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黒の魔王  作者: 菱影代理
第26章:暴食の嵐
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第501話 補給基地戦線

「――急げ! どんどん霧が濃くなってきているぞ!」

「よし、みんな揃ってるな! 第一隊出発だぁー!」

 薄らと白い霧に覆われつつある第203開拓村は、慌ただしく人々が行き交う騒然とした朝となった。

 一日の始まりを告げる、教会の鐘もまだ鳴ってはいない。村人でも早起きな者しか目覚めてはいないし、子供たちはまだまだ夢の中にいるべき時間帯。

 しかし、恐ろしいモンスター軍団の襲来を知らせる霧を前に、誰も彼も眠気が吹き飛び、迅速に行動を開始する。そう、ただ生き残るために、逃げるのだ。

「いいか、俺らはこのチンケな基地を守る義理はねぇ! もうちょいすればウチの奴らは全員村を出始めるから、遅れずついて来い!」

 ライアンは完全武装で集まった自警団員を前によく通る大声で作戦を通達している。

 この村を襲う者がいるならば、人にせよモンスターにせよ、守る役目はここの騎士達にある。半ば自動的に、補給基地に駐留する十字軍部隊が敵を足止めする殿の役目を負うのだ。

 ただ、兵士以外の第203開拓村の村人が、俺達と共にアルザス要塞に向けて避難するのかどうかは分からない。本当に全員が逃げ出すほどの大事であるのかどうか、判断がつきかねているのだろう。

 なまじ、半端に兵士の数が揃っているから、尚更に「撃退できるんじゃないか」という意見に傾くかもしれない。

 なんにせよ、俺達が逃げる邪魔をしないのであればいい。逃げるのなら共に逃げ出せばいいし、残るなら好きにすればいい。わざわざ彼らに避難を呼びかけるほど、俺はシンクレア人に肩入れしてはいない。

「ユーリ、いざという時は、頼んだぞ」

「はい、兄さん」

 俺は最後に出発する馬車の荷台へ、風のレイピア装備のサリエルを乗せて、そう言い付けておく。

 荷台には村人たちが持ち出してきた最低限の荷物が詰め込まれ、空いたスペースに小さな子供や赤子を抱えた母親が優先的に乗せられている。その中には、俺とサリエルが生誕の儀式を行ったテッドの愛娘エヴァもいる。

 本来なら、ここまで来た時と同じように、俺がサリエルを背負っていけばいいだけの話なのだが、今回は別行動となる。

「レキは自警団と一緒に行け。俺はここへ残る」

「ええーっ! クロエ様が残るなら、レキも残りたいデース!」

「敵の正体を確認しておきたい。ここは包囲される危険もあるから、レキも、他の自警団員も付き合わせることはできない」

「それじゃあ、クロエ様も危ないの」

「少しだけ様子を見たら、すぐに退いてそっちに合流するから大丈夫だ。最悪、包囲をされても、俺一人だけなら突破することもできる」

 グラトニーオクトの情報はすでに仕入れてはいるものの、やはり実際に戦ってみるのが一番だろう。火以外にも弱点が明らかになるかもしれないし、より有効な対策も見つかるかもしれない。

 あるいは、敵の予想外の能力なども。

 アルザス要塞に到着してからが、グラトニーオクト討伐の本番となる。それまでの間に、出来る限りの情報収集はしておきたい。

 今はもうスーさんがいないから、俺自身がやらねばならない。それに、俺以外に安全確実に単独行動できる者もいないしな。

「それと……悪いが、ウルスラは俺と一緒に残ってくれないか」

「ノォーっ! 何でウルはオーケーでレキはノーなのデスかぁー!」

 少しばかりの罪悪感を籠めた目でウルスラを見つめたところで、物凄い不満顔のレキが間に割り込む。

「レキは黙ってて。クロエ様は私を選んだの」

「ホワーイッ! 何でレキじゃダメなのデーっス!!」

 ふふん、と何故か勝ち誇った笑みのウルスラと、半泣きで俺の足に縋りついてくるレキ。いや、別に二人を差別しているワケじゃないんだが。頼むから、説明させてくれ。

「落ち着け、ウルスラも煽るようなこと言うな。いいか、俺達の中で唯一、魔法の援護ができるのはウルスラだけだ。奴らに吸収ドレイン原初魔法オリジナルが通用するかどうか試しておきたい。それに、ウルスラはまだ実戦経験がない。あまりに危険だが、ここで経験させておくしかない」

 リスクを天秤にかけると、アルザス要塞でいきなり実戦投入するよりも、せめて今の段階で一度でも戦わせておく方が、まだ軽いだろうと判断した。

 そもそも戦わせないのが一番だが、相手はランク5モンスターの上に大群を引き連れている。まず間違いなく、総力戦となるだろう。大人として、保護者としては失格だが、それでもレキとウルスラを戦力に数えざるを得ない。

「戦いにおいては、もうレキの方が先輩だ。前のゴブリン戦でも活躍したからな。安心して護衛を任せられる」

「ええっ、そ、そうデスか? えへへ」

 懐いた犬みたいに引っ付いてくるレキの頭を、思わず撫でそうになるが、やめておく。このゴッツいガントレットを嵌めた手で触るのは、俺も彼女も気持ちよくはないだろう。

「当然だが、逃げても敵が追いついてくるかもしれない。決して油断はするな」

「イエス! レキに任せるデーッス!」

 とりあえず納得してくれたレキに、俺は忘れない内に試作品の点火イグナイテッドシリーズを授けておく。

 レキのメインウエポンは、重騎士の斧槍ハルバードだ。使い捨てにするには少々勿体ない武器だから、彼女に渡すのはサブウエポンとしての長剣とダガーにしておいた。

「この剣を抜くような状況になったら、一旦引いて、新しい武器を探せ。火はあくまで敵を寄せ付けない時間稼ぎだと思え。それと、ダガーは投げて使った方がいい。刀身が短いから、燃えると手元が熱くなる」

「センキュー!」

 笑顔で受け取るレキ。勉強は苦手な彼女だが、戦闘では柔軟な対応ができることを俺はすでに知っている。上手く使ってくれるだろう。

「ウルスラは、大丈夫か? 怖いなら、無理に残る必要はない。」

「ううん、大丈夫。必ず、クロエ様の期待に応えてみせるの」

 ふん、と小さな鼻息を鳴らして、ウルスラは気合十分な返答をくれた。

 ここはもう少し、女の子らしく怖がってくれてもいいし、そうしてくれれば俺も戦闘には参加させられないと諦めもついたのだが……まぁ、彼女の魔法の強さと恐ろしさは、俺が一番よく知っている。

「そう気負うことはないからな。いざという時は、俺が抱えて逃げるから、落ち着いて魔法を使え。いいな、魔法の行使は集中力が重要だ」

「任せて」

 ウルスラは頭がいい。俺が訓練中に言った指導や注意、果ては些細なつぶやきまで、彼女は正確に覚えていることを、休憩中の会話で明らかになっている。今更、俺が魔術士の初歩的な注意なんか言ったところで、ウルスラの頭の中にはとっくに刻まれていることだろう。

 だから、これ以上はもう、言うことはない。

 最後に、お守り代わりにウルスラへイグナイテッド・ダガーを一本だけ渡しておいた。魔術士に刃物は不要だが、武器を持てば自然と心も引き締まるものだ。

「よし、それじゃあ、行くぞ」

 そうして、俺はサリエルとレキと別れ、ウルスラだけを連れて石壁へと向かった。




「これは……いよいよ、何も見えないな」

 視界は一面、白一色。一寸先は闇、ではなく白である。

 俺とウルスラは、十字軍の射手や魔術士らと共に石壁の上に陣取り、敵の襲来を待ち構えている。

 敵が緑のタコで、火が弱点らしい、という情報がどこまで伝わっているのかどうかは分からない。分からないが、一応は各所で煌々と松明が焚かれており、射手も火矢の準備をしていることから、きちんと対策はされているのだと思いたい。

ここの壁の高さは五メートルもなく、村の防備としてはそれなりのものではあるが、要塞とは比べるべくもないほど貧弱だ。まして、ついこの間まで高さ五十メートルを誇るガラハドの大城壁を守っていた俺からすれば、酷く心もとなく感じる。

 気になると言えばもう一つ、しれっと十字軍の戦列に俺達が紛れていることについてだが、好奇の視線がチラチラ向けられるくらいで、特に何か言いがかりはつけられてはいない。

 下の正門前に陣取っている重騎士部隊の、ライアンと喧嘩していたクリフとかいう隊長が、「君は、村に雇われた冒険者だと聞いている。こちらの邪魔さえしなければ問題はない、好きにしたまえ」と言っていたので、変に追及されることはないから大丈夫だろう。

 ウルスラの呪い、もとい原初魔法オリジナルについても、恐らくは激戦の最中に使っていればケチはつけられないと思われる。命がかかっている時に、わざわざ味方の魔法援護に文句を言う奴はいない。

「クロエ様、これ、本当に来るの?」

 隣に佇むウルスラが、ポツリとそんなことを漏らす。

 ここの配置に着いてから、そこそこ時間が経っている。しかしながら、周囲はやけに静かで、とてもモンスターの大軍が目前まで迫り来ているような感覚はしない。

 少なくとも、イスキア丘陵でグリードゴアのモンスター軍団が動いていた時は、もっと強烈な存在感を覚えたものだ。

「油断するな、間違いなく敵は来る」

 俺の左目は確かに試練の存在を示した。あれ以来、一度も光ってはいないのだが、決して見間違いということはありえない。だから、グラトニーオクトというランク5モンスターは絶対にいるのだ。

 しかしながら、ふと思う。

 もし、奴らがこの村をスルーして、先に逃げ出した村人達の列を狙ったとしたら。

 人を襲うモンスターの習性として、餌となる人間もその他の食料も大量に集まっているこの村を見逃すというのは考えにくい。配置的には、この村はきちんと殿として機能するはずだ。

 だがしかし、もしもスロウスギルのように通常のモンスターよりも知恵が回る、あるいは変わった思考の持ち主が、グラトニーオクトのボスだったとすれば……ありうるだろうか。楽に食える村人を先に狙い、石壁の防御で籠るこちらを後回しにしようと判断することが。

「いや、まさかな――」

 俺の脳裏に、残虐な笑みの第十一使徒の顔が浮かび上がる最悪の想像が過ったその時だ。村を揺るがすほどの、咆哮が響きわたった。


 キョァアアアアアアアアアアアーっ!!


 猛獣やドラゴンなどとはまるでことなる、妙に甲高く、どこか金属質な不気味な声。それらが幾百幾千と重なったような不協和音が耳をつんざく。

 思わず、といったようにウルスラは目を瞑って耳を塞いでいる。彼女が子供だからではなく、見れば、周囲の十字軍兵士達も似たようなリアクションをとるものが多数見受けられた。

 そんな全身に鳥肌が立つような不快な咆哮の大合唱は、ついにグラトニーオクトの到来を現していたが――どこだ。奴らは一体、どこにいる?

 全神経を集中させて、白い闇の向こうを探れば、答えは即座に得られた。

「――上かっ!?」

 霧の向こうに影が蠢いた。そう思った次の瞬間に、奴らは降って来た。そう、正しく雨のように、上空から何体ものモンスターが村へ降り立ったのだ。

 それは俺が立っていた石壁の上もまた、例外ではない。

 当然だろう。奴らは空から現れたのだ。石壁など、侵入を防ぐに何の役にも立たないのだから。

「ちいっ!」

 頭上から大口を開けて降ってくる、体長三メートルほどの緑タコを前に、俺は先制攻撃よりも回避を優先する。

 隣のウルスラを即座に抱えてから、バックステップ――とはいっても、狭い石壁状の通路。飛んで避けるほどのスペースがない以上、そのまま飛び下りざるを得ない。

榴弾砲撃グレネードバースト!」

 石壁の上から勢いよく村側へ体を放り出し、直後に重力の軛に囚われ落下を始めるその前に、俺を狙って襲い掛かってきたタコに一発喰らわせておく。

 石壁に降りたったタコは、昨日見た幼体とほぼ同じ姿で、足も四本。そのまま三メートルまで大きくさせたような感じである。

強いて違いをあげるなら、足の四股にはヒラヒラとフリルのようになびく膜が張っているところか。

 そうして、見事な空中降下で乗り込んできたタコではあるが、至近距離で放たれた『榴弾砲撃グレネードバースト』には何ら反応することもなく着弾する。ヌルヌルと滑った気色悪いエメラルドグリーンの軟体が俄かに赤黒の火炎に包み込まれるところまでが、落ちる直前の俺が見た全てであった。

「――っと、ウルスラ、大丈夫か」

「だ、大丈夫……なの……」

 いきなり担がれたと思ったら五メートルの自由落下を体感したのだ。ウルスラはやや目を回しているようだが、特に負傷はしていない。際どいところではあったが。

「なんてこった、まさかアイツらが空を飛べるとは」

 恐らく、股にある膜が、帆船のように風を受ける、あるいは風を操作する器官になっているのだと思われる。だとしても、とてもアレが空を飛べる体だとは俄かには信じがたいが。泳ぐためのヒレだと言ってくれた方が、まだ信じられる。

 しかしながら、着地してからざっと周囲を見渡してみれば、奴らが続々と降下していることが分かる。今も濛々と立ち込める霧によって視界は大きく遮られているが、獰猛な殺意を迸らせるモンスターの気配を無数に感じ取れた。

 気配を隠すことなく村に降下作戦を敢行したグラトニーオクトの群れ。そこら中から聞こえてくるボタボタっという重々しい水音は、奴らが着地した音に違いない。

「うわぁあああああああっ!」

「ちくしょう、コイツら、上からっ――ぐわぁあああっ!」

 石壁の上から兵士の悲鳴が木霊する。

 地上をゾロゾロと群れを成して押し寄せてくると信じ切っていたのが、予想を裏切り奴らは空中から奇襲をかましたのだ。初手でいきなり石壁に乗り込まれたことで、早くも防衛側がパニックに陥りかけている。

「ウルスラ、俺の傍から離れるなよ――黒凪」

 ビュン、と鞭のような速さとしなりを持って、霧の向こう側から触手から襲い掛かってくる。その先端は単なるタコ足ではなく、鋭い鏃のような甲殻に覆われており、人間の肉体など簡単に串刺しにできそうな凶悪な形状をしていた。

 触手、というよりも槍手といった感じ。変幻自在に振るわれる触手の動きに加えて、先端には鋭い槍の穂先が備わっているのだから、なかなかに厄介な武器である。

 そこまでの観察を終える頃には、俺の繰り出したハルバードは迫る槍手を切り裂き、さらにその先にある本体アタマまで両断しきっていた。

 幸い、コイツらの体そのものは柔らかい。どうやら甲殻があるのは槍手だけのようだ。流石に頭を真っ二つに割れれば、もう大した行動はできないようで、キーキーと力なく声を上げながら、何度か触手を震わすと、そのまま完全に動きは止まった。

「――くっ、すでに取り囲まれているぞ! 円陣を組んで防げ! それと魔術士、何をやっている! さっさと霧を払え、何も見えんではないかぁー!!」

 すぐ傍から響いてくる声は、重騎士隊長クリフのものだろうか。焦りで上ずっているものの、的確な指示を出せている以上、思ったよりも優秀なのかもしれない。

「おおっ、霧が晴れたな」

 クリフの指示によってどうやら虎の子の魔術士部隊が機能を発揮しはじめたようで、渦巻く風魔法が立ちこめる霧を吹き飛ばしていく。すでに村全体を覆い隠す濃霧の全てを散らすことはできないが、とりあえず兵士の周辺から霧を飛ばすくらいの効果はあった。

 全方位に均等に気流を発生させる、風の結界といった感じだろうか。何にしろ、今はこの上なくありがたい援護だ。

 同時に、ある程度の視界が確保されたことで、絶望的な戦況も明らかとなるのだったが。

 ついさっきまでの静寂が嘘であったかのように、今はそこら中、気持ち悪い緑のタコどもで溢れかえっている。

 人の体内に侵入できる50センチほどの幼体は、べったりと石壁や家屋に張り付き蠢く。まるで、壁が最初から緑の斑点模様だったかのように、大量に引っ付いている。

 そして、俺達が相対するメインとなるのが、一メートルから三メートルほどの大きさの中タコだ。軽く見ただけで、すでにこちらの人数を上回る個体数だと分かる。

 街道の上を、正しく海底を歩くタコと同じへばり付くようなモーションで、地上に展開している兵士達へと這い寄っていく。

 上を見れば、石壁から幾つもの槍手がビュンビュンと過って行き、通路上で激しい戦闘が始まったことを示している。悲鳴と共に上がる血飛沫に、たまらずに通路から逃げ出し、五メートルの距離を真っ逆さまに転落する者もいた。

 石壁に展開していたのは主に射手だから、いきなり目の前に四本の槍手を振るう敵が現れれば、ろくに対処できないだろう。

 ただこの状況下で幸いといえるのは、タコどもが大して連携をとっていないことだ。兵士達を襲うのもバラバラだし、さらには戦闘する仲間を無視して、家屋に浸入しようとしたり、食料の詰まった倉庫群へ飛んで行く姿も見受けられた。

 どうやら数が多いだけで、群れとしての連携はそれほどでもないようだ。

「わっ、あ……クロエ様、いっぱい、いるの」

 しかし、この右も左も、ついでに上も、モンスターで溢れかえっている状況に、流石にウルスラも怯んでいるようだ。初めての実戦がこんなんじゃあ、誰だってビビる。

 思わず、といった様子で足にギュっとしがみついてくる彼女を、俺は頭を撫でる代わりに、左手の大盾タワーシールドで彼女を覆い隠して守る。

「ウルスラ、自分の力を信じろ。大丈夫だ、その力なら必ず奴らを倒せる」

 コイツらに、吸収ドレインを完全に無効化するような特殊能力あるいは体質などがあるようには思えない。ウルスラが普段の訓練通りに魔法を使えれば、この物理攻撃しか手のない相手など、ものの数ではないはずだ。

「落ち着いて、一番近い奴から順番に狙っていけ。敵は俺が絶対に寄せ付けない。安心して、攻撃だけに集中しろ」

「……はい」

 いよいよ覚悟が決まったのか、ウルスラの気配が一変する。その感覚は、およそ一週間ほとんど付きっきりで訓練に付き合った俺にはなじみ深い、ウルスラの原初魔法オリジナルが発現する、背筋がうすら寒くなるような魔力の気配である。

「クロエ様、行きます――『白夜叉姫アナスタシア』」

 そうして、音もなく大きな女の影が一瞬の内に現れる。

 周囲に満ちる霧と同化するような白さの体と長い髪。そのまま美術館か王宮にでも飾れるほど美しい石膏像のようでありながらも、頭から生える二本角が禍々しい印象を与える。

 だから俺は、そんな見た目から『白夜叉姫』と名付けた。アナスタシア、の女性名は完全にただの勢いだが。ウルスラが気に入ってくれたので、OKだろう。

 思えば、こんなすぐ傍に『白夜叉姫アナスタシア』本体があるのは初めてだ。訓練ではただ俺がウルスラの苛烈なドレイン攻撃を防ぐだけだったから、接近戦をする機会は一度もなかった。

 いざ、こうして近くで見てみると、何というか、ただ立っているだけでいきなり魔力を奪われそうな不安感を覚える……だが、流石に敵と味方の区別がつくくらいには、ウルスラは力の制御を習得している。味方として戦わせるにあたっては、問題ないはず。

「えい」

 大盾の影に隠れながら、ウルスラがあまり気合いの入っていない掛け声と共に、最初の一撃を繰り出した。

 特別な力も技もない。ただ、アナスタシアの右腕を振るって、殴るでも叩くでもなく、そっと、手の届く範囲にいる中タコに触れただけ。

 そして、ただそれだけで敵は消滅した。ジュっ、という一瞬だけ焼けるような音を立てて、アナスタシアに触れられた頭部は溶けるように消えて、後には本体との繋がりを失った四本の触手が地面をのたうつのみ。

一撃必殺、というにも躊躇するほど、あっけない倒し方である。

「ん……見た目ほど、味は悪くないの」

 グラトニーオクトの風属性の味に、お姫様は満足しているようだった。

「いいぞ、その調子でどんどんやってくれ」

「ふふん、任せて」

 あまりに一方的な勝利に自信がついたのか、ウルスラはいよいよ強気に打って出る。

 現在、『白夜叉姫アナスタシア』が振るう強力な吸収ドレインの腕は、四本まで同時に出せる。その威力は、触れただけで『榴弾砲撃グレネードバースト』を無効化できるほど。

 別段、特殊な能力を持たない、それでいてドルトスよりも小さい中型サイズのタコなど、まるで相手にならない。

 暴食のモンスターを嘲笑うかのように、大喰らいの姫君は周囲に溢れかえる料理エモノに向かって、次々と手を伸ばしてゆく。

 グラトニーオクトは硬い鱗もなければ、俊敏な移動能力もない。俺でも割と本気を出さないと回避しきれないほどの速度で振るわれるアナスタシアのドレインアームを、そこら中で蠢く奴らが対処できるはずもない。

 掌に軽く叩かれれば頭が消え、腕を振るえば触手ごと削り取られていく。触れるだけで相手を消し去る圧倒的な攻撃力。俺が防御に回る必要もなく、周囲のタコどもは凄まじい速さで数を減らしていった。

 だがしかし、奴らの数はこちらの殲滅力を上回る。

 通りをウネウネ這いまわるタコの数に変化は見られないし、建物の壁や屋根の上、どこを見ても湧き出た害虫のように奴らの姿がある。おまけに、今でも点々と空から援軍が降り注いで来てもいる。

「――くっ、怯むな! 押し返せぇー!」

 クリフの反撃命令が、戦場の騒乱の中で虚しく響く。

 開幕の時点で、すでにして乱戦状態に突入していたのだから、防衛線が崩壊するのも早い。石壁が防衛設備として何の機能も果たさなかった時点で、防衛線も何もないのだが。

今のところ順調にタコを倒せているのは、俺とウルスラのコンビだけで、他は剣や槍があまり通用しないタフな軟体のモンスターを相手に苦戦を強いられている。

 歩兵達はあえなく中タコの繰り出す槍手によって貫かれ、完全に事切れる前に丸く牙の並ぶおぞましい口でバリバリと喰われていく。

 クリフ率いる重騎士部隊はその防御力でもって倒されることはないものの、物理に強いタコを倒すのに難儀しているようだった。残念ながら、彼らに現状を打開するほどの力は望めそうもない。

「ウルスラ、前に出過ぎるなよ」

「もうちょっと、食べられそうなの」

「ダメだ、現状維持でいい」

 やはり魔法を使っている間はハイになってしまうのか、ウルスラはまだまだ戦い足りないとばかりの不満顔。しかし、俺の指示に大人しく従ってくれるくらいの理性はちゃんと残っている。

 グネグネとタコの触手に負けず劣らずの変幻自在さでドレインアームを振るいながら、無謀な突撃を始めることなく今の立ち位置からは動かない。

「まずいな、風の結界が解れてる」

 犠牲になっているのは歩兵達だけでなく、魔術士部隊にも及んでいるようだ。何時の間にやら、霧を吹き飛ばしている範囲が狭くなっており、俺達は再び白い闇に包み込まれようとしている。

 最初は正門の周辺、五十メートル四方は視界を確保できていたというのに、今はその半分以下。風魔術士ウインドマージがやられたか、結界を解除して攻撃せざるをえないほど押し込まれているのだろう。

 このタイミングで視界を失ってしまえば、ここの兵士達は全滅を余儀なくされるだろう。

 正直、十字軍兵士など何人死のうと知ったことではないが……今は一人でも多くの味方が欲しい状況だ。出来る限りの、援護はする。

 ウルスラは周辺のタコどもを全く寄せ付けず平らげてくれるお蔭で、俺はグレネードの援護射撃に集中できている。アナスタシアの手が届かないアウトレンジも、俺の黒魔法なら十分に射程圏内。

 すでに武器を振るう必要のない俺は完全に魔法の発動に集中し、『榴弾砲撃グレネードバースト』を乱れ撃つのに専念している。正に固定砲台。放たれる榴弾は蠢くタコをまとめて焼却し、吹き飛ばす。その辺の家屋が爆風に巻き込まれて炎上したり崩れたりしているのは、まぁ、ご愛嬌ということで。

「うわぁあああ! も、もうダメだぁー!」

「ここはもう無理だ! 逃げろ! 逃げろぉー!」

 しかし俺とウルスラの援護も虚しく、十字軍兵士達はいよいよ潰走しはじめる。

 武器を放り捨てるような勢いでもって、石壁に展開していた歩兵達が村の通りに続々と降り立ち、全力疾走で走り始めた。

「ええい、十字軍の兵士ともあろうものが敵前逃亡とは! 貴様ら、持ち場へ戻れ、基地を死守しろぉー!!」

 そんなことを言って戻るくらいなら、初めから逃亡などしないだろう。たとえ、なけなしの勇気を振り絞ったとしても、すでに石壁の上は完全にタコどもに占領されており、奪還するのは無理だというのは一目瞭然。

勝手に逃げ出す歩兵達のせいで、奮戦を続けるクリフの重騎士部隊が自然と殿の形となる。逃亡兵は許さぬと見せしめに斬ろうと思っても、今はそんなことに労力を割く余裕などありはしない。堅固な防御の重騎士だって、今はこの溢れかえるタコの相手だけで手いっぱいの防戦一方なのだから。

「ここはもう限界だな」

俺とウルスラがどんなに頑張ったところで、敗走の流れは変えようもない。とりあえず、まだこの場で踏みとどまれる能力を持つ俺達が、一人でも多くの撤退を援護すべきだろう。そうして、逃げ惑う歩兵達の背後から押し寄せるタコどもに攻撃の矛先を向けた――その時だ。

 猛毒を思わせる薄紫色の風が上空から一筋の帯となって吹き付けた。それは細い一本の竜巻と表現してもいい。

 その紫の気流は、こちらに向かって走り寄ってくる兵士の団体に直撃し、彼ら全員を飲みこんだ。

「あ、熱っつ、ぐぁあああああああああっ!」

 俄かに上がる悲痛な絶叫。だが、俺の目に映るのはそれ以上に悲惨な……人間が生きたまま溶けていく光景であった。

 紫のガスの正体は、強力な酸だ。アシッドブレス、とでもいうべきか。

 十字軍歩兵が纏う揃いの白サーコートは一瞬の内にボロきれと化して崩れ落ち、次には鉄の兜と鎖帷子が溶鉱炉に放り込んだかのようにドロドロと溶けだした。

 それと同時に、肉体部分も赤黒い粘液のようなものとなって、滴り落ちる。兵士の顔が苦悶の表情を浮かべていられるのはほんの僅かな間だけ。毒々しい紫の強酸性ガスに包まれた瞬間、水彩絵の具で描かれた肖像画に水をぶちまけたような有様となるのだ。

 鉄をも溶かす強烈な溶解力を持つアシッドブレスが直撃し、何ら魔法の防御を持たない無力な歩兵達は、その場であえなく崩れ落ちる。かろうじて人の原型は保っているようだが、地面は血の池地獄ならぬ、溶け出た液状の人肉地獄と化している。

 斬るでもなく、焼くでもなく、溶ける、という初めての死に様を前に、俺も思わずその気色悪さに、目を背けそうだ。

 だが、見なくてはならない。おぞましい死に様もそうだが、今は何より、このブレスを吐きかけた相手を見定めなければいけないのだ。

「なるほど、アレが十メートル級のヤツか」

 特に周囲を見渡すことも、気配を探る必要もなく、見つかった。薄らと煙る霧の向こうに、十メートルを超える巨体の影がユラリと浮かび上がる。

そんなデカい奴、すぐ目に入るのも当然。何より、コイツは直立しているのだ。

 タコの体で直立、というと意味不明な状態であるが、こうして現実に目の当たりにすれば、立っていると表現するより他はない。

 人が手を回しても届かないほど太い触手が、文字通り大木のように真っ直ぐ屹立し、頭部を天高く押し上げている。四本の触手でもって、四足歩行の動物を真似ているかの如き体勢。しかし、関節が存在しない軟体の足は、獣とは全く異なる足運び、どちらかといえば虫のような動きで、立ったまま歩いていた。

 どうしてそんな歩行をしようと思った、とモンスターの不可思議な生態について考察を深めてみたいところが、今はそれどころではない。

 奴はそんな馬鹿馬鹿しい歩き方で、悠々と石壁を乗り越え、村の中へと一足で踏み入って来たのだ。

「二、三……四……ちくしょう、これはもう、どうにもならんな」

 おまけに、一体ではない。圧倒的な存在感の大タコは、ざっと見える限りで四体は確認できる。

 正面に二体。少し離れた左方に一体。そして最悪な事に、後方、村のど真ん中に一体。すでに村の中に一体侵入しているのは、このデカい奴も同じく空を飛べるということを現している。

「あれはちょっと、食べるのは大変なの」

「そりゃそうだろうな」

「どうするの、クロエ様」

「決まってるだろ――」

 はぁ、と一つ溜息をついてから、覚悟を決めて、言い放つ。

「――逃げるんだよ」

 俺はウルスラを抱えて、全力で撤退を始めるのだった。

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