第497話 ヴァレンティヌスの熱い夜(2)
ど、ど、ど、どうしてこんなことになってしまったのでーす! と、口にこそださないものの、私は心の叫びを上げずにはいられない。
その理由は二つ。
「やっぱりウルスラは大丈夫なようだ。けど、すっかり熟睡してるみたいだから、このまま朝まで寝かせておいてやろう」
まさか、今夜の作戦の主役であるウルが、お酒を飲んで寝てしまうなんて。
そもそもどうしてウルがお酒を飲んだのかといえば、彼女曰く、気合いを入れるため、らしい。実際のところは、祭りの雰囲気で、何となく、といったところだろうけど。
ともかく、そんなワケでウルスラは、本来の作戦通りお酒を飲んで酔ったフリをする私と一緒に、グイっと一杯、葡萄酒を飲むことに。
グラスを煽る私達を止める人は、周囲にこれだけの人数がいるにもかかわらず、一人もいない。むしろ「おー、飲め、飲め!」とか「今日は祭りだから!」とか、そんな無責任なはやし立てる声しか飛んでこない。
ああ、もう、周りには酔っぱらいしかいないのです。
それでも、まぁ一杯くらいなら別に大丈夫かなーと私は思っていた。ウルスラがグラスに口をつける、その瞬間までは。
「ふっ、はぁ……ふわぁ……」
みたいなことを口走ってから、ウルは夢の世界へと旅立っていった。
私が慌ててクロエ様を呼びに行けば、迅速にウルは自分のベッドへ送られ、お祭りから退場となった。つまり、作戦失敗。大失敗なのです。
残った私はどうすればいいのでーす! ウルゥー!
なんて心の中で叫びながら、次の行動を決めかねているその隙をつくように、クロエ様はいきなり言い出したのだ。
「一応、ウルスラにはユーリをつけておいたから、何かあったらすぐ呼んでくれるだろう。だから安心して祭りを楽しんでていいぞ。つっても、ウルスラがいないんじゃ、レキは一人か? なら、俺と一緒にいるか?」
それって、つまり……私、誘われてる、ですっ!?
私は相方であるウルスラを不慮の事故で失い、クロエ様の伴侶たるシスター・ユーリも別れてしまっている。パートナーのいない、女と男が、一人ずつ。
もしかしなくても、誘われている。
「え、えっ、ふぇえ……」
あまりに突然、あまりに予想外のお誘いに、私は情けなくも言葉にならない返事をしていると、クロエ様は悪魔のような笑みを浮かべて畳み掛けてくる。
「折角の祭りだしな。奢ってやるから、遠慮せず好きな物食べていいぞ。ウルスラには秘密にしといてやるから」
これが、どうしてこんなことに、と思い悩む二つ目の理由。私がクロエ様と二人きりでお祭りを楽しむという、当初の作戦とは真逆の状況だ。
だから、本当なら断るべき。無理をしてでも。だって、これじゃああまりにも、ウルに申し訳が立たない――
「イエーッス!」
けれど現実の私は、クロエ様のお誘いを断ることができなかった。
どうして、と問われれば、私にも分からない。
ウルを裏切ったような罪悪感は、確かにある。
それでも、クロエ様と二人で過ごすお祭りの夜が、どうしてこんなに楽しいのか、心が満たされるような気分になるのか、分からなかった。
メインディッシュとして振る舞われた大猪の丸焼きを食べたり、焚火を囲って一緒に踊ったり、少しだけお酒を飲ませてもらったり……何より、久しぶりにクロエ様と沢山お話して、笑ってくれる彼の顔が見られて、嬉しくて、堪らない。
「――どうしたレキ? ボーっとして、眠くなったか?」
「ノっ、ノォー! 全然、眠くないデス!」
だらしなく、クロエ様の顔に見惚れていた、ということを私は声をかけられてから気づいた。
すっかり見慣れたはずの強面なのに、今夜はやけに目が離せない。
「ん、そうか」
眼鏡の薄いレンズの奥にある青い目がすっと細められる。他の人が見たら睨んでいる、としか思えないだろう鋭い目つきだけれど、それが彼の微笑みの表情の一つであることを私はもう知っている。
一緒に暮らし始めてみれば、クロエ様は意外と表情変化が豊かであることに、私はすぐ気が付いた。
喜怒哀楽の感情がまるで見られないシスター・ユーリは、恋人であるはずのクロエ様の表情を正しく理解できているのだろうか。クロエ様を「好き」と言い切ったウルは、どうなのだろうか。
もしかしたら、私だけが気づいているのかも。私だけが、彼の微笑みを知っているのかも。
なんて思うと、何故だか胸の奥底からゾクゾクとした感情が湧き上がる。興奮して眠れない夜のような、いいや、アレよりももっと、抑えきれない気持ちの高ぶり。
「でも、もうそろそろ寝た方がいい時間だろう」
「ええぇー! レキ、もっとクロエ様と遊びたいデーっス!!」
もっと、クロエ様と一緒にいたいです。
「明日も休みってワケじゃないんだからな。けど、うーん、そうだな……じゃあ、少し静かなところで一休みしようか。こんな騒がしいところにいたら、ずっと目が冴えてるだろうし」
「むぅー、そこまで言うなら仕方ないデースねー」
なんて言いながら、さりげなくクロエ様の手を握って、歌と音楽と酔っ払いの馬鹿笑いが響きわたる中央広場から村のはずれに向かって歩き出したその途中で、私は気が付いた。
あれ、これってもしかして、本当の意味で二人きり、という状況じゃないですか。
騒がしい声がどんどん遠くなっていくにつれて、私とクロエ様の二人だけの世界になる。さっきと変わらず、手を伸ばせば触れ合える距離にいるにも関わらず、ただ、周りに人がいないというだけで、雰囲気というのはガラリと変わる。
「流石に、この辺まで来るとかなり静かだな」
村を囲う柵のところまで来くると、確かに広場の喧騒はかなり遠くなっている。私もクロエ様も耳は良いから、よくすましてみれば聞き取れるだろうけど、普通にしてれば全く気にならない。
灯りはクロエ様が広場のテーブルで拝借してきたランプが一つきり。二人の周囲をボンヤリと照らすだけで、後は全て夜の闇がどこまでも広がっている。
二人きり、というよりも、この世界から二人だけが取り残されたような感じがする。
そんなことを意識すると、急に胸の鼓動がドキドキと高まり始めた。どうしようもないのに、どうしよう、と焦ったような気持ち。そして、そんな意味不明な混乱に陥っている私の内心をクロエ様に悟られることが堪らなく恥ずかしくて、必死に隠そうと、落ち着こうとすると、さらにドキドキは止まらなくなって――ああ、もう、頭がおかしくなりそうでーす!
「どうしたレキ、ちょっとフラフラしてるぞ。大丈夫か?」
でも、今なら、言えるかもしれない。
勢いのままに、感情のままに、普段なら絶対に言わない、無茶なワガママも。
「く、クロエ様……お願いが、あるデス……」
中央広場から離れて柵の近くまでやって来ると、一気に静かになる。ついさっきまでの熱気と喧騒が嘘だったかのようにさえ感じる。
柵に背中を預けて、空を見上げてみれば満点の星空が広がっている。現代日本の街中ではお目にかかれない、星の光に満ちた夜空は、見慣れたはずの今でも素直に綺麗だと思えた。
壮大で幻想的な異世界の星空だが、その下に立っているのはソワソワとどこか落ち着かない様子のレキ。
「どうしたレキ、ちょっとフラフラしてるぞ。大丈夫か?」
調子に乗って、ちょっとだけでも飲ませてやったのはやはりまずかっただろうか。ウルスラみたいに倒れることもなく、全然平気そうにしていたものの、酔いはしっかり回っているようだ。
「く、クロエ様……お願いが、あるデス……」
いきなり、そんなことを言いだしたレキは、潤んだ赤い瞳の上目使いに、白い頬をはっきり分かるほど朱に染めている。うん、これは完全に酔ってるな。
「なんだ?」
「レキも一緒に、連れて行って欲しいデス」
何処に、と問い返すことはしない。酔っ払いの戯言とも、単なる子供の我がままであると、切って捨てることも、しない。
別れが辛いのは一緒だ。俺も、彼女も。
「ごめんな、レキ。それはできない」
「どうして! 今ならウルだって、強くなったデス! レキもウルも、絶対にクロエ様の足を引っ張ったりしないデスから!」
前に酒場で、ライアンが「レキを連れってってやれよ」と言い出したことがあったな。あの時は、レキは自分からそれは出来ないと否定してみせた。ウルスラがいるから、と。
それなら、今やそこらの魔術士など圧倒できる強力な原初魔法を使いこなしつつあるウルスラならば、確かに、道中に危険のある旅に同行することも十分可能だろう。
しかし、俺にとっては二人を連れていけない理由は、そんなところにあるわけじゃない。
「だから、一緒に――」
「俺は、嘘を吐いている」
レキも自分が無茶を言っているという自覚はあるだろう。それでも、こうして言い出したのは、理屈で納得しきれないほど思い余っているからに違いない。
だから俺は、適当に誤魔化すことはせず、本心で答えてやるのだ。
「知ってるデス! クロエ様、本当は司祭なんかじゃなくて……魔族、なんデスよね?」
偽の司祭だってことはバレているとは思ったけど、まさか、そこまで知られているとは正直、驚きである。
「もし、俺が魔族だとして、それでも、一緒にいたいと思うのか?」
「イエス! だって、クロエ様はクロエ様なのデス!」
種族の違いなど関係ない。そう言い切ってくれるレキの言葉に嬉しくなると同時に、胸も苦しくなる。
「レキ、俺と初めて会った時のことを、覚えているか」
変装用の眼鏡『カラーリングアイズ』をあえて外し、俺は本来の目の色に戻る。
黒と赤の二色になった俺の目を、真っ直ぐに見つめ返してレキは答えた。
「忘れるわけないデス! クロエ様が助けてくれたこと、絶対、忘れるワケないのデス!」
「いいや、俺はあの時、殺したくて殺したんだ。ただ、自分の怒りのままに……レキとウルスラがあの時、追われていたのも見ていた。助けようとは思ったが、けど、そんなのは所詮、二の次だったんだよ」
あの時の俺は、再びイルズ村のあった場所を襲う十字軍を目の当たりにして、我を忘れるほどの怒りにかられた。もし、ここが全然別の場所だったとすれば、十字軍に発見されることのリスクの方を重く見て、見捨てていた可能性は高い。あるいは、どうせ同じシンクレア人なら、勝手に殺し合っていればいいとさえ考えたかもしれない。
だから俺は、まかり間違えばこのレキが襲われていたとしても、助けに入らなかった可能性もあったのだ。
そんな俺が、とても命を助けてやっただろう、と恩着せがましく言えるはずもない。そこまで俺は、恥知らずではないつもりだ。
「いいかレキ、あれが本当の俺だ。人を助け導く司祭とは真逆の、敵を殺し尽くすだけの狂戦士なんだよ。だから俺は、ここを出て行けば、また戦いに戻る」
「だったら、レキも戦う! 一緒に戦うデスよ! お願いクロエ様、レキ、もっと強くなるデスから!!」
「子供は戦場に、連れていけない」
俺の戦いには巻き込めない。そう言った方が正しいだろう。理屈としては、エリナの告白を断った時と同じである。
レキもウルスラも、前のゴブリンが攻めてきた時のように、身を守るために戦うことは必要だ。そのために強くなることも、決して間違ってはいない。
けれど、俺はこの先、いいや、次の戦いはきっと、こっちが仕掛ける側になるだろう。敵を滅ぼすために、自ら戦いに赴くような真似は、絶対にさせたくはない。あのエリオという男の子のように、無残に殺される末路をレキに辿らせてはいけないのだ。
「ここは、いい村だ。レキ、お前の居場所もちゃんとある」
これで戦場にいる方がマシなほど悲惨な境遇であったなら、無責任な同情から後先考えずに俺は連れ出していたかもしれないけれど、二人はそうじゃない。
このまま第202開拓村のシスターとして生活していけばいいし、もし後任の司祭のせいでどこかに飛ばされることになったとしても、今の二人なら、どんな場所でもやっていけるだけの力はある。戦争にさえ巻き込まれなければ、俺は二人なら大丈夫だと信じられる。
「だから、お願いだ、レキ。俺のことは忘れて、このままずっと平和な生活を送ってくれ」
しかし、俺は気付いている。
もしかすれば、その平和を崩すのは、俺自身となるかもしれないことに。
十字軍はガラハド戦争に敗れた。もし、スパーダが次の一手としてダイダロス解放に動くとしたら、俺は必ずその戦いに参加する。つまり、次にこの開拓村を襲うのは、俺自身かもしれないのだ。
故に、無責任なんて一言じゃ済まされない。とんでもなく偽善的なことを言っている自覚はある。
それでも俺には、二人の平穏を祈ると同時に、このどうしようもない十字軍への憎悪は消えない。こうしてシンクレアの村で生活しても、心の奥底にあるドス黒い呪いじみた感情は僅かほども薄まっていないと分かる。
俺は、戦いを止められない。まだ、止めるわけにはいかないのだから。
「う、うぅ……でも、でもぉ……レキは――」
レキの赤い両目に、とうとう堪えきれなくなったように大粒の涙が浮かぶ。光る悲しみの雫が、とうとう頬に零れ落ちそうになったその時、俺は音を聞いた。
ガサリ、と茂みが揺れる音だった。
「誰だ」
返ってくる言葉はない。ついでに言えば、これといった気配も感じられない。
俺が鋭く視線を向ける先にあるのは、民家の庭先である。そこに生える冬でも緑の葉を生い茂らせる植物の生垣から、音は聞こえてくる。
気のせいではなかったと証明するように、ガサガサという音は鳴り続けている。
これは、誰かというよりも、何か、という方が正しいだろうか。
つい先日、ゴブリンの襲撃にあったばかりだし、その前は人喰い鎧熊が大暴れであった。また新たなモンスターが襲来していたとしても、何ら不思議はない。
そして、リリィと光の泉がなくなったことで、今やすっかり環境が変化した森に、一体どんなモンスターが現れるのか。その全てはまだまだ把握できていない。
万に一つだが、気配を殺すことに特化した上に、凶悪なモンスターがいないとも限らない。
「レキ、離れるな」
すぐ傍らで涙目だったレキを、有無を言わさず抱き寄せる。
「ふぇえええっ! くっ、クロエ様ぁ!?」
今のレキには武器がない。素手で戦わせるのは、流石にちょっと無理がある。
とりあえず、俺なら黒魔法だけで大抵のモンスターには対応できるし、ランク4以上の強敵でも、足止めして武器を取りに行くくらいのことは可能だろう。
俺はいつでもレキを担いで走り出せるように左手で彼女の体をしっかりと抱き寄せながら、右手を掲げて全弾発射の準備も整える。
右腕の周囲には、煮沸したように次々と黒き弾丸が形成され、今もガサリと怪しい音をたてる何者かが潜む方へ、鋭い弾頭を向ける。
「……」
それから、しばし無音の時が流れる。ついさっきまでのもの悲しい雰囲気を一瞬で払拭する、鋭い緊張感が辺りを包み込む。
その静寂を破ったのは、向こうであった。
意を決したように、一際大きな音を立てて、茂みに潜む謎の存在は、ついにその姿を現す。
「魔弾全弾発――」
「ニャーン」
と呑気な鳴き声を上げて出てきたのは、紛れもなく、猫。どこからどうみても、ただの猫である。
しかもコイツ、どこかで見覚えがある。
「あれ、お前もしかして……うわ、マジかよ……」
この猫、やけに太っている。とても野良とは思えないほどブヨブヨでありながら、全くそれを恥じないふてぶてしい雰囲気が漂う。
間違いない、コイツはかつてイルズ村冒険者ギルドに住みついていたデブ猫だ。リリィが跨って遊んでいたり、一方的にお喋りしていたのはよく見かけたから、ハッキリと覚えている。
ああ、そうか、コイツはちゃっかり生き残っていたんだな。
「ぷっ、く、くく……ははははははっ!」
思わず、笑わずにはいられなかった。さっきまでの緊張感は一体何だったのか。というか、俺が気配を感じられないってことは、気にも留めないほどに殺意も敵意もないということでもある。
恐ろしく気配の隠蔽に特化した強力なモンスター、なんて真っ先に想像した自分がどこまでも馬鹿馬鹿しく思える。魔弾もぶっぱなしかけたしな。
「ふふ、あはははっ! ブサイクなニャンコ、デース!」
レキも指を指して笑い始める。茶番みたいな臨戦態勢から解放されて、現れた平和の象徴みたいなデブ猫を見て、大笑い。
そうして、俺とレキは馬鹿みたいに笑った。デブ猫はそんな俺達をどこまでも見下すような視線を向けてから、すぐに興味を失ったように、夜闇の向こうへと歩み去っていった。太っているくせに、どこか軽やかな足取りで。
「――ヘイ、クロエ様。帰りましょう」
もう抱き寄せた左腕は離しているが、いまだに俺の胴体にギュっとしがみついたままのレキは、どこか満ち足りたような表情で言う。
「ああ、そうだな」
あのデブ猫には、ありがとう、と心の中で礼を一つ。お前のお蔭で、今日は気持ちよく眠れそうだ。
「クロエ様、もう一つお願い、あるデス」
「なんだ?」
「一緒に寝よっ!」
あまりに可愛らしいお願いごとに、思わず顔が綻ぶ。
まぁ、頼まれなくても、レキが普段使っているベッドの方には、ウルスラと、付添のサリエルを寝かせてきたからすでに一杯で、結局は俺の寝室を使うことになっただろうけど。
それでも、こうしてレキが一緒に寝ようと言ってくれたということは、どうやら俺は気を遣って床で眠る必要性はなさそうだ。それは正直、ありがたい。
「ああ、いいぞ」
言いながら、レキの犬耳ヘアを撫でてやると、彼女は眩しいほどの笑顔を浮かべた。
なんだか今夜は、いい夢が見れそうだ。
「う、うわぁ……わぁ……どうしよう……」
朝、目が覚めたら目の前にクロエ様の顔があった。
私は寝間着で、クロエ様も寝間着で、同じベッドで眠っている。そして毛布の中の体勢は、私が抱き着くように彼の体へと密着している状態。それと、ふと気づけば私が枕にしているのは、どうやらクロエ様の逞しい腕であったようだ。
「く、クロエ様と……エッチ、してしまったデース……」
とんでもないことをやらかしてしまった。けど、あまりにとんでもなさ過ぎて、事の重大さを私は正しく認識できていないようにも思える。
今すぐ外に飛び出して、叫びながら走り回りたい気持ちだけれど、このどうしようもなく魅惑的な温かい空間から出られない。ピクリとも体が動かないのは、私が出たくないだけ、もっと、クロエ様を抱きしめていたいだけのこと。
「う、うぅ……」
僅かに視線を上げると、初めて見るクロエ様の安らかな寝顔がある。小さな寝息を立てる彼はどこまでも無防備で可愛いけれど、洞窟の奥底で財宝を守って眠っているドラゴンみたいな感じもする。実際、今この瞬間にゴブリンが村に雪崩れ込んで来たら、クロエ様は即座に跳ね起きて戦い始めるだろう。
でも、当たり前だけど「もしも」のことなんてない。もっとも、今はモンスターの襲撃以上に緊急事態ともいえるけれど。
ウルが提案した色仕掛け作戦は、何故か配役が逆になって遂行されてしまったのだ。
昨晩のことは、よく覚えている。お酒は飲んだけど、記憶が飛ぶほどでもない。だから、私は自ら望んでクロエ様とベッドに入ったことを、確かに記憶している。
一緒に寝よう。私の誘いにクロエ様が快諾してくれた瞬間から、胸はドキドキとうるさいくらいに鳴りっぱなしで、頭はフワフワと現実感のない夢見心地になっていた。
ベッドに入ったら、もう、自分で自分を抑えきれずに、クロエ様に抱き着いた。そして、クロエ様も、優しく抱き返してくれた。
これまでに感じたことがないほどに満たされた気持ちのまま、私はつい「キスして欲しい」なんて、言ったような気がする。
でも、昨晩は全ての妄想が現実となっていた。クロエ様は、私に、キスしてくれた。そっと、唇を私の頬に落としてくれたのだ。
「ああああ……」
けれどこうして朝になると、この頭を抱えてのた打ち回りたくなるほどの気恥ずかしさは何なのだろう。
でも、どう思い悩んだところで、もう取り返しはつかないのです!
何故なら昨晩のアレは、ウルが言っていたエッチに他ならない行為なのだから。
二人で一緒に寝て、抱きしめて、キスをする。そして気が付いたら、朝になっている。全て、ウルの言った通りだったです。
「レキ、クロエ様と結婚、するデスか……」
そうだ、エッチした以上、クロエ様は男として責任をとってくれることになっている。
私が、シスター・ユーリと、ウルを差し置いて、結婚するんだ。
「は、あはは……はぁ……はぁ……」
それなら、もう、いいんだ。だって、結婚するのですから、何をしても、いいんだ。
心の奥に火がついたように、再びドクドクと鼓動を高鳴らせながら、私は動き出す。モゾモゾと身をよじって、クロエ様の胸の内から抜け出る。
「クロエ様……」
まだ、起きていない。静かに寝入ったままの彼の顔に、近づいて、重ねる。
凛々しく引き結ばれた唇に、私の震える唇が、触れた――瞬間。
「レキ、何、してるの」
ドアが開く。声が聞こえる。
誰かが現れた。誰、いや、考えるまでもない。
「ん、んっ――ウルっ!?」
弾かれたように顔を上げると、そこには最も見慣れた親友の姿がある。けれど彼女は、これまで見たこともない顔……そう、人を呪い殺せるんじゃないかというほどに憎悪の感情で顔を歪めて、こう言った。
「……裏切者」