第494話 小さな胸の内(1)
「――黒凪っ!」
目前に迫った霧の手を、放った武技で真っ二つに切り裂く。この身を蒸発させるほどに強烈な吸収力の宿る白い魔の手は、縦に両断されたことで俺の体に触れることなく虚しく通り過ぎる。
強引に断ち切られたせいで、手の形を維持するだけの密度と制御は失われ、そよ風に吹き散らされるほど儚い靄となって消滅していった。
しかし、この恐ろしき魔の手は、人と同じ二本だけでは終わらない。
「二、三……四本目か。昨日より、一本増えてるじゃねぇか!」
「うふふ、クロエ様を捕まえるために、頑張ったの」
血色の眼に紫の瞳を輝かせるウルスラが悪魔の微笑みで、霧を高密度で渦巻かせることで作り出す手を三本、出現させる。そして、ついさっき切り捨てたばかりの腕も再生、もとい再構築を済ませ、驚異の四本腕が完成。
もっとも、見た目としては般若みたいに角を生やした女の幻影の周囲に浮かぶように展開されているから、ちょっと俺の魔剣みたいな感じである。自由自在に操作が利く類のモノなら、まぁ、どれも似た感じの挙動にはなるだろう。
「さぁ、クロエ様の全てを、ちょうだい!」
いよいよ本物のロケットパンチみたいに、手首のあたりで真っ白い霧をブースターのように激しく噴き出しながら、四つの手が撃ちだされた。
正面に二本、左右から一本ずつ、俺を囲むような軌跡でもって迫り来る。
この手がただ直進するだけでなく、文字通りにウルスラの手となり、自由自在に振るわれることを俺はすでに知っている。だから、このまま四本全てを回避するよりも、先に一本でもいいから撃ち落とすほうが確実だ。どうせすぐに再生するけどさ。
「榴弾砲撃」
いまだに、というべきか、当然というべきか、黒魔法でも使えそうな魔法の杖は入手していない。原初魔法全開のウルスラを相手にするには少しばかり心もとないが、黒魔法については無手のまま撃つより他はない。
それでも、まだ『榴弾砲撃』なら一発で手を吹っ飛ばせるほどの威力はある――はずだった。
「温いの」
左右から迫る手に対して、それぞれ一発ずつ放った黒き榴弾は、着弾と同時にドレイン能力ごと爆散するはずが、不発。
爆破の瞬間まで俺の直接的な制御が及ぶ黒魔法に、不発弾はありえない。
それでも爆発しなかったということは、つまり、消された。今起こった現象を視覚的に表現するならば、爆発ごと握り潰された、というべきだろう。
広げられた白い掌のど真ん中に飛び込んだ榴弾は、そこに秘める爆発力と高熱とを解放すると同時に、モンスターの顎が閉じられるように握られた手の内に隠される。爆破の寸前に榴弾を消したのか、それとも解き放たれた爆風ごと吸収しきったのか、どちらかは分からない。
「この手はもう通じないか」
どっちにしろ、有効な防御手段であった『榴弾砲撃』がウルスラにとって無効化されたことに違いはなかった。彼女の確かな成長を目にした瞬間である。
「二連黒凪」
仕方なく、肉薄した四本の手をまとめて切り裂き凌ぐことにした。
手にした長剣は相変わらず、ぶち殺してやった十字軍歩兵が装備していたものである。量産品だが、質は悪くない。コイツは割とアタリだろう。
しっかりと切先から柄の先まで黒化しきった黒一色の剣は、ほんの一瞬とはいえドレインの宿る手に触れたせいで、刃の一部が付加した魔力が剥がれ落ち、本来ある鋼の光沢を露出させている。
もっとも、これもウルスラの手と同じく、ちょっと魔力を流すだけで即座に再生するのだが。
「武技を連続で放てるなんて、聞いてないの」
「それだけ追い詰められてるってことだ」
「その割には、まだ余裕がありそうなの」
面白くない、というようにちょっと不機嫌な顔のウルスラ。悪魔の目と化している今の状態でやられると、なかなかに迫力がある。
でも最近、そんなところも可愛いかな、と思えるほどには、見慣れてきた。
「俺も少しは、その力に慣れたからな」
そして、このドレイン能力にも。
どんなに恐ろしい力であろうとも、まぁ、これだけ相手していれば自ずと対処法も確立するというものだ。これが機動実験だったら、初見で倒していなければいけないところだからな。ただ凌ぐだけでいいのだから、そりゃあ余裕も生まれるというものだ。
「私は、早く、クロエ様が欲しいの」
「欲しけりゃ奪え、全力でな」
大人の色香漂うお姉さんに言われたらちょっとはドキっとしそうなウルスラの台詞であるが、原初魔法を使っている時はハイになっていることを知る俺は、こんな風にカッコつけて返すこともできる。
弱みは見せられない。俺が力を振り絞って挑んでも到底、倒せない相手である、とウルスラが思ってくれなければ、訓練にはならない。やはり、力というのは全力で使ってこそ、初めて身につくものなのだから。
「……それじゃあ、本気、出しちゃうから」
ウルスラの雰囲気が変わる。
それが気のせいではないということは、彼女から、いや、正確にはその背後に現れている白い女の影から、俄かに高まる魔力の気配が証明している。
ウルスラがゆっくりと、両手を広げて前へ真っ直ぐと突きだせば、それに連動して女も動く。さっきの攻撃とは違い、自然に体へ繋がっているように、右手と左手が、俺に向けられる。修道服姿のウルスラと、霧を白いローブのような形と成して纏っている女は、格好だけは似た姿だ。
両者が手を掲げて制止した頃には、高まる魔力はいよいよ目に見える変化となって現れる。真っ白い石膏像みたいな掌へ、漂う白い霧が渦巻きながらその一点に集中していく。轟々と唸りを上げながら勢いよく収束してゆく様は、さながら掌の上で台風を作っているかのようだ。
おお、これはちょっと、ヤバそうな気配である。出方によっては、いよいよ『鋼の魔王』でも使うことになるかもしれない。
そこまでの覚悟を決めた、ちょうどその時。
「……お昼にするの」
一撃必殺の威力を秘めるに相違ないドレイン能力を長高密度で圧縮された霧の渦は、あっけなく雲散霧消。
ウルスラはいつも通りの青に目に戻り、フィオナみたいなぼんやりした呑気な表情で、すたすたと俺へと歩み寄ってきた。
「もうそんな時間か。そういえば、腹も減った気がする」
耳に届いたのは、正午の時刻を告げる教会の鐘の音。
ゴブリンの襲撃があったその日の内にウルスラとやって来た村のすぐ外の街道上は、小さいながらも聞き間違えることはない程度にははっきりと、鐘の音は聞こえてくる。
気が付けば、あの日からちょうど、一週間が過ぎていた。
「あんなクロエ様、見たことないデス」
つぶやいた声は、自分でも驚くくらい刺々しかった。
私は今、村はずれの街道上で繰り広げられるウルとクロエ様の模擬戦じみた訓練を眺めている。こっそりと、二人には気づかれないように。
こんな盗み見みたいな真似を私がしているのは、純粋に好奇心。というか、気にならないはずがないのです。
ウルが自分の『呪い』について、これまでどれだけ思い悩んできたのか、私はよく知っているし、とても重大なモノであることも理解している。誰ちゃんが誰くんを好き、みたいなくだらないクソガキの秘密とは大違いなのです。
そんな絶対秘密の悩みを、今、クロエ様が解決しようとしている。果たして、それがどういうモノであるか、私には全く想像もつかない。あの得体の知れない、恐ろしく強大な呪いの力を、一体どうやって抑えようというのか。
少なくとも、偉そうに威張り散らすだけの教会のクズ共は何もできなかった。ああ、今思い出しても腹が立つ。呪いだ悪魔だと騒ぎ立てて、ウルのことを殺したいだけの連中……奴らが首からぶら下げたご立派なロザリオをケツの穴にぶちこんで神とファックさせてやるです。今の私なら、それくらいのことはできる。
そんなことより、問題なのはウルの呪いを本当にどうにかできるかのという話。
ついこの間までの私だったら、無理だと言い切っただろう。アレは馬鹿な大人が訳知り顔で、興味本位につついていい代物ではない。そういう奴は呪いに食われて骨になればいいです。
だからニコライ司祭様は『何もしない』という最も賢明な手段を選んだ。私にとってもウルにとっても、実際、ソレが一番だったことは疑いようもない。
でも、クロエ様……あの人なら、もしかしたら本当にウルの呪いを何とかしてくれるかもしれない。不思議と、素直にそう信じられるのです。
それはきっと、私自身がクロエ様の強さを確かめているから。毎日、剣を交わして、自分でも分かるほど加速度的に強くなっていく私でも、まるで追いつける気がしない。その絶対的な強さが、私にこれ以上ないほどの安心感を与えてくれる。
だから、不安はない。今日、こうして覗き見に来たのも、気持ち的には「何をしているのか気になるデス!」くらいに過ぎない。
そうして私は、呪い克服の訓練が始まってちょうど一週間目の今日この日、いよいよ我慢できなくなり、こっそり様子を見てみようと決めたのだ。
まず最初にやったのは、教会に残るシスター・ユーリに協力を頼むこと。正直、コレが最大の難関だと思っていたけれど……
「分かりました。二人を見に行くとよいでしょう」
あっけなくOK。私の悩みはなんだったのでーす。
おまけにシスター・ユーリ、時刻を告知する鐘を鳴らすのも自分がやるから、時間を気にせず見学してくるといい、とまで言ってくれた。至れり尽くせりです。
正直に打ち明けると、私は彼女のことが苦手だ。何を考えているか全く分からない無表情でいて、聖書で描かれる天使のような美貌を持つシスター・ユーリは、気さくに接するにはあまりに近づき難い。
クロエ様はクールに見えて、かなり感情が分かりやすいから、凄く話しやすい。それに、まだまだガキに過ぎない私にもウルにも、いつも真剣に話を聞いてくれるし、気遣ってくれるし、いちいち説教臭くて偉そうな十字教の講釈を垂れないし……とにかく、クロエ様はいい人です。
でもでも、そんなクロエ様の密かな恋人であり、あのウルスラも随分と信頼を寄せているのだから、やっぱりシスター・ユーリは悪い人ではないのだろう。ただ私が一方的な苦手意識を抱いているだけで、きっと見た目ほど冷たい人じゃない。
たぶん、私の気持ちも察してくれたから、こうして覗き見に協力してくれたに違いない。
とにもかくにも、私はこうして現場へとやって来た。
ウルとクロエ様の二人は朝から訓練へ出かける。昼食もその場で済ませるから、二人の弁当、といってもパンとチーズと昨晩のオカズをバスケットに詰めただけですけど、それを用意するのがここ一週間で私の仕事になっていた。
帰ってくるのは夕方。一日中ウルとの訓練に時間を費やして、司祭としてのお仕事は何一つしていないけれど、どうやら村長とは話をつけているようです。あのランドルフというギャング上がりのオジさんは、ウルの呪いのことは詳しく知らないけれど、ニコライ司祭から事情がある、と前もって聞かされてはいる。だから、それほど問題なく了承を得られたのだろう――と、ウルが言っていた。私には大人の事情なんて難しいことはよく分からないけど、邪魔しないというのならそれでいいです。
そうして始まった訓練だけど、初日と二日目の頃は、今まで見たことないほどクロエ様の顔色が悪くて、酷く疲れた様子で心配したのですが、それ以降は普段と変わらぬクールな様子となったことで、不安はなくなった。やはり、クロエ様は上手くやっているのだと。
そして実際にクロエ様が何をしているのかというのを、私は今日、ついに目にすることとなった。
「クロエ様が、あんなに、本気で戦っているところなんて……」
それは、戦いであった。呪いだとか魔法だとか、そういう難しい論理は何一つ私には分からないけれど、目の前で繰り広げられているのが、ウルとクロエ様、二人の純粋なまでに力のぶつかり合いであることを、一目で理解できるです。
その戦いの苛烈さは、これまでやってきた自分と自警団員達との模擬戦訓練がお遊びだと思える。初めての実戦となったゴブリン軍団の迎撃でさえも、全く比較にならないほど高度な戦闘。二人の戦いは、そこに一切の説明や講釈なんてなくても、私にあまりに多くのことを教えてくれた。
まず、ウルの『呪い』がどれほど強力なものであるか。角の生えた女の白い影が出ているところなんて、初めて見たです。
その正体が何のか全く分からないけれど、もしアレが出ていれば、ウルが引き起こした最初の事件で、私も含めてあの場に居た全員が死んでいた、というのは分かる。
こんな遠くから眺めていても、その力の恐ろしさとおぞましさで、自然に鳥肌が立ってくる。ただ見学しているはずなのに、自分の体と意識が臨戦態勢をとっていることに気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。
けれど、最も驚くべきなのはウルの呪いを真正面から正々堂々と相手にし続けるクロエ様です。
女の影が繰り出す真っ白い手に当たれば、きっとクロエ様でも致命傷となるだろう。ドルトスとかいうらしい象のモンスターを骨に変えたのと同じか、あるいはそれ以上の力が渦巻いていることを、この距離からでも察せられる。
そんな攻撃をクロエ様は、まるで先が見えているかのように避け、剣で切り払い、時には黒く迸る魔力のオーラで弾く。
これほどまでに鋭い回避をとるのを、私は見たことがない。振るった剣閃を彩る漆黒に、真紅の輝きが混じる一撃――あれが武技なのか。これも、見るのは初めて。
そして、クロエ様が行使する数々の黒い魔法。体から発するオーラも、大蛇の群れのように蠢いては霧の魔の手を受ける触手も、大爆発を起こす矢のような一撃も、どれ一つとして、私との模擬戦でクロエ様が使ったところを見ていない。いや、彼から引き出すことができなかった。
先週まで、すっかり習慣となったように行われていた模擬戦において、クロエ様はどこまでもただの剣士としてしか振る舞っていなかった。武技も魔法も使わない。実力を隠していたんじゃない。単純に、私達がそれらを彼に振るわせるには全く実力が追いついていないから。
だから決して、クロエ様が悪いわけではない。むしろ、適切な力量に調整した彼の絶妙な手加減に感謝と賞賛の声を送るべき。
そして、私の弱さも、責められるべき罪ではない。弱くて当たり前。まだ子供、そして一応は、こんな私でも女の子です。自警団の男を相手にしても余裕で勝てるほどに成長したことは、きっと他の人からみても良くやった方だと思えるだろう。
「クロエ様……レキじゃ、ダメなんデスか……」
でも、泣きたくなるほど胸が苦しくなるのは、どうしてだろう。
これが仕方のない状況だと、私はちゃんと分かっているはずなのに。私はちょっと剣の扱いが上手くなっただけのただの子供で、ウルは強大な力を秘めた特別な子で、そして、クロエ様は全力で呪いを抑えようと戦っている。
それの一体、どこにケチをつけようというのか。何が、不満だというのか。
「何で……レキの方が、先にクロエ様と戦ってたのに……」
ああ、そうか、私は――嫉妬、しているんだ。
強くなることが楽しかった。強くなれると嬉しかった。こんな喜びを、私は今まで一度として経験したことはない。
目標はクロエ様だった。あまりに高く、遠い目標だけど、他の者は眼中に入らないほど夢中になれる、強い人。
早く彼に追いつきたい。少しでも、彼から力を引き出したい。
昨日は飛んでこなかった一撃を出された時、私がどれだけ嬉しかったか。クロエ様が私に反撃するのに、容赦なく蹴りをくれるようになった時の達成感たるや。
クロエ様の一挙一投に、私は一喜一憂する。どの攻撃に驚いてくれたか、どんな動きを見切られたか。私はいつも戦いの中、つぶさに彼を観察する。まるで、この世界に二人きりになってしまったと錯覚するほどに集中。一心に、クロエ様だけを見つめて――そうして、私は強くなった。
ゴブリンが何体いても負ける気はしないし、ドルトスだって、次はもっと上手く仕留めてみせる。確かな成長の実感が嬉しい。それをクロエ様に認めてもらうと、頭を撫でられて、よくやった、と言ってもらえると、もう、体が溶けてしまいそうなほどに、嬉しいのです。
「これじゃあ……バカみたいデス……」
ウルとクロエ様の戦いは、私の努力と成長と喜びとを、底から全部引っくり返した。
水汲みの桶一つ持ち上げるだけで精一杯な非力なウル。大人しいウルに目をつけて悪戯するような悪ガキをぶちのめすのは私の仕事。ウルは一度も喧嘩なんてしたこともなければ、誰かを叩いたことさえない。
私がウルを守ってきたから。
そして、守られていたはずの彼女は、私を一足飛びに飛び越して、遥か先へ――私が願ってやまない、クロエ様の本当の力へと、辿り着いていた。
自分の弱さを認められない? 違う。
ウルの強さを認められない? これも違う。
「くっ……う、うぅ……」
何故か、ぼんやりと潤んだように霞む視界の向こうで、ウルがクロエ様の膝の上に座って、私がこしらえたパンを食べている姿が映った。
何を話しているのだろう。ここからでは流石に聞こえない。
でも、ウルは誰が見ても分かるほどに微笑んでいて、クロエ様は、見つめられればドキリとするほど優しい眼差しをしていた。
私はもう、見ていられなかった。楽しげに笑い合う二人の姿に、耐えられなかった。
「う、ううぅーっ!」
溢れた涙は、敗者の証。
どうしようもなく、悔しくて、苦しくて。けれど、誰のせいにもできなくて。
私はただ、二人に気づかれないよう、必死に声を押し殺しながらこの場を立ち去るだけで、精一杯だった。
2014年4月25日
大変申し訳ありません、予約投稿のミスで金曜日に投稿することができませんでした。