を隠蔽する類の魔法であることは、自分自身が同じような能力を使えるが故に、すぐピンときた。そうやって完全に姿を隠した者を見つけることが不可能であることもまた、彼女は知っている。
こうして、ウルスラはただ一人取り残されることとなったのだった。必ず戻る、という二人の約束は、儚くも敗れ去る。
「私も、帰らなくちゃ」
しかし、ウルスラには不思議と、二人に対する恨みの感情は湧かなかった。
未練はある。泣き出したいほど悲しいし、震えるほどに寂しい。けれど、これは遠からず訪れる未来なのだと、とっくに分かり切っていたことである。
差し当たり、生き残った自分がすべきことは、第202開拓村の跡地へとひとまず帰ること。そして、そこでレキの墓を建てることである。
それから先のことは、分からない。考えたくもない。
孤独な未来の話など、まだ十二歳の少女に過ぎないウルスラには、あまりに重すぎる。
「さようなら、クロエ様……」
心の中がぽっかりと空洞になってしまったかのような喪失感を覚えながら、ウルスラは真に感情の籠らない無表情で、その場を後にした。
戦いを終えて三日経っても、まだまだアルザス要塞の中は騒がしい。
戦闘で傷ついた兵は大勢いるし、崩れかけの城は無数に修理箇所がある。ただでさえ本来の守備兵に加えて、第202より西側の村人全員が集っているのだから、ただ生活しているだけでそれなり以上の騒々しさとなるのは当然の帰結。
今やすっかり危機は去ったとばかりに、皆の顔には晴れやかな笑顔が浮かび、子供達も無邪気に外を駆け回っている。本来なら、ウルスラだってその辺で遊んでいる子供達の一人のはずなのだが……そこらの冒険者では生き残れない過酷な戦いを経験したことで、ウルスラはもう素直に遊びの輪に加われそうもない心持ちであった。
「やぁ、こんなところにいたのかい、ウルスラ嬢」
城内をあてどもなく彷徨う、もとい散歩をしていたウルスラに声をかけたのは、今日も重騎士の鎧姿な中隊長クリフ。ライアンとは犬猿の仲で、なにかとモヤシ呼ばわりされるクリフであるが、何だかんだで激戦を共に潜り抜けた戦友として、ウルスラはそれなりに認めていた。
クロエ以外の男に対しては、基本的に上から目線なウルスラである。
「ん、どうしたの、クリフ」
「先ほど、十字軍の増援が到着した。早ければ、今日中にでも村へ戻るために出発できるかもしれないよ」
増援、といえば文字通りに兵士がやってくるわけだが、村人達にとって重要なのは彼らが運んできてくれる援助物資である。
少なくとも、十字軍は開拓民を全て切り捨てるほど末期的ではない。スパーダに敗れたとはいえ、痛手を被ったのは貴族連合である第三軍。戦力の中核を成す教会の第一軍・第二軍は共に健在であるし、同胞たる十字教徒の開拓民を露骨に見捨てる真似はしない。
開拓村の再建は大変だが、それでも十字軍の後押しが保証されていれば、決して不可能ではなかった。
「そう……ようやく、帰れるの」
「君はやはり、村へ帰るのかい?」
「他に行き場なんてない」
「君の魔法の実力があれば、十字軍の魔術士部隊のエースになれると思うのだが、志願する気はないのかね?」
この期に及んで、まだ子供に戦わせるのか、とクロエなら怒るだろうか。
しかし、クリフには決して他意があるわけではなく、単純に『白夜叉姫』の力を評価していると分かっているから、ウルスラは気分を害することはない。何においても、自分の実力を認めてもらうのは、嬉しく思えた。
「私にはもう、戦う理由はないの」
「それもそうか……確かに、君はもう、これから先はずっと教会で平和な生活を送るべき、なのだろうね」
孤独となったウルスラには、それが幸せなものだと素直には思えないが、そう言ってくれるクリフの心遣いはありがたい。
「それじゃあ、私、みんなのところに戻るから」
「ああ、さようなら。神のご加護がありますように」
優雅な騎士の一礼でもって見送ってくれたクリフと別れて、ウルスラはすでに出発準備にとりかかり始めているだろう、第202村の面子の元へと向かった。
子供らしく遊ぶ気がないなら、何か適当なお手伝いでもしていた方が気も紛れる。
とりあえず、自分自身の持ち物はそれほど多くもないし、クロエからもらった空間魔法ポーチのお蔭で実にコンパクトにまとまる。
だからウルスラが考えるべきことは、こう言ってしまえば元も子もないが、レキの死体の運搬、である。
今回の戦いにおいて、ウルスラが多大な貢献をしたことはクリフのひいき目がなくとも明らかだ。そんな彼女に慮って、レキの死体は犠牲になった兵士達とまとめて火葬されることなく、第202村で埋葬できるよう棺に納められ保管されることと相成った。
レキは簡素な白塗りの棺の中で、引っ付いていたイカから切り離した時と変わらず、綺麗な姿のまま、まるで眠っているかのように横たわっている。今にも「ヘーイ!」と言って起き上がってきそうだと、棺の蓋が閉じられる直前にレキの顔を見て思ったものだ。
残された者の感情は様々だが、単純に物質的な観点で見れば、棺というのは大きい。少なくとも、一人で持って運べるようなサイズではない。
運搬するには荷馬車に乗せる必要性があるのだが、事前にスペースを確保しておかねば揉めるだろう。ランドルフのことだから、上手く采配しているとは思うが、確認は必要だという大人な考えで、ウルスラは村人達が集っているだろう城のエントランスへと戻ってきた。
正面扉は壁ごと綺麗さっぱり吹き飛んでおり、最早エントランスというよりただの屋外といった風情である。しかしながら、他に大人数と大荷物が入り乱れる搬入口としては他に適切な場所もないので、そのまま利用されていた。
吹き曝しとなったエントランスからは、確かにクリフの言う通りに、十字の御旗を掲げた大型の荷馬車や竜車がゾロゾロと列を成して要塞内に停まっている様子が見える。
待望の支援物資を前に、ゾンビのように村人達が群がってきていると思えば、その騒がしさも納得であるが……しかし、どうにも怪しい雰囲気が漂っていた。何だか、妙にザワついている。そんな気配をウルスラは察した。
「……なんなの」
不審に思いつつも、好奇心が勝ったウルスラは、深く考えず野次馬の群れに混じることとした。
エントランスに溢れかえる、兵士と村人とが作り出す人波をかきわけて、少しずつ騒ぎの現場へと近づいていく。
何やら言い争っているような声が聞こえてくる。すでに人ごみの中に飛び込んだウルスラとしては、最前列にまで出て行かなければ状況の把握は困難だ。半ば意地となって強引に突っ切り、彼女はついに辿り着く。
「――だからっ、そんなもんは知らねぇっつってんだろが!」
騒ぎの中心地にいたのは、ライアンだった。
短気な彼が怒鳴るのはいつものことだが、その表情は本気で怒っている時のものであると、これまでの付き合いから何となく察せられた。
何だ、ただの喧嘩か。実にライアンらしい。
そう思わなかったのは、彼に相対する人物をウルスラが知っていたからだ。
「あ、あれは……異端審問官」
十字教を象徴する、白い衣装の一団であった。
先頭に立ってライアンと言い争っているのは、修道服をそのまま純白にして、少しばかり装飾を増やしたようなデザインの法衣を纏った、年若い女。少女といってもいいだろうか。成人は超えているだろうが、二十には満たない。
白頭巾から覗く栗毛は艶やかで、目鼻立ちの整った綺麗な顔立ちをしているが……サディステックに歪む嘲笑が、どうしようもなく不快感を煽る。
ライアンが怒りの鉄拳を女の顔面に叩きこまずにいるのは、彼女の後ろに控える、全身を覆う純白のローブに、頭と顔をすっぽりと覆い隠す真っ白い三角頭巾を被った、奇妙な格好の男達が整然と立ち並んでいるからだ。
ローブだけならまだしも、冗談みたいな三角頭巾の男達であるが、彼らの背には揃いの十字を模した大剣があり、もし少しでも彼らの姿を笑ったなら、次の瞬間には鋭い一閃が容赦なく放たれると思わせるほどに、殺気立った凶悪な気配を発している。
事実、彼らは敵とみなせば一切の慈悲も容赦もなく、斬りかかってくる。その残虐さ、冷酷さこそを信仰の証とする、シンクレアで最も恐れられる狂信者――それが『異端審問官』である。かつて、ドレイン能力を暴走させたウルスラを、処刑するはずだった者の名だ。
そんな者達が何故、こんな場所に。考えるよりも前に、ウルスラは全身に駆け抜ける危機感が命じるまま、一も二もなく踵を返して離れようとしたが、
「――っ!?」
「あら、自分からのこのこ出て来たようですわね、汚らわしいイヴラームの呪い子」
蛇のような笑みを浮かべた女審問官が、ウルスラを捉える。
見つかった。それも、その口ぶりから自分を探しているだろうことは明らか。
コカトリスに睨まれたように固まってしまいそうな恐怖感を押し殺して、ウルスラはそのまま人波に分け入って逃げようとするものの、それはすでに致命的なまでに遅きに失していた。
「あうっ!」
一体、何時の間に現れたのか。視界の端に、真っ白い三角頭巾の大男が映ったかと思った瞬間、腹部に強い衝撃が走った。
硬質な石の床を二転三転。殴られたのか、蹴られたのか、それすら判然としないが、ウルスラは朦朧とする意識の中で、自分があっけなく女審問官の前に放り出されていたことに気が付いた。
「おい、大丈夫かっ! くそっ、テメぇら、こんなガキ相手に、恥ずかしくねぇのか!!」
「貴方の方こそ、こんな呪い子を庇いだてするなど、信徒として恥ずかしくはありませんの?」
ライアンの怒声も女審問官の声も、どこか遠くから響いてくるように聞こえてくる。夢の中にいるような、フワフワと現実感の湧かないその感覚には、確かな覚えがある。
自分の意思さえはっきりしない幼い頃。けれど、水の中にいるように息苦しく、重苦しい……そう、まるで、最初の孤児院で生活していた時のよう。
「勝手に決めつけやがって! コイツが何したってんだよ!」
「すでに調べはついているのです。白い霧状のドレイン能力……正しく、あの忌まわしい呪王と同じ、呪われし悪魔の力」
違う、これは呪いなんかじゃない。クロエ様が教えてくれた、自分と、大切な人達を守るための、魔法の力――そう、叫びたいのは気持ちだけで、ウルスラの口からは息が詰まったような咳が出るだけだった。
「ふ、ふっざけんなよテメぇ! 俺らが必死こいてタコ共とやりあってる間、テメェらはそんなくだらねぇ調べ物で時間潰してやがったのかぁ!? 今更のこのこ来て勝手なこと言ってんじゃねェぞコラぁ!!」
口角泡を飛ばし、今にも女審問官へと掴みかからんばかりの気炎を上げるライアンの前に、二人の三角頭巾が立ちはだかる。その手は背負ったクレイモアの柄を握り、あともう一歩でも踏み込めば切り捨てる、と暗に語っていた。
「あまり耳元で怒鳴らないでくださる? 私は貴方と、ここに集っている者達のためを思って言っているのですよ……我々、異端審問官の職務と権限、まさか知らないなどということは、ありませんわよね?」
「……俺らを、脅そうってのかよ」
ライアンの額から、一筋の冷や汗が流れ落ちる。
シンクレアの田舎で育った者ならば、異端審問官の話などほとんどおとぎ話のようなものであるが、聖都エリシオン在住であったライアンは知っている。彼らにとって異教徒の処刑は日常茶飯事。首を撥ねるのも、書類にサインするのも、同じ程度の感覚だ。
だがしかし、何より恐ろしいのは、処刑対象たる異教徒を庇う者も、一切の躊躇なく殺戮できることである。滅多にあることではないが、それでも村ごと焼き払われる『浄化』が行われた事実は、過酷に幾度かある。緊急を要する場合、異端審問官にはそれを断行する権限も公然と教会は認めているのだ。
つまり、下手すればここにいる開拓村の人々全員が処刑対象とされる可能性がある。
「うふふ、誤解なさらないでくださいな。我々は決して、同胞の血で手を汚すことを喜ぶ狂人などではありませんわ」
女審問官は優雅な動作で軽く手を振ると、心得たとばかりに二人の三角頭巾がライアンの前から退く。
「我々がここにいるのは、治安維持の一環ですわよ。ついこの間まで、魔族が跋扈する邪悪なる大地であったパンドラですもの。いくら十字軍の『解放』が完了したとしたとはいえ、まだどんな悪しき存在が隠れ潜んでいるか分かったものではありません」
「ダイダロスの残党は、使徒の手で掃討されたって聞いたぜ」
「ええ、ええ、我らの模範となるべき素晴らしいお働きですわね。神に選ばれし聖なる使徒の足元にも及びはしませんが、我々も微力を尽くして……そう、ここにいる呪い子のように、狡猾にも隠れ潜んでいる異教徒の炙り出しを行っておりますわ」
彼女の言いぐさは、あながち建前であるとも言い切れない。領内に潜む異教徒を見つけ出し、殺すことは異端審問官の主な職務の一つであるのは事実だ。
そして、首都ダイダロスにおいては今でも厳しい残党探しが行われていることも、風の噂で耳にしたことくらいはライアンにもある。
「けど、だからって……どうしてこんな時に……」
わざわざこんな辺境まで、それも、村が滅ぶ危機をようやく乗り越えた今、この時を狙ったように異端審問官が現れたことは、ライアンでなくとも不可解さを覚える。
「そんなの、決まっているでしょう。前々から、第202開拓村は怪しいと目をつけていたのです。ひょっとして貴方にも、何か心当たりがあるのではなくて?」
苦虫を噛み潰したような顔で視線を逸らすライアンの反応に、女審問官は満足気な笑みを浮かべる。
「くすくす、どうぞご安心なさって。村人全員を異端審問にかけるつもりは、我々にはありませんから。悪魔というのは、いつだって無垢なる民を甘い言葉で惑わすもの……騙された善良なる信徒の目を覚ますことも、我々の使命なのですよ」
少しずつ、話が見えてきた。
要するに、異端審問官がマークしていた人物を素直に引き渡せば、村人の安全は保証する。しかし、それを庇ったり渋ったりすれば、その限りではない。
ライアンでもすぐに理解できる、実に単純な要求であった。
「よろしですわね? では、捕えなさい」
何か反論を差し挟む間もなく、女審問官の足元に倒れたままのウルスラへ、三角頭巾の白い腕が伸ばされる。
ぐったりとして、抵抗する素振りを見せないウルスラだが、艶やかな銀髪のツインテールを無造作に掴まれ、勢いのまま強引に立ち上がらせる。
「んあっ!」
苦痛の声をあげて、反射的に掴まれた髪に向かって手を伸ばそうとしたところで、彼女の細い手首がもう一人の三角頭巾によって掴まれた。それは、ただ腕を捕られただけではない。次の瞬間には、ガチャリと鈍い金属音を立てて、ウルスラの両手首を固める、白銀の手錠がかけられていた。
銀の表面にぼんやりと浮かぶ青い光の古代文字。それが魔力封じの効果を有していることに気づけたのは、騎士としての素養を持つライアンと、その効果を体感するウルスラだけであろう。
「う、あ、あ……」
魔力を抑制されたことに驚いているのか、それとも手錠をかけられたこと自体がショックなのか、ウルスラはただ、震えるように呻き声を上げるのみ。
その姿は、とても恐ろしいモンスターの大群に立ち向かった魔術士であるとは思えない。事実、魔力を封じられたウルスラは、何の力も持たない無力な子供に過ぎなかった。
半ば抱えられるように、大柄な三角頭巾に両サイドから腕を捕られたウルスラは、そのまま真っ直ぐ連行され始め――ようとしたところで、ようやくライアンは声を上げた。
「ま、待てよ……」
言いはしたものの、引きとめるに値する言葉も理由も思い立っていないのは、彼の冷や汗塗れの顔を見れば一目瞭然である。
「証拠は、あんのかよ……」
「ありますわ、これから取り調べをすれば、幾らでも」
「コイツは今回の戦の功労者だ、勝手に連行するなんざ――」
「問題ありませんわ。ヘルマン男爵閣下には後ほど、教会から正式な通達がなされます」
「くっ……同じ、十字教徒だろ……コイツはまだ見習いだが、それでもシスターだぞ」
「聖職者の皮を被るのは、悪魔が人に交わる常套手段ですわ」
およそ思いつく反論は全て、あっけなく一笑に付される。そもそも、始めから結論ありきで行動している者は、理屈で止められるはずもない。
「ウルスラは、どうなる……」
「この女は、イヴラームの呪王エイヴラハムの血筋にあたる疑いがあります。まずはダイダロスの大教会へ連行。そこで厳しい尋問の後、審問にかけられます」
異端審問にかけられて、無罪放免となった者は過去に一人たりともいないというのは、あまりに有名な話である。
この白い手錠をかけられた時点で、ウルスラの命運は決した。
「もっとも、取り調べをするまでもなく、私はこの女が呪王の血を引いている、正真正銘の呪い子であると、前々から確信しておりますけれど……ああ、今思い出しても身の毛がよだつ思いですわ」
まるで、ウルスラの魔法をずっと前から知っているかのような口ぶり。しかし、ライアンにはそんなことを詳しく問いただせるはずもないし、また、茫然自失とするウルスラ自身も、この女審問官と面識があるかどうかを思い出す余裕もありはしない。
「では、もうご質問などございませんわね? それでは、私達はこれで失礼させていただきますわ。異教徒捕縛のご協力、感謝いたします。我々は、貴方がたの一日でも早い復興を心よりお祈り申し上げますわ」
わざとらしいほどに優雅な一礼をして、審問官達は踵を返す。
去りゆく彼らを止める声は上がらず、無論、体を張って止めようという者なども、現れるはずもない。
ライアンは奥歯が砕けるかというほど強い歯ぎしりをしながら、三角頭巾に引きずられるウルスラの小さな背中を見つめることしかできないでいた。ここで、自分一人が暴れたとしても、意味はない。
反逆の意思アリとみなされ、その場で処分。いや、もしかすれば審問官が手をかけるまでもなく、ここに集う兵士と村人達に叩き潰されるかもしれない。誰も、下手に逆らって余計なとばっちりなど食らいたくはないのだから。
一人の女の子を生贄に差し出すような真似を、心地よいとは思わないだろう。しかし、生殺与奪の権利を相手に握られていれば、如何なる理不尽も許容せざるを得ない。
それはライアンとて同じ。どれだけ悔しかろうと、彼にもまた、家族がいて、仲間がいて、これから復興してゆく未来がある。
守るために、勇敢に戦って死ねるならまだしも、全くの無駄死に挑めというのは、あまりに酷であろう。
「く、くそぉ……誰でも良い……誰か、助けてくれよ……」
そんな都合の良い『誰か』など、いるはずはなかった。
すでに、クロエ司祭は去った。だからこそ言い切れる。彼のように、命がけで理不尽に立ち向かい、そして打ち勝つだけの力を持つ人物など……一体、この世に何人いるだろうか。
全てを救える『英雄』はもう、どこにもいないのだ。
「誰かっ……」
それでも、救いを願わずにはいられない。
願ったところで、神は救いの手を差し伸べたりなどしないと、分かっていても。
故に、奇跡を起こすのは、人である。
「――ファアーッキン、ビィーッチ!!」
その意味不明な叫び声が響きわたった瞬間、ライアンは我が目を疑った。
三角頭巾を従える女審問官の顔面に、突如として飛び出した人物が、固く握った拳を叩き込んでいる。
その人物が、いつ、どこから現れたのかは、分からない。あまりに素早い通り魔的犯行に、取り巻きの三角頭巾も制止に動く間もなかった。
何者かの接近の気配を察して、女審問官が振り返ったその瞬間には、もう、顔面パンチが成立していたのだ。
「へぶっ――」
一瞬だけ呻き声のようなものを漏らしながら、女審問官の体は宙を舞う。クルクルと綺麗に回りながら、潰れた鼻から噴き出す血が螺旋を描く。一種の芸術的な吹き飛び方はしかし、重力の軛によって無残な終わりを迎える。
エントランスの固い石材の床へと、彼女の体は受け身も何もなく強かに打ちつけられ、勢いのまま数メートルほどゴロゴロ転がってから、ようやく動きを止めた。
「う、嘘、だろ……」
信じがたいのは、成人女性の体を軽々と殴り飛ばすパンチ力ではない。異端審問官に手をあげる大馬鹿者が、この場に存在するという事実でもない。
もっとも信じがたく、驚くべきことなのは、犯人の正体。
翻る紺色の修道服。輝くような金髪のショートヘアは、犬耳のように左右に跳ねたくせ毛が特徴的。パッチリと開かれた大きな目には、炎のように真っ赤にギラつく瞳が浮かんでいた。
「……レキ、なの?」
ウルスラは、白昼夢でも見てるかのような気分で、目の前に立つこの世で最も見慣れた少女にそう尋ねた。
「イエーッス! オーライ! だから、もう大丈夫デス、ウル?」
その顔、その声、その仕草。全て記憶にある通り、完全無欠に、彼女はレキであった。
弾けるような親友の笑顔を前に、ウルスラは思う、どうか、夢ならば覚めないでくれと。
だが、目の前の光景が単なる甘い幻想ではないことの証は、ウルスラを拘束する二人の三角頭巾の存在である。
奇跡と呼ぶべき感動の再会を、血でもって破滅させるべく、早くも二人は動き出している。
「おのれ、背神者め」
「殺す」
二人の行動方針は即座に一致する。すでに女審問官が殴り飛ばされているのだ。警告なしで切り捨てるには、十分すぎる状況であった。
飛び込んできたレキをたかが子供と侮ることなく、三角頭巾は素早く身構え、背負ったクレイモアへと手を伸ばす――
「ヘイ、アクビが出るほどスローリー、クロエ様だったら、もう一撃入ってるデスよ?」
先手を打ったのはレキ。
三角頭巾がクレイモアの柄を握ろうかという直前、レキが繰り出したのは蹴り。流麗な型も何もない、ただ力任せに繰り出す前蹴りである。
しかし、その蹴足はレキのささやかな体重と、その身に秘める強烈なパワーを乗せて、一直線に三角頭巾の膝を撃ち砕く。
「ぐおっ!?」
骨が砕ける鈍い音と共に、低い呻き声が被った三角頭巾の向こうから漏れる。
はた目から見れば、おふざけのように少女に足を蹴飛ばされただけ。だが、その蹴りがもたらした破壊力は、膝から逆向きにくの字型となって折れた足が何よりも雄弁に物語っていた。
剣をとることもままならず、蹴られた三角頭巾はその場で前のめりに倒れ込んでゆく。
そして、その様子をレキが悠長に眺めているはずがない。
三角頭巾がドっと倒れ込んだその瞬間に、レキは背負われているクレイモアを小さな両手で掴み、引き抜いていた。
「死ねい! バルバドスのガキめがっ!!」
もう一人の三角頭巾から、レキの頭上に大剣の刃が振り下ろされる。子供などそのまま縦で真っ二つにできそうな勢いと鋭さを秘めた一撃はしかし、虚しく石の床へ食い込むのみ。
渾身の一撃を叩き込んだそこには、すでにバルバドスの少女の姿はない。
幻影でも何でもなく、ただ、レキが素早く動いていただけにすぎないということを、果たして三角頭巾は理解できただろうか。
「死ぬのは、オマエの方デース! ファッキン、シンクレアン!!」
水面から海竜が飛び出すような勢いで、クレイモアの刃が跳ね上がる。レキは、その身に不釣り合いなほど刃渡りの長い剣でありながら、妙に慣れた動作で突きを放っていた。
疾走する白刃の切っ先は、寸分たがわず三角頭巾の喉へと飛び込む。
「ダァーイ!!」
死を意味する母国語を叫びながら、思い切り振り下ろせば、果物のへたをとるよりもあっさりと、首が飛んだ。
鮮血のシャワーを浴びながら、レキはどこかスッキリしたような表情でつぶやいた。
「トゥーイージー、やっぱり、敵を殺しても、大したことはないのデス」
「……レキ、どうして」
ウルスラの口を突いて出た問いかけは、果たして何に対するものなのだろうか。自分でもよく分からなかったが、レキは答えた。
「ウルは、レキが助けるデス。だって、レキの方がお姉さん、なのデスから!」
「一歳、だけなの」
自然と、そんな返しが口から出た。
「それでも、お姉さんはお姉さんなのデス!」
それは、いつか交わした会話の再現。ウルスラも、レキも、思わず、といったように、笑い出していた。
「……レキ、ありがとう……ごめんなさい」
「もういい、もう、いいのデス」
そうして、二人は抱き合う。円らな瞳に、涙を浮かべて。
腕の中に感じる、確かな存在と温もり。それが、ウルスラにレキの存在が幻でもなければ、アンデッドでもないことを示してくれていた。
正真正銘、レキは『蘇った』のだ。
「でも、本当に、どうして……レキは、確かに死んでいたの」
「ホワッ!? レキ、死んでたデスかっ!?」
「……えっ?」
どうやら、死者蘇生の奇跡はそれが起こった本人にも与り知らぬことらしい。レキは本気で驚いた、というように目を見開く。
「ノーン! レキは死んでないデスよ。ちょっと長く寝てただけデース、スリーピングビューティー!」
「……そう、なの?」
「イエス! だって、ウルの声も、クロエ様の声も、聞こえていたデス!」
その証言に、ウルスラは思い出す。まだパンドラ大陸へと来る前にニコライ司祭の書庫で読んだ、大して面白くもない記録簿。
そこには、毒を飲んで倒れた男が三日三晩、意識不明の重体のまま倒れていた間も、彼の周囲で交わされていた家族や友人、医師や司祭の会話をはっきり聞いていたと、回復した後に語ったということが書かれていた。つまり、人は一見して意識のない昏睡状態でありながらも、本人の意識が明確に目覚めていることもありうるのだ。
しかし、レキはただ眠っていたどころか、呼吸も脈も止まった、完全な死体となっていた。昏睡と死亡、あまりに大きな違いがあるものの、それでもレキの言葉から、どうやら毒で倒れた男と同じような状況にあったのだとウルスラには思えた。
「だから、クロエ様がいなくなったこと、もう知ってマス。それに、ウルが一人ぼっちになって、寂しそうにしていたことも……やっぱりウルは、レキが一緒にいないとダメ、デスねっ!」
「うん、うん……私、ダメなの……一人じゃ何も、できなかったの……」
グラトニーオクトを倒したのは、クロエとシスター・ユーリの二人。そして、去りゆく彼を引き留めることもできないどころか、あっけなく異端審問官に捕まり、処刑されそうになる始末。
魔法の力を持っていても、己の無力を悟るには十分すぎた。
「これからも、レキはウルとずっと一緒デス。二人一緒にいれば、何があっても大丈夫デーッス!」
血塗れでありながらも、笑顔でそう力強く言い切るレキはどこまでも眩しく映った。
「でも……ここからどうするの?」
「オーウ、それは今シンキング中なのデース」
二人の周囲には、すでにクレイモアを抜剣した数十人もの三角頭巾がグルリと取り囲むように立ち並ぶ。他にも白い長杖を握る魔術士クラスもおり、二人の子供を取り押さえるには過剰すぎる戦力が展開されていた。
すでに仲間の一人が殺されているのだから、当然の対応。まだ怨嗟の声を上げて斬りかかってこないのは、鮮やかに三角頭巾の首を撥ねたレキの力を警戒しているからであろう。
「う、ぐぅ……な、何をしているのです、お前たちぃ……」
ウルスラを庇うように剣を構えるレキと、取り囲む三角頭巾達の間に流れる緊迫した静寂を破ったのは、殴り飛ばされた女審問官である。恐らくは鼻が陥没し、前歯が砕けているであろう凄惨な顔を修道衣の裾で隠しながら、ゾンビのように立ち上がる。
「早く、早くその異教徒のクソガキをぶち殺しなさいよぉ!」
激高する女審問官の命令を、三角頭巾達は黙って実行に移す。掲げた杖の先に、灼熱の光魔法の輝きが灯り、剣を構えた前衛が揃って一歩を踏み出した。
「もう、強行突破で逃げるしかないの」
「ちょうどレキもそう思ったところデース! さぁ、ウル、力を貸すデス!」
ウルスラが魔力封印の手錠がかけられた両腕を突きだすと同時、そこへクレイモアの一閃が走る。阿吽の呼吸で、レキは親友の枷を断ちきったのだ。
「狂信者共なんか消し去ってやるの――『白夜叉姫』」
「行くデス! ゴーッ、ファイアっ――」
剣戟と魔法が飛び交う大乱闘が始まる、はずだった。
「火事だっ!」
それは、誰が叫んだのであろうか。
しかし、ここで黙って傍観者に徹さざるを得なかった群衆たちを動かすには、十分な一言であった。
「火事だ! 火事だぞ、みんな早く逃げろぉーっ!!」
バカな、こんな開けた場所でありえない。そんな不審の気持ちは、直後に響いたドン! という爆発音によって吹き飛んだ。
殺気立つ異端審問官達の後ろに停めてあった、彼らの白い専用馬車が突如として爆発――轟々と炎上し始めたところを、誰もが目撃した。
まるで炎の上級攻撃魔法が直撃したかのように、白に十字をあしらった教会特別仕様の車体が瞬く間に火炎に飲み込まれ、繋がれたままであった四頭の馬は、強烈な炸裂音とすぐ背後に感じる灼熱とによって、一瞬にして恐慌状態に陥る。
悲痛ともとれるようないななきが上がると同時に、四頭の馬が暴れ狂うように走り出す。そう、巨大な火の玉と化した車体を繋げたまま、馬車が暴走を始めたのだ。この、人々で溢れかえる正門前で。
「うわぁああああああああああっ!」
「おい、逃げろ! 急いで城に入れ!!」
「何やってんだ、どけ! こっち来るぞっ!?」
異端審問官の捕り物などすっかり忘れ去ったかのように、燃え盛る危機を前に人々が一斉に動き出す。目指す先は城の正門。レキとウルスラを神の名の元に処刑すべく、審問官が剣を手にした不可侵の修羅場へ、馬と同じく本能的な恐慌状態にかられた人の波がどっと押し寄せた。
それは正に雪崩のような勢いでもって、神の味方も敵もなく、飲みこんで行った。
「ば、馬鹿なっ! ええい、どけ、どきなさい! まだ異教徒を殺っ――」
何事かを狂ったように叫ぶ女審問官の声も、恐怖にかられて逃げ惑う人々を前にして、あえなくかき消される。それは武器を構えた三角頭巾も同様で、突如として戦いの場に割り込んできた無数の人により、最早、攻撃するどころの騒ぎではなくなっていた。
「レキ、今なの!」
「イエーっス!」
行き交う人波をこれ幸いと、レキとウルスラは手と手を取り合い走り出す。この混乱の最中にあっては、いくら異端審問官といえども追撃などできようはずもない。
小さな二人は密度の高い人ごみの中で、半ばもみくちゃになりながらも、どうにかこうにか城内へ駆け込むことに成功する。
エントランスを抜けて、適当な通路へ入ると、そこで一旦、足を止めた。
「レキ、ウルスラ」
ひとまず、窮地を脱したことで「ふぅ」と一息つく二人へ、不意に声がかけられる。
「あ、ランドルフ村長」
「ヘイ、村長、何だか久しぶりデスね!」
現れたランドルフは、人の好い笑みを浮かべて、まずは二人に挨拶をした。
「とりあえず、二人とも無事で何よりです。しかし、すぐに騒ぎは収まり、異端審問官は捜索を始めるでしょう。今の内に、お逃げなさい」
言われなくともそうするつもり、ではあったが、他ならぬランドルフにそう言われるとは思わなかった。
「裏手に馬が用意してあります。確か、レキは乗馬できましたね?」
「オウ! センキュー!」
「……どうして、そこまでしてくれるの」
素直に喜ぶレキとは対照的に、ウルスラはいっそ不信感とでもいう色を、微笑むランドルフに向けた。
「義理と人情、両方ですよ。二人とも、村のために命がけで戦ってくれました。その恩義に報いるのは、長として当然のこと」
「でも、普通はそれだけのために、こんなことはできないの」
「ウルスラは気づいていましたか。流石ですね、君は実に賢い」
確信できたのは、ランドルフが姿を現したこの時になってから、である。
突如として馬車が燃えたのは、単なる偶然の事故などではない。明らかに人の手による、放火であった。
「ランドルフ村長は昔、ギャングのボスで、焼き打ちの名人だったって、聞いたことがあるの」
「お恥ずかしい、本当に昔の話ですよ。久しぶりにやったので、すっかり加減を間違えてしまって……まさか、あんなに勢いよく燃えるとは予想外でした」
たはは、と困ったような愛想笑いを浮かべるランドルフは、普段と全く変わらぬ様子。どこか頼りない風貌の、どこにでもいる普通の中年男だ。
ウルスラもかつて、ランドルフの過去について話していたニコライ司祭と前村長との会話を盗み聞いたことで知っていたが、本当のことであったとは、今の今まで信じられなかった。
「もう足を洗ってから随分と経ちますが、それでも、私は所詮、義理だ人情だ任侠だ、なんてくだらないプライドに命を賭ける馬鹿なギャング風情のまま。そんな私にとって、二人の働きぶりは、命を賭けてでも返すに値する恩義だと思っているのです……まぁ、子供を戦わせてしまったのですから、とても、こんな程度で返し切れるとは言えませんがね」
「ノン、お蔭で助かったデス!」
「うん、でも……私達を庇って、村は大丈夫、なの?」
「はっはっは、流石にバレるほど腕は鈍ってはいませんよ。本当は、クロエ様と同じように匿ってやれれば最善なのですが……村を失った今の私達では、とても無理な話。申し訳ありませんが、二人には逃げてもらうより他はありません」
真に村にとって最善なのは、二人を異端審問官に突き出すことであろう。異教徒を逃がした容疑をかけられれば、まず間違いなく村にとって良いことにはならない。
こうして多大なリスクを冒してでも助けてくれたランドルフには、恨み言など一つもぶつける気はなかった。
「どうせ最初から、クロエ様を追いかけるつもりだったから、ノープロブレム、デス!」
「えっ?」
考えなかったワケではないが、あまりにもレキが当然のように言い放ち、ウルスラはかえって不安になる。なぜなら、その可能性は自分の無力を理由に、意図的に考えないようにしていたから。
もし、もう一度クロエと出会った時、彼は笑顔で受け入れてくれるのだろうか。確信が持てない。拒絶されることが、何よりも恐ろしかった。
「レキはクロエ様のこと、諦めてないデスよ! 逃げられたら、どこまででも追いかけてみせマース!」
「で、でも……」
「それに、逃げ場なんてクロエ様の行った先、魔族の国しかないのデス」
ここはシンクレア共和国の領土、つまり、異端審問官の目が届く一番端っこにあるアルザスの地。ここから、たった山一つ越えるだけで、逃亡は完了するのである。
狡猾な盗賊が国境付近に陣取っているのと同じように、それは単純にして有効な方法であることは紛れもない事実だ。
「いざ、ゴー、イースト!」
「スパーダは西側ですよ。ああ、そうだレキ、君には一つ話しておこう。蘇った理由について」
それに興味を惹かれたのは、当のレキ本人よりも、むしろウルスラであろう。レキ自身は全く、自分が死んでいたことを知らないのだから。
「ニコライ司祭とは古い付き合いがあってね、レキを引き取った時、こんな話を彼から聞かされた。君が、バルバドス王族の血を引いているかもしれない、と」
「……王族、デス?」
イマイチ、ピンと来てない顔のレキ。だが、構わずランドルフは話を続けた。
「あくまで可能性、根も葉もない噂にすぎないと、私もニコライ司祭も思っていたが……君が蘇ったことで、確信したよ。白の勇者アベルに討たれたバルバドスの蛮王ベオウルフは、何度力尽きても蘇り、戦い続けたという伝説は有名だ。確か、狼の姿をした不死の霊獣をその身に宿している、という話だが、きっと、レキにも同じような力があるのだろう」
「うぅーん、全然分かんないデース」
さらにピンと来てない理解不能顔のレキだが、隣のウルスラはどこか納得のいった表情であった。
「レキには死の縁に遭っても蘇ることのできる、強い力があるということです。勿論、次もまた蘇れるかどうかは分かりません、くれぐれも、お体には気を付けて」
「イエス! もう不覚はとらないデスよ! メイビー!」
「さぁ、もう行きなさい。この通路の突き当りを右に向かえば、すぐ裏手へ出られます」
聞きながら、ウルスラは脳裏にここ数日で歩きなれた城の内部構造を思い出す。ランドルフの言う通り、そこを曲がれば裏に出る扉がある。そして、今も戦後の片付けが続けられていることから、西側の門も開け放たれていることも。
馬に乗れば、あとはもう真っ直ぐ飛び出していけるだろう。二人を止められるモノは、もう、何もなかった。
「今まで、ありがとうございました、ランドルフ村長」
「ありがと、デス!」
「いえ、こちらこそ。旅立つ二人に、神のご加護が――いえ、それはもう、必要ありませんね。君達二人なら、きっと、自分の力で望みを叶えられるはずですから」
そうして、レキとウルスラは再び手を繋いで、仲良く一歩を踏み出す。
「行こう、レキ。クロエ様の元へ」
「イエス! 今度こそ、どこまでも一緒についていくのデーっス!!」
バルバドス、イヴラーム、異教徒、二等神民……何のしがらみのない、広く、自由な世界へ向かって、二人の少女は旅立っていった
これにて、第26章は完結です。
さて、次章は待望のリリィとフィオナによる修羅場となりますが・・・先に断わっておくと、あと二話ほどお待ちいただくことになります。申し訳ありませんが、他にいれられるタイミングのない話でしたので。今週の金曜と、月曜もまた更新しますので、本番は来週の金曜となる予定です。
それでは、黒の魔王、始まって以来の最大の修羅場が、ついにクロノに襲い掛かる第27章を、お楽しみに!