第505話 浮かぶ人喰い山
「レキぃーっ!!」
彼女の名を叫びながら、俺は霧の中を追う。
だがしかし、一歩、二歩、三歩も進めば、立ちはだかる固い門へとぶち当たる。当然だ、ついさっき、俺が自分で閉めたのだから。
「くそっ、どこだ、どこに行った! レキ!!」
周囲を見渡すが、そこにはただ白い霧が広がっているだけで何も見えはしない。ついでに、俺の鋭い第六感も、何の反応も示さない。
気配を感じない。敵はもう、近くにいない。
逃げられたのだ。まんまとレキを捕えられ、そのまま、奴は逃げおおせたのだ。
「ちくしょう……」
どこだ、レキを刺した奴は、どこへ消えたんだ。壁を伝って村の中へ逃げ込んだのか、それとも、空を飛んで行ったのか。
早く助けなければ。今なら、まだ間に合う。
そう思うものの、姿も気配もまるで捉えられず、探す手がかりは皆無。体は自由で、まだまだ戦う力も残っているのに、これでは、全く身動きが取れない。動きようがない。
何もできない自分。刻一刻と過ぎ去ってゆく時間。静まり返った白い闇。怒りと焦りがないまぜになって、どうしようもないほど頭が混乱する。
「レキ……嘘だろ……こんな、ところで……」
いいや、駄目だ、諦めるな。諦められるはずがないだろう。
敵がいないなら、探そう。今すぐ、門を開いてもう一度、村の中へ戻る。もしかすれば、レキはそこにいて、まだ、無事かもしれない。
脳裏に浮かぶのは、倒れた者に我先にと殺到するタコ共の姿。奴らは捕えた獲物が弱るのを悠長に待つような真似はしない。見つけた端から喰らう。手が届くモノから喰らう。
胸部を貫かれたレキ。たとえ彼女が拘束を脱したとしても、群がるタコ共にどれだけ抵抗できるのか――やめろ。今は、行動するしかない。
そうして、俺はかけられたカンヌキを外す時間さえ惜しみ、そのまま『憤怒の拳』でブッ飛ばそうと拳を振り上げた、その時だ。あまり冷静ではない今の俺でも、思わず手を止めるほどの異変が起こる。
「何だっ、霧が……消えていく」
強い風が吹いた、と思った次の瞬間、周囲を包み込む白い霧は一斉に上空へと流れて行く。まるで天井に備え付けられた強力な換気扇に煙が吸い込まれていくような勢いで、その流れがはっきり目に見えるほど。
一体、何が起こったのかと考える間もなく、霧はあっという間に薄まってゆき、ついには完全に視界が晴れ上がる。
目の前には閉ざされた開拓村の門と石壁があるし、左右には雪解けで土がまだらになって見える畑が広がっている。そしてそこには、気色の悪い緑色をしたタコの姿は一体も見当たらない。勿論、傷ついたレキもいない。
まるで、霧と共に姿を消し、一時の悪夢であったかのような錯覚を覚える。
だが、そんな俺の感想を否定するかのように、赤い光――そう、試練のモンスターを示すあの光が、今までに見たことがないほど眩しく左目に瞬いた。
まるで、空一面が煉獄のように赤く染まってしまったかのような光り方。あまりの異常に、咄嗟に視線を上へ向ける。
「なっ、あ、アレは……」
最初は、大きな雲だと思っていた。それは、陽の光る青空に浮かんでいても、何らおかしくない、文字通りの自然である。
だがしかし、その入道雲のように大きな塊となっているその雲は、不自然と言わざるを得ない。一見するだけなら見逃してしまいそうだが、もう少しだけ風景を眺めていれば、そのあまりのおかしさに誰でも気づくだろう。
雲の位置が、あまりに低いのだ。
目測となるが、おおよそ教会の尖塔から百メートルそこそこの低空にあると思われる。まるで村を覆い隠すように、いや、自ら村に向かって落ちていっているかのような低さ。
そして、それが比喩ではなく事実として、雲が自らの意志をもって『動いて』いるのだと、呆然と空を見上げてからすぐに気づかされた。
「デカい……いや、デカすぎだろ……」
大きい。そんな人間の言葉が、まるで意味を成さないほどに、それは巨大であった。
雲全体が不自然に揺れた、と認識した次の瞬間に、ソレは現れる――触手。超巨大な、触手である。
この短い間でもう見飽きたというほど戦ったタコと全く同じ、緑色の足。しかし、その縮尺がおかしい。いっそ自分の目の方が狂っているのだと思いたいほど。
だが、もし本当に俺の目が確かならば、そのタコ足は100メートルを遥かに超えているように見える。あの10メートル級の触手でさえ比べものにならない大きさ、太さ、長さ。
気が付けば、顔に影がかかっている。
真っ白い雲の塊から伸びる、合わせて八本のタコ足は天を覆い尽くさんばかりに目いっぱいに広げられている。文字通り、山のような巨体が、空に登る太陽を本物の雲の代わりに遮ったのだ。
ああ、そうか。コイツが、コイツこそが真に倒すべき試練のモンスターである『グラトニーオクト』なんだ。
「……ヤバい」
その体長、実に1キロメートルを超える巨大さを誇るタコのモンスターがいるというよりも、島が浮かんでいる、と言った方がまだ信じてもらえるような、馬鹿げた存在を前にして、ただただ呆然とし続けられるほど、俺は鈍くはない。
背筋に走る悪寒が止まらない。どうしようもないほどの危機が迫る予感に、鼓動が一つ高鳴る。
逃げるために自然と一歩を踏み出しかけるが、まだ、駆け出せなかった。
「レキ……」
ここで逃げていいのか。
まだ、彼女を助けられる見込みは――
「……くそっ、すまない……レキ……」
もうダメだ。この状況下では、もう俺にはどうあがいても彼女を助けることができない。
未練がましくレキを探し続ければ、俺もこの場で死ぬ。
命は惜しい。何より、まだ守らなければならない人が大勢いる。もう一度会わなければならない仲間が、待っている。
だから、もう、諦めるしかない。
「――っ!?」
ボォオオオ、と重低音の管楽器に似た異様な轟音が響きわたる。そのあまりの音量に、俺はすでに兜を被っていることを忘れて反射的に耳を覆う動作をしてしまった。
これはいよいよマズい。
覚悟と危機感によって、俺は村から少しでも遠くへ離れるよう街道を一目散に駆け出した。
上空から地上を押しつぶすように発せられるこの音は、あのグラトニーオクトが発する鳴き声なのだろう。不気味なほどに生物的ではない低音が鳴り響く中、俺は振り返らずに走り続ける。
しかし、百メートルを駆け抜ける僅か数秒の間に、体にかかる抵抗が急に大きくなった。
「くっ、向かい風……いや、引き込まれているのかっ!?」
誰も逃がさないとばかりに、強烈な風が進行方向から吹き付ける。ただ運悪く強い向かい風が吹いたワケではなく、どうやらこの風は頭上のデカいヤツが起こしているのだとすぐに察した。
思わずチラリと振り返り見れば、そこにはすでに、巨大な竜巻が発生している。
村の中心部に狙いを定めるように浮遊するグラトニーオクト。竜巻は家屋を丸ごと飲みこめそうな超巨大な口があるだろう本体の中心で巻き起こっている。
吸い込んでいるのだろう。
見れば、グラトニーオクトのまとう雲も、渦を巻くようにうなり始めた。
ただ風に煽られたわけでもなければ、目の錯覚でもないことは、加速度的に渦巻く速度が上昇していくことから明らか。まるで、今から台風が形成されていくかのように。
十秒、二十秒――恐らく、一分もしない内に、それは口元の竜巻と合体し、村の全てを覆うほどの巨大な嵐と化した。
「くそ、 魔手っ!!」
門から数百メートルは離れた位置に立つ俺の体にも、いよいよ強烈な風が吹き付ける。もう、とても走っていられないほどの強風に煽られ、せめて吹っ飛ばされないよう『魔手』で体を固定するくらいが俺にできる抵抗の全て。
手足と胴体に二重三重に黒い鎖を巻きつかせ、先端は鋭い鉤爪に、いや、太い錨型にして地面に打ち付けた。『地中潜行』も併用すれば、放った錨をかなりの深さまで潜らせるのは容易い。
それでも、巨人の掌で掴まれているかのような風圧に、鎖で縛った俺の体がギシギシと悲鳴を上げる。
「ぐっ、うぉおおおお……」
周囲に生える細い樹木はあっけなくバキリと折れ、グラトニーオクトの竜巻に向かって吸い込まれていく。一体、どれほどの風速がここに吹き荒れているのだろうか。
いや、少し離れているだけ、ここはまだマシな方か。
村では天災と呼ぶべき巨大な竜巻に飲み込まれ、崩れた村の家屋が見えた。半分だけの赤い三角屋根、馬車の荷車、根から引き抜かれた木。様々なものが目まぐるしく周りながら飛んでいるのが視界に映る。
教会の尖塔にとりつけられた神の十字もまた、魔族とモンスターが支配するパンドラ大陸においては無力であることを知らしめるように、儚く竜巻の上昇気流に巻き込まれていく――
「村が消滅するって、こういうことか」
村にいる人を襲う。財貨を、家畜を、畑の作物を、奪う。人間に、あるいはモンスターの襲撃にあった場合、おおよそこんな被害となる。
どんなに最悪の場合でも、人も家も田畑も焼き払われる、といったところ。後には何も残らない、というのはあくまで価値あるものがない、という表現に過ぎず、どう焼かれたところで灰なり残骸なりは必ず残る。
しかし、俺は今まさに、全く何も、物理的にあらゆる存在を残さないという、空前絶後の被害結果を目の当たりした。
巻き上げられる家屋や木々。恐らく、その中には間違いなく村人達も含まれているだろう。そしてそれらは全て、無間地獄の如き大口へと吸い込まれ、文字通り、後に何も残さず、喰らい尽くす。
それは正に、圧倒的にして、究極の暴食――
「……」
気が付けば、あれほど荒れ狂っていた風は収まり、俺は無人の野を見ていた。
つい先ほどまで、そこに一つの村が存在していたとは到底思えない。跡形もない、といいうよりも、そこには最初から何もなかった、というほどが相応しいほど。
ただ、荒れた地面だけが虚しく広がっていた。
しかし、俺が決して夢幻を見ていたのではないということは、いまだに上空に浮かび続ける、不自然な雲の塊が証明している。村の吸収、捕食というべきか、それを終えたから体に纏う雲も元通りになったといったところだろうか。
城壁にも匹敵するサイズのタコ足を、再び分厚い雲の層に隠しているものの、すでにその正体を知ってしまった今では、決して本物の雲であると見違えることはない。
もっとも、無力な俺には、それが自然の雲であろうとモンスターであろうと、結局はただ、呆然と見上げることしかできない。本物の雲に戻ったかのように、フヨフヨとそのまま上昇を始めて、静かに空を覆う雲の彼方へ去って行くまで、俺は何もできず見送ることしかできなかった。
こうして、第203開拓村補給基地は完全消滅し、そして……レキが、死んだ。
第202と第203、両村の避難民は日暮れ前に第204開拓村へと無事に到着した。
グラトニーオクトが雲の彼方に消えてからは、霧も発生せず無数のタコ共が襲い掛かってくることもなかった。道行は順調。しかし、人々の顔にはどうしようもない不安と絶望に彩られている。
きっと、今の俺も彼らと同じ顔色をしていることだろう。
「すまない、ウルスラ……レキを、助けることができなかった」
俺がこうハッキリと言えたのは、第204開拓村に辿り着き、一晩野営する準備も終えた頃になってからだ。ようやく落ち着いて話ができる状況になったというべきか。
心情的には休みなく進みたいところだが、普通の人間にそれはできない。まして、精強な騎士団ではなく女子供を含めた避難民。一定の休息は必要不可欠である。
そうして設営されたテントの中で、俺は正面にウルスラ、隣にサリエルをそれぞれ座らせて、この絶望的な報告を伝えることになった。
人目のない今は俺も流石に鎧兜は脱ぎ、ウルスラとサリエルの二人も修道服から寝間着へと着替えている。
「そう、やっぱり、そうだったの……」
ウルスラの表情に大きな変化はない。泣き叫ぶこともなければ、怒り心頭で俺を罵倒することもない。
きっと、すでに彼女も予想はできていたのだろう。道中で合流を果たした時に、俺一人だけでレキの姿はないのだから。嫌でも、想像せざるをえない。
けど、だからといって平気なはずがない。いつものボンヤリした無表情のウルスラだが、彼女の青い目が動揺で揺れているのが分かる。もしかすれば、まだ理解できていないのかもしれない。死んだところを目撃してはいないし、死体だってないのだ。
現に俺だって、あのあまりにあっけない最期に、レキが死んだという実感が湧かない。今にも、テントの入り口から「ヘーイ!」と言って飛び込んできそうな気がする。
「……どうして」
「不意打ちだった。俺が気づいた時には、もう、霧に紛れて見失ってしまった」
嘘はつかない。言い訳はしない。ウルスラは共に戦った仲間だから、真実を知る権利がある。まだ子供、だが、都合のいい嘘で誤魔化せるほど、幼くはない。
「全て、俺のせいだ。村を脱して油断していた。想定が甘かった。不意打ちに長けた奴がいると、考えもしなかった」
振り返ってみれば、後悔ばかりが思い浮かぶ。
「レキの強さに、頼り切ってしまっていた……本当は、俺が守らなければいけなかったのに……」
それが、最大の油断だっただろう。
正直、レキが助けに入ったあの時、俺は本気で「助かった」と思った。彼女を守るべき子供としてではなく、真っ当に戦力の一人として疑いようもなく勘定してしまったのだ。
危ないだろう、どうして戻ってきた。そう怒る気は毛頭なかった。事実、レキが無理を押して来てくれたお蔭で、ウルスラはギリギリで助かった。
あの状況下は正しく、レキかウルスラ、どちらか一方の死は避けられない運命の分岐点だったのだろう。
ああ、そして俺はまたしても、己の無力を嘆くことになるわけだ。
ちくしょう。使徒だって倒したはずなのに……俺はまだ、女の子一人を守り切れないほど、弱いままなのか。
「……ごめんなさい」
「どうして、ウルスラが謝る」
「レキが戻ってきたのは、私のせい、だから」
「いや、レキがウルスラを守るために戻ってきたのは、自分の意志だ」
「違う! 違うの……そうじゃないの……」
ウルスラの目が不安に揺れる。無表情の仮面にヒビがはいったように、彼女の顔色に変化が訪れた。
「私なの……私の、せいなの……レキが無茶するくらい、追い詰めたのは……私、なの……」
ウルスラが何のことを言っているのか、俺には一瞬、分からなかった。けれど、すぐに思い出す。三角関係。
違う、そんなことない。そう否定する暇もなく、ウルスラはとうとう、青い目から大粒の涙を零れさせた。
「レキと、喧嘩していたの」
「ウルスラ、今はいい。無理して、話さなくてもいいんだ」
「ううん、いいの……お願い、クロエ様。私の懺悔を、聞いて欲しい――」