第507話 ガラハドの悪夢
ガラハド要塞と比べれば見劣りするものの、それでもアルザス要塞は一個の城としては相当な規模であることが窺える。ガラハド戦争においては、ダイダロスの戦奴も含めれば十万近い大軍勢だった。それを集結させる拠点なのだから、この大きさも当然だろうか。少なくとも、本丸はイスキア古城より二回り以上は大きなものだと、遠目から見ても分かった。
城も塔も、質実剛健を追求した無骨なスパーダ様式とは随分と違ってみる。特に、高い防御塔にある四角錐型の屋根なんかは特徴的だ。教会の尖塔とどこか似ている。シンクレア伝統の建築様式なのだろうか。
もっとも、多少なりともデザイン性があっても全体的には堅牢な石造りであることに変わりはない。灰色の巨大な建築物に平時には無機質で冷たい印象を村人なら抱くかもしれないが、今は安全を保障してくれる頼もしさがあるだろう。俺としても、この要塞ならグラトニーオクトを迎え撃つには十分だという期待が持てる。
ただ、心のもう半分では、ある意味で思い出の場所へ再びやって来たことで、複雑な感情を持て余す部分もあった。
「今度は水魔法一発で、橋を落とすのは無理そうだな」
要塞へ入るために橋を渡りながら、ヘルムの内側で独り言を漏らす。ピッタリとすぐ傍に寄り添って歩くウルスラにも聞こえないように。
アルザス村は東西を川で挟まれた中州のような地形。だからこそ俺はここを、十字軍を迎え撃つ防衛線に選んだわけだ。そして、いくら村の面影が皆無となり、代わりに要塞が建てられたとしても、当然、地形そのものは変わらない。
聞くところによれば、要塞へ入るためのルートはアルザス村と同じく東西にかけられた橋のみ。ダイダロス側から入る一本と、スパーダ側へ出る一本だ。
橋のかかる場所は同じでも、その大きさと造りには雲泥の差がある。かつて間抜けな重騎士を一網打尽にした貧弱な木造橋は、今は積載量満載の竜車が列を成して通ってもビクともしないような、しっかりとした石造りへと変わっている。しかも二車線。
そんな大きな橋を越えた先に出迎えてくれるのは、来るものを拒絶する意志を感じさせるほどの、高く分厚い門と城壁だ。
ああ、こんな石と鉄でガチガチに固められた壁があれば、アルザス防衛戦も楽勝だっただろうと、俺としては思わずにはいられない。急造の木柵と有刺鉄線で必死に守っていたあの時が、酷く懐かしく感じる。
「本当にもう、何の面影もないな……」
村人と共に、そのまま開け放たれた門より入城すれば、そこには俺の記憶にある村の景色と何ら一致しない、無骨な要塞の広場があるのみ。ここだけ見れば、俺はこの場所がアルザスだとは絶対に分からないだろう。
川と橋の位置から察するに、俺達の砦となっていたアルザス村冒険者ギルドの跡地は……あの辺だろうか。今は城壁と繋がる太く大きな防御塔が建っている。
やめよう。アルザス村の面影を探すのは、あまりに不毛な行いだ。
湧き上がる感傷的な念を押し殺す代わりに、俺は要塞の造りを冷静に分析することにした。
アルザス要塞は、規模こそ大きいものの、構成としては本丸のみとなっている。内城と、川に沿って建てられた城壁があるだけ。城壁はほぼアルザス村の跡地全てを囲い込み、両サイドの川はそのまま天然の水堀として利用している造りだ。
それでもアルザスが陥落してから、ほんの二ヶ月か三ヶ月でここまでの要塞を造り上げるのは並大抵のことではない。城郭建築にも魔法が使われているとはいえ、驚異的なスピードである。長年の侵略戦争によって、シンクレアの拠点構築能力はかなりのレベルになっているのかもしれないな。
敵国が押し寄せてくると考えれば、二の丸、三の丸がないのはやや不安な防備ではあるものの、そもそもスパーダ側の方から侵攻されるというのは考慮外だろうから、やはり今の形で必要十分なのだろう。
もしも、スパーダがガラハド戦争に勝った勢いで、すぐダイダロス解放戦に踏み切るのだとしたら、まだ防備が固まり切っていない今の内に狙いたいところだ。
そういえば俺、防衛戦ばかりで敵の居城を攻める攻城戦ってのはまだ経験してないな。まぁ、いつかはやることになるだろうが、難攻不落の大要塞に真正面から挑まなければならない状況ってのは極力避けたいものである。
「おーい、クロエ殿はいるかーっ!」
観光客みたいに周囲をぼんやり眺めていると、俺の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
見れば、クリフが数名の部下を従えながら鎧をガチャガチャ鳴らしてやって来るところであった。
「どうした、クリフ」
「おお、クロエ殿、そこにおられたか」
そういえばこの男、補給基地の脱出を経験した後、俺に対してはかなり愛想よく、というより礼儀を尽くして接するようになった気がする。
クリフから見れば、俺とウルスラはどちらも命の恩人といえるだろう。俺達二人がいなければ、村人を連れての脱出は不可能だったと、第203補給基地の戦力から見て間違いない。
それでも、所詮は素顔を隠した胡散臭い冒険者風情の俺に気を使ってくれるというのは、騎士という平民以上貴族未満なクリフの立場を思うと、彼は真面目というか、仁義に厚いのだろう。まぁ、俺の正体を知ったら、流石に掌を返すだろうけど。
「到着早々で申し訳ないのだが、私と共に軍議に参加してもらえないだろうか」
「何故、俺が?」
「君は誰よりも多く、あの忌まわしきデビルフィッシュのモンスターを倒しているではないか。むしろ、君から話を聞かない方がおかしいだろう?」
要するに、モンスター情報を実際の戦闘経験も交えて報告しろってことか。
確かに、第203補給基地でタコ共と交戦した兵士はそれほど多くはない。10メートル級の奴を倒したのも、俺とウルスラの二人だけ。
流石に子供のウルスラに、十字軍のお偉いさんの前で報告しろってのは酷な話か。もっとも、頭の良い彼女なら俺よりも的確に情報を整理して見事なグラトニーオクト対策のプレゼンをしてくれるかもしれないが。
「それに、君にとっても悪い話ではないはずだが。直接、あの活躍ぶりを伝えれば、報奨金にも色がつく。無論、私もそれが事実であることを証言しよう」
金が欲しいわけではないのだが、俺が冒険者という建前を使っている以上、クリフとしては当たり前のメリットとして進めてくれている。善意、なんだろうな、これは。
しかしながら、俺にとって最も重要なのは正体を隠すこと。ここは適当に理由をつけて断っておくのが無難か。
それに、俺の報告なんぞなくても、対グラトニーオクトの準備は可能だろう。クリフだってすでに奴らが火に弱いことを知っているし、ついでに試練のモンスターであるあの超巨大なグラトニーオクトの存在も伝えてはある。
「悪いが、遠慮させてもらう。あまり素顔を晒したくはないんだ」
「それなら心配はいらない。すでに話は通してある。君がヘルムを被ったままでも、無礼を問うものはいないさ」
はっはっは、と爽やかに笑うクリフが怨めしい。ちくしょう、コイツめ、気を利かせて余計なことを……というか、それでOKを出す十字軍もどういう判断だよ。顔を隠した怪しい黒騎士なんて軍議に招くな。敵だったらどうする。敵だけど。
「それに、先の戦いの様子から、基地司令であらせられるヘルマン男爵閣下は君に興味を抱いているらしい。上手くいけば、かなりの好待遇での士官もあるかもしれないな」
マジかよ、もう目をつけられていたか。
ヘルマン男爵ってのは、大将のベルグント伯爵と交流の深い貴族で第三軍を率いる幹部の一人だということは、すでにサリエルの話から知っている。つまり、かの男爵はガラハドの戦場にいたということでもあるのだ。
まだ、正体がバレていないと思いたいが……くっ、この期に及んでは、もう直接会って話した方が良さそうだ。恐らく、ここで断っても次のお誘いがくるか、向こうから絡んでくるかもしれない。
そして何より、グラトニーオクトを倒すまではこのアルザス要塞からは出られない。要するに、逃げ場もないのだ。
「分かった、軍議に出よう。だが、その前に少し時間をくれ。ウルスラを妹に預けておきたい」
「了解した。準備もあるだろうから、そうだな、一時間後に指令室へと来てくれたまえ」
さて、とりあえず最悪の場合を想定して、行くとしよう。
悪夢だ。悪夢が黒い鎧を着て、目の前に立っている。
アルザス要塞でスパーダ軍の襲来に備える重要な防衛任務、といえば聞こえはいいが、実際は敗戦の責任を押し付けられただけの十字軍第三軍の副将が一人、ヘルマン男爵は心の中にドロドロと渦巻く不安と恐怖を押し殺して、必死に貴族としての威厳を保つしかめ面の仮面をかぶり続けていた。
(やはり、この男は……間違いない、入って来た瞬間、一目見ただけで分かった)
人知れず、年と共に肥えてしまった幅のある体が震え上がる。
つい一時間ほど前、この指令室へ現れたのは一人の男。彼の名はクロエ。十字軍が正式採用している重騎士の鎧兜一式を装着しているが、決して騎士ではないというのは一目瞭然である。
黒い。そう、黒いのだ。白き神の威光を現すような白銀に磨き上げられた重騎士の全身鎧が、夜闇のような漆黒に彩られている。あまりに悪趣味、いや、下手な信者なら不敬であると怒り狂うかもしれない。それほど、ありえないカラーリング。
もっとも、白だろうが黒だろうが虹色だろうが、モノは間違いなく重騎士鎧であることに違いはない。全身を隙間なく覆い尽くす鉄壁の守備。敵につけ入る隙を与えない銀と鋼とミスリルの合金装甲は、足の爪先から頭の天辺まで覆い隠している。
つまり、男の顔は分厚いヘルムの奥に隠れて、見えない。
だが、ヘルマンには分かった。この男が何者であるか。そして、フェイスガード一枚隔てた向こうにある、その恐ろしき悪魔の素顔を、ありありと脳内に描き出すことも。
「――うむ、よく分かった。未知のモンスターを相手に、よくぞこれほどの情報を集めてくれた。ご苦労であった、騎士クリフよ」
「ははっ、ありがとうございます、ヘルマン男爵閣下!」
この黒騎士クロエと重騎士部隊の小隊長であるクリフの両名による、『グラトニーオクト』というモンスターの戦闘報告は、すでに終わりを迎えようとしていた。
万に届くほどの大群であり、白い霧に紛れて空を飛び、中には十メートルを超える巨大な固体が複数いるという、俄かには信じがたい報告を。特に、話の最後に聞いた山のように大きな存在など、恐怖によって幻覚でも見たのだろうと一笑に付すべきような内容である。
だが、第201より西側の村々が全て消滅したという揺るがしがたい真実が、この恐ろしきモンスターの存在を証明していた。
ここに集った将校達には半信半疑の者もいるだろうが、少なくともヘルマンは報告内容をひとまずは信じることにしている。さしあたり、報告にあった火に弱いという点と、霧を払う風の結界の有効性、これらを考慮に入れて対応策を検討していくつもりだ。
もっとも、すっかり第三軍の兵も捌けた現在のアルザス要塞では、戦力も限られる。とても迎撃を楽観視できる状況ではない。
だがしかし、今のヘルマンにはより差し迫った危機がある。謎のモンスタータコよりもずっと恐ろしい、黒き悪夢が目の前に。
「では、もう下がってよい」
クリフが淀みない一礼と、退室を告げる口上を述べる。そして、彼の隣に立つクロエも、それとなく一礼してから、彼の後をついていくよう踵を返した。
そこで、ヘルマンは覚悟を決めた。三十年以上も前、妻を巡って実の弟と決闘をした時のような、一大決心である。
「待たれよ。クロエ殿には、もうしばしの間、残っていただきたい」
ピタリ、と黒騎士の歩みは止まる。ヘルマンの心臓も止まりそうであった。
次の瞬間、自分の胸元に漆黒の刃が突き刺さっているのではないかと。そして、その刃が大爆発して欠片も残らず爆散するのかと。
「なに、大したことではないのだ。多くの民と、そして我が兵の窮地を救ってくれたクロエ殿に、個人的に感謝を述べたく――」
あまりの緊張に、自分でもちょっと何を言ってるのか分からなくなりそうだ。
それでも、男爵という貴族の端くれとして、ヘルマンは事前に決めておいた台詞を淀みなく言い切る。さらには、クリフ以外に同席している将校、護衛の兵までにもすでに根回しを終えている。準備は万端。後はもう、一気に流れへ乗るのみ。
「――と、そういうワケなのだが、ああ、そうだな、他の者にも席を外してもらおう。悪いが皆、少しの間、よろしいか?」
「はっ! 閣下の仰せのままに!」
軍議に出席していた将校達は命令に従って当然というような顔で、ゾロゾロと速やかに退室していく。
あまりに不可解な人払いに、疑惑と困惑が半々といった表情を浮かべるクリフ。彼の反応は正しい。ついでに「あれ、何でだ、何かおかしいな」と思いはしても、口を挟まない対応も騎士として正しいだろう。
そうして、あれよあれよという間に、指令室には上座にどっかりと座るヘルマンと、扉の前で古の石像が如く直立不動で佇むクロエの二人だけが残された。
「……」
クロエからは言葉がない。だが、無言の圧力で押しつぶされそうな感覚。戦場でも、かつて二度だけ招かれたことのあるシンクレア宮廷でも、これほどの息苦しさを覚えたことはない。
それも仕方がない。ヘルマンは今、裸で餓えたドラゴンの前に立っているような状況なのだ。彼の気分次第で、己の命は容易く散らされる。
一軍の将にあってはならない状況、ありえない状況。それでも、自分の命を彼の掌に乗せることが、自分のみならず率いる兵達にとっての最善であると、今でも信じている。
「誤解がないよう、これだけは先に言っておく。我々は君に危害を加えない。決して敵対しない。また、君がどこへ姿を消そうとも、探しはしない」
「……何のことだ」
返ってきたのが黒き炎を秘めた刃ではなく、人間の言葉であったことに、ヘルマンは胸を撫で下ろす。
「私は、君の正体を知っている。だが、それを知った上で言っている」
「どういうつもりだ」
クロエの返答は冷たくそっけないが、十分である。ひとまず、こちらの言い分を聞いてくれるという姿勢がみられるのだから。
「私は死にたくない。私の兵も、死なせたくない。そして、君も死にたくはない……いや、君ならば死なないだろうが、それでも、出来る限り面倒事は避けたい。違うかね?」
「モンスターの大群が迫る状況下で、余計な争いはしたくはないからか」
「話が早くて、助かるよ」
心の底から、そう思う。
正直、ヘルマンは魔族、ひいてはスパーダ人というのがどういう人種であるのかを全く知らない。その文化、価値観、というものがおおよそでも分かっていないと、人は話し合いという交渉のテーブルにつくことも難しい。
幸い、クロエの短い受け答えだけで、彼がシンクレア人からみても何らおかしなところはない、真っ当な思考と価値観のある人物であることが窺えた。
「私は君と協力して、事に当たりたいと思っている。表向きは、君を冒険者として扱おう。君の正体は知らぬ存ぜぬ、もし、兵に心当たりのある者がいたとしても、私が言わせない」
「……お前は、十字軍を裏切るつもりか?」
「我々は敗けた、裏切ったのは神の方ではないか!」
わざわざ二度の神託まで下してパンドラ侵略を始めたというのに、結果はこの有様。神様にケチの一つでもつけたくなるのは当然だろう。まして、自分のように信仰心よりも領地の利益を考える貴族ならば。
「勝手に戦争を仕掛けておいて、負ければそれか」
失言だったと、すぐに気づく。いや、迂闊な発言に気づかなくとも、この男から俄かに発せられる、すでに殺気の領域に達する怒りの気配を、感じ取れぬ鈍感な者はいないだろう。
「待て、待ってくれ! 私にはもう、スパーダと戦うつもりはない! 私の望みは、このまま無事に我が領地へ、率いた兵と共に帰ることだけなのだ!」
敵国の人間を相手に、戦争の是非を論じるのは無意味であろう。特に、相手に自分の命を握られている状況で、戦いの正当性を訴えることなど自殺行為に等しい。
「我がヘルマン男爵家は、パンドラ遠征から手を引く。私はベルグント伯爵亡き後、今回の敗戦の責任を押し付けられている。十字軍に尽くす義理は、もう何もないのだ」
今の立場に対する恨み事は、言い出せばキリがない。本当に、とんでもない貧乏くじを引かされた気分。
それもこれも、ベルグント伯爵が暴走しなければ――しかし、その根本的な原因となったのは、思えば、この目の前の男が、彼の愛娘を手にかけたことから始まる。
たとえそれを言ったとしても、クロエから「先に戦争を仕掛けたそっちが悪い」と至極真っ当な反論を受けて終わるだろうが。
「我々はこんなところで死ぬのは御免だ。モンスターに殺されるのも、君に殺されるのも。故に、協力するのだ。十字軍への義理も、神への信仰も、命には代えられないのだから」
ほとんど本心である。
貴族としては、交渉の場で本心からの意見をするなど下策であるが、相手は駆け引きや搦め手が通じるかどうか怪しい魔族の男だ。こうした場合、結局は人間として正直に話をするのが最善策となる。
「お願いだ、我々に力を貸してもらえないだろうか!」
「とても信用はできないな」
それはそうだろう。彼からすれば、自分達は憎き侵略者である。
モンスターに襲われてピンチだから助けてくれ、などと言っても、聞く耳を持つ方がおかしい。そもそも、彼がこうして村人の避難を手伝った理由さえ不明だ。
「信用する必要はないだろう。君はその気になればいつでも私を殺せるし、この砦にいる将兵を惨殺した上で悠々と逃亡することも不可能ではないのだから」
互いの力関係は明白。故に、彼が疑う必要性はない。
気に入らなければ殺す。その、人間には決して許されない純粋なまでに暴力的な意思を貫けるだけの力が、この男には備わっているのだ。
「……いいだろう。俺も無用な争いは避けたい」
「ありがとう、助かるよ」
クロエが協力を明言してくれたことで、ヘルマンは一気に肩の荷が下りた気分となった。これでひとまずは、いきなり殺されることはないだろう。
「ただし、幾つか条件がある」
「何でも言ってくれ。君の意に沿えるよう、努力はしよう」
「戦いの中で、俺の邪魔はするな」
全軍の指揮権を寄越せ、なんて言われたらどうしようと不安であったが、条件ともいえないような内容に、少しばかり肩透かしを食らった気分だ。
「勿論だとも。必要なら、援護も惜しまんよ」
「次に、軍議には俺も参加する。適当な作戦を立てられたら、困るからな」
「分かった、君の席を用意しておこう」
現状、このグラトニーオクトなるモンスターに詳しく、戦闘経験が豊富なのはクロエに違いない。彼の意見はこちらとしても求めたいところでもあった。
「この戦いが終わったら、俺達を見逃せ」
「いいだろう。君がスパーダに帰ろうが、ダイダロスへ潜入しようが、我々は一切干渉しない」
勝手にいなくなってくれた方が、こちらとしても願ったり叶ったりである。
裏切るつもりはないし、その必要性もない。首尾よくグラトニーオクトを討ち果たしたとしても、こちらにはそれなりの損害が出ているだろう。そんな状態で逃げたクロエに追っ手をかけようものなら、全滅は当然として、下手すると怒りをかってこの要塞まで復讐に戻ってきかねない。
ここでクロエを逃がしたことで、将来、どれほど十字軍に被害がでようとも、それはもう自分には関わりのないことだ。やりたいヤツは、好きにこの大陸で戦争を続けていればいい。
「まってくれ、今、俺達、と言ったようだが?」
「ああ、連れが一人いる」
「まさか、その連れというのは……」
「余計な詮索はするな」
「はいいっ!? 申し訳ありませんでしたっ!」
連れ、という人物に物凄く心当たりがあるのだが、どうやらこれは触れてはいけない部分であったらしい。子供の頃、本当に藪を突いたら毒蛇が飛び出してきた経験のあるヘルマンからすると、このテの危機回避は最優先である。
クロエの連れの正体が、十字教を象徴する聖人……そう、例えば『使徒』なんかであったとしても、今の自分には、何の関係もない。もし本物の聖人ならば、自分達の命を救うために、喜んでその身を悪魔に捧げてくださいよ、という思いさえある。
「と、ともかく……君の連れについても、同様に箝口令を敷いておこう」
「それでいい。こっちも、できるだけ顔は隠しておく」
そう、こちらは何も知らない。ガラハド最後の戦いで、降臨した第七使徒サリエルが、一人の悪魔と決闘の末に行方不明となった、という多数の目撃証言だけしかない噂など、根も葉もない作り話に決まっている。
「他には、何かあるかね? 望むなら、冒険者のクエストの適正価格以上の報酬は用意するし、武器や装備が欲しければ、ここにあるものなら好きに使ってくれていい。協力は惜しまんよ」
少なくとも、このアルザス要塞にはクロエよりも強い者は存在しないと言い切れる。自分の騎士は決して弱兵ではないが、飛び抜けて強い力や特殊能力を持つ者はいない。
かつては超人的な力を誇る騎士を持つのが夢だったりもしたが、皮肉にもクロエはその理想に近い。ピンチの時でも頼れる、切り札となりうる存在。
そんな彼に装備の面でも惜しみない支援をするのは当然の選択でもあった。決してご機嫌とりだけではない。
「そうか、なら、それで十分だ。あと、最後に一つだけ」
どうか、無茶ぶりされませんように、とヘルマンは神に祈りながら、クロエの言葉を聞き届けた。
「空飛ぶ山のようにデカいグラトニーオクト。アレは、俺が仕留める」
こうして、クロエとの協力関係は双方の合意を得て無事に成立することと相成った。
異様な気配を発する黒騎士が退出していった後、ヘルマンは深い溜息をつく。九死に一生を得た気分。
「やはり、とんでもない狂戦士だな、アレは……」
そう、あの男は孤立した戦場の只中で、たった一人で敵陣に斬り込み、ベルグント伯爵の娘、リィンフェルトを捕えてみせた。
さらに、伯爵亡き後、撤退戦へと移行した中で、十字軍を助けるべく降臨なされた第七使徒サリエル。十字教が誇る最強の人間を相手に、彼は真っ向から切り結んで戦い始めた。
その戦いの顛末は、撤退するヘルマンは最後まで見届けること叶わなかったが、彼がこうして目の前に現れたことから、理解せざるをえない。
この男は、使徒を倒したのだと。
「ああ、どうしてワシがこんな目に……早く、帰りたい……おうち帰る……」
そしてさらに、今度はモンスターの大ボスは俺の獲物だとわざわざ宣言する始末。戦に飢えた戦闘狂と言うより他はない。
そんな恐ろしい男を懐へ抱え込むことになったヘルマンは、ただただ己の不幸な境遇を嘆くのみ。
正に悪夢。十字軍が、此度の戦で名付けたあの男の仇名――『ガラハドの悪夢』その通りであると、ヘルマンは固く冷たい机に突っ伏しながら、心底そう思うのだった。