第480話 悪魔の取引
「ま、まずはこちらへお掛けになってください……ささっ、どうぞ、どうぞぉ……」
やたら低姿勢でペコペコと俺に着席を促すのは、線の細い小柄なおっさんである。頭一つ分以上は俺の方がデカいため、彼の随分と寂しくなってしまった頭の上も見えてしまう。
今にも泣き叫んで命乞いでも始めそうな怯えた雰囲気に加え、おっさんの容姿とやけに目立つ黒縁眼鏡のせいで、突然リストラを言い渡された冴えないサラリーマンみたいな印象である。
この人はランドルフと名乗り、村の代表者として俺と話がしたい、と持ちかけてきたのだ。十字軍部隊をワンサイドゲームで殲滅し、さて、これからどうするか、と立ちすくんでいた俺にである。
度胸がある、というよりも、立場上仕方なく、といった感じであろう。彼の背後には縋るような村人達の視線が突き刺さっていたのだから。
とりあえず、申し出を受けるより他はなかった。
逃げようと思えば、いつでも逃げられる。ならば、可能な限り情報収集はすべきであろう。俺は開拓村とその周辺の情勢については、大雑把にサリエルから説明されたことしか知らない。百聞は一見に如かず、ということだ。
そうして俺は「いいだろう」というちょっと高圧的なイエスの返事一つだけで、ランドルフに連れられ、話、つまり状況説明と交渉のテーブルである、この部屋へと通された。
まだ新しさを感じられる白塗りの壁だが、すでにして生活感のあるこの一室は、教会である。まさかこの俺が十字教の教会に足を踏み入れることになるとは思わなかったが……恐らく、村で最も大きな建物であるここが集会場としての役割も果たしているのだろう。他意はないと思っておこう。
「ええと、まずは、村を助けていただき、どうも、ありがとうございました」
感謝の念よりも俺を刺激しないよう必死に言葉を選んでいるような礼の言葉に、とりあえず、うなずき一つだけを返しておいた。
どういたしまして、だとか、別に村を助けたわけじゃない、だとか、そういう言葉は必要ない。向こうとしては望んでいるかも、いや、真に望んでいるのは俺の真意を探ることだろうが、大人しく質問攻めを始めさせてやるつもりはない。
まずは先に、俺が聞かせてもらおうか。
「あの部隊が村を襲った理由と、状況を詳しく知りたい」
先制ジャブみたいに放たれた俺の質問に、ランドルフは少し面食らったような表情をしたが、緊張のあまり額に浮かぶ汗を毛皮のチョッキのポケットから取り出したハンカチで一拭きしてから、大人しく回答をくれた。
「ええ、と、そ、そうですね……何でも、急いで本国へ帰還するから道中に必要な物資を提供しろ、とですね、いきなり命令されたわけでして、はい」
いちいち俺の顔色を窺いながらおっかなびっくり言葉を紡ぐランドルフだが、それでも説明内容そのものは的確であった。
ちょうど俺が村を監視し始めたより少し前に奴らは何の先触れもなく現れ、物資を求めた。しかし、すでに十字軍にガラハド攻略前に散々徴発を受け、村の食糧庫はカツカツ。勘弁してくれ、と村長が願い出たら即、斬首。そして強制徴収、もとい略奪がはじまり、そのゴタゴタの中この教会に務める司祭も斬首。後はまぁ、俺が見て、来て、殺った、通りである。
「どこの部隊か分かるか?」
「率いておられたのは、紛れもなくマシュラム様でした」
「誰だ?」
「ご、ご存知ありませんか……? 今、隣の国を攻めている十字軍の全軍を率いるベルグント伯爵閣下の、ええっと、確か、甥にあたる人物だと、聞いております」
ふーん、あの1UPキノコみたいな頭した男がね。確かに、装備は貴族のお坊ちゃんに相応しい派手な鎧だったな。
「なるほど、伯爵のか」
ベルグント伯爵の名前は知っている。フィオナが十字軍の総大将かもしれない、と言っていたが、当たりだったな。リィンフェルトが主役の攻城作戦を実行できるわけだ。
「マシュラム様は隣にある第203開拓村の補給基地を任されていたはずなのですが……それがどうして、急ぎ帰国せねばならなくなったのかは、私共としてはまるで存じ上げません」
「逃げたんだ」
「はい?」
「アイツは逃げた。十字軍が負けたからな」
それしか考えられない。大方、前線から遠く離れた後方の配置であることに、これ幸いにと逃げ出した。
とんでもない職場放棄であるが、ベルグント伯爵が討たれたらしい、というのは俺も知っている。マシュラムが次なるベルグント家当主を狙って、なんて野望を持っていたか、ただここまでスパーダ軍が雪崩れ込んでくるんじゃないかとビビっただけなのかは分からないが、なんにせよ、アイツの立場上、逃げ出す理由はいくらでもある。
「えっ、そ、そんな……本当、ですか?」
俺の納得とは対照的に、いきなりそんなサラっと重大なこと言わないでくださいよ、みたいな困惑の色を浮かべるランドルフ。やはり、自国民には十字軍の勝利は絶対、みたいな風に広報されていたのだろうか。
「近いうちに、この村にも知らせが届くだろう」
この場で俺がアレコレ説明しても仕方ない。少なくとも、第203開拓村、つまりクゥアル村の位置に駐留していたマシュラムの元まで敗戦の報が届いたのは事実だろう。
十字軍の敗走状況は現場にいなかったから詳しくは知らないが、すでに全軍撤退と完全に勝敗が決していた流れの上に、救世主たる第七使徒サリエルまで消えたとなれば、さぞや悲惨な逃走劇が繰り広げられたに違いない。
「そ、そ、そう……ですか……」
ランドルフは顔を俯かせて何やらブツブツと独り言をつぶやいていたが、すぐに気を取り直して面を上げた。
「あの、ところで、マシュラム様の身柄の方は、その……どうされたのですか?」
「殺した」
隠す意味はない。どうせすぐに物置小屋の傍で白銀の鎧をまとった首なし死体と、苦痛に泣き叫ぶ表情で固まったマシュラムの頭が転がっているのは見つかるだろう。
「あ、ああ、やはり……そう、ですよねぇ……」
たはは、と愛想笑いのような苦笑をもらしながら、ランドルフの顔はいよいよ青ざめていく。
やはり、貴族のお坊ちゃまを殺した、というのはまずかったのだろう。
「マシュラムが死んだことで、村に何かお咎めがあるか?」
「わ、分かりません……普通なら、厳しく犯人が追及されるか、最悪、村ごと焼き払われるなんて制裁が下ることも……しかし、今の状況では、その、十字軍が負けたというのが本当なら、捜査もうやむやになる、かも……」
なるほど、どう転ぶのかまだ分からないということか。
「どうするつもりだ?」
「か、隠すしかないでしょう」
即答である。
もっとも、真犯人を目の前にして、「お前を十字軍に突き出してやる!」なんてことは口が裂けても言えないだろうが。
「あ、あのぅ、つかぬことをお伺いしますが……えっと、その……貴方様は、これから、どうなさるおつもり、なのでしょうか?」
そいつは俺が聞きたいよ……などとは、これも口が裂けても言えないというやつだ。
「俺には、この村に危害を加えるつもりはない。だが、もし本当にお前らがあの部隊を潰した俺の行動に感謝の気持ちがあるなら、謝礼はもらう」
「ひいっ! そ、それは……いかほどで? こ、この村には先ほどお話したように、食料は勿論、大したお金も宝物などもございません……あ、あるだけ出しても、果たして、ご満足いただけるかどうかは……」
「人が二人、旅をするのに必要な準備が整えられれば、それでいい。安心しろ」
今にも絶望のあまり、目の前で首でもつりそうな雰囲気のランドルフに、俺も思わず最低ラインでの要求を素直に言ってしまった。まさか、これを見越して演技だとしていたのなら、大したものである。
まぁいい、俺はスパーダに帰れればそれでいいからな。
「おぉ、そうですか、どうも、どうもありがとうございますぅ!」
机に額を擦りつけるように深々と礼をするランドルフに、俺は「ああ」とか適当な返事をすることしかできない。
「と、ところで……一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」
とりあえず上手く話はまとまりそうな流れだ。質問の一つくらいはいいだろう。こちらには黙秘権もあるしな。
「貴方様には、何か事情があるようにお見受けしますが……もしや、戦場から落ち延びた騎士様なのでは、ありませんか?」
いえ、ただの通りすがりの旅人です、といって誤魔化せる段階にはないだろう。彼は目の前で俺が次々と十字軍兵士をバッタバッタとなぎ倒す大立ち回りを目撃している。
だが、俺はうなずくこともせず、とりあえず黙秘を貫く。そして、ちょっと睨む。
「ひえっ!? も、申し訳ございません! 決して、貴方様の事情を詮索しようというわけではなくてですね……その、もし、十字軍の本隊に見つかりたくない、ということであれば、こ、こちらとしてもですね、協力ができるのではないかと、思う、次第で、ありまして……」
俺を脱走兵だと思っているならば、確かに、十字軍には見つかりたくないと予想するのは当然の帰結だろう。しかし、それに協力するとは、果たしてどういうつもりなのか。
「どういうことだ?」
「も、もし、よろしければ……ウチの村で匿うことが、できます」
ここに隠れる、か。
考えもしなかった。そもそも、俺は風のように盗みに入って、後は即座にオサラバという予定だったからな。
真っ当に考えれば、こんなところにいつまでも留まっている理由などありはしない。むしろ敵地のど真ん中、俺達は一刻も早くスパーダへ帰還を果たすのが最善である。
しかし実際問題、今から出発して無事にスパーダまで帰り着くことができるかどうか。
「十字軍が負けたのなら、多くの敗残兵がアルザス要塞から流れて来るでしょう。しばらくは、ここから港のあるヴァージニアまでの道のりは、どこにも十字軍の目があるということになります。ですから、その……先を急がないというのであれば、この動きが収まるまで大人しく身を潜めていた方が、確実に逃げやすいのではないかと……」
アルザスから兵が引くだろう、というのはサリエルも語った通りだ。あの前線拠点を完全に手放すことはないだろうし、スパーダの逆襲に備えてそれなり以上に警戒は続けるだろうが……今よりは兵の数が少なくなるのは事実だろいう。
焦らずに機を窺う、というのも一つの手かもしれない。
「それに、今は冬ですからね。どこに行くにしても、道行は大変でしょう。街道を外れて山や森を通るのも、この大雪では自殺行為ですし」
俺とサリエルなら雪山でも行けないことはないが、それでも危険を伴うことに変わりはない。果たして、急いで帰還することに、真冬のガラハド山脈を踏破する危険性を超えるメリットがあるかどうか。
よく、考えた方が良さそうだ。
「俺を匿うことで、村になんの利点がある?」
いくらなんでも、善意で俺を助けようとしているとは思わない。
何十人も躊躇なく殺戮する危険人物な俺を、村に留めようというのだ。よほどのメリットがあるか、俺を嵌めようとしているかの、どちらかに決まっている。
睨みつける俺の視線から逃げるように顔を背けるが、一拍、二拍、三拍おいて溜息を吐いてから、ランドルフは覚悟を決めたように口を開いた。
「貴方様のお力があれば、もし、また村が敗残兵に襲われても大丈夫でしょう」
「俺を用心棒として雇いたい、ということか」
「その通りでございます」
随分とまぁ、思い切った提案をするものだ。内心、ちょっと呆気にとられてしまう。
「実のところ、十字軍のことがなくとも、この村の周辺には危険なモンスターも出没するのです。今も、大きな鎧熊を追って村の自警団の大半は森に入っておりまして……」
そこに、タイミング悪くマシュラム様御一行が現れたと。
もっとも、村の自警団が全員揃っていたとしても、風魔術士と五人の重騎士を要するあの部隊は、変わらず狼藉を働いただろうが。
「アレはすでに、三人もの村人を食い殺していて、人の味を覚えたのか、執念深くここを狙っているようなのです……」
最初の犠牲者は木こりの男。森に入ったところを襲われ、そのまま捕食。
恐ろしいモンスターの出現に、村に駐留している十字軍騎士二名が即座に対処にあたるも、あっけなく返り討ち。
そして現在、自警団達が決死の覚悟で鎧熊の討伐に挑んでいる真っ最中、という流れであるらしい。
それにしても、聞いたことのない名前のモンスターだ。恐らく、名前の通り熊が鎧を着たような、つまり硬い甲殻に覆われた姿だと予想できるが……そんなのは俺が住んでいた頃にはいなかったな。
「この鎧熊を仕留めたところで、また新たなモンスターが現れないとも限りません。この村はモンスターに潰されるかもしれない危険な場所ですが……それでも、本国を捨ててきた私ら開拓民には、もうここしか居場所はないのです」
そして、ランドルフは涙ながらに、もう一度頭を下げた。
「謝礼は、何とかかき集めますので、どうか……せめて十字軍の移動が落ち着くまでは、村を守っていただきたい!」
信じるべきか、否か。すぐに答えは出ない。
「明日、また来る」
今の俺には、そう答えるより他はなかった。
「あっ、お待ちください! よろしければ、名を、教えていただけませんか」
そういえば、名乗ってはいなかった、というより、素性がバレたらヤバいからあえて言わなかっただけなのだが。
しかし、この期に及んでは、名前くらいは言っておいた方がいいだろう。
「俺の名は……クロエだ」
勿論、偽名をな。
サリエルには、酷く記憶が曖昧な時期がある。
「はぁ……はぁ……もって、あと一日かな……」
人造人間の頭脳は優秀だ。そして、白崎百合子もまた、優れていた。少なくとも、自身の経験と思い出はおおよそ色あせることなく記憶し続けていた。
故に、クロノの手により記憶の枷を完全に破壊された今のサリエルは、自身のものと、白崎百合子の思い出を、共に持ち得ている。
「ふっ、ふふ……でも……見つけたよ」
だからこそ、記憶が曖昧、よく思い出せない時期は存在しえないはず。強いて言うなら、物心つく前、つまり白崎百合子の幼児期くらいなもの―― 否。サリエルの肉体において正確に記憶が不能となる、酷く不安定な時期はもう一つだけ存在しうる。
「見つけた……私が消えても、思いを残す、方法、を……」
それは、白崎百合子の人格と、将来サリエルとなる新たな人格、その二つが同時に存在している時期だ。
白崎百合子の意思は装着された『思考制御装置』により、ゆるやかな滅びの道を歩むと同時に、サリエルとしての新人格を作り、徐々に育て上げて行く。
初期の頃は、一日の中でほんの一時だけ新人格が目覚める程度。だが、その成長は僅か数日間の内に加速度的に進行する。
すぐに主人格が眠っている時間だけ、新人格は覚醒できるようになる。さらに成長が進めば、主人格が起きている時間と新人格の覚醒時間は逆転。
主人格からすれば、気が付けば一日の大半を寝て過ごしているような錯覚に陥る。
この緩やかな人格逆転現象は、クロノ自身も経験していることだろう。
しかしながら、彼は自分の人格が消え去る最後の瞬間で『思考制御装置』の支配を脱すことに成功しているが故に、今もまだ、クロノは黒乃真央であり続けていられる。
それは、数百、いや、サリエルが知る限りすでに数千にも上る実験体の内、たった一例だけの正に奇跡の存在。
他の例に漏れず、白崎百合子もまた、己の人格が消え去る運命より逃れることはできなかった。
「ふふ、『魔法』があるなら……『呪い』だって、あるんだから……」
そう、彼女の意思はとっくの昔に潰えている。
だから、これはただの記憶。二つの人格が一つの肉体に同時に存在しているが故の、ノイズ混じりの不確かな記憶に過ぎない。
「ある、『呪い』はある……間違いなく、アレは、『呪い』だった……」
この時の彼女が思い出しているだろう記憶情報が、かろうじて、蘇る。
機動実験。何度目になるのかは不明。
対戦相手は、一人の人間。武装は、ただ一振りの剣。何の変哲もない鋼の長剣――だが、その刃からは薄らと赤黒い不気味なオーラが立ち上っていた。
つまりは、呪いの武器。
「それなら、私だって……」
苦戦はしなかった。
この時の機動実験を担当したのは、主人格である白崎百合子。
生まれたばかりのサリエルと比べ……いや、今でもサリエルはこう思う。第七使徒としての戦闘経験を重ねた現在であっても、自分は白崎百合子ほど上手く戦えないのではないか、と。
「私にだって……」
けれど、恐らく白崎百合子が戦った最後の機動実験がこれであろう。サリエルは何度記憶を再検索しても、彼女の戦闘記録はこれ以降、一つも見つけることは叶わなかった。
そして、次回の機動実験のことを、サリエルは正確に記憶している。相手はゴーレムだった。ライトゴーレムではなく、岩石で肉体を構成し、身の丈三メートルは超える野生のゴーレムである。
胸元のコアを装備した槍で貫いたシーンは、すぐに脳裡へと蘇らせることができる。
つまり、呪いの剣使いとの戦いとゴーレム戦の間に、白崎百合子の人格は完全消滅したということだ。以降、サリエルには一切の記憶の混濁はみられない。
「……ねぇ、もう一人の私」
だから、サリエルはこの時期の記憶に関してだけは、自信が持てない。
「貴女のことは、別に恨んでもいないけれど」
果たして、この記憶は夢か現か。
「この思いだけは、消したくないの」
白崎百合子は、確かにサリエルへと語りかけていた。
「だから、心に刻むよ……愛の呪い、を」
彼女が語る、最後の言葉。
「黒乃くん、愛してる――」
パチリ、とサリエルの赤い目が開かれる。
状況に変化は見られない。小さな小屋のベッドの上。窓からはよく晴れた冬の日差しが差し込み、室内を明るく照らし出している。
浅く眠っていた。夢も見ていた。その内容は判然としない……だが、気に掛けるものではないと、サリエルは判断した。
彼女の正確な体内時計は、今の時刻がちょうど正午にさしかかったことを伝えていた。
「……」
サリエルは再び目を閉じ、ベッドに横たわり続ける。
迂闊にも二度寝をしてしまったのは、まだ体力が回復しきっていないことの証であろう。昨日は使徒の力をもってしても文字通りの死闘であったし、戦いの後、夜を徹してクロノと……ともかく、いまだに疲労状態であることには違いない。
しかしながら、単独の状況下で睡眠をとるのは危険に過ぎる。サリエルに三度寝をするつもりはなかった。それでも、身じろぎ一つすることなく寝転がっている様は、まるで造りかけの人形が放置されているように見えただろう。
眠りに落ちるのはまずいが、余計な体力を使わないよう、肉体的には休息に徹する必要はある。同時に、覚醒した意識は鋭く外へ向けて警戒態勢もとった。
小屋の中は、どこまでも静寂に包まれている。
耳を澄ませて聞こえてくるのは、小屋のすぐ裏にある小川のサラサラとした流れと、時折、森から響いてくる麗しい小鳥のさえずりのみ。
およそ都会に生きる人々が憧れる、豊かな自然に溢れる景勝地といった風情が漂うが――ここは、ダンジョンである。
その時、サリエルはパキリ、と小枝が踏み折れる音を聞いた。
「……距離300」
自分から三百メートル先の地点で、何者かが小枝を踏んだ音である。
サリエルは自身の能力が半分どころか、三分の一以下に落ちていることを、この瞬間に実感した。
索敵に集中している状態なら、半径一キロ以内の物音は全て聞き取ることができていた。それが、今はたったの三百メートル。それも、枝が折れるというはっきりとした音源である。
だが、サリエルはそれをただ事実としてありのまま受け入れるのみ。使徒が誇った力に対する執着、という感情はこれといって覚えることはない。
何の感慨も胸中に浮かべることなく、サリエルは自身の感覚域に入った『何者か』の存在へ注意を向け続けた。
「距離100」
対象は真っ直ぐ、この小屋に向かって進んでいるようだ。二度三度、枝を踏み折る音が届くが、100メートル圏内に入ったなら、もうその気配を正確に感じ取ることができた。
そして、すでに彼女は確信している。小屋に向かってくる者は、クロノではないと。
フゴフゴ、と耳に届く荒い鼻息。分厚く降り積もった雪の上をかき分けるように進んでゆく足音。どれもがサリエルに、もうはっきりと届いていた。
外にいるのは、紛れもなくモンスターであった。
「距離10」
小屋のすぐ外で、そのモンスターは立ち止まった。
数は一頭。周囲に仲間が潜んでいる気配はない。群れではなく、単独行動する種なのだろう。
大きさは、少なくとも人間を大きく超えた体格。ここに至るまでに拾い集めた聴覚情報を総合すれば、四足歩行で、象ほどの大きさであると推測できる。サイズを分類するなら中型といったところ。だが、その獰猛な気配はそれなりの危険度レベルになるだろう。
そんな恐ろしいモンスターが、すぐ傍にいる。
しかし、サリエルは動かない。そもそも、動けない。
小屋の中を窺うように、周囲をグルグルと回り始めたモンスターの気配を感じる。コイツはすでに、中に獲物がいることに気づいているのだ。少なくとも、三百メートル先から。
「……」
サリエルは、静かに待つ。いまだ目を閉じ、眠った様に身動きをすることなく。そのまま、モンスターが踏み込んでくるその瞬間まで。
クロノには、この小屋にモンスター除けの結界が張ってあると言ったが、正確な説明ではなかった。結界はある、しかしそれは、あくまで弱いモンスターに限る。
小屋の周囲から発せられる微弱な魔力の波長を嫌って近づかなくさせられるのは、せいぜい、ゴブリンやスライムといった程度。とても、この餓えた中型モンスターに襲撃を断念させるほどの効力は、ない。
今日まで無人の小屋にモンスターや動物が住みついたり、荒されなかったりせずにすんだのは、ひとえに主がいなくなっても永続的に効果を発揮し続ける結界のお蔭である。だがしかし、格好の食料となる獲物が中にいるとなれば、もう、放っておいてもらえる道理はなかった。
「……来た」
何度か小屋を周回した後に、モンスターはドアのある真正面に陣取り、それからゆっくりと一歩を踏み出した。
ザク、ザク、と雪を踏みしめる音は、もうサリエルのような超人的な感覚がなくとも聞こえてくるだろう。
そうして、ドアの前に呼び鈴でもこれから鳴らすかのように立ち止まった――次の瞬間、小屋の壁が吹き飛んだ。
ドアと木の壁がまとめて砕けるけたたましい音と共に、耳をつんざく獰猛な獣の雄たけびが響きわたった。
「鎧熊」
ついに目の前に現れたモンスターを、サリエルは知っていた。
シンクレア共和国において『鎧熊』と通称で呼ばれるモンスターであった。アーク大陸全土に、または多くの亜種が生息しており、有名なモンスターの一つである。その名の通り、大きな熊のような姿であると同時に、鋼鉄の鎧兜をまとっているのだ。
鎧の正体は、金属質の甲殻である。蟹のように棘の生えた攻撃的な意匠は、鈍い灰色にギラついている。その分厚さと硬度は、重騎士が装備する本物の全身鎧と比較しても遜色ない。むしろ魔法効果を抜いた素の防御力でいけば、鎧熊の甲殻に軍配は上がるだろう。
ここに現れた鎧熊の大きさは、おおよそ五メートルといったところだろうか。平均よりも、一回り以上は大きい。立ち上がれば余裕で小屋の天井を突き破るほどの上背を誇る。そんな巨躯が強引に体をねじ込むように、四足歩行で小屋へと踏み込んできた。
ゴアアっ! と鋭い声を上げたのは、威嚇のためか、それとも、獲物を見つけたことに対する歓喜か。
サリエルは閉じていた目をパッチリと開き、その真紅の瞳を無礼な侵入者へと向けた。
鎧熊とサリエル、両者はしばしの間、見つめ合う。喰う者、喰われる者。その関係性は明白だった。
全身に野生の力がみなぎる巨大な鎧熊に対するのは、無防備に寝そべる小さな人間の少女。おまけに、彼女には逃げるための足もなければ、武器を振るうための腕も、左の一本きり。
もっとも、鋼の防御力を有する鎧熊を貫けるような強力な武器など、この小屋にはない。唯一の刃物であるナイフも、クロノが持ちだしていったのだから。
身動きすらロクにとれないサリエルは、鎧熊からすれば死肉も同然。逃げることも抵抗することもない、実に美味しい獲物である。
故に、躊躇も警戒も必要ない。鎧熊の野太く、それでいて大振りのナイフのような爪を持つ手が、無遠慮にサリエルの白い体へと迫る。
それは、叩き付けるような一撃であった。鎧熊からすれば、ただ獲物を抑え付けるだけの何気ない動作だったかもしれない。にもかかわらず振り下ろされた鉄の剛腕は、あっけなくサリエルが横たわるベッドを真っ二つに叩き割るほどの威力があった。
木のベッドがバッキリと割れる轟音に、爪が切り裂いた毛布とシーツが舞う。鎧熊の手の下には、華奢な体が無残に潰されたサリエルが――いない。
「ふっ」
短い、練気の呼吸音。敏感な聴覚を持つ鎧熊がそれを聞いた時、ようやく、サリエルの姿を見つけることができただろう。
サリエルの体は、宙に浮いていた。いや、その場で跳ねたのだ。
腕が振り下ろされた瞬間、彼女は腕でも足でもなく、ただ胴体をバネのように動かすことで、自身の体を宙に跳ね上げていた。
妖精のように飛行能力など持たないサリエルは、次の瞬間には砕けたベッドの残骸へ落下するはずだったが、それよりも前に、手が動く。彼女に唯一残された、左腕が。
白い指先がそっと、突き出された鎧熊の腕に触れる。小ぶりの棘に、指先を引っ掛けたような形であった。
そのまま、サリエルはその細腕をグンと引き、一気に鎧熊へと体を近づける。
ガアっ! と鋭い咆哮を上げて、鎧熊が人の体など簡単に噛み砕く大口を開いたその時には、目の前に白い手があった。綺麗に指先を揃えた、一振りの刃の如き手が。
「スティンガー」
一筋の閃光が、鎧熊の頭を貫いた。
白色魔力のないサリエルは、魔法が使えない。しかし、体内にある魔力はゼロではない。それは人造人間が生命維持に必要な分として持ちうる、生命力としての魔力。
基本的に魔法は原色魔力を用いる。体にどの属性が宿るか、あるいは生命力を原色魔力に変換できるかは個々人の才能、体質による。
白色魔力がないサリエルには、魔法の発動に必要な疑似原色魔力を生成することもまた不可能。
だがしかし、生命力をそのまま用いる系統の武技であれば、その行使に何ら問題はない。
サリエルの細腕からは信じられない超人的な腕力に、さらに武技の威力が宿った『スティンガー』は、こうして放たれた。
業物のチャージランスも同然の貫通力を誇る彼女の貫手が向かう先は、鎧熊の目。頭部は兜のように甲殻が全面に、特に額の部分は分厚くまとわれている。だが、視界を確保するための目だけは何もない。
顔面の中で曝け出された、唯一のウィークポイントへ、サリエルは寸分の狂いなく指先を突き込んでいた。
中指が目玉を突く。そこから、さらに眼窩を抉るように貫手は容赦なく突き進んで行く。バキリ、と目元の甲殻を割りながら、サリエルの手は完全に鎧熊の頭の中にまで侵入を果たしていた。
彼女の指先は硬い頭蓋を勢いのまま難なくぶち抜き、ついにその内で守られる脆弱な脳へと、その手をかけた。
それは人と比べれば、ずっと小さい。サリエルの小さな手のひらでも握れるほどに。
そうして彼女は、掴み取った脳を握りつぶす。熟れたトマトを潰すような感触だった。
ギャオっ! と、短くも苦痛の色が滲む鳴き声を一つあげながら、鎧熊はピタリと動きをとめ、そのまま倒れた。目から腕を突っ込んだサリエルと共に。
武技を叩き込むところまではよかったが、一瞬で引き抜く動作は、この右手と両足のない体では無理であった。
サリエルは結局、叩き潰されたベッドの残骸に落とされてから、ズリズリと体を揺すりながら、どうにかこうにか、左腕を鎧熊の頭部から引き抜いた。
肘の辺りまでベッタリとドス黒い血糊がつき、指先にはドロっとした脳の飛沫がまとわりついている。
サリエルは真っ赤な瞳で、汚れた左腕をジっと見つめた。それから、右を見て、左を見て、つぶやいた。
「……どうしよう」
さて、この惨状をどうクロノに謝るべきか。サリエルはよく考えるためか、それとも現実逃避するためか、その場で再び、眠るように目を閉じた。