第487話 内緒話
手紙を送って一夜明け、冥暗の月29日。
昨日のように唐突な来訪者もなく、つつがなく一日を終えた。もっとも、まだ司祭の仕事はサリエルのサポートが欠かせないほどぎこちないのだが。
「行くデス! ファイアーっ!!」
最後のお仕事は、レキとの模擬戦である。謎の掛け声をあげて斬りかかってくるレキは今日も元気いっぱいだ。
彼女の手に握られているのは、斧ではなく立派な木剣。通常のものより一回り大きい、櫂型木刀に似たタイプだ。長剣ではなく大剣の練習用に作られた木剣であるコレは、昨日の行商人のラインナップにあったので、折角だからと購入した次第である。
図らずとも、レキへのプレゼントとなってしまった。女の子相手に木剣を贈るなんて何とも色気に欠けるが、本気でそこまで気が回らなかったのだから仕方ない……というのは言い訳か。
途中で思い直し、公平を期してウルスラにもプレゼントとして本を、さらに二人共用で髪をとかすブラシを、店じまいを始めたあたりで慌てて買い求めたのだった。何とも情けない買い物シーンを村人たちに見られてしまったが、二人はそれなり以上に大喜びだったので、よしとしよう。
ウルスラは今日も買い与えた本、天使のようなお姫様と復讐に生きる狂戦士との恋物語が描かれているらしい娯楽小説本を夢中になって読んでいるし、レキはこの大型木剣を嬉々として俺に向けて振るっている。
轟々と空を切り裂いて迫る木剣は中々の迫力だが――甘い。狙いが見え見えである。
「えい! やぁ!」
「ダメだ、攻撃の繋ぎに隙が大きすぎる」
教会の裏庭、踏み固めれらた雪の上で回避のために半歩下がりながら、俺はレキの動きへダメ出ししていく。
自分用に買った普通の木剣を片手で握り、がら空きとなったレキの脇腹を軽く小突いた。
「無理に攻撃を続けようとするな。隙を晒すくらいなら、迷わず下がれ」
「ふっ!」
鋭い呼気と共に、レキは言われた通りに大きくバックステップを一つ刻んで、間合いから逃れる。子供とは思えぬほど、軽やかな身のこなしであった。
「うぅー、やっぱり全然当たらないデーッス」
「動きは段々、良くなってきているぞ。今は剣を振るという動作そのものに慣れれば、それでいい」
お世辞ではなく、レキの攻撃モーションは僅かだが、それでも確かに向上している。初日は子供のチャンバラ同然だったが、木剣を使った昨日の模擬戦は、途中で一瞬キレが良くなったような気がした。
そして今日、そのキレはより確かなものとなって、真新しい木剣から放たれていた。
「でもでもぉー、ここはやっぱり必殺技が必要じゃないかとレキは思うデース」
「あんまり武技に、夢を持ち過ぎるな」
俺だって渾身の『闇凪』で毎回敵を仕留められるとは限らないからな。というか、割と避けられたり、防がれたりされている率は高いような気がする。
「とりあえず、今は思う存分に剣を振り回してみろ」
「ハイ!」
元気の良い返事と共に、レキは大上段に木剣を構え再び突撃をかけようとした、ちょうどその時であった。
「随分と面白そうなことしてるじゃねぇか」
「あぁー! ライアン、何しに来たデスか!?」
教会の陰からひょっこり顔を覗かせたのは、ボクシングの決闘以来となる、自警団長ライアンである。レキが思い切り呼び捨てだが、気にする素振りはない。
「表の通りまで声が聞こえたからよ。レキ、オメーの犬みてぇにやかましい声がな」
「レキはそんなにうるさくないデスよぅ!」
「あ、なんだって? キャンキャンうるさくて、よく聞こえねーなー」
「シィーット! ぶちのめしてやるデス!」
まぁまぁ落ち着け、と突撃先をライアンへと変更して飛び出していこうとするレキを止めながら、俺も会話へ割って入ることにした。
「何のご用でしょうか、ライアンさん」
「あー、その前にレキ、オメーはちょっと外してくれ」
「えぇー」
「悪ぃな、頼むよ」
素直に頭を下げてみせたライアンに、流石のレキも空気を読んだのだろう。
「そこまで言うなら仕方ないデース、ちょっと休憩にしマース」
まだまだ暴れたりないとアピールするように木剣をブンブン振り回しながら、レキは教会の裏口から中へ戻って行った。
そうして改めて、ライアンは俺へと向き直る。
「用ってほどじゃあねぇんだが……一応、礼は言っておかねぇと思ってよ」
「何のことでしょうか」
「とぼけんなよ、わざわざ嘘ついてオジキから俺をかばっただろうが」
分かってはいたが、やはり一昨日の酒場での一件で間違いないようだ。
「人が一人、死のうとしていたのですから、止めるのは当たり前でしょう」
「へっ、如何にも司祭様らしいお答えだぜ。素晴らしい博愛精神ってヤツか」
そんな大げさな精神性を持ち合わせていなくても、あんな状況なら誰でも止めに入るだろう。まして、当事者だぞ。
「まぁ何にしても、俺が助けられた結果は変わらねぇ、ありがとよ。お蔭でまだ少し、長生きできたぜ」
「いえ、どういたしまして」
心からの感謝、というほどではないが、ライアンはたとえ建前だけであっても礼を示すように、俺へと手を差し出した。
その手を取って固く握手が交わされるや、ライアンは険しい表情をとる。
「何ですか、怖い顔をして」
「オメーほどじゃねぇよ」
「気にしてるんですよ、これでも」
ライアンが笑う。冗談で言ったんじゃないんだが。
「正直、オメーのことは信用ならねぇ」
それはそうだ。口先だけで命を助けたところで、俺の危険性と怪しさには何ら変わりはないのだから。
「いざとなりゃあ、俺は死んでもオメーを止めてやる。だからよ、頼むから下手なコトは起こさねぇでくれよな」
忠告というより、願望であった。ライアンはきっと、もう俺との絶対的な実力差を理解している。たとえ死ぬ気でかかってきたところで、まるで相手にはならない。
だから、願うしかないのだろう。
「ご安心ください。私はほんの一時だけ、雇われているに過ぎません。近いうちに、村から出て行きますから」
「……一応、オジキから話は聞いてる。これでも自警団長、だからよ」
「その割には、安易に喧嘩を売りましたね」
「バッカ、そりゃお前、まずは力試しじゃねーか! シャバい実力だったら、オメーみてぇな怪しいヤツとっとと追い出すっつーの」
あの時はほとんど流れでやってしまったが、ライアンなりに考えはあったのだろう。どう説得されたところで、自分で実力を確かめるまでは納得いかない、ということでもある。
どっちにしろ、命知らずなことであるが。
「それで、私の力は認めてもらえたでしょうか?」
「ちっ、確かにありゃあ兵士を何十人もぶち殺せる実力者だぜ。司祭様、アンタほどヤバい奴、俺ぁエリシオンでも見たことねぇぜ……マジで、何者だ?」
「ランドルフさんから聞いているでしょう、私は脱走兵。戦場が怖くて逃げだした、ただの臆病者、ですよ」
「正しい判断だぜ。お蔭でユーリちゃんが生きてる、だろ?」
ちくしょうめ、そこだけは大正解だよ。
「話は、もう終わりでいいでしょうか? レキが今か今かと模擬戦の再開を待ち望んでいるようなので」
視界の端には、裏口の扉から顔を半分だけ覗かせてこちらの様子を窺うレキの姿が。
気が付けば、もう太陽は半ば以上、ガラハド山脈へ没しているから、今日の模擬戦の時間もあと僅かなのである。
「お、そうだ、折角だから俺もいいか?」
これで帰るかと思いきや、ライアンはニヤリと笑いながら思わぬ提案を口にしてきた。
「構いませんが、何故?」
「俺は自警団長だぞ、毎日鍛えてんだよ。アンタみてぇな強いヤツと手合せすんのは、最高の練習じゃねぇか。へへっ、騎士学校で達人と一回模擬戦すんのに幾らかかるか、知ってるかい?」
なるほど、向上心のあることだ。戦わなければ損、という気持ちも半分くらいありそうではあるが。
「ノォー! ライアンはさっさと帰るデス! クロエ様はレキの相手をするんデスぅー!」
「へっ、オメーみてぇなガキが、こんな実力者とマンツーマンで指導受けるなんざ贅沢すぎんだよ」
「ゴーホーム!」
「うっせークソガキ!」
俺を差し置いて、二人が今すぐにでも模擬戦ならぬ実戦を始めそうなところで、ようやく待ったをかける。
そこで俺は順番待ちせず、二人とも満足のいく完璧な解決策を授けることとした。
「それでは、二人同時に相手をしましょうか」
目いっぱいに体を動かし、美味しいご飯を食べる。そして、温かいベッドに潜り込めば、最高の一日として終わりを迎えられる――のだが、レキはまだ眠りの世界には旅立たない。
「ねぇ、ウル」
「……なに?」
すぐ隣で寝ている親友も、どうやらまだ起きていたようだ。
この薄い布団と毛布しかないベッドだけれど、二人で入れば寒くはない。
「クロエ様のこと、どう思うデス?」
ウルスラが顔を向ければ、吐息がかかりそうなほど近くに、レキの真っ赤な瞳がある。
「救世主様」
「マジメに答えるデスぅ!」
頬を膨らませて怒るレキに、ウルスラは青い目をぼんやりとパチパチさせてから、言った。
「じゃあ、レキはどう思ってるの?」
「凄い人!」
「……何が凄いの?」
「ウルは見てないから分からないネ! どうやっても剣がクロエ様には当たらない、魔法みたいデスよ」
剣を交えてまだ三日。しかし、一度たりともクロエはレキにヒットを許してはいない。たまに、自らの木剣で受け流すくらいがせいぜいである。
剣の腕前、なんていうのはレキには全く分からないが、それでも、彼の動きが常人の域を軽く超えていることは理解できていた。
「それにクロエ様は、いい人デス」
「レキは、怖くないの?」
「オーウ、それを言ったら可哀想ネー。クロエ様、顔が怖いの気にしてるみたいデスヨ?」
今日のクロエとライアンの話を、実はしっかりと盗み聞きしていた。犬耳みたいな髪型は関係ないが、耳は良いのだ。
「そうじゃない。村の人はみんな、まだクロエ様のこと、怖がってる。沢山、殺したから」
「うん、でも……あの時のクロエ様、本気で怒ってたデス」
それが分かったから、レキは助けられた時、礼の言葉を口にすることができたのだ。彼は正しい理由で怒ることのできる人間であると。
「ウルも、分かるデスよね?」
「うん」
あの場に居て、彼の怒りを感じ取れぬ者などいないであろう。人間は勿論、人の言葉を解さぬモンスターさえ尻尾を巻いて逃げ出すだろう迫力だった。
「レキ達のために、本気で怒ってくれる人なんていないデスよ。だから、レキはクロエ様のこと怖くないデス」
彼女の素直な言葉はしかし、シンクレアという国の在り方を適切に表していた。
二等神民、つまり、異民族の子供如きに、本気で怒ってくれる、本気で助けようと思ってくれる人などいない。差別、と言ってしまえばそれだけのこと。
それでも、ここの村人達は同族も多くいるお蔭か折り合いもよく邪険にされることはまずない。特に、ニコライ司祭のような人物の保護を受けられた二人は幸せな方であった。ただ、純粋に親代わりとなれたかどうかといえば、否であろう。
彼は人格者であったが、同時に、敬虔な十字教徒でもあった。レキとウルスラ、シンクレアに居た頃は他にも異民族の孤児を抱えていたが――ニコライ司祭の究極的な目的は、子供たちの教化である。
たとえ異民族でも真に十字教に帰依すれば救われる。神はより多くの人々、世界全ての人間の信仰を望んでいる。そういう思想、主義の人物だったということ。
彼の熱心な信仰心から生まれた思想など子供たちは知る由もなければ理解できる道理もないが、それでも、レキもウルスラも他の子も、何となく察していた。子供の鋭い感性は、ニコライ司祭が自分達個人を見ているのではなく、異民族の子、あるいは未信者というもっと大きなくくりでしか捉えていない、ということを見抜いていたのだ。
「……クロエ様は、嘘をついている」
故に、クロエは異常なのだ。シンクレア人として、何より、十字教徒として。
「本物の司祭じゃないから、デスか?」
レキはその耳の良さを生かして、クロエとランドルフの会話を聞いていた。
彼が村を救ったその日の交渉は、しばらく言いつけどおりに例の物置小屋に隠れつづけていたために聞いてはいない。だが、その翌日。クロエが妹と鎧熊を連れて再び現れ、用心棒兼司祭として雇う、という話を、教会にいたレキは聞いたのだ。
「十字軍の脱走兵、妹のシスター・ユーリ、どっちも嘘」
そして、盗み聞きするよう頼んだのは、ウルスラであった。
「クロエ様は魔族なの」
「――っ!?」
思わず叫びそうなレキの口を、あらかじめ備えていたのか、ウルスラが素早く手で塞いだ。
「そ、そ、それって、どういうこと、デスかっ」
「差別の意識がないのは、シンクレア人じゃないから」
簡単な帰結である。クロエとニコライ司祭の違いは、さっきレキ自身が言った通り。彼は異民族の子供のために、本気で怒れる人物なのだ。
「クロエ様は十字軍が負けたことを知っていた。戦場にいたのは間違いない」
まだ十字軍敗北の報告ははっきりと公表されてはいない。だが、恐らくその通りであるというのは、先日マシュラムを探しにやって来た伝令兵との話で、ランドルフも思ったところだろう。
あの話を盗み聞きしていたのは、何もクロエだけじゃない。例によって、ウルスラがレキに聞き耳を立てるよう頼んでいた。
「どうやってこっちまで来れたのかは分からないけど、スパイの可能性はない。もしそうだったら、もっと目立たないよう潜入するし、こんな村に滞在する必要性もないから」
つまりクロエは偶然、あるいは仕方のない事情があって、わざわざ敵国の領地となっているここまで来てしまったということである。
「オーゥ、やっぱりウルは頭いいデス! それじゃあ、シスター・ユーリが妹じゃないっていうのは――」
おだてられて機嫌が良くなったのか、ウルスラは薄ら笑いを浮かべながら答える。
「シスター・ユーリは間違いなく、本物のシスター。とっても十字教に詳しい」
レキがクロエとの模擬戦に励んでいる間、ウルスラは教会でシスター・ユーリと二人きり。じっくり話す機会は、いくらでもあった。
「あれっ、じゃあクロエ様は魔族で、シスター・ユーリはシスターで……ええっ!」
さらに笑みを深くしたウルスラは、自信満々に断言した。
「禁断の恋……二人は、駆け落ちしたの」
「ワァーオ!」
顔を真っ赤にして声をあげるレキだが、よく見ればウルスラの頬も薄らと朱に染まっている。恥ずかしい、というより、興奮の感情であった。
「クロエ様は、信じられないくらいシスター・ユーリを甲斐甲斐しくお世話している。アレこそ愛がなせる業なの」
たとえば食事。クロエは自分のスープが冷めることを厭わず、必ずユーリを先に食べさせる。まだ慣れていない、ちょっとぎこちない手つきであるが、それでも懸命に食事の世話をする彼の姿には、なるほど、確かに単なる義務感や優しさといったものを越えた『愛』を感じさせずにはいられない。
レキとウルスラに世話を丸投げしてもおかしくないのに、二人に任されているのはクロエがどうしても一人で行動するという時のみ。生活における全ての世話は、一貫して彼が行っている。まるで、彼女の世話する役目は自分だけのものだとでもいうように。
それは勿論、シャワーともいえないお湯で体を拭くだけの簡易な入浴から、日に何度かは避けられないトイレまで。
普通の女性なら夫であっても男性にされるには拒否感のあることでも、ユーリは嫌な顔一つせず、いつもと変わらぬ人形めいた無表情のままクロエを受け入れていた。そして、それこそが彼女もまたクロエを愛していることの証明に他ならないだろう。
「オォーウ、イエース……」
まだ数日でしかないが、クロエの愛ある行動に思い当たる節がありまくるレキは、ますます顔を赤くし、モジモジと忙しなく毛布の中で身をよじった。
「私も、あの本を読まなかったら二人の関係には気づけなかった」
ウルスラが視線で示す先にあるのは、枕元に押し花のしおりが挟まれた一冊の本。そう、クロエが行商人から買ってプレゼントしてくれた恋愛小説である。
ちなみに、買ってもらったその日の内に読破は完了している。しおりを挟んであるのは、現在が二週目であることを示していた。
「私はこれで、恋愛とはどういうものなのかを学んだの。愛は、とっても素晴らしいものなの」
孤児院ではこのテの娯楽には早々ありつけない。ただでさえ質素倹約を旨とする生活に、さらには面白おかしく男女の色恋を書きたてる娯楽小説など、敬虔な十字教徒であるニコライが許すはずもなかった。
それは恋愛事に興味津々な女子達からすれば、特にストレスの溜まる禁止令でもあった。
「レキも読んでみたいケド、そんなに字がイッパイの本は読めないデース」
「一緒に読めば、大丈夫」
ただし、二週目が読み終わってから。今夜すぐに読み聞かせをするわけにはいかないようだった。
「うぅー、何だかウズウズして寝れなくなっちゃったデスよ」
見習いとはいえシスターの朝は早い。夜更かしは厳禁。
しかしながら、気持ちよく寝つけるには少しばかり無理のある刺激的な話を聞いてしまっては、後悔しても遅い。
「……じゃあ、私の手、握る?」
「イエス!」
レキは嬉々として、自分よりもちょっと冷たいウルスラの手を毛布の中で握りしめた。
そうして二人はしばしの間、目を瞑り、口をつぐんで静かに過ごす。しかし、不意にウルスラはつぶやいた。
「ねぇ、レキ……もしクロエ様が私の『呪い』を知ったら、それでも、優しいままでいてくれる、かな」
親友からの返事はなかった。聞こえてくるのは、スースーという安らかな寝息だけ。
「おやすみ、レキ」
そっと手を振り解いてから、ウルスラは今度こそ眠りにつくのだった。
「――その頃になると、ちょうど夏が始まるって時期だった。ああ、そうだ、こっちじゃアイスもかき氷もないっていうから、自分でアイスキャンディー作ったりしたよ」
「材料は果実と砂糖。調理は下級の氷魔法が使えれば、現地での製造は可能。妥当な判断」
「そうだろ、即興にしては結構上手くいったんだ」
「農村は都市に比べて嗜好品の流通量は極端に落ちる。アイスキャンディーのような甘味は歓迎される」
「ああ、みんな美味いって喜んでくれた」
ベッドの中、サリエルと同じ枕に頭を乗せて思い出話を聞かせるのもまだ二日目だが、その内容はイルズ村での生活が安定し始めた頃にまで進んでいた。
夜、寝る前に軽く聖書の内容についてサリエル先生から個人授業を受け、ベッドの中では交互に思い出話を打ち明け、適当なところで眠りにつく。
俺がこの二日で学んだ内容といえば、聖書は神代紀と古代紀の上下巻で、その内容はタイトル通り、神代の時代と古代の時代、それぞれの時代で何があったかを書いた歴史書であるということ。
もっとも、神様が如何に素晴らしく偉大な存在であるかを過剰にアピールされているため、どこまでが真実であるのかは不明だ。十字教にとっては、全て真実とされているだろうが。
それはさておき、旧約聖書と新約聖書と構成的には似ている。執筆者は勿論、一人ではなく、その時代ごとに生きた高名な聖職者や聖人によって書かれた書物を一つにまとめて一冊の本としている点も共通している。古い資料の寄せ集めなのだから当たり前かもしれないが。
あとは、司祭の仕事で頻出の箇所を重点的に教えてもらったくらいで、具体的に十字教の歴史をイチから知っていくのはこれからである。
「それで、アイスを作ったお蔭でフィオナと――いや、この話は明日にしよう」
魔女フィオナとの出会いは、なかなかにインパクトのあるものだったからな。話せば持ち時間をいっぱいまで使い切ってしまいそうだ。
「私の番」
「ああ、最後の機動実験を受けるところ、だったよな」
サリエルの思い出話はまだ、人体実験を受けている頃の話だ。俺は途中で逃げ出したが、サリエルは最後までやり通したのだから、実験期間は比べ物にならない。
しかしながら、やはり今のところ聞いた限りでは、俺の実験と大きな違いなどはないように思えた。本当により長期間、機動実験という名の実戦経験を積んでいるだけといったイメージだ。
強いて言えば、現代魔法や武技といったスキルを叩き込まれる鍛錬が入ったくらいだろうか。だが、それらも俺が実験を続けていればいずれ受けたであろうものだ。少なくとも実験部隊の奴らは、まず間違いなくその訓練課程を経ている。
サリエルを使徒にまで仕立て上げる秘密は、まるで見えてこない。どうやらサリエル自身も、何がキーとなって使徒として覚醒したのかは理解していないようだ。
やはり、秘密を知るのは元凶であるジュダス司教、アイツただ一人なのだろうか。
「最終機動実験は、私と6号と24号の三人」
「知っている。あの時に見た」
サリエルのナンバーは13だ。俺は49だったけど、不吉な数字の奴の方が生き残るとは、皮肉な話である。
「二人は別の区画で実験されていたと推測される。会ったのはその時が初めて」
「まるでトーナメントの決勝戦だな」
人造人間サリエルシリーズは、最も大きい実験番号が30だったことから、少なくとも三十人はいたことになる。1号の個体は実験最初期の段階で目撃しているので、最初の何人かが欠けているということもない。
サリエルは俺と同じように、モンスターの他にも同じ実験体と戦わされ、その度に殺し生き残ってきた。1号と30号は、その時に殺したナンバーであったという。
しかしながら、三十人全てが一堂に会したことはなく、サリエルの推測からいって、どうやら十人ごとに別々の区画で管理されていたということらしい。
実験の後半になってくると、実際のダンジョンを用いたより本格的な実戦訓練なんかも取り入れられた。冒険者パーティのように、同じ実験体何人かと組んで攻略することもあった。
その時は、しばらくパーティプレイだけが続いたという。同じ顔、同じ体、同じ訓練を受けながらも、彼女達にも個性があったらしい。実験後期となれば当然、元の人格は消滅、この13号サリエルも白崎さんの人格が消え去って久しく、みんな無表情無感情の人形集団だ。
それでも、違いがあるのが分かったという。可愛らしい小動物のようなモンスターに興味を示す者や、複雑なダンジョントラップの解除をいつも他のメンバーに任せる者、食事をやけに沢山食べる者――自然と見えてきた。
全く同じ容姿であっても、一目で個人と性格を把握できる頃になると、ダンジョン攻略訓練は終了した。
次の訓練は、メンバー同士の殺し合いだったと聞いたのは、昨日の話である。
「6号は接近戦に優れていた。当時の私を超える技量を持っていましたが、乱戦には不向きだったので、24号の攻撃を利用して隙をつき、殺害に成功しました」
サリエルの鋭い手刀が6号の首をザックリと切り裂くシーンを、俺は見ている。
「24号は攻撃魔法に優れていた。こちらも、私の能力を超えていた。しかし、間合いを詰めることに成功すれば、仕留めるのは困難ではありません。彼女は遠距離で敵を一方的に殲滅する魔術士クラスとして鍛えられたようでした」
吹き荒れる爆炎を突破して、サリエルの『スティンガー』が急所に炸裂するところも、見ている。俺もサリエルと一対一での決闘となった前の戦いを思い返すと、他人事には思えない死に様である。
「結局、武技と魔法のバランスをとったお前が最強だったということか」
「はい、同じ条件で繰り返したとしても、私の勝率は二人を上回ると推測できる」
恐らく、サリエルシリーズを三つのグループに分けていたのは、それぞれ違う方針で育成したからだろう。武技特化、魔法特化、万能型の三類型。
「私が使徒として覚醒したのは、最終機動実験から体感で一週間ほど経ってから。その間は、特に投薬や手術はなく、また、他の実験もなく、基礎的な検査のみでした。それ以外は一日のほとんどを眠って過ごしていたので、その間に何が起こったのかは記憶にありません」
「加護の論理からいえば、その時点でお前には加護を授かる条件をクリアしていたんだろう」
長年の、総合すれば三年間ほどらしいが、その間に行われた実験に紛れて条件を随時達成していったのか、それとも最終機動実験を終えた瞬間に絶対条件をクリアしたのか、定かではない。
「お前は覚醒したのを、どうして知ったんだ?」
「神の声を、聞きました」
どうやら、黒き神々と同じようだ。
「何て言っていた?」
「第七使徒の位を授ける、という一言のみ。神の声はそれ以降、一度も聞いていません」
長々と路地裏でミアちゃんとお喋りしていた俺とは大違いである。あの子は特に何もなくてもいきなり現れたりするし、ちくわパンくれたりもする。
それにリリィとフィオナも、それぞれ夢の中で神の世界に招かれ、そこで『妖精女王イリス』と『黒魔女エンディミオン』に会い、はっきり会話をしたと語っていた。
しかしながら、神と会話を成立させるほどの接触があるほうが稀だという。ほとんどの場合は、加護を授けるという一言だけ一方的に聞かせる、あるいは、ドラゴンなどモンスター系の神だと姿を一瞬目撃するだけ、というものらしい。
それを思えば、サリエルの加護授与の瞬間も通常通りといえるだろう。
「加護を授かったら、はっきり変化は感じたか?」
「はい。全身に満ちる白色魔力が使徒になる前から大幅に増加していました。戦闘状態へ移行すれば、増加率はより上昇」
戦闘状態というのは、あの白銀オーラを発している状態のことだ。封印状態のアイはオーラを出してこそいたが、あの時はまだ三人で正面から戦える程度の強さであったことを思えば、強化の度合いは単純に見た目だけでは測れないところもあるだろう。
「しかし使徒最大の強みは、白き神より無限に白色魔力が供給されることによる魔力欠乏の克服」
「でも人間の体は、無限の魔力行使には耐えられない」
「はい、だから私は貴方に負けた」
「俺達に、だ」
正直いって、『妖星墜』を当てた時点でサリエルはかなり消耗していたから、あとはスパーダ軍の数で押すだけでも倒すことは十分可能だっただろう。
もっとも、そういう時のために『天送門』があるんだろうが。ジュダス曰く、サリエルは引き際の知らない猪武者らしいし。
「まぁいい。それより、使徒には無限魔力の他にも、何か特殊な能力があるんじゃないか?」
例えば、ミサの『聖愛魅了』のような現代魔法の枠を超えた効果を持つ魔法。ああいうのは自前の原初魔法だと考えるよりも、使徒として与えられた神の魔法の一つだというほうが可能性は高い。
「はい、十二人の使徒にはそれぞれ異なった特殊能力があるとされています。しかし、人造の使徒である私にはありませんでした」
「ジュダスが、お前を最弱だと言っていたのはそういう意味か」
サリエルは使徒として全員共通の基礎能力しか与えられていないということだ。改めて考えれば、サリエルは『聖十字槍』の武技を中心に、『杭』、『戦杭』といった隙の少ない略式攻撃魔法で攻める、速攻型の魔法剣士みたいな戦い方である。
ミサの魅了やアイの『神聖元素』、リィンフェルトの『聖堂結界』のような特殊な系統の魔法は使わない。光の翼が出る『光翼神盾』はかなり特殊に見えたものの、効果としては光属性の上級防御魔法をさらに強力にしたような単純なもの。魔力と魔法の才があれば、加護がなくとも再現できる類のものだろう。
「……他の使徒は、一体どんな能力を持っている」
「詳しいことは、私も知らされていません。特に、第一から第五の位を持つ使徒の力は一切不明です。しかし、彼らが他の使徒よりも一線を画す最上級の力を持つことは、間違いありません」
うわ、聞きたくねぇ、そんな話。頼むから、そんなヤバい奴らは来ないでくれよマジで。
「確か、使徒は国の防衛があるから全員がこっちに来ることはないと聞いたんだが」
「事実です。シンクレア共和国は現在も複数の国家と無数の抵抗組織と交戦状態にあります。実際に動いているのはパンドラ遠征のみですが、国境線ではいつ大規模な戦闘が始まってもおかしくありません」
複数の国を同時に相手する、というのは戦略上では下策も下策であるが……十字軍の規模を考えると、それだけで干上がるほどヤワな国力ではないのだろう。
あるいは、その国境線とやらも大した人数を配置しなくても、使徒を一人だけ置いておけば防備は完璧となるお手軽さもあるのかもしれない。それなら確かに、使徒は国土防衛の要となる存在だ。
「私の替わりとして派遣されるなら、第六、第九、第十のいずれか一名の可能性が高い」
「お前の仇討ちに来ようってヤツは、一人もいないのか?」
「……分かりません」
「アイとミサと、あと、金髪の美少年みたいなヤツとは、割と仲良さそうに見えたんだが」
記憶の中で、彼女達はかなりフレンドリーにサリエルへ話しかけていた。対するサリエルの反応はいつもと変わらぬ調子ではあったが。
少なくとも、憎まれているようには見えなかった。
「私は、人の気持ちが分かりません。自分がどう思われていたか、考えたこともありませんでした」
「これからは、少しは考えてくれよ。今は、レキとウルスラの同居人もいるんだ」
「人間が社会で生活することにおける協調性の重要さは、白崎百合子の記憶から、今は理解している」
空気を読む、というのを重要視するのは、日本人である白崎さんなら持っていて当たり前の感覚だろう。というか、彼女は俺みたいな男を好いてくれる天使みたいな子だ。普通の女の子よりも、ずっと寛容で優しい性格の持ち主に違いない。
もしかして、周りのみんなに顔のせいで恐れられる俺を憐れんで好きと言ってくれたとか……ないと思いたい。信じてます、白崎さんのこと。
「いや、それよりも話を戻そう。知りたいのは、お前の替わりに来るだろう使徒の能力だ」
「残念ですが、私も三人の能力の詳細は知りません。私がある程度の能力を把握しているのは、第十一使徒ミサと第十二使徒マリアベル」
なんと、ミサ、あの女の能力を知っているのか。
単純に敵討ちとして殺してやりたい使徒ナンバーワンだが、そうでなくとも実際にパンドラ大陸に現れたことを思えば、再び出現してもおかしくない。アイと並んで、神出鬼没として最大限に警戒の必要な相手だ。
「アイツの能力は何だ」
「彼女は――」
その時、鈍い音が響いた。ドン、ドン、という打撃音は、教会の正面扉が叩かれてる音に違いない。
「ぉーい、おーい! 司祭様ぁー! クロエ司祭様ぁーっ!!」
激しいノック音に混じり、男が大声で叫ぶ声も聞こえてくる。
「な、何だよ一体……」
どうやら俺を呼んでいるらしいが、こんな夜中――といっても九時か十時といったところだろうが、それにしても、悩みに耐えかねて懺悔に来ると決断するには遅すぎる時間であろう。
いや、逆だ。こんな夜中に俺を呼び出すほどの緊急事態が発生したと、考えるべきだ。
まさか十字軍……いいや、自分の領地の村へ夜襲をかける意味などない。とすると、モンスターの襲撃だろうか。
「ちょっと行ってくる」
とにかく急ごう。
サリエルをベッドに残し、俺は眼鏡だけを装備してガウンみたいな寝間着姿のまま教会の正面扉へ向かった。部屋を出てから、灯りを持ってきていないことに気付いたが、まぁ、礼拝堂を抜けて扉へ向かうだけなら問題ない。窓から入る月明かりだけで、俺の目には十分だ。
「司祭様ぁー! お願いです、起きてください!!」
礼拝堂までやってくると、かなり焦った様子の大声がうるさいくらいに聞こえてくる。その慌てようから、次の瞬間にはドアを蹴破って侵入でもしてくるんじゃないかという雰囲気だ。
壊されては堪らん、と俺は急いで扉を開いた。
「こんばんは、こんな遅くに一体どうしたというのですか」
努めて冷静に、俺は声をかけた。
「ああ、司祭様、良かった! た、大変なんです、今すぐ来てください!」
目の前の取り乱す馬面の男には、見覚えがある。彼は確か、ライアンの自警団仲間の一人。ボクシング試合の時にレフェリー兼アナウンサーを務めていたバルバドス人の青年だ。特徴的な赤眼が、あまりの動揺に激しく泳いでいる。
「ええと、貴方は確か」
「テッド! 俺はテッドです!」
「それでテッドさん、そんなに慌てるとは、モンスターの襲撃でもあったのですか?」
「えっ、あ、いえ、別にモンスターは来てないです……」
予想外のことを聞かれた、というようにテッドは答えた。ふむ、どうやら村が危機に瀕しているわけではなさそうだ。
「では、何があったのですか」
「じ、実は、産まれるんです!」
「……はい?」
「俺の子が産まれるんですよぉ! もう、今すぐ、俺の息子、いや、娘なのかな、とっ、とにかく、もうすぐ子供が産まれるんです! だから急いで来てください!」
そのまま俺の腕を掴んで引っ張っていこうとするテッドに、慌てて制動をかける。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「早くしないとぉー、産まれちゃうじゃないですかぁー!」
いや、ホントにマジでちょっと待ってくれ。俺は産婦人科医ではない。どう考えても俺が出産に立ち会う必要性が感じられない。
勿論、俺には出産の介助をしたり、何か手伝いをした、などという経験は一度たりともない。あるはずないだろう。
いや待て、もしかしてシンクレアでは、出産の際には司祭が何か重要な仕事を任されている、としたらどうだろうか。ありえない話じゃない。
そして俺は、そのことについて何も知らない。聞いてすらいないのだ。
「急いでくださいよ、司祭様ぁー!」
「わ、分かりました……今から準備しますので、少しだけ、待っていてください」
そして俺は、慌てて寝室に戻る。
「助けてサリエル先生ぇー!!」
と、叫びたい気持ちでイッパイだった。
2015年3月23日
前回の第486話にて、手紙の内容がおかしい、と多くの指摘を受けましたので、修正しました。この手紙が敵に見つかって村が襲われる・・・みたいな展開ではなく、別なネタのためだけに書いた部分でしたので、指摘された内容については私が完全に失念していたことです。考えが至らなかったことを、深くお詫び申します。