第478話 開拓村襲撃
「おい、ヒツギ……くそ、やっぱりダメか」
街道から身を隠すように森の中に潜みながら、俺は両手に装着した灰色のグローブに向かって声をかけた。が、当然のように返答はない。傍から見れば、自分の手に話しかける頭の可哀想な野郎だ。
しかし、このグローブは呪いのアイテムであり、それでいてやかましいほどお喋りな触手系メイドが宿っていることを俺はよく知っている。
ヒツギ、正式名称は『黒鎖呪縛「鉄檻」』という呪いのグローブは、艶やかな黒髪の如き色合いが、脱色したかのように灰色に染まってしまっている。かろうじて元の黒色が残っているのは、手首の辺りだけ。元から黒いラインが入っているだけのようなデザインに見える。
こんな変わり果てた姿になっていることに俺が気づいたのは、恥ずかしながら、今朝になってからだ。サリエルをベッドに押し倒した後に俺が脱ぎ散らかした衣服に紛れて、グローブも床に投げ捨ててあった。何て言うか、スマン、ヒツギ。本当に、ごめんなさい。
ともかく、そうして燃え尽きたように灰色となったヒツギだが、まさか、と思って装着してみれば、やはり、うんともすんとも言わない。黒色魔力に反応して魔手を強化する効果は勿論、あの手に吸い付くようにフィットする素晴らしい付け心地さえ感じなくなった。
本当に、ただの手袋になってしまったかのような有様である。
「『天送門』を通った影響か」
白色魔力が高密度で渦巻く転移魔法、アレが原因だとしか思えない。白色魔力ってのは光属性と非常によく似た性質を持つから、当然、アンデッドには有効。つまり、呪いを浄化するのにも高い効果を発揮する。
俺自身には何らダメージや悪影響やらがないのは、悪魔だ狂戦士だといっても、人間の体であるからだろう。どんなに邪悪な心を持っていようとも、人間という生物にはアンデッドのような特効的な弱点は存在しない。
もしかしたら、『首断』とかの呪いの武器を持ったままゲートを通過していたら、バッキリ折れてしまったかもしれないな。あの場に置き去りにしてきて良かったと思うべきか。恐らく、俺の愛すべき呪いの武器シリーズは、リリィ達に回収されているだろうから、それほど紛失の心配はしていない。
それはさて置き、問題なのは目覚めないヒツギのことである。
「……大丈夫だよな、ヒツギ」
装備し続けて、継続的に黒色魔力を供給していれば、また元通りに蘇ると信じたい。
折角、使徒を倒し……てはいないが、それでも無力化したことには違いないのだ。結果的に勝利といってもいいだろう。それなのに、こんなところで犠牲が出るなんてのは御免だ。
ヒツギは人ではないが、それでも、明確な意思を持って俺に語りかけてくる、やかましいけど、何だかんだで可愛い奴だ。というか、コイツが本当にただの『呪い』の一言で片づけていい存在なのかどうか迷うが、俺としてはヒツギを大切な仲間の一人と言い切ってもいい。
もし、しばらく様子を見ても回復の兆しが見えなければ、スパーダに戻ってから何か考えないといけないな。差し当たって、呪いの武器コレクターを自称するモルドレッド会長が営む武器商会に持ち込んでみよう。
「それにしても、本当に自分の身一つに頼るしかないな」
呪いの武器は手元になく、ヒツギも無期限休暇中。
妖精の霊薬は、もう俺とサリエルに使い切ってしまった。他に残されたものは、腰のベルトにくくりつけていた『蒼炎の守護』と、ズボンのポケットに厳重に仕舞い込んでいた『心神守護の白羽根』だけ。フィオナとネル、それぞれのプレゼントを失わずに済んだのは幸いだったが、残念ながら火属性と精神系の攻撃を防ぐ魔法具は、この状況下では何の役にも立たない。
つまるところ、手ぶらも同然。
何とも心もとないが、機動実験の時はこれがデフォだったのだから、どうにかなるだろう。
そう自分に言い聞かせて、俺はいよいよ行動を開始する。
「魔手」
ヒツギを通さずに、俺は両手から黒い触手をウネウネと形成させ、目の前にそびえ立つ一際に大きな木の枝に絡みつかせる。俺が上に乗っても折れそうもないほどに、太い枝だ。
そうして俺は、地上五メートルほどの高さにまで木登りを終えた。ガラハドの大城壁にぶら下がって暴れまわるよりかは楽な作業である。
俺には特に隠密行動の心得みたいなものはないが、とりあえず息を潜めて可能な限り身を屈める。幸い、ローブの色は白だから、ばっちり雪上での保護色となってくれる。偵察するには、それなりに相応しい装いであろう。
「……アレが開拓村か」
家を出てから一時間ほど、俺はすでに村を臨めるほどの距離にまでやってきた。こうして木に登って視界を確保すれば、森の中からでも村の様子を窺える。
周辺の地形と街道の通り方、そして何より、モンスターの侵入を防ぐ木柵が張り巡らせてあることから、そこがイルズ村のあった場所だということが断定できる。
そして、その柵の内側に新たな村が作られているということが、一目で確認できた。
最も目立つ建物は、恐らく、冒険者ギルドの跡地と思しき場所に立地している、教会だ。雪と同化するような白塗りの壁に、細い尖塔が一本だけ突き出るために、他の建物よりも頭一つ分高い。勿論、塔の天辺には真っ白い十字のシンボルが、この地の支配を誇示するように陽の光に照らされ輝きを放っていた。
その教会を除けば、他にはこれといって特徴は見られない木造建築の家屋が立ち並んでいる程度。大きな建物といえば、二階建てになっているものと、あとは倉庫くらいのものだ。
ほとんど全ての建物は、イルズ村のをそのまま流用した木柵の内に集まっており、その僅かな範囲内でも、まだいっぱいにならないほどに小さな規模の集落である。柵の外にあるのは、小さな物置小屋のようなものがぽつぽつとあるだけ。その周辺には畑が広がっているのだろうが、冬の今はだだっ広い雪原にしか見えない。
「俺一人でも楽に制圧できそうな小ささだな」
人口百人いってるかどうかも怪しい規模である。駐留しているという騎士も、これじゃあ一人か二人なんじゃないだろうか。
まぁいい、何にしろ、俺は虐殺をしたいワケじゃない。あんなチンケな村じゃあ、ロクな収穫は見込めないが、当面の食料くらいは入手できるだろう。
俺もサリエルも、一週間飲まず食わずで全力行軍できるほどの体力とスタミナを持つが、腹が減らないわけではない。毎日ちゃんと食った方が、当たり前に力は出せる。
小屋に残された保存食も、もうあと二食か三食分しかない。最低でも食料は手に入れなければ、今後の行動につなげることもできない。
「特に見張りはいないようだし……よし、行くか」
いざ、と枝から飛び下りようとしたその時、俺は気が付いてしまった。
「なんだ、あの煙」
俄かに、村の中心部から濛々と黒煙が一筋、冬晴れの青空に向かって立ち上って行った。デカいキャンプファイアーを焚いているワケはあるまい。まさか、火事か――そう思った時には、叫び声と共に村人と思しき人影が、散り散りに駆け出すのがチラリと見えた。
ここからでは、そこで何が起こっているのかよく分からない。だが、少なくとも今すぐその場から逃げ出すようなアクシデントが発生したことは間違いないようだ。
とりあえず、俺としてはこんな非常事態な状況に陥っているらしい村に、今すぐ潜入する気は起きない。
いや、何らかの騒ぎが起こっている今こそ、忍び込む絶好のチャンスなのかもしれないが……せめて、もう少し様子を窺って、何が起こっているのか確かめてから行動を起こしても遅くはないだろう。
「おいおい、どこまで逃げるんだよ」
そのままジっと村を観察していると、小さな人影が二つ、ちょうどここからよく見える場所に現れた。
紺色のローブを着た、女の子だ。二人とも同じ格好で、歳は恐らく、成人とされる15歳には満たないだろう。一見すると仲の良い姉妹に見えるが……片方は金髪に白い肌だが、もう片方は銀髪に褐色の肌。まるでエルフとダークエルフのコンビみたいだが、俺の良く見える目は、彼女達の耳が細長く尖ったあの特徴的な形をしていないことをしっかりと捉えていた。
そんな白黒コンビの彼女達は雪の上をかき分けるようにバタバタと進みながら、村と外の境界線にあたる木柵に張り付くや、意外にも軽い身のこなしで登って行った。
柵を越えた後は半ばから飛び下り、転がるように着地。すぐにまた起き上がり、慌てて駆け出した――かと思えば、二人は近くの物置小屋へと飛び込んで行った。
「……何なんだ」
かくれんぼでもしてんのか。いや、ちょうど人目のつかないところに子供が二人いるなら、こっそり捕まえて聞いて……いや、俺がそれをやったらあまりに犯罪的だ。いくらシンクレア人といえど、子供相手にどうこうするのは、流石に良心が咎める。というか、ささやかなプライドが許さない。つい昨晩、サリエルに手をかけたから、尚更。
そんな苦悩を燻らせている内に、また新しい人物が姿を見せた。
今度は見るからに村人といった感じの男で、年季の入った茶色いコートを着ている。さっきの二人組と同じように、柵に向かって駆け寄っていくと――真っ二つに、その体が切れた。
突如として上半身と下半身が分断され、俄かに一面、血の海と化す。盛大に鮮血と腸をまき散らして、男の死体は血の池地獄に沈んだ。
「今のは……風か。『旋風刃』くらいの威力はあるな」
見れば、切断されたのは男だけでなく、その目の前にあった木柵も同様。切れ味鋭い剣で『一閃』でも使ったように、柵の柱となる丸太が鋭利な断面を晒して、バッタリと倒れ込んでいった。
しかし、重要なのは男を殺した魔法が何か、分析することじゃない。それ以前に、男が殺された、という点について考えるべきだろう。
「ちくしょうが……考えるまでもねぇだろ、これは……」
家屋の影から、男を襲った犯人が姿を見せた。
二人組の男。片方は白と緑のツートンカラーが特徴的なローブをまとった、如何にも風魔術士という風貌の奴。手にした深緑の魔石が輝く短杖が、男を惨殺せしめた凶器であろう。
そしてもう一人。白銀に煌めくのは、聖銀のプレート。それに金細工とエメラルドをあしらった装飾の派手な鎧に身を包んでいる。その背中からはためいているのは、見覚えのある緑のマント。一瞬、ひるがえったマントのど真ん中に描かれていたのは、城壁で返り討ちにした緑の鎧の騎士達がつけていたのと同じ――そう、アレは確か、ベルグント伯爵、とかいう貴族の紋章だ。
スパーダに攻め寄せた、十字軍の中核を成す貴族だとフィオナから聞いた。要するに、あの男は伯爵の一族に連なる人物で、いや、それ以前に、アイツは、十字軍の、兵士。
「……虐殺だ」
十字軍はまた、俺の前でイルズ村を、襲っていた。
「は、は、ははは……」
乾いた笑いが出てくる。
まるで、タイムスリップした気分だ。最悪に胸糞が悪いタイミングを、ピンポイントで選んで飛ばされた模様。
けれど、俺にやり直す機会など、ありはしない。時間は決して巻き戻らない。
奴らが襲っているのはイルズ村ではなく、同胞のはずの開拓村。燃えているのは違う村。殺されるのも、別の人。
「ふざけんな……どういう、ことだよ……」
何が起こっているのか、分からない。想像もつかない。だが、これだけは分かる。
貴族と魔術士の二人組が、男の斬殺死体になど目もくれず、ぶった切った柵をまたいで外へ出る。貴族の男はやけに慌てた様子で飛び出し、しきりに周囲をキョロキョロしていた。
そこへ、魔術士が指をさした。その先にあるのは、何の変哲もない物置小屋。つい先ほど、小さな女の子二人が駆け込んで行った場所だ。
貴族の男が同じ人間だと思いたくないような、おぞましい笑顔を浮かべるのが見えた。
そう、アイツは、あの二人を狙っていたのだ。
第202開拓村に、十字軍の一部隊がやってきたのは今朝のことである。
「控えよ! ここにおわすはベルグント伯爵家に連なる若君、マシュラム・ヨシュア・ヘルベチア・ベルグント様であるぞ!」
そう声高に紹介されたのは、白銀の鎧に家紋入りの緑マントが翻る豪奢な装いだが、如何にも騎士の装備が着慣れていないと一目で分かるような、貧弱そうなヒョロヒョロした青年である。
勇猛に戦場で剣を振るう姿が想像できないほど、青白い顔をしたお坊ちゃんといった腑抜けた表情。緑の髪をパッツリと切りそろえたキノコのような頭で、落ち着きなくキョロキョロ辺りを見渡す姿は、とても隊を率いる貴人としての貫禄は見当たらない。よく見れば、彼が跨っているのは、馬ではなくロバであった。
「マシュラム様は火急の事情により、急ぎシンクレア本国へ帰還せねばらなぬ! ついては、ヴァージニアまでの行軍に必要な物資を徴発するものとする! 事は一刻を争う、速やかに供出せよ!」
マシュラム様とやらの副官と思しき魔術士風の装いをした男が、そんな一方的な命令を発し、中央広場に集ったこの開拓村の村長をはじめ、教会の司祭やその他の住民は一様に困惑の表情を浮かべた。
「お、恐れながら、申し上げます……この村は、もうすでに十字軍へ多くの食料を供出しており、倉庫には村人がどうにかこの冬を越せるだけの分しか残っておりませぬ。数人分ならまだしも、その、これほどの大人数となりますと……」
青ざめた表情で恐る恐る話す村長の言葉は、決してケチっているわけではなく、真実であった。
この第202開拓村は、百人を僅かに上回るといった人口しかいない。そして、マシュラムが率いて現れた十字軍の部隊は、およそ三十人前後。全人口の30%にあたる人数分の食料、それもここから遥か東海岸にあるヴァージニアまでの道行およそ一ヶ月分となれば、絶望的な消費量である。
そもそも、ガラハド要塞攻略戦の前に、限界ギリギリまで物資を徴発していったのは、他ならぬマシュラムが率いる十字軍の補給部隊である。
彼は隣にある第203開拓村、元はクゥアルと呼ばれた石壁のある比較的大きな村に設置された補給基地を任された将校であることを、この村で知らぬ者はいない。
そんな人物が、いきなり本国へ帰ると言い出したことは大いに疑問を感じるところだが、お偉いさんの事情よりも、村人としては食料をとられるかどうかという方が問題である。
「ですから、不足分はどうかこの先の村々で……ここより東の村は、まだ人口も多く、規模があるので、きっとご満足いただけるだけの物資が集まるかと――」
「ならん、先を急ぐのだ。何としてもここで徴発せねば、マシュラム様のご意思に沿うことはできん」
「ど、どうかご容赦を! これ以上は、本当に皆が餓えて――」
村長の涙ながらの訴えは、そこで強制的に打ちきりとなった。
「そこまでマシュラム様の命に背くとは……反乱分子とみなすより他はないな」
副官の男が振るったのは、剣ではなく短杖。しかし、そこから発せられた風の刃は、凡百の剣士が振るうよりも鋭い一太刀となって、村長を襲った。
綺麗に頭が飛び、ドっと首なし死体が雪道の上へ倒れ込んだ。
俄かに、村人たちから悲鳴が上がる。
「兵達よ、必要な物資を急ぎ集めよ。邪魔立てする者は斬れ。よろしいですか、マシュラム様?」
「いいから、早くしてよぉ。どうせこんな僻地になんて、ボクはもう二度と来ないんだし、好きにやっちゃってー」
「だそうだ、好きにしていいぞ」
そうして、略奪が始まった。
武装した村人の数はごくわずかで、彼らは副官が放つ高精度の風魔法によって、成す術なく斬殺される。あとは、武器を持たない無抵抗の人々が残るのみ。
マシュラムが従える三十ほどの兵士は、一般的な十字軍歩兵に比べて随分と立派な装備をしている。手足や胴を守るための鎧を着こみ、その装備レベルは小隊長クラスと見積もれる。
驚くべきは、その内の五人は重厚な全身鎧に、巨大なハルバードとタワーシールドを備える重騎士であること。村の自警団が同数、いや、三倍の数がいても、彼らを相手しては一方的に蹴散らされるだけだろう。
しかし、恐るべき重騎士チームに挑む無謀な者は一人もおらず、彼らは悠々と食料が収められているだろう倉庫に向かって、荷車を引いた馬を連れて進んで行った。
物資調達の任務に忠実なのは重騎士とその周りを固める十数人だけで、大半の兵は欲望を抑えきれぬといったように、暴れまわっていた。シリアルキラーのように目につく人に向かってとにかく斬りかかる者もいれば、見せしめとばかりに家屋に火を放ち始める者もいる。
村の広場は、あっという間に焦げ臭い黒煙と血臭、そして逃げ惑う人々の背へと無慈悲に、そして無意味に刃が振り下ろされることで奏でられる悲痛な叫びが響きわたる、地獄絵図と化した。
「ちょっとちょっとぉ、アイツらだけ楽しんじゃって、ズルいんじゃないのぉ!?」
奇声染みた笑い声をあげながら、村人少女の長い髪を掴んで引きずり倒す兵の姿を見て、マシュラムはロバの上で不平を叫ぶ。
「おい、持ち場は離れるな。やるならこの場にしろ」
この場所を離れなければ何をしても良いというお許しを上官からいただいた兵士は、外でするなんて恥ずかしいぃ、などとのたまいながら、実に汚い笑みを浮かべながら、捕えた村人少女を強引に抱き寄せていた。
「いやいや、そういうことじゃなくってさぁ!?」
完全にお楽しみタイムに突入する部下の姿を前に、マシュラムは指をさして訴えかける。
「はっはっは、分かっておりますとも。マシュラム様もお楽しみとなれば、よろしいかと存じ上げます」
作り笑い染みた笑顔をニヤニヤと浮かべながら、副官はこう続けた。
「そうですね……あの、小さなシスターなど、如何ですか?」
主の趣味をよくよく理解しているとばかりに、副官が自信満々に指差した先は、すぐそこにある教会。その入り口から、恐る恐る広場の様子を窺うように、二人の女の子が可愛らしい顔を覗かせていた。
「お、おぉ、おぉーっ! いい、いいよあの子! どっちも!」
「お目に叶ったようで、なによりであります」
「ひ、ふひひ、見ろよアレ、あの赤い目と黒い肌! 流石のボクも蛮人と土人をヤるのは初めてだよぉ!」
「確かに、バルバドス人とイブラーム人のようですね」
かつて、シンクレアを脅かした三大敵国の内の二つ。北のバルバドスと南のイブラーム、そして、それぞれの国を率いた蛮王と呪王の忌まわしき名を、シンクレア共和国では知らぬ者はいない。そして、そのどちらも白の勇者こと第二使徒アベルが討ち果たしたことも。
アベルが百年前に行った征伐によって、両国は往年の勢いはすっかり衰え、その領土の大半はシンクレアに併呑されている。二国の民はかつて神に敵対した経緯から、シンクレア人となっても二等神民と明確に差別化されているが故に、パンドラ大陸のような遥か異郷の地に移民として送れられることも、孤児として教会の世話になっていることも、そう珍しくはない。
だがマシュラムの目には、金髪にルビーのような赤い目が特徴的なバルバドス人と、銀髪に褐色の肌がよく目立つイブラーム人が、それぞれ十字教の修道服を身に着けている姿というのは、大いに彼の食指を動かすほど新鮮に映ったようである。
おまけに、二人の年は十歳を超えたかというところ。マシュラムの好みのど真ん中。
次の瞬間には、転げ落ちるようにロバの背中から降りたマシュラムは、一目散に教会へと駆け出して行った。
「お、お待ちください! どうか、子供に手をかけることだけはおやめください!」
彼の前に立ちはだかったのは、村長と並んで村を代表する立場にある司祭。髪の毛は一本残らず白く染まっているほどに老齢の司祭であるが、上背があり、子供たちを守らんと立つ姿は十字教の博愛精神と自己犠牲を体現しているかのように立派だ。
「おいぃいいい! 邪魔すんなよクソジジイ! どけぇ!!」
「こ、このようなこと、神は決してお許しにはなりま――」
しかし、無力であった。
哀れ、老司祭は村長と同じ末路を辿る。
「うわっ、ちょっ、司祭を殺しちゃうのは流石にちょっとまずかったんじゃないの!?」
司祭の首なし死体が目の前に転がる事態に、十字教徒の端くれとして抵抗を覚えたのか、焦りで上ずった声でマシュラムが叫ぶ。
「ご安心をマシュラム様。教会ではいまだに二等神民を正式な信徒であると認めないという思想も根強く残っております。怪しい異教徒を匿っていた裏切者、ということにしておけば、言い逃れなどどうとでも……そんなことより、あまりここでゆっくりもしていられません。お楽しみになるのなら、早くしないと、ほら、逃げられてしまいますよ」
副官が司祭殺しなど気にも留めない冷静さで示す先にいるのは、バルバドス人とイブラーム人の女の子二人が、仲良く手を繋いで脱兎のごとく教会を出て逃走を始めた姿。保護者である老司祭を目の前で殺されるというショッキングなシーンを前にしながらも、ああして迷いなく走って逃げられる行動がとれるとは、中々に度胸のある子供である。
「あぁ、待て! 待て、待てぇーっ!!」
目の前にぶら下がった人参を追いかけるような勢いのマシュラムは傍から見ると間抜けだが、追われる方としては堪ったものではないだろう。例え子供であっても危機感を覚えるに違いないほど、彼の目はたぎる欲望で濁りきっているのだから。
司祭が死んだことへのタブー意識などとっくに頭の隅に追いやられて、自身の快楽衝動だけに突き動かされるケダモノと化している。
「おっと、マシュラム様、あまりお一人で遠くにはいかないでくださいねー」
そんな醜い主の姿を、副官の風魔術士は微笑ましいといった温かい目で眺めながら、護衛の役目を忘れず後を追いかけた。
「はぁ……はぁ……ど、どこにいった!? なぁ、おい、どこだよぉ!」
外道な追いかけっこに興じるマシュラムに付き合い、途中に三人ほど風で斬り殺してから、ようやく終わりが見えてきた。
三人目の犠牲者である村人男を切った勢いで切断した木の柵を潜り抜ける。その先に広がっているのは、畑の上に雪が降り積もっただだっ広い雪原と、その向こうに見える森。
マシュラムは唐突に二人の姿が消えたことで、大慌てで右に左に頭を振って探している。
「あの物置小屋に逃げ込んだとしか考えられませんね。足跡もそのまま残っていますよ」
「おおぉ! なるほどぉ!」
ザクザクと雪をかき分けマシュラムは突き進み、そうして、勢いのままに物置小屋へと飛び込んで行った。
あとは、主が思うままに異民族の少女二人の体を堪能すればそれでよい。
「私は外で見張っておりますので、何かあればお呼び下さいマシュラム様」
返事はなかった。
だが、副官は自分の仕事をどこまでも忠実に弁えて、物置小屋のすぐ外で見張りに立つこととした。
薄い板張りの壁では、これから中から聞こえてくるだろう悲痛な少女の叫び声と、あとは獣じみたマシュラムの絶叫がやかましく響いてくるだろうことが予想されるが、そんな程度で平常心を乱すほど、彼は初心ではなかった。
そうして、何事にも気を散らされず、注意深く周囲の警戒へ意識に向けることのできた彼だからこそ、気づけたのかもしれない。
「ん、まさか……見られている?」
何者かの視線、いや、かすかな殺気を、感じたような気がした。
いつでも『風刃』を放てるよう短杖に魔力を通しながら、より注意深く周囲の様子を探る。どうやら、家屋の影から矢で狙われているということはなさそうである。
ならば、何処に。と、視線を遮蔽物がないはずの雪原へ改めて向けた時に、ようやく気付いた。
距離およそ数百メートルもの彼方の森の中に、潜んでいる。何者かが。
「――がっ!?」
気が付いたのは、そこまで。
副官が見えたのは、黒光りする矢のようなものが真っ直ぐ飛んできたこと。それが喉に深々と突き刺さったと理解した時には、もう、自分の体は雪の上に音もなく倒れ込んでいた。
呻き声一つあげることなく、雪上をもがく。
助けなど来るはずもない。誰か来たところで、助かるような傷じゃないことも自ずと悟った。
だが、何よりも己の死を確信させたのは、この一撃……喉に突き刺さった黒一色に染まったナイフを放った暗殺者が、堂々と姿を現したことだ。
暗殺者、などという表現は生ぬるい。森を抜け、真っ直ぐ雪原を横断してくれる白いローブを身にまとった男は、あまりにおぞましい殺意を隠すことなく放っていた。
襲った相手の生死を確認しようとしているのか。静かに歩み寄ってきた暗殺者の男は、自分の傍らで一歩立ち止まる。その時、深く被った毛皮のフードの奥に隠れた、彼の素顔を垣間見た。
どれほどの憤怒が胸を焦がしているというのか、男の形相は直視することすら憚れるほど怒りで歪んでいる。それでいて、闇夜のような黒い右目と、燃えるようにギラつく真紅の左目は、どこまでも冷徹な光を宿していた。
「あぁ……く、ま……め……」
それは正に、悪魔と呼ぶに相応しい、怒りと、恐怖と、そして、死の化身であった。