第491話 象騎兵
「レキ、お前も戦え。今は一人でも多く、戦える者が欲しい……できるな?」
避難の鐘が鳴り響き、続々と村人達が教会へ集まってくる中、クロエはレキにそう言った。彼女の答えは勿論、決まっている。
「できます! レキ、やるデス!!」
頼られることが、何よりも嬉しかった。彼女にとって唯一の不安が、他の子供たちと一緒に、教会の中で大人しくしていろと言われることだ。それはつまり、短いながらも密度の濃い訓練に打ち込んできた努力が否定されるということ。所詮は子供のお遊びだったと、言われるも同然。
だから、自分が頼むまでもなく、クロエから「戦え」と言われたことが、嬉しい。喜びの余り、叫び出したいほどに。
「いい子だ。けど、無茶はするなよ」
そうして優しく頭を撫でられると、もっと嬉しくなった。子供扱いされることは、ウルスラの姉貴分を自称するレキにとっては喜ばしくはないのだが、何故だろう、クロエにされると嫌ではない。
自分でも感情を持て余すほどに胸を躍らせるレキであるが、それでも、しっかりと配置の指示を聞き、滞りなく装備を整え終わった。
レキの持ち場は、ゴブリンが集結している正門とは反対側の門である。いきなり最前線に立たせないのは、クロエの配慮だろうことを子供ながらにも分かっていた。戦場に立たせてくれただけで十分であるし、それに、裏手にはレキの他にも何人か自警団員が配置されている。警戒の必要性はある。そして、戦闘が起こる可能性もまた、あるのだ。
心配そうなウルスラと、いつもと変わらぬ無表情のシスター・ユーリの二人に見送られて、レキはこの場にやって来た。といっても、小さな村だ。教会の建つ中央広場から、防衛線となる柵まで、数百メートルしか離れていない。もし、ここを敵に抜かれればお終いである。
「なぁ、おい、正門じゃあ、もう戦いが始まったっぽいな」
「だな、何か凄ェ音してるけど……大丈夫なのかよ」
自警団とはいうものの、特に実戦経験もないただの農村出身の青年達は、頬に緊張の汗を流しながら、どこか不安げに話し合う。ソワソワとしきりに周囲を見たり、手にした槍を何度も持ち替えたりと、実に落ち着きのない様子。
「クロエ様がいるから、絶対に大丈夫デス!」
しかし、最年少のレキがこの場で最も堂々としていた。
与えられた重騎士のハルバードを仁王立ちでドンと構え、腰からは長剣とナイフをそれぞれ下げている。装備だけで見れば自警団よりも上等であるが、レキの実力を知っているが故に、団員から不満の声も出ない。もっとも、子供用の鎧なんてのはないため、防具はいつもの修道服であるのだが。
そんな彼女の純粋ともいえるクロエへの信頼は、他でもない、自分自身が彼の強さを体感しているからに他ならない。
自分でも、日々の成長を実感できる。間違いなく、昨日よりも今日の自分の方が強いと断言できる。訓練を始める前と比べたなら、もう、世界そのものが違って見えるほど。
それでも、クロエの足元にも及ばない。それはまるで、遥か雲を突き抜けてそびえ立つ大山脈に、ようやく一歩を踏み出したような感覚だ。彼の真の実力に追いつくまで、それほどの高みに上り詰めるまで、一体どれほどかかるのか、全く想像もつかない。
「まぁ、クロエ様、マジで強ぇからな」
「おう、めっちゃ強ぇから大丈夫か」
レキほどでなくとも、彼らもクロエの超人的な戦闘能力を日々目にし、身を以て体感もしている。この村の自警団員は、下手な騎士よりも遥かにクロエの力をアテにするだろうことは、疑いようもない。少なくとも、三十人で同時にかかっても余裕で返り討ちにできる人間を、彼らはクロエ以外には知らないのだから。
多少は落ち着きを取り戻した自警団員達と、遠くから響いてくる戦いの喧騒を聞きながら警戒を続けて、少し経ってからのことだった。
「――っ!?」
最初に気配を察したのはレキ。だが、何か声を出す前に、敵は姿を現した。
「うおっ、マジで出やがった!」
「おいおいおい、勘弁してくれよ、結構いるじゃねぇか!」
街道の脇に広がる森から、ゾロゾロとゴブリン達が飛び出してくる。十、二十、三十――恐らく、五十体ほどの集団だろうか。
「ゆ、弓だ! おい、早く弓を撃て!」
幸い、ゴブリン部隊には弓などの遠距離攻撃武器は装備されていない。彼らにできるのはせいぜい、投石くらいであろう。
「近づくまでに、できるだけ数を減らすんだ!」
「よく引きつけて撃てよ、どうせ俺らの腕じゃあ遠くにゃ当たらねぇからな!」
そんな注意を互いに呼びかけながら、速やかに弓を手に構えることができたのは、少なからず日々の訓練の賜物だろうか。クロエは実戦的な模擬戦だけでなく、村の防衛を想定した訓練も何度か行ったことがあった。
柵に押し寄せてくるモンスターの群れを弓で削るというのは、誰でも分かる当たり前の戦術であるが、実際に想定して練習しておくのと、ぶっつけ本番とでは雲泥の差がある。
自警団員達も、自分の村を守るために誰もが必死。乏しい訓練経験をあまり出来のよくない頭で思い出しながら、彼らは迎撃態勢をとった。
敵の登場に混乱を起こさなかった自警団員達は、この五十ほどのゴブリン部隊を迎え撃つことは十分に可能であっただろう。しかし、彼らを嘲笑うかのように、決定的な敵戦力がここで投入される。
「な、なんだよ、あのデケぇヤツは……」
「象のモンスターがいるなんて、聞いてねぇぞ!」
灰色の巨体が、木々を押しのけるように森から姿を現した瞬間、誰もが絶望する。シンクレアでは見たことのない、大きな象のモンスター。その背にゴブリンを満載していることから、たまたまこの場に現れたわけではなく、蔦の手綱を握っていることから敵が完全に従えていることは明らか。
その姿はさながら、東の大帝国ドラグノフが繰り出したという象騎兵を彷彿とさせる。
「こんな人数じゃ止められねぇ! おい、お前、呼びに行け!!」
一人が慌てて正門側へ伝令に走り出すと同時、この場の全員が思い描いた通り、ゴブリンの駆る象騎兵は、真っ直ぐ門の正面を向いて、突進の構えを見せた。
「く、来るぞっ!!」
門が破られたのは、一瞬の出来事であった。
その大きな体から信じられないほどの速力でもって突進を始めた象騎兵は、まるで山の斜面を転がる落石。散発的に放たれた矢如きで、その勢いを止められるはずもない。
ロクな迎撃を加えることもできず、自警団員達はその場を逃げ出すような勢いで、門の周辺から散っていった。
「……シット」
砕け散った門扉の破片がすぐ脇を飛んで行くのを感じながら、レキは堂々と村への侵入を果たした象騎兵を睨んだ。
バルバドス人特有の赤眼は炎が灯ったように爛々と輝き、手にした鋼鉄のハルバードの重みを忘れる。
子供でも一目見て分かるほど絶望的な状況だが――不思議と、恐れはなかった。
高鳴る鼓動を感じながら、レキは静かに、一歩を踏み出した。
「ギュゥエエエェーっ!!」
耳障りな甲高い鳴き声を発しながら、破られた門から後続のゴブリン部隊が続々と流れ込んできた。
象騎兵はドラグノフとの戦記にある通り制御が難しいのか、突進で門を破った後、その歩みを止めて一旦落ち着かせるのに、ゴブリンが手綱を引っ張りどうどうと苦心しているところが見えた。再び方向を定めて、中央広場に向けて進みだすまでには幾許かの猶予がある。
もっとも、その隙を雪崩れ込んできた五十のゴブリン歩兵が埋める。
幸いなのは、そこまで統率がとれていないことか。全員で一気に自警団員に襲い掛かることはなく、ある者は近くの家屋に強奪目的か押し入ったり、火のついた松明を投げかけ破壊活動をしたり、真っ直ぐ中央広場へ駆け出す者など、動きがバラバラであった。
それでも、少なくない数が自警団員との戦闘を始めており、無論、その一員であるレキの前にも、ゴブリンが現れた。
一見して子供と分かるレキを、与しやすい相手と思ったのか、他の自警団員よりも多くのゴブリンが彼女の下へ集まってくる。仲間は目の前の敵に精一杯で、とても助けは期待できそうもない――なんてことを、今のレキは欠片も考えることはなかった。
「ダァーイっ!!」
故郷の言葉で『死ね』を意味する単語を叫びながら、レキは思い切り眼前のゴブリンにハルバードを振るった。
彼女の脳裏に思い描かれるのは、クロエとの模擬戦。今、繰り出した一撃はお世辞にも良い、と褒められたものではないことをレキは自分で理解している。つい勢い余って、ただの力任せで武器を振るってしまったと。
こんなキレのない攻撃、クロエは難なく避ける。見てなくても避けるだろう。真後ろから放っても、命中するイメージは全く抱けない。
しかし今、目の前にいるのは強くて優しくてかっこいい超人的な司祭様ではなく、ただの野良ゴブリン。
クロエなら、もうとっくに動き始めているだろうタイミングでも、ゴブリンは身に迫る攻撃に全く気付いていないかのように微動だにしない。まるで、そうするのが自然、当たり前だというように、ゴブリンは脳天から降ってくる鋼鉄の刃を受け入れた。
ハルバードはゴブリンの脳天から股下まで、力任せに叩き割る。硬い頭蓋骨と幾本もの骨ごと一メートル近い肉塊を斬ったが、レキの手には驚くほど軽く、柔らかい感触しか伝わらなかった。いや、正確には、レキだからそう感じたというべきか。
「ワォ」
心に殺意を、手に武器を、それぞれ持って初めて殺めた敵。
殺生、という行為が如何に重いものであるかという倫理的、道徳的なことを、レキは今まで何度も教えられてきた。いつも半分寝ながら受けていたニコライ司祭の授業であっても、覚えてしまうほど繰り返し語られた素晴らしき十字教の教え。
それがただの虚構であったことを、レキは今この瞬間、理解した。
口から漏れた冗談みたいに軽いつぶやきが、そのまま『殺すこと』の重みであった。
そう、何てことはない。まな板の上で魚を捌くのと、ハルバードでゴブリンを叩き切ることに、さしたる違いはないのだ。殺す。その行為の何と簡単なことか。
それに気づいた時、振るうハルバードはもっと、軽くなった。
「ヘイ、このファッキン共、キルゼムオォールっ!!」
薙ぎ払ったハルバードは、あっけなくゴブリン共を吹き飛ばす。まるで隙だらけの構えに、緩慢な動作。真剣の切れ味を確かめるために、試し切りした藁のカカシとそう変わらない。
いや、背丈が低い分、ゴブリンの方がずっと斬りやすい。いつも相手にするクロエは頭二つ分も大きいし、他の自警団員にしても、成人男性ならレキよりずっと背が高い。
小柄なゴブリンはちょうど自分と同じくらいの身長。こんなに斬りやすい相手は、こんなに弱い相手は、初めてだ。
奇声を上げて四方から振るわれる錆びた刃を、レキは危なげなく回避しつつ、間合いに入った者を順番に叩き潰していく。持ち前のパワーで強引に振り回されるハルバードは、正に刃の嵐。
生身に当たれば骨ごと切り裂き、運よく剣でガードしても、難なくへし折られて攻撃をそのまま叩き込まれる。
レキによる一方的な殺戮は、一分も経たずに終わる。気が付けば、周囲にはゴブリンのバラバラ死体が散らばるだけで、立っている者は自分を除き一人もいなくなっていた。
視界の端に、訓練通りに三人一組となってゴブリンに応戦する自警団員の姿が映る。助太刀に入るべきか、と思うが、すぐに却下。なぜなら、視界の端ではなくど真ん中に見えるのは、荒ぶる象騎兵が通りを前進し始める姿だ。
アレが再び走り出せば、あっという間に避難場所である中央広場へ到達する。そして万が一、あの勢いのまま教会にぶつかりでもすれば――
「やるデスよ、クロエ様……レキは、ウルを、みんなを、守るのデス!!」
レキは単身、岩山の如き巨体を誇る象騎兵に立ち向かうことを選んだ。
血塗れのハルバードを振り上げ、重々しく一歩を踏み出す象のモンスターを追いかけるように走る。突進を始める前なら、レキの足でも十分に追いつくことは可能。だが逆に一度でも走り出してしまえば、もう止める手段はない。
「やぁああああああああああああああああっ!!」
大木のような後ろ足を斬り飛ばす勢いで、レキは思い切りハルバードをフルスイング。その手ごたえは、ゴブリンの比ではない。圧倒的な重量を切り裂いていく感覚は、思わず柄を手離してしまいそうなほどに強烈。
それでも、歯を食いしばってハルバードを見事に振り切った。
噴き上がる鮮血の血飛沫。会心の一撃――だが、モンスターの巨体は傾かない。
ハルバードという武器は、斧の刃に槍の穂先を併せ持つことで、斬撃も刺突も可能としている。状況に応じて幅広い攻撃を可能とするが、その形状が前提としているのは対人戦であることを忘れてはならない。
人間、あるいは人型サイズの敵であれば一撃で十分な致命傷を与えられるが、これが中型以上のモンスターとなれば話は別である。人間を遥かに超えるサイズを持つ彼らにとって、この程度の大きさの刃によるダメージは、針に刺されたに等しい。
故に、巨大なモンスターの討伐に用いられるのは、通常よりも大型の武器が選ばれるし、そうであっても、かなり長時間に渡り少しずつ出血と消耗を強いる作戦となることがよくある。
この象のモンスターは大きさの分類的には中型といったところだが、少なくとも、レキの振るうハルバードでは、足一本を一撃で両断しきるには刃渡りが少々短かったようだ。深々と左後ろ脚に斬撃が刻まれたが、それだけでは歩みを止めるほどのダメージ足りえない。
「なら、もう一発――」
と、追撃を許すほど、相手は甘くなかった。
レキの攻撃はモンスターを激高させるには十分だったようで、凄まじい勢いで振り向き、長い鼻と牙を振り乱す。
バォオオ、という重低音の鳴き声を発しながら迫り来る大牙を前に、レキは素早くバックステップを踏んで逃れる。その離脱距離は、確かに牙が薙ぎ払われた範囲を超えている。
しかし、それだけでは不足であることを、実戦も訓練も、まだまだあらゆる経験の足りないレキには見切ることができなかった。
「わっ、おぉーうっ!?」
フワリ、という浮遊感を覚えた次の瞬間には、レキの小さな体は思い切り後ろに吹き飛ばされた。放り投げた石コロのように放物線を描いて飛翔する彼女の体は、幸いにも、分厚い雪が積もった二階建て家屋の屋根の上へと着陸する。
「ギャウ!」
雪の飛沫をあげてゴロゴロと転がったレキは、危うく屋根から飛び出しそうになったところで勢いをどうにか殺し切った。
あまり体にダメージはないこと、うっかりハルバードを手離してしまったことを確認しながら、レキは少しばかり目を回しながらも素早く立ち上がる。
だが、彼女にとって問題なのは、そんなことではない。
「うぅー、もしかしてアレが、固有魔法デスか……」
レキは間違いなく牙を避けきった。事実、体には傷痕一つない。だが、吹き飛ばされた。
それは物理的な力ではなく、魔法の力によるものだと、こうして一撃を喰らってようやくレキは気が付いた。そして体感からいって、象のモンスターが駆使するのは風の魔法。牙を中心に強風を発生させて自分を吹き飛ばしたのだと、正体を察するには十分な経験である。
「これじゃあ近づけないデース」
目に見える攻撃なら、クロエとの訓練である程度の速さまでなら見切って対処する自信がある。しかし風となれば、見えない上に防ぎようもない。
流石にまだ魔法への対処は何も教わってないし、今すぐ自分で対策も思いつかなかった。
余裕のゴブリン退治から一転、タフな巨躯と厄介な風魔法を前に倒すイメージがまるで思い浮かばず困り顔のレキ。一方の敵は、追撃に襲ってはこなかった。
レキを吹き飛ばしたことで満足したのか、それとも単純に見失っただけなのか、象のモンスターは低いうなり声をあげながら、その場でドスドスと力強い足踏みを踏んで興奮した様子。それをゴブリン騎兵が再びなだめながら、もう一度進軍しようと試みているようだった。
逃げようと思えば、今なら逃げ切れるタイミング。
どう考えても、あの象騎兵の相手は自分の分を超えている。一撃与えただけよくやったと褒められるだろうし、優しいクロエはきっと、褒めてくれるだろう。
「ノン! レキが、自分で、やるデス!」
いくらなんでも、諦めるには早すぎる。ここで逃げたら、レキは自分で自分が許せない。そう、正しく、プライドが許さない。
気合いは十分。やはり策は思いつかないが、それでも挑む。吹き飛ばされれば何度でも立ち向かえばいい。そんな気概でもって、レキは屋上から駆け出した。
しかしながら、風の影響を受けずに攻撃できるのが理想的でもある。そう思うものの、風という形のない空気の流れは、死角をカバーするのに適している。適当に風を発生させるだけで、全身を吹き抜け前後左右、どこに張り付いても吹き飛ばせるだろうことは容易に想像がつく。
それでも、強いて狙うとすれば、やはり後ろがベターであろう。頭にある長く野太い鼻は、命中すれば大男の腕で殴られるよりも強い打撃力を発揮するだろうし、あの平べったい牙の危険性は考えるまでもない。鋭い刃でなくとも、硬い牙など人体にかすっただけで容易く引き裂く。まして、レキの防具はいつもの修道服。防御力など皆無。
風を受けない安全地帯などないのだと割り切って、比較的安全な後ろ足かケツの辺りを突っ突くしかない、とレキが思いつつ屋上の縁に足を引っ掛けたその時。正に、屋上から飛び降りるギリギリの瞬間、踏みとどまった。
「……ウォウ!」
天才的な閃きが、脳裏を過った。
思いついたからには、即実行。レキは踏み込みかけた足を引っ込めて、今度は別方向に屋根の上を走り出す。
ザクザクと積もった雪を蹴飛ばしながら、通りを歩き出した象騎兵と並走するようにレキも走る。幸い、柵で囲われた村はその中に建物が密集するような作りになっているので、中央広場のあたりまで、家屋が軒を連ねている。追いかける道は十分、繋がっていた。
「今デスっ!」
慎重に距離とタイミングを図り、ついにここぞと見切りを決めたレキは、そうして今度こそ屋上からダイブした。象騎兵の背中に目がけて。
レキは閃いたのだ。ゴブリンの騎手がまたがる背中こそ、最も安全な場所であると。
「ゴーッ、ヘェールっ!!」
絶叫しながら飛んだレキは、予定通りの着地点に降り立つ。またがるゴブリンの内の一体を蹴落とし、見事に象の背中へと乗り移った。
「グゲッ、ゲァーっ!?」
突然の乱入者に、またがっていたゴブリン達は目に見えて焦っていた。濁った瞳の浮かぶ目を見開き、カエルのような大口から唾を飛ばして叫ぶ。
醜悪な混乱ぶりをみせるゴブリンを前に、最初から殺す気で飛び込んでいたレキは、迷うことなく腰のナイフを引き抜き、近くの一体に刃を喰らわせた。
大きな象の背中といっても、何人ものゴブリンが乗っていれば、ほとんど身動きとれないほどの狭さ。武器を手に大立ち回りなどできるはずもなく、彼らはロクに反撃する間もなく、レキによって刺されるか、自ら転がり落ちるかの二択であった。
同乗者のゴブリンを全て背中から叩き出したレキは、最後に残った蔦の手綱を固く握った騎手を始末する。なかなか手綱を手離さない根性はあるが、血塗れのナイフをギラリと光らせるレキを前に、彼は何ら有効な反撃手段を持たなかった。
「よくも村の門を壊してくれたデスねっ、ファッキュー!」
騎手は顔面のど真ん中にナイフを突き立てられてから、レキに蹴飛ばされて転落していった。
「イエス、やっぱりココには、風が来ないデーッス!」
天才的な閃きが正しかったことが証明され、返り血のついた顔に自信気な笑みを浮かべながら、いよいよレキは本命の大物を仕留めるべく、刃を振るった。
振り下ろされたナイフが向かう先は、象の脳天。無論、チンケなナイフを一刺ししただけでは致命傷足りえない。
長い灰色の毛と分厚い皮膚と肉。そしてその下にある強固な頭蓋骨が、固く脳みそというデリケートな弱点を守っているのだから。
「ヘーイ! ヘイ、ヘイ、ヘーイ!!」
すっかりハイになっているレキは、訓練初日に「変だろ」とクロエに突っ込まれたままの掛け声を上げながら、何度も何度も頭にナイフを刺し続ける。一点集中攻撃。傷口をより広く、より深く。この巨体を死に至らしめるまで、掘り進めるのだ。
「オウっ、ノォーウ!?」
無論、象もここまでされて黙ってはいられない。平たい牙から轟々と乱気流を発生させながら、頭上に取りついた敵を振り落さんと大きく左右に頭を振り乱して暴れ回る。足元に放り出されたゴブリン達は、象が踊り狂ったせいで次々と踏みつぶされて赤い花を雪の路面に咲かせた。
レキも一度頭上より振り落されれば、彼らと同じ末路を辿るだろうことは明らか。
激しい強風が吹き抜け、暴れ馬に乗っているも同然に揺れ動く頭上で、レキは必死に右手でナイフを突き立て、左手で手綱を握り踏ん張る。
「ああうっ!」
象の巨体が、二階建ての木造家屋に勢い余ってタックルをぶちかました瞬間、レキの小さな体は跳ね上がり、手綱を握ったままひっくり返った。
だが、最後の最後まで、手を離さなかったレキの勝利だ。
家に体当たりした衝撃か、象の動きは一瞬鈍る。その間、レキは素早く体勢を立て直し、刻み込んだ傷痕に最後の一撃を加えるべく動いた。
ナイフは今の衝撃で手放してしまっていた。残る武器は、このモンスターの上で振るうには少々不便なリーチを誇る長剣。だが、トドメを刺すにはベストな武器であった。
「ゴーっ! ファイアぁああああああああああっ!!」
逆手で握りしめた剣を、切り開いた頭の傷に向かって、力の限りに突き込んだ。
確かな手ごたえ。すでに毛皮はズタズタに裂け、幾度も突きこんだナイフの切っ先は頭蓋骨にヒビを入れていた。そうしてついに、長剣は硬い骨の守りを突破し、その先にある弱点を貫く。
「オオウっ、ワァーオオオォー!?」
腹の底に響くような重低音の断末魔を上げながら、象の巨体がひっくり返りそうなほど、大きくのけ反る。その勢いで、ついにレキは頭上から放り出された。
雪の地面に体が打ちつけられた衝撃を覚えるのと同時に、轟音を立てて象の巨躯が沈んでいた。
「あ、アウチ……」
すりすりと小ぶりのお尻をさすりながら、レキは雪の中からヨロヨロと立ち上がる。頭が少しばかりフラつくが、問題ない。打ち所は悪くなかったようだ。
そして、彼女の目の前に確かな戦果として、脳天からドス黒い血を流す象の死体が横たわっているのを見た。
「や、やった……やぁったー! コングラッチュレイショォーン!!」
「レキ! レキーっ!」
一人で万歳して大喜びのはずだったが、思わぬところで声をかけられた。振り向かずとも、相手が誰か分かる。この世で最も聞きなれた声。
「ウル!? どうして出てきたデスか!」
振り返り見れば、そこには予想に違わず、親友であるウルスラが息を切って走り寄ってくる姿が映った。
「裏にもゴブリンが出たって、聞いたから。それに、凄い音も聞こえたから……心配だったの」
危険であることは、頭の良いウルスラなら百も承知。だが、それでもこうして飛び出してきた親友の心遣いを、レキはどうしようもなく嬉しく感じる。少なくとも、危ないだろう、と叱るのは自分の役目じゃない。だから今は、目いっぱいに喜んでいいんだと、彼女は割り切った。
「ふふっ、レキは大丈夫デスよ! ほら、あんなビッグモンスターも、レキが一人で倒したのデス!!」
そう自慢げに倒れた象を前に大きな胸を張るレキは、今にも鼻がニョキニョキ伸びて行きそうなほどの表情だ。
しかし、喜びを分かち合うはずの親友の表情は、凍りついたように固まっていた。
「……ウル? どうしたデスか?」
まさか、凄惨な死体を前にドン引きされたか、と思ったが、どうやら違うらしい。ウルスラは遠く一点を見つめたまま、恐る恐るといった風に、指をさした。
「ジーザスっ!?」
示された先に、象騎兵がいた。
この敵は一体だけではなく、最初から二体いた。門が破られた後からやって来て、たった今、侵入を果たした。言ってしまえば、たったそれだけの単純なことである。
しかし、それはどうしようもない絶望の具現でもあった。
象騎兵はギラつく赤い目で荒い息を吐きながら、怒り狂った猪のように――突進を始めた。
ゴブリンの騎手が思い切り鞭を振るう。走り出した巨体は大通りを直進。レキとウルスラは、そのすぐ進路上に立っている。完全な直撃コース。
だが、レキの身体能力なら直線的な突進など、この距離、この速度であっても、まだ回避は間に合う――
「レキ……」
回避は無理だった。レキではなく、ここには、ウルスラがいる。来てしまっているのだ。
いかにレキが大人顔負けのパワーとスタミナを誇ろうとも、ウルスラを抱えて飛び退くのは難しい。突進の攻撃範囲からは、恐らく、逃れきれないだろう。
「……ごめんなさい」
ウルスラは、自らの失態を理解していたのだろう。だから謝ったし、だからこそ、その声音は泣き出しそうなほどに悲しい響きであった。
「ウルぅーっ!!」
レキはウルスラを抱えて逃げることを選んだ。無理だと分かっていても、分かり切っていても、それでも、何かをせずにはいられない。最後の最後まであがく根性を、彼女は持ち合わせているのだから。
叫びながら、傍らにあるウルスラの体へ手を伸ばしたその瞬間だった。
「――お願い、アレを消して」
風が吹いた。
否、それは真っ白い霧のような気体である。それがウルスラの全身から勢いよく迸った。
煙幕のように瞬く間に広がるが、それは竜巻のように一本へまとまってゆく。すると、腕を伸ばすように白霧の渦がもう目の前に迫った象騎兵を包み込んだ。
刹那、象も、その背にまたがるゴブリンも――消えた。
蒸発した、というべきだろうか。ジュッ、という肉が焼けるような音がかすかに聞こえた次の瞬間には、彼らの姿は掻き消えた。
ただ、跡形もなく、というわけではなかった。そこには、確かに恐ろしい巨大な象騎兵が存在したことを証明するように、真っ白い骨が残る。
レキは、四足で疾走中の姿で丸ごと白骨化した象の全身骨格を見たが、瞬きを一つ終えた時には、最早何の支えの力もない骨の体が、ガラガラと音を立てて路上に落ちていったのだった。
散らばる大きな骨は象のもの。その中に、ゴブリンの頭蓋骨が幾つか転がっているのも見つけた。
「ウ、ウル……今のは……ぐうっ!?」
象騎兵の肉体を丸ごと喰いつくした霧の渦は、すっかり消え失せていた。だが、ウルスラの体からはいまだに、真っ白い霧が少しずつ、だが、確実に漏れ続けていた。
そして、彼女のすぐ隣に立つレキは、この霧に包まれている。しかも、それはただ周囲に立ち込めているのではない。
よく見れば、レキを狙っているかのように霧が動いて彼女の全身を包みつつあることが分かるだろう。
しかし、急激に襲われる脱力感と、ピリピリと肌を刺激する痛みによって、レキはそこまでの変化を認識できるほどの冷静さは失われている。その混乱ぶりたるや、前に川に落ちて溺れかけた時に匹敵する。
「レキ、ごめんなさい、すぐ、離れるから!」
原因は明らか。故に、対処も単純。
ウルスラはついに地面へ倒れたレキから距離をとるべく、青い目の端に涙を浮かべた悲痛な表情で踵を返して走り始めた。
そこで、彼女はようやく気が付く。
「ウルスラ、今のは……何だ」
クロエ司祭がそこにいた。見られた。全て、見られていた。
ウルスラが秘める『呪いの力』を、最も見られたくない相手に、見られてしまったのだった。